「近江商人心得帖」
1.商いをするとしないとに関わらず、一度でも会った人の顔と名前は絶対に忘れないこと。
2.商いをするには、七度まで通って人を説き、例え成功しなくても後日を期して態度を変えないこと。
3.腹が立っても、笑顔を看板とし、音声は常に低めを心掛けること。
知足不辱。知止不殆。
可以長久。
(老子、第44章)
足るを知れば辱しめられず、
止まるを知れば殆うからず。
以て長久なるべし。
まことに、あなたの大庭にいる一日は
千日にまさります。
私は悪の天幕に住むよりは
むしろ神の宮の門口に立ちたいのです。
(詩編84:10)
神に信頼する人は、なんと幸いなことでしょう。あなたの恵みに感謝します。
このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」
(使徒20:35)
初めはキリスト教徒を迫害していたパウロも、回心して、自ら働きながら伝道に努め、ついにはキリスト教を立ち上げ、世界中に布教する礎を築きました。弱い者を助け、自分の益よりも相手の益を考えることの大切さを説いた精神は人々の心を打ち、キリスト教が広く受け入れられる要因になったのでしょう。パウロなくしてキリスト教なし、と言われます。パウロが果たして幸せだったのか分かりませんが、神はパウロをキリスト教伝道の器にされたのでした。さて、神は私に何を望んでおられるのでしょう。残念ながら私には分からないことです。
「もしある人が羊を百匹持っていて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人はどうするでしょうか。丘に九十九匹を残して、いなくなった一匹を探すために出て行かないでしょうか。そしてもしその一匹を見つけたとしたら、あなた方に本当のことを言いますが、彼は迷い出なかった九十九匹の羊のこと以上に、その一匹を喜ぶのです。同じように、この小さい者たちのたった一人でも滅びることは、私の天の父の意図するところではありません。」
(マタイ18:12~14)
マタイは迷子になった一匹を「小さい者=取るに足らないちっぽけな者」にたとえます。神さまには大切に思わない人など一人もいないのです。社会で取るに足らないとされている「小さな者」だって神さまはきちんと気にかけていらっしゃるのです。
どんな小さな仕事であっても、それを天職と自分で思って全身全霊をかけてぶつかり、目の前の課題を一個一個クリアする中で、次の展開が見えてくる。<小久保祐紀(元侍ジャパン代表監督)>
仕事をするうえで、改善という言葉はいつもついて回ると思う。これは、環境や状況が常に変化することを前提として、同じことを繰り返しているだけでは成果が上がらないからだ。いや、上がらないどころか、先行きが危うくなってくるからだ。これは、人間そのものにも当てはまることだ。私たちは、現状に甘んじていては成長がない。人間は、そもそも成長していくように造られている。だから、常に自分の将来を見据えて、自分自身を改善していかなければならない。毎日、何か一つでもいいから、自分自身に栄養分を与えるようなことをしていこう。
ある日、私は「妻を求む」という広告を新聞に掲載しました。次の日、私は、たくさんの広告への反応を受け取りました。ほとんどが同じ内容でした。「私の女房はいかがですか」というものでした。
神よ、変えるべきものを変えていく勇気を私たちにお与えください。また、変えてはならないものを守っていく心の落ち着きをお与えください。そして、何にも増して変えるべきものと変えてはならないものの差を見分ける知恵をお与えください。<ラインホールド・ニーバー(米国の神学者)>
わたしたちはいい人生や悪い人生を与えられるのではない。ただ人生を与えられるだけだ。それを良くするのも、悪くするのも、あなた次第なのだ。<ウォード・フォーリー>
古いものを尊びなさい。けれども、新しいものにも暖かい心で接しなさい。知らない名前に対して、先入観を持ってはいけません。<ロベルト・シューマン ドイツの作曲家>
企業の経済活動が活発になり、大企業が内部留保を2倍にしても、その内部留保が下請けや労働者に払われず、法人税や復興税は減税し、企業が人手不足だと言えば、ロクな議論もせずに法案をゴリ押しするのが保守政治と言えるのか。アベノミクスの中味は金融緩和だけで、株価や企業業績は上がったかもしれない。しかし、国民にその恩恵は一つも届かず、やれ年金は減額だ、税金は増税だ、社会保障の負担金は増額だと国民負担は増す一方だ。
今日12月10日は『ノーベル賞授賞式』 スウェーデンの科学者アルフレッド・ノーベルが1896(明治29)年に亡くなった日。ノーベル賞は彼の遺言により創設された。物理学・化学・医学・文学・経済学の各賞はスウェーデンの首都・ストックホルムで、平和賞はノルウェーのオスロで授賞式が行われる。賞の選考はノーベルが生まれたスウェーデンの研究機関が行い、平和賞だけは、創設当時スウェーデンと連合王国だった関係でノルウェーで選考される。賞ごとに選考委員会を作られ、世界中の大学や専門家に推薦依頼を送って、その返答をもとに受賞者が選ばれる。
置かれた場所で咲きなさい。<渡辺 和子>
子供のようになりなさい。子供はいつも前向きです。過去に執着しません。精神がいつも活性化しています。<シンディ・フランシス アメリカの作家>
あなたの傷を知恵に変えなさい。<オプラ・ウィンフリー>
あなたが生まれた時に、あなたは泣いて周りは笑っていたでしょう。だからあなたが死ぬ時は、周りが泣いてあなたが笑っているような人生を歩みなさい。<アメリカンインディアンの教え>
人の幸せはラクなところにはない。むしろ苦しいところにこそ、あるんです。乗り越える楽しみ、乗り越えた後の喜びがあるわけですから。<片山 右京 レーシングドライバー>
どんな関係においても、致命的な敵とは、自分自身、そしてお互いをあたり前のものつまり空気のように思い、関心をもたないことです。<マザー・テレサ>
いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。
(Iコリント4:7)
私たちが持っているものは、全て神からの賜物であり恵みです。自分だけの力で得たものは何一つありません。自分自身、財産、才能、友人、家族、その他全て神さまからの贈り物です。それらを所有しているからと言って、自ら誇ってはいけません。全ては神さまのお陰です。神さまに感謝しましょう。
だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。
(Iコリント10:24)
生まれながらの人間は利己的で自己中心的なものだと思います。自分のことばかり考えて、他者のことは無視しがちです。幸いなことに、私たちは、イエス様を信じることにより、愛によって他者のために生きるものと変わらせて頂くことができます。他人の利益を考えることは、自力では難しいことですが、神さまにより頼んで、愛に生き、他者のために生きられるように祈り求めましょう。
人間にとって一番の幸せは、自分のあるがままにいることです。「エラスムス」
幸福とは、あるがままの自分や、現在の生活や、今の人生の歩みを、心から受け入れられる能力である。「ウイリアム・ニッケルズ」
パンさえあれば、たいていの悲しみは耐えられる。(セルバンテス)
さとりとは、煩悩や迷いがなくなった状態ではなく、それらが、静められ、制せられてバランスの取れた状態のこと。(松原泰道)
老年は人間的なエゴイズムの束縛から解放されている。ようやく解放されて、魂は移りゆく一瞬一瞬を愛でる。ただ、とどまれとは命じない。人生に理由などなく、人生に意味などない。これが答えである。 (サマセット・モーム、「サミング・アップ」)
「何を忠告すべきか」を心得ている人は、たいてい「何も忠告すべきでない」と心得ている。「イーデン・フィルポッツ(小説家)」
少にして学べば壮にして為すなり、壮にして学べば老いて衰えず、老いて学べば死して朽ちず。(佐藤一斎)
人間は偉くならなくとも一個の正直な人間となって信用できるものになれば、それでけっこうだ。真っ黒になって黙々として一日働き、時期が来れば“さよなら”で消えていく。このような人間を偉い人だと自分はいいたい。<鈴木大拙>
悩み事は、散歩して忘れるのが一番だ。まあちょっと外へ出てみたまえ。ほら、悩み事なんか、翼が生えて飛んでいってしまう。(デール・カーネギー)
しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思うものは、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりまさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
(マルコ10:43~45)
偉くなりたいとか人の先に立ちたいと思うことは、ある意味で不自然で、空しいことなのではないでしょうか。逆説的ですが、水が低きに流れるように、自分を低くするほうが楽ですし、自然なことです。自然に逆らってうまくいくことはありません。自然に逆らわずに、他者に仕えられるよりも他者に仕えるものとなれるようになりたいものです。
主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
(コリント第二3:17)
私たちの自由と神とは関係があります。私たちは自分というものを、神によって、私たち自身に授けられているのです。私たちは神と結びついて、この世に依存しないですむときに、最も自由なのです。神は私たちが自由であることをお選びになりました。本来は私たちはこの自由を放棄して自己の責任を回避できないのです。自由のあるところには責任が伴います。私たちには自由とともに責任も与えられているのです。この世に悪があるのは、神に責任があるのでなく、人間の自由と責任回避によるものです。
愛は信頼の行為である。神が存在するかしないかはどうでもよい。信ずるから信ずるのである。愛するから愛するのである。たいした理由はない。(ロマン・ロラン)
悲観主義者は風にうらみを言う。楽観主義者は風が変わるのを待つ。現実主義者は、帆を動かす。(William Arthur Ward ウィリアム・アーサー・ウォード、米国の作家)
経験とは、人々が自分の愚かさ、あるいは悲しみに与える名前である。(ミュッセ)
心の目を覚まし、行く道の途上で出会うすべてのものを、じっくりと味わってごらんなさい。(ウエイン・ダイアー「どう生きるか、自分の人生!」)
日本人は、自然を支配するのではなく、自然に対して限りない慈しみと喜びとともに、愛をささげる。<ラビンドラナート・タゴール: インドの詩人・思想家。ノーベル文学賞受賞。>
愛とは他から奪うことではなくて、自己を他に与えることである。(阿部 次郎 哲学者・美学者・作家)
人間は努力しているあいだは、迷うにきまったものだ。(ゲーテ)
病める貝殻にのみ真珠は生れる。(芸術家)
原始時代の人は、その恋人に花輪を捧げることによってはじめて獣性を脱した。(岡倉天心)
我らは、ちょうど色々な御門や通路を経て、長い趣のある廊下を通って、幾たびも幾たびも折れ曲がって、壮麗な宮殿の中に導き入れられるように、恋愛につれてゆかれるのを喜ぶべきである。(モンテーニュ)
きのうは、今日のほんの思い出。 そして、明日は、今日の夢。(カリル・ギブラン レバノンの詩人・預言者)
人生は外国語だ。大概の人間はそれを間違って発音する。(クリストファ・モーレイ)
プラスチック製レジ袋の使用禁止などを目指し、京都府亀岡市と市議会が13日、「かめおかプラスチックごみゼロ宣言」をした。2020年度までに市内の小売店でのレジ袋の使用を禁止する条例を施行する方針。レジ袋を巡っては政府も小売店に有料化を義務づける方針を固めているが、市は廃止に向けてさらに踏み込む。現在、国内の自治体に同様の条例はないという。
ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。
(ガラテヤ3:28)
神は私たちが自由であるばかりか平等であることも教えられました。私たち人間は、それぞれ立場によらず、キリスト・イエスにあって平等です。また、キリスト・イエスにあって一つであり、皆、敵ではなく仲間です。ここに、自由、平等、博愛といった近代民主主義の価値理念が確立しました。主に感謝します。
ここに善意にみち、少し試み、多く失敗せる人眠るーーー多分これが彼の墓碑銘かも知れない。しかしそのことで彼は恥じる必要は毛頭ないのだ。(E・シティヴンソン)
あんた方にとっての遊びは、わたしたちにとっては死なのだ。(イソップ:カエルの抗議)
一日だけ幸せでいたいと思ったら床屋に行くがいい。一週間だけ幸福でいたいと思ったら結婚するがいい。一ヶ月だけ幸福でいたいと思ったら新しい馬を買い給え。一年だけ幸福に暮らしたいと思ったら、新しい家を建てろ。一生涯、幸せでいたいと思ったら、正直な人間であること。(イギリス倫諺)
充実した一日が幸せな眠りをもたらすように、充実した一生は幸福な死をもたらす。(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
幸福は身体にとってはタメになる。しかし精神の力を発達させるものは悲しみだ。(マルセル・プルースト)
もし君が満ち足りるということを知っていないならば、幸運も君を幸福にすることはできない。(サンダース)
孤独は、ひとを破壊しないかぎり、ひとを高めるものだ。(S・ツヴァイク)
自分自身を支配しない人間は決して自由ではない。(ギリシャ人の言葉から)
若い時は、一日は短く一年は長い。年をとると、一年は短く一日は長い。(ベーコン)
友情を強めるその時間が、恋を弱める。(ラ・ブリュイエール)
ひとりの、あるいは少数者の奴隷となるなかれ。万人の奴隷となれ、そのとき、汝は万人の友となる。(キケロ)
恋愛の場合は、信じられたいと思う。友情の場合は、見抜いて欲しいと思う。(ボナール)
初恋とは少しばかりの愚かさとありあまる好奇心のことだ。(バーナード・ショウ)
私たちの一切の不幸は、私たちが独りでおれないところから生ずる。(ラ・ブリュイエール)
植物の病原菌感染で年間5億人分の農作物が失われている。植物が病原菌感染に対して分泌する免疫ホルモンは免疫活性化という利点と同時に、生長停止という欠点もあった。今回、植物ホルモンであるジャスモン酸イソロイシンと構造が似た物質が新たに開発された。そして免疫強化剤として用いたところ生長を止めず、免疫を活性化させることに成功したという。世界の食糧問題の解決につながる画期的成果だ。
今日12月14日は『忠臣蔵の日』。1702(元禄15)年のこの日、赤穂浪士47人が本所の吉良邸に討ち入りし、主君の仇討ちを成し遂げた。1701(元禄14)年3月、江戸城松之廊下で播磨赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、幕府の礼式を司る高家筆頭の吉良上野介義央に小刀で切りかかるという事件が起った。浅野には即日切腹、領地没収という厳しい処置がとられたが、吉良には一切のお咎めがなく、これが事件の発端となった。家臣たちは主君の仇を討つ為に綿密に計画を練り、翌年12月14日寅の上刻(現在の暦法では15日午前3時ごろとなるが、当時は日の出の時間に日附が変わっていたので14日となる)、大石内蔵助の率いる47人が、本所の堀部安兵衛宅に集まり、そこから吉良邸へ討ち入った。2時間の戦いの末、浪士側は一人の死者を出さずに吉良の首を取ることができた。世論は武士の本懐を遂げた赤穂浪士たちに味方し、幕府は翌年2月4日、一同切腹という処置をとった。この事件を題材として、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』等100種にも登る作品が作られ、現在まで語り継がれている。
我々は二つの耳と一つの口を持っている。沢山聞いて、少くしゃべるために。(ギリシャ諺)
沈黙はひとつの素晴らしい会話術である。(W・ハズリット)
忠告はめったに歓迎されない。しかも、それをもっとも必要とする人が常にそれを敬遠する。(チェスターフィールド)
人の言葉は善意に取れ。その方が五倍も賢い。(シェークスピア)
書物は友人と同様、数少なくあるべきであり、そしてよく選択されるべきである。(トーマス・フラー)
読書は充実した人間をつくり、会議は覚悟のできた人間をつくり、書くことは正確な人間をつくる。(F.ベーコン)
本は人生を楽しむことを教えるか、さもなくば人生を我慢することを教えるものでなければならない。(R・ジョンソン)
多分、人間のたった一つの本当の価値は、自分自身を軽蔑できるということであろう。(G・サンタヤナ)
人間とは、神の失敗作に過ぎないのか、それとも、神こそ人間の失敗作に過ぎぬのか。(F・ニーチェ)
考える人間にとっては、世の中は喜劇であり、感ずる人間にとっては悲劇である。(H・ヲルポール)
お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。
(エペソ4:32)
キリストは私たちの身代わりとなって十字架に掛かられ、私たちの罪は赦されました。神がなされたように私たちもすべきです。お互いを思いやり、お互いに親切にし、互いに赦し合って生きていきましょう。
ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。
(ヤコブ1:25)
信仰義認といっても、信仰だけでよいという訳ではありません。律法も行いも大切です。全ての律法を覚えそれを守るのは難しいことですが、神と隣人を愛するという原則を守っていれば、律法に反することはありません。世の中の法律全てを知らなくても、健全な常識があれば、法律違反をすることはないのと同様です。また、律法を守る人は、事を実行する人となります。真の信仰にはよい行いも含まれます。例えば、神と隣人を愛するという行為は信仰に基づく行為です。よい行いを伴わない信仰は真の信仰とは呼べず、口先だけの偽りの信仰です。信仰だけを強調する人がいますが、社会生活を送っていく上で、それだけが全てではないのは、当然ではないでしょうか。信仰が真正なことは何らかの形で示されなければなりません。偽りの空虚な信仰に陥らないようにしたいものです。律法、行い、信仰は相互に関連しあっているのです。信仰は行いを導き、律法は行いに内容を与えるものです。
これらのものは滅びるでしょう。
しかし、あなたはながらえられます。
すべてのものは衣のようにすり切れます。
あなたが着物のように取り替えられると、
それらは変わってしまいます。
しかし、あなたは変わることがなく、
あなたの年は尽きることがありません。
(詩編102:26~27)
この世には神と神以外の被造物しか存在しません。神のみが常しえで、変わらず、永遠の存在です。それに比べ、人間を含む被造物は、変化し、滅びていきます。まさに諸行無常です。そんな私たち被造物を神があわれみ、いつくしんで下さいますように。
実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見いだすよりほかに、何も良いことがない。これもまた、神の御手によることがわかった。実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか。
(伝道者の書2:22~25)
人の一生は悲しみと悩みでいっぱいで情けないことです。ただ、食べたり飲んだり、ささやかな楽しみに満足を見いだすしかありません。しかし、それも神のみこころなのです。神から離れては、楽しみもないのです。大いなることを望まず、ささやかな幸福を求めるときに神は私たちのそばにおられ、私たちは楽しむことができます。この幸いを覚えましょう。
すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
(ルカ1:30)
クリスマス。それは神の御子イエスが人となって、この世に遣わされたことを記念する日です。神が人間を救うためにこの世に来て下さったのです。御子イエスの一生は、生まれたときから、苦しみと自己否定の連続で、決して幸福なものではありませんでしたが、結局、救い主の誕生は、人々にとって大きな喜びになったのです。
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足らないものと私は考えます。
(ローマ8:18)
聖書は、一時的な苦しみを永遠の相のもとで評価するようにと、私たちを励まします。
鍋の美味しい季節になった。料理にガスを使う家庭は多いかと思うが、ガスには都市ガスとプロパン(LP)ガスの2種類がある。前者はメタンを主成分とした天然ガスで空気より軽いため、漏れた際は上に溜まる。また、後者はプロパンを主成分とした液化石油ガスで空気より重いため、下に溜まる。そのため、都市ガスを検知するガス警報器は壁の上部へ、プロパンガスは壁の下部にそれぞれ設置する。
人が不安を感じる時、その内容が現実となっていることはまずない。不安は、自分にとって受け入れたくない事がこの先にやってくるかもしれないという憶測の感情に過ぎない。早い話が取り越し苦労をしていることになる。心配や不安の感情をいったん隅っこに置いてみることだ。その代わりに、受け入れたくないことを受け入れないための方策に気持ちを向けてみよう。気持ちを落ち着けて自分の心に訴えてみると、案外それまでに浮かばなかった方策や考えが顔を出してくるものだ。自分の中にある無限の潜在脳力を信じよう。
ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もない人がいる。・・・ふたりはひとりよりまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。
(伝道者の書4:8~12)
昔から孤独な人がいたのですね。ひとりで生きていくことはそれほど困難とは思いませんが、時にそれは辛いことだとも思います。孤独な若い人にとって、このクリスマスの時期はなおさらでしょう。私には少ないですが仲間や兄弟がいるのが救いです。昨日は教会に行き、皆とクリスマスを祝いましたが、それでも一人暮らしなので、家に帰れば、孤独感におそわれることもあります。でも、神さまはいつも私たちと共におられるのです。神さまは私たちのところへ来られたのです。インマヌエル。これこそがクリスマスのメッセージです。
クリスマスのことでした。判事さんは、(クリスマスなので)とても、陽気な気分でした。彼は、囚人に聞きました。「あなたは何の罪で、告発されているのですか?」
囚人は答えました。
「クリスマスショッピングが早すぎたのです」
「それは罪ではないでしょう」
と判事は言いました。
「どれくらい早く買い物をしたのですか?」
「店が開く前にです」
と囚人が答えました。
二人の若い兄弟が、おじいちゃん・おばあちゃんのところにいました。ベットの時間で、二人の少年は、ベットのそばにひざまずき、お祈りを始めました。その時、年少の少年は、大きな声で、お祈りを始めたのです。
「新しい自転車、任天堂、ビデオをお願いします」
おにいちゃんは、かがみこんで、弟を、肘でつつきました。
「なんで、叫んで、お祈りするの?神様は、耳は悪くないよ」
それに対して、弟は答えました。
「おばあちゃんが耳が悪いんだよ」
メシヤのわたしでさえ、人に仕えられるためではなく、仕えるために来たのであり、多くの人の罪の代償として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
(マルコ10:45)
御子イエスは、私たちに仕えるために、この世に来られました。そして私たちの身代わりになり、私たちの罪を贖うために、十字架にかかられました。ここに私たちに対する神さまの愛が示されたのです。究極の愛とは、他者のために命を捨てることです。それが献身ということです。私たちが神さまに倣って、お互いに愛し合って生きることは、神さまに喜ばれることです。神さまはお手本を示されたのです。神さまに倣うものでありたいと思います。
人生は一冊の書物に似ている。馬鹿者たちはそれはパラパラとめくっているが、賢い人間はそれを念入りに読む。なぜなら、彼はただ一度しかそれを読むことが出来ないのを知っているから。<ジャン・パウル>
人はどんな高いところでも登ることができる。しかし、それには決意と自信がなければならない。<アンデルセン(世界の童話王)>
一つひとつの悲しみには意味がある。時には思いもよらない意味が。どんな悲しみであろうと、それはこのうえなく大切なもの。太陽がいつも朝を連れて来てくれるように、それは確かなことなのです。<エラ・ウィーラー・ウィルコックス>
つらい道を避けないこと。自分の目指す場所にたどりつくためには進まなければ。<キャサリン・アン・ポーター>
どんなに才能があっても、結局、元気でなきゃだめ。<黒柳徹子(女優・ユニセフ親善大使)>
Patience wears out stones.
(忍耐は石をもすり減らす)
「石の上にも三年」
Perpetual optimism is a force multiplier.
-- Colin Powell
常に楽観的でいることで、持てる力が増幅される。
「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。 主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。 主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。」
(民数記6章 24-26節)
これからずっと、あなたが主に守られて、恵みと平安を与えられますように。2019.1.2
私を砕き、
御手を伸ばして私を絶つことが
神のおぼしめしであるなら、
私はなおも、それに慰めを得、
容赦ない苦痛の中でも、こおどりして喜ぼう。
私は聖なる方のことばを
拒んだことがないからだ。
(ヨブ6:9~10)
思いがけなく、どんな試練に会おうとも、私たちは、ヨブのように、神を信頼し喜んでいられるでしょうか。私には自信がありませんが、幸いなことに、私たちの神は義と愛の神です。どのような時にも信頼に足る存在です。どのような試練に会おうと、神を信頼し、喜んでいられる者でありたいと思います。神は必ず試練を乗り越える道も同時に備えて下さいます。全ては神のなさることです。義と愛の神は最善のことしかなさいません。神に信頼してまいりましょう。
わたしを見た者は、父を見たのです。
(ヨハネ14:9)
神に関する真の知識を私たちは持つことができます。預言者たちは神からのメッセージを携えて来たのですが、イエスは人であるのと同時に神でした。神の愛、神の聖、神の力とは何であるかと知ろうとするなら、必要なのはキリストを見ることだけです。
主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは 御名をあがめさせたまえ
御国を来らせたまえ
御心の天になるごとく
地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を 今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いいだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、
あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、
まどろむこともなく、眠ることもない。
主は、あなたを守る方。
主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、
夜も、月が、あなたを打つことがない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、
今よりとこしえまでも守られる。
(詩編121:1~8)
主は、いつでも、どこでも、どんなことからも、絶えず、私たちを守って下さいます。私たちは主に信頼してさえいれば良いのです。なんという幸いでしょう。
先生:「ジョン、地図で北アメリカを見つけてください。」
ジョン:「北アメリカはここです!」
先生:「正解!です。皆さん。ではアメリカは誰が発見したのですか?」
クラス全員: 「ジョンです!」
昨年10月に開場した豊洲市場(東京都江東区)で5日、「初競り」があり、青森県大間産のクロマグロ(278キロ)が1本3億3360万円、1キロあたり120万円で競り落とされた。記録が残る1999年以降の史上最高値。
人類は、絶えない変化を続けてきたからこそ進歩してきたといえる。逆に、変化しないということは動かないことであり、動かないということは死ぬことに匹敵する。成長するということは、本当の自分について新しい考え方をすることから生まれる。変化を恐れないことだ。昨日正しかったことは、今日間違っているかもしれない。間違っていたことは、正しかったのかもしれない。私たち全員が進化という道を進んでいる。
わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。
その叱責をいとうな。
父がかわいがる子をしかるように、
主は愛する者をしかる。
(箴言3:11~12)
私たちにたびたび降りかかる患難や試練は、神が私たちを教育し訓練するためのものと思うとよいのではないでしょうか。患難や試練には原因があり、自分の罪に由来することが多いのです。自分のためと思って耐え忍びましょう。忍耐は私たちを成長させます。そして、私たちの品性は研かれます。神は私たちを愛しているからこそ、神は私たちをしかるのです。そう思えば、患難や試練も嬉しいものと思えませんか。苦難の後には必ず苦難から解放されたという喜びが待っています。神は耐えられないような試練を与えられず、脱出の道も備えて下さいます。どんな患難や試練に会おうと神の愛に信頼していましょう。
ある既婚男性は、長い結婚生活の秘密を聞かれると、次のように説明しました。「週に2回、時間を作って、なじみのロマンティックで小さなレストランに行きます。ろうそくの明かりでのディナー、静かな音楽と、星空の下でダンス。彼女は月曜日ごとに、私は木曜日ごとに行くのです。」
レストランで、お客がウエイターに言いました。
「おい~! あなたの親指が私のスープに入っているよ!」
するとウエイターは言いました。
「大丈夫です。このスープ 熱くないですから」
男は、バーに入り、言いました。
「誰が、ここで一番強い男だ?」
強そうな男が彼を見て言いました。
「私が、ここらでは一番強い男だ!」
もう一人の男は、丁寧に尋ねました。
「ガソリンスタンドまで私の車を押していくのを手伝ってもらえませんか?」
神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
(創世記4:21)
アダムとエバが神に反抗し罪を犯しエデンの園から追放されることになっても、神はあわれみを失われず、このように二人に対する愛を示されました。私たちも毎日罪を犯し続けていますが、それにも関らず、私たちは生かされています。これも神の愛です。本来、私たちは、悔い改めて赦されることによって、初めて生きていくことができるのですが、そのことさえ忘れがちな私たちはなんと罪深い存在でしょう。少なくとも、私たちを生かして下さる神への感謝は忘れないでいたいと思います。そして、今も昔も、私たちの罪を担っておられる御子イエスを覚えましょう。できれば、常に神に顔を向け、罪を犯したら悔い改められるようにしたいものです。
すると、主は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
(マタイ25:40)
神を愛し、喜ばせ、神の栄光を表すためにと言われても、具体的にどうすれば善いのか分からないというのが現実ではないでしょうか。この答は、あなたの隣人を愛することにあります。兄弟、ましてや最も小さい者さえも愛することは、神を愛することであり、神に喜ばれることなのです。神の栄光を表すには、隣人を愛し、隣人に奉仕すればよいのです。 神を直接愛せなくとも、こうすることが、神に喜ばれることなのです。神は御子イエスにおいて可視化されますから、御子イエスの生涯や福音を見つめることを通して、御子イエスそして神への愛へ至ることも可能でしょう。
人は誰でも自分の考えを基準に、他人のことを判断する。このこと自体は当たり前のことだ。ただし、自分の考えや価値観が他人と異なった場合の処し方が大切になってくる。他の人も自分と同じように、自分自身の考えを基準に生きているということを認識しなければならない。考えや価値観は人それぞれ異なって当たり前ということを自覚してさえいれば、他人を批判することの無意味さを理解できる。また、他人からどう評価されようとも全く気にする必要がないことも自明の理だ。
わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
(マタイ7:21)
信仰義認と言われ、信仰を告白して、義と認められますが、それだけで救われるのでしょうか。義と認められることと義であることは違うと思います。信仰義認では名目的に義と認められるだけではないでしょうか。信仰義認は一瞬のみわざですが、義となるべく、この後は神人協力の超自然的な神の恵みによる聖化の歩みが、この世の生を終えるまで続きます。神の恵みと言っても、人間の努力も求められるのではないでしょうか。聖化の歩みは一生涯続きます。その段階で、神のみこころを行わず、完全な義に近づかないものは救われるのでしょうか。行いによっては義と認められないのは事実ですが、義認の後になにもせず、聖化の過程を無視すれば、栄化されて、天の御国に入るということもないのではないでしょうか。繰り返しますが、義と認められることと、義であることは違います。義と認められたからといって、その人が義であるというわけではありません。人間は誰しも、義になるべく努力が求められるのではないでしょうか。信仰ばかりで行いが伴わないのは間違いです。真の信仰があれば、良い行いも伴うはずです。良い行いの代表格は、御子イエスがなされたように、隣人を愛し、他者のために生きることです。個人の努力と言っても、神が始められたみわざは、聖霊により堅持され、栄化への道は神によって保障されますので私たちは希望を持つことができます。
子どもの時に拡大鏡で雪の結晶を観察して、その見事さに感激したのを思い出す。肉眼で見ていた雪がこんなにも複雑なデザインになっていたなんて、今でも不思議だ。そしてもっと驚くべきことには、一つとして同じ形の結晶がないということだ。つまり自然界の法則の現れの一つだ。これは、私たち人間にも言えることだ。70億人以上が住むこの地球上に、まったく同じDNAをもった人間はいない。つまり、異なる個性が70億以上あるということだ。私たちは他人と違うことを考えたり、違う行動をしたりするときに逡巡することがある。しかし、もともとの個性が一人ひとり異なっていると思えば、とても自由な気持ちになれるのではないだろうか。
だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかのどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。
(ローマ13:8~10)
キリスト教の教えは、「神と隣人への愛」という形でまとめられます。愛が全ての律法や戒めを守るのを可能にするからです。ただ、現実に全ての人を愛するのは難しいことです。そうできるように神に祈り求めなければいけないのかも知れません。神よ、愛することにおいてさえ無力な私たちをお助け下さい。主の御名によりて、アーメン。
料理の際に行う「灰汁抜き」は、えぐみを取るなど、食味の問題から行われることだが、有害物質除去の効果もある。ワラビに含まれる発がん性物質プタキロサイドは、灰汁抜きを行うことで分解される。また、フキに含まれる肝毒性を発現するピロリチジン系アルカロイドや、タケノコに含まれる青酸配糖体なども、灰汁抜きによって除かれることが分かっている。灰汁抜きは健康維持のための古くからの知恵と言える。
夜はいつも座禅をしている。座禅をするときには何も考えない。東洋思想では無は形の無いことを意味する。それゆえに無はどんな形のものであろうとなんでも包み込むことができる。だから無は愛や存在よりも深い。座禅するときには、無になろうとするのだが、なかなか難しい。しかし、酒があれば、それも容易になるようだ。実際、目覚めるには長い期間がかかる。まるで修行僧のようなものである。修行が足りないのは分かっている。いつも夢見ているのか覚めているのかも区別できない。こうして、修行が全くなっていないのを認めざるを得ないのだから、皆さん、せめて今宵は良き夢を!
私たちが経験した結果が、偶然から生まれたということはない。そこには何かしらの原因が潜んでいる。原因がどうしても思い当たらなかったとしたら、それは気づかないだけだ。また、誰かと知り合うことになった時も偶然からそうなった訳ではない。何かしらの原因(きっかけ)があってこそのことだ。このように、世の中の出来事には必ず原因がある。自分の望む結果が欲しいのであれば、意識してそこに繋がるような原因を創りたい。
人間の脳には右脳と左脳があり、役割と働きが異なることは周知のとおりだ。言語や計算、論理的思考などを得意とする左脳に対して、右脳は図形や映像の認識、直感、ひらめきなどを得意とする。私たちは、役割の違う左脳と右脳の働きをバランスよく使いこなすことが必要なのは言うまでもない。しかし、現代人はどちらかというと左脳の使用に偏りがちなので、意識して右脳を活性化する必要がある。そのためには、例えばスポーツや音楽、遊びなどに熱中することが良いといわれる。こうした状況下では思いがけない動きやハプニングがあるので、これに熱中することは右脳を活性化させるのに役立つ。また、笑うことも有効だ。脳にとっては大きな刺激となり、右脳が活性化すると考えられている。
人生の意味とかは、歳をとっても分かるようになるものではないようだ。子供の頃からがり勉だったので、この歳になっても、惰性で勉強を続けている。しかし、若い頃と違って何かが欠けている。今更何のための勉学なのか。再就職も不可能な年齢だ。資格取得を目指しても無駄なことだ。この無目的の勉強には空しくなることもある。しかし、生きている以上、昼間起きている時には何かをしていなければ間がもてない。つい、本に手を伸ばしてしまう。勉強のための勉強が続く毎日だ。無目的の勉学とは、ある意味で、動機が純粋なことでもある。知のために知を求める。老いて、哲学者になった面持ちだ。欲望も少なくなって、若い頃よりも、集中力が増したようだが、加齢による能力の衰えは隠せない。まぁ、勉強は好きなほうだから、苦しくはない。集中した後や、新しい知識に出会えたときは充実して楽しくなる。YouTubeで音楽を聴きながらの読書は至福の時でもある。歳をとっても人の迷惑を掛けることもなく熱中できることがあるのはよいことかもしれない。後の大仕事は死ぬことだけだが、どうなることやら将来のことだから見当もつかない。考えてみても、今ここを精一杯生きることしか思い浮かばない。そして死ぬときには死ぬだけだ。今この時点で特に思い残すこともなく未練もない。このままの気持ちで生きていきたい。
しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中の罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
(ヨハネ8:7)
私たちは自分のことは棚に上げ、他者の罪は赦しがたく思いがちです。しかし、全ての人が罪人なのです。自分の罪を覚え、他者を赦せるものでありたいと思います。罪を犯しても悔い改めれば神は赦して下さいます。同じように私たちの罪も互いに赦し合えるものでありたいと思います。
私たちは今を生きている。当たり前のこと。しかしながら、私たちは過去の失敗や苦い思い出を事あるごとに頭に浮かべてしまいがちだ。また、将来に対する心配や不安が度々私たちを悩ます。でも、過去はすでに私たちから離れてしまっているし、未来はまだ何も決まったわけではない。そう考えると、自分の影響範囲を超えているものにいかにエネルギーを使っていることか???そんなエネルギーを、今の現実に注ぎたい。今を生きているのだから。
ものごとが、「偶然に」とか「たまたま」起こるということはあり得ない。結果には必ず何かしらの原因がある。原因が思い当たらないという時でも、それは自分が気づいていないだけだろう。原因は直前に存在するとは限らず、ずっと以前に自分が気づかないときに起こっていた可能性もある。したがって、結果を嘆いたり悲観したりせずに、どうしてそういう結果になったのかを冷静に見つめ、その後は前を向いて自分の望む結果を達成できるような原因づくりに意識を向けたい。
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
(Ⅱコリント1:4 )
私たちを慰めて下さる神の力によって、私たちも苦しみの中にある人をも慰めることができます。苦しみの理由を理解するのは容易ではありません。しかし、神は、辛い体験を思いがけない形で用いられます。神に慰めと愛を求めるなら、それによって強められ、人の力になれるのです。神の慰めを体験し、それによって人を慰めることができるのです。
『老いの美』 坂村真民
木に
老醜はないという
老杉
老梅
老桜
みなそれぞれに
風韻
風格
風趣
を持ち
老いの美に
光る
切ったり、穴をあけたりしても元通りに戻る自己修復機能をもつ新素材が開発された。この新素材はスカンジウムを触媒にして、エチレンにアニシルプロピレンという分子を結合させた高分子だ。ゴムのような弾性と柔軟性を持ち、切ったとしても分子と分子の間で起こる作用で、もう一度くっついて元に戻る性質を兼ね合わせている。大量に作ることも可能で、将来的には人工臓器の素材になると期待されている。
神様! なぜこれほど、女性を美しく創られたのですか?
お前たちが女性を愛するためだ。
ではなぜ、これほどまで女性を愚か者に創られたのですか?
女性がお前たちを愛するようにだ。
人は他人からの批判や評価を気にしがちだ。もしそうした批判を完全に避ける方法は、「何もしない」、「何も言わない」、「何にもならない」、ことだろう。しかし、そんな生き方は現実にはあり得ないし、生きる意味がない。人と人が接しながら生きる社会では、摩擦が生じないほうが不思議だ。摩擦を恐れずに、自分自身を自分らしく表現することが大切だと思う。「自分を愛し」、「自分を信じ」、「自分らしさを表現」、しよう。批判されることや評価されることが、自分の中で徐々に価値をもたなくなってくるだろう。
考え方を変えるためには、意識を変化させることが必要だ。自分がどういう人間なのか、どういう人間になりたいのか、ということを強く意識することだ。そのことが考え方のベースになる。今自分が悩んだり困ったり不満に思っていることが、考え方を縛ってしまいがちだ。脱却したいと思うなら、自分本来の姿を意識してそれに沿うように考え方を変えればよいだけだ。これが習慣になれば、行動は必ず目指す方向に変わってくるはずだ。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
(ガラテヤ5:22~23)
もし、私たちが御霊に全てを委ね、御霊によって導かれるならば、律法の下におらずとも、御霊の実を身に結ぶことになります。これらの御霊の実によって、私たちは律法を全うすることになるのです。
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荒井公康
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