開と陸が、佐野のおばあちゃんの家に念願のお泊りです。
佐野のお姉ちゃんとのお別れでした。空也じいちゃんが三重から、中川さんが奈良から、かおるさんが愛媛から、今井さんが富士吉田からかけつけてくれました。パパが、施主代理として挨拶しました。
施主代理 挨拶
本日は、故人小曽根俊子のためにご多用の中をご参列くださり、ありがとうございます。
喪主である父、小曽根剛男に代わって、故人の義理の弟にあたる私がご挨拶申し上げます。
故人は、3月23日(水)18:45に佐野市厚生病院で心不全により51歳の生涯を終えました。前日朝に腹痛をおこして救急車で運ばれ、腸閉塞ということでしたが、翌日の午後になって容態が急変し、静かに息を引き取りました。
故人は、昭和29年2月17日、雪のちらつくとても寒い日に小曽根剛男・フジ子の長女として佐野に生まれました。8ヶ月の早産で、1週間目に高熱を出し、1ヶ月の間生死の間をさまよいました。脳性まひと診断され、重度の身体障害をもって生きていくこととなりました。できるだけ家の中に隠そうとする時代に、小学校は普通校に通いました。小学校5年の3学期からは宇都宮の若草学園で親元をはなれての寮生活、中学2年からは野沢養護学校と多感な時期を過ごし、宇都宮高等学校の通信制へと進みました。高校を卒業して社会とのつながりがなくなりつつあったころに、奈良のわたぼうしコンサートと出会い、自分の書いた詩をひろく紹介してもらい、曲がつき、歌うボランティアの若者たちが日本全国各地で歌いました。
毎年夏に奈良で開かれるわたぼうし音楽祭には、全国のたくさんの詩人たちが応募し、10人だけが選ばれます。その音楽祭の大賞と文部大臣賞をそれぞれ2度受賞するなど、常連となりました。奈良市に着くと「お帰りなさい」と声をかけられるほどでした。
佐野市においても数回わたぼうしコンサートを開催しました。ワープロで計画書を書いたりして、自分にできることをしながら準備にあたりました。毎晩のように自宅には実行委員会の若者たちが集まって故人を囲んで熱気のある会合が続けられたとのことです。
詩を書くことを通して社会と関わる中で、詩集を3冊、「愛は藍色」「虹色の時」「夢咲き峠」の3冊を出版しました。
また、自分史を書くということがまだ珍しい時代に、自分史「命よ燃えろ心よ光れ」を書きました。「ラブマイタウン」 ラブマイタウン ここが私の街 という歌が昭和59年の第9回わたぼうし音楽祭で歌われるまでの人生を本の中で語っています。
たくさんある詩の作品の中から、故人がみなさまに一編の詩を贈るとしたら、どれを選んだかは今となってはわかりません。本人に代わり、故人の生き方そのもののように思える詩を私なりに選ばせていただきました。はじめての詩集である「愛は藍色」の中の詩です。
ろうそく
熱い涙を流さなければ
からだを熱く溶かさなければ
光になることはできないのですね
透明な汗を流さなければ
自分の命をけずらなければ
ぬくもりは生まれてこないのですね
おぞねとしこ
もう一編、本日は出席することのできない父が選んだ作品です。
かあさんへ
白鳥には なれなかった
ライオンにも なれなかった
でもね かあさん
あなたに 生んで もらったから
あなたに 育てて もらったから
このわたしは いまのまんまの
小さなわたしで しあわせです
もしもう一度 生まれても
わたしは あなたの こどもになります
姉と父と母は、いつも3人いっしょで、私から見るとひょうきんな姉と父は、いつもかけあい漫才をしているようでした。姉の心を知る父が、姉に代わってこの詩を選びました。
本日はご参列くださり、まことにありがとうございました。
3月23日(水)18:45に佐野のおねえちゃんが静かに息を引き取りました。前日の朝に腸閉塞で救急車に運ばれました。腸閉塞自体は、処置後の状態も安定していたようですが、容態が急変して血圧が下がり、心停止とのこと。こどもたちを高松さんに預かってもらって、ママは病院へ行ったがすでに自宅へ帰ったあとで、応接までおばあちゃんと3人で枕を並べました。パパは子守。
会社の健保組合のポイントで万歩計や折りたたみ自転車、オイルヒーターなどをゲットしました。さっそく万歩計をつけたら、半日で3,000歩だが、本当だろうか?愛が高熱を発してダウンです。
ゴルフ教室恒例のコース練習。OUT 60(18), IN 63(23)。半年前は115だったのに。ドライバーも初打ちで、よく飛ぶ時もあったが、隣のコースに打ち込んでヒヤリとした。