ドラが鳴る。
船がゆるやかに動き始めたから裕子はテープを握りしめる。隣の鈴木は
「あなたのおかげだ。一人ぼっちで日本を離れるんだと思ってました」
「私も同じです」
「だったら今夜もお付き合いできますか?」「喜んでた!」
「スズキタクヤです。五時半にダイニングルームでお待ちしてます」
「嬉しいです」
「ではお先に」
と離れていく鈴木。鈴木の後ろ姿を眺めて「スズキムタクだわ」
とつぶやく裕子。人々がどんどんへっていったが、裕子は最後まで横浜港を眺めていた。
やがて誰もいなくなったクルーズ船の廊下を歩いていく裕子。少々ため息交じりで自分の部屋で立ち止まる。鍵を開ける! ドアを押す!! だがなかなか開かない。部屋の中にある段ボールに引っかかっているからだ。
「はぁ」
苦労してようやく中に入れたが山ごとの段ボール。ベッドに座る裕子。やがて緊張しすぎて疲れ気味。いつしか一眠り。
どれだけ眠ったのかわからず船長のアナウンスの声で目を覚ました。
「只今船舶の銀座と言われている浦賀水道を通過します」
慌てて窓に近づく裕子。広い海と白い波が漂う。
「銀座四丁目が懐かしい」
ベッドに戻る裕子だったがまた船長の声がした。
「左舷に潜水艦が通り過ぎます。ご覧ください」
また窓に飛びつく裕子。黒い大きな塊。水しぶきが見える。塊の頭には太い望遠鏡がありチカチカと点滅していた。
ホテルのランチを食べている鞠子と喜子。
「タイタニック号のことで弁護士になったのです」
と鞠子。
「何それ」
「船で沈んだら今の土地はお兄んにあげたいみたい」
「なるほどね、よくある話」
「私はいらないもの」
「ホントかしら?」
「いざとなれば?」
ニヤッと笑う鞠子。
出国ゲートを超えて鈴木さんと別れた裕子はときめき気分で自分の部屋を探す。船の小さな丸い窓から海が漂う。船旅だ!! でも広すぎてまだホテルにいるようで船に乗っている感覚がまるでない。
裕子はやったー自分の部屋を見つけたのだ。小声で叫ぶ。鍵で部屋を開ける!! そしてこっそり開ける!! が入るがすぐに出てきた。それからまた入って大きなバッグを押し込んで出てきた。大きいバッグを中に押し込んでからまた出てきて
「私の部屋」
とつぶやく。振り向きながら離れていく裕子。
裕子が階段を上がって行くとメインデッキから賑やかな声が聞こえた。裕子もその声に入りたかったのにもう人が溢れていて座る場所など一つもない。
鞠子と喜子は港の方から船のメインデッキを眺めているが裕子が見つからない。
鞠子はクスクス笑いながら
「船からテープを投げるなんて明治時代風ね」
「昔は船で帰れないのも当たり前。それより裕ちゃん、どこ?」
二人でキョロキョロしている。
一方裕子はメインデッキをウロウロしていたら遠くから声がした。
「片山さん、片山さん」
と呼ばれた。
「えっ! 私?」
今度はデッキで裕子の方がキョロキョロした。
「片山さん片山さん! 私鈴木です」
と手を振っている。
「鈴木さん!」
大声で叫ぶ裕子。鈴木はちゃんと裕子の席をとっていた。大喜びで飛んでいって
「鈴木さんありがとうございます。家族が見つからなくて」
船長の挨拶も途切れるほど家族を呼ぶ声が溢れていた。
「あっ、いたいた」
見送り場でやはり鞠子が一番先に裕子を見つけた。裕子に手を振ってみる。喜子も背伸びした。
ほとんど同時に裕子も鞠子と喜子に気づいた。
「あっ、あそこ! 娘と姉です」
メインデッキでは鏡割りが始まった。鈴木は裕子にたくさんのテープを渡した。
「こんなに! 私一つでいいです」
「片山さんは家族がいらっしゃるからいっぱい投げて下さい。私には家族がいないから」
「じゃあ鈴木さん、娘に投げて下さい」
「では、あちらですね」
鈴木は嬉しそうに鞠子にテープを投げた。テープがひらひらひらひら待っている。さすがに鞠子のところまでは来なかったけど裕子と鈴木は寄り添って見えた。
「さっきいた人? もう仲良しね」
「パパの位牌持たせたのにね」
「位牌!?」
「世界一周見せたいもの」
「血のつながりって、恐ろしい」
そしてゆっくり船が離れ始めていた。
裕子はリビングルームで開いた段ボールに服をたたんて入れている。テーブルに置いてある大判の封筒に目を止めた。赤字で「資料」と書いてある。
受話器を手にしながら少し首を右や左に傾いた。
「ママ〜どうしたの?」
悩んでいた裕子だったが数時間後には銀座の四丁目で白ワインを一口飲んでいた。前の鞠子も一口二口三口。
「鞠子ちゃん、ゆっくりゆっくり」
「慌てて来たから喉がカラカラ」
「急に言ったから無理かと思ってた」
「銀座のみかわやよ。何があっても飛んでくる」
「イヤね。私に会いたいんじゃなくて、みかわやさんに会いたいのね」
「まぁネ」
「しっかりした子」
「正直にいかないと損よ。ママの世代の人はやけに御愛想やお世辞ばかり。だから疲れるのよ」
「ハイハイ」
二人に近づいてきたのはゴージャスなオードブルだった。
ランチを済ませた二人はいつも有楽町駅で別れる。丁度真反対に帰るから。
「次に会うのはお見送りの日ね」
と裕子。
「先生にもらった薬も飲み過ぎちゃ駄目よ」
と鞠子。
「ハーイ、お母さん」
「またママチャラして」
不機嫌そうな鞠子に手を振る裕子。
だが階段を上がり始めた鞠子を追いかけて鞠子の肩を叩く。裕子を振り向いて
「何?」
「なんでもない」
「何よ」
「実はね、お兄ちゃんは大阪だから代わりに聡美さんが弁護士さんを紹介してくれるんだって」
「弁護士?」
「私はタイタニック号でも助かるつもりだけど、もしいなくなったらあの土地はお兄ちゃんにあげたくて」
「なるほどね」
「何笑ってるの?」
「ママ、なかなか言えなかったのね」なかな「そんなことないわよ」
「弁護士さんとよく相談して」
大きくてうなづく裕子。
鞠子はチワワと散歩しようとして自宅の玄関にいた。電話がなる。鞠子は仕方なく靴を脱いでリビングルームに戻った。電話機を取る鞠子。裕子の沈んだ声が聞こえた。
「ママよ」
「こんな時間なんて珍しいわね」
「あぁー」
鞠子は聞きたくないけど仕方なく聞いた。
「どうしたの」
「聞いてくれる? お兄さんに脅かされたの」
「どういうこと?」
「乗った船がタイタニック号になったらどうするんだよ」
「ヤーね」
玄関で音がしたから鞠子が振り向くとチワワがくるくる回っている。鞠子が「あっ!」と叫ぶとトイレをしているチワワ。
「あぁー」
「ママはそんなこと言われて可哀想でしょ
。鞠子ちゃんならわかってくれるでしゃ」「ハイハイ。お兄さんが悪い」
「そうそう」
「だけどタイタニック号だって沢山の人が助かったのよ」
「えっ? そうなの? だったら私は助かる方ね」
「そうそう」
「よかったワ。やっぱり娘は頼れる頼れる」呆れ顔の鞠子。
その朝車の中で運転している聡美と助手席の徹。車が新横浜駅のロータリーに入って行った。スーツ姿の徹を聡美はクスクス笑う。
「タイタニック号のこと言い出すし牛で大瓶で飲みすぎよ」
「ヘヘヘ」
と頭をかく。
新横浜駅ロータリーの朝はかなり混雑している。
徹は「ここでイイよ。ありがとう」と言いながら下りようとしていた。その背中に聡美は「ネェ」といった。徹が振り向く。
「ん?」と徹。
「学生時代の同級生、弁護士さんと結婚した子がいるのよ。ランチ誘って相談しようかな」
「弁護士?」
「だって船に乗るって何が起きるかわからないでしょ」
喉をごくんと飲む徹。
「女って怖いのよ」
と徹の鼻をつまむ聡美。
朝裕子が二階のリビングルームでコーヒーカップを洗っていたらドアを叩く音がした。ハイと答えると徹が入ってきた。
「あっ、賛成してくれるの」
「ちょっと待ってよ。せっかちだなぁ。ホントに大丈夫? ゆっくり考えたら?」
「そういうけど、お兄さんとは年が違うの。楽しそうなことに気付いたら行動しなきゃ」「でも心配は心配だよ」
裕子は
「そう言われると泣いちゃう」
とグズグズ言い出した。
「わかったよ。聡美も賛成してるし気を付けて行ってらっしゃい」
急に大喜びの裕子。
「いい嫁いい嫁、ありがとさん」
すぐにくるっと後ろにあった段ボールを開けはじめる。
「もうお金払ってあるの」
徹の質問にこくんとうなづく裕子。
呆れた顔で部屋から出ていく徹の背中に向かって裕子は
「今日の晩ごはんはここでね」
という。
徹は振り向いて
「いいけど」
「しゃぶしゃぶ」
徹は変な表情で
「昨日だってしゃぶしゃぶじゃないか」
「昨日は賛成してもらいたいから食べるとこじゃなかったわ」
「えっ」
「お兄さんしゃぶしゃぶ好きでしょ。特に豚より牛」
とニヤッと笑った。
徹は一階のリビングルームに戻って来た。掃除をしていた聡美。
「賛成してあげた?」
「いい嫁いい嫁って喜んでた。今日の晩ごはん上でいい?」
と二階を指さす。
「いいけど」
徹は笑いながら
「悪いけどまたしゃぶしゃぶだって。バァさん昨日は食べた気がしないって」
「はぁ。徹さん豚より牛の方が好きだものね」
「それほどでもないよ」
「ビールもここでは缶だけど上では大瓶」」と二階を指差す。
同時に二階の外階段を降りていく裕子の足音か聞こえる。カツンカツンという音。
「あれはパンプスでデパートに行く音」
「ほう」
「そうだわ、船ではどんな靴がいるのかしらね?早速買って来るかも」
とくすうす笑う聡美。
テレビを見ながら電話をかけている鞠子だが突然立ち上がって叫ぶ。
「世界一周? 一千万円? 何も聞いてないわ」
一階の徹はリビングで電話を切りながら
「鞠子は何も聞いてないってさ」
裕子は徹の向かいの席に座っている。
聡美は鍋を洗っている。
裕子「私、言ったと思うけど」
徹「バァちゃんは慌てものだからな」
裕子「私のことバァちゃんって言わないで」徹「じゃあ僕のことお兄さんって言わないでよ」
裕子「じゃあボクちゃんにする」
徹「バァちゃん」
聡美は二人に近づいて来て
「ケンカしないの」
膨らむ二人に
「よく似てるわ」
と笑う。
鍋やお皿も片付いて三人は二階の裕子のリビングに上がって行った。たくさんの段ボールを眺めいている裕子に徹は
「しかし一千万円ネェ、3ヶ月で一千万円」
「そう3ヶ月で一千万円」
聡美はイヤミたっぷりでな言い方をする
「お母さんは優雅ネ」
「そう優雅な人はね、上を見たらキリがないけどでももっと安いのもあるのよ」
首をかしげた聡美は、
「クルーズ船でしょ」
「聡美ちゃんクルーズ船でもあるのよ、三分の一で」
信用していない徹。
「それに安くても一ヶ月で百万だろ」
ため息まじり。
徹と聡美は一階のベッドルームに戻った。
ベッドに座っている聡美の肩を揉んでいる徹。
徹は二階を見ながら
「バァちゃんのことだけどそれでもいいの?」
聡美は
「マッサージ交代」
と言いながら今度は徹をベッドに座らせて肩を揉みはじめる。
「私の母も世界一周させてあげたかったもん。でももちろんお母さまのお金でしょ」う「もちろんだよ」
「でもいいのかな?お母さんは3ヶ月も船に乗って大丈夫かしら?」
とにやっと笑っていた。
裕子は自宅の二階外階段で開いた玄関に立っていた。階段を降りて行く宅急便屋に向かって大声で
「お兄さん、お兄さん、ありがとね」
という。
ちょうど外から自宅に戻ってきた聡せ美。
宅急便屋の車が遠ざかっていくのを見た聡美だが外階段に近づいて見上げると玄関から段ボールの束を入れている裕子が見えた。
外階段の下から聡美は
「お母さん」
ギョッとして下を見下ろす裕子。
聡美は見上げて
「お母さんが『お兄さん』って呼ぶから徹さんがいるのかと思ったわ」
「あらぁ、宅急便屋さんよ。ホントのお兄さんは大阪」
「あらぁ、今日は金曜日。徹さん帰ってくるわよ」
裕子はしまったという顔をする。
「お母さん晩ごはん今日一緒にしましょう」
「はーい」
といいながら段ボールを玄関から押し込む裕子。
徹の自宅一階に入った聡美は買って来た物を冷蔵庫にしまう。
裕子が外階段をパンプスで降りていく音がする。
チラッと上を見た聡美。
「今日もデパートね」
内階段をそっと上がっていく聡美。
裕子の自宅二階ドアを開けると山ごとの段ボールがあった。
夕方になって車を走る聡美。
新横浜駅では多くの車が並んでいる金曜日の夕方。
ロータリーで車の運転側に座っている聡美。聡美に向かって手を振りながら近づいて来る徹。
車内で運転している聡美と助手席の徹。
「あのね」
と言ってから聡美は何も言わない。
「えっ! 何か欲しいものあるの?」
「イヤね〜お母さんのこと」
「バァさんが何だって」
「どこかに行きたいみたい」
「どこへ」
「さぁ、でも段ボールが山ごと」
「何だよソレ?」
「お母さんの気持ちはわかるわ」
横の聡美をじっと見つめて
「転勤族やめようか?」
「そういうことじゃないの。女はみんな違う街に行ってみたくなるのよ」
首をかしげる徹。
鞠子は自宅で座ってケイタイを右手で持ちながら、左手で洗濯物をたたんでいる。近づいてきたチワワがたたまれていた靴下を加えようとしていた。
「だめよ。ダメダメ」
ケイタイの相手の裕子の声がした。
「ダメなの?」
靴下を取り上げながら鞠子は
「何のこと?」
「旅行のことよ。ねェ、いいでしょう?」
「別に私に聞かなくたって。でも誰といくの?」
「初めての一人旅」
「えーっ」
「それは大丈夫。はじめは一人でも向こうに行けば沢山いるの」
「ああ、団体旅行ね」
「あのねェ、もう少しオシャレな呼び方あるでしょ」
「はぁ?」
「一千万円もかかるんだから」
鞠子はギョッとした顔になる。ケイタイの
向こうでピンポーンと鳴った。
裕子の自宅は二階。裕子は二階の玄関を開けながらケイタイを切った。
ドアを開けると宅急便屋がお辞儀をした。
「お兄さん、ありがとうねェ」
何束もの段ボールを宅急便屋が持っている。
「他にもあるんですけど、持ってきていいんですか?」
「お願い」
「お引っ越しですか?」
「昔の私とお別れするの」
「えっ?」
「いやねぇ。離婚じゃないわよ」
裕子ははしゃいだ。まるで子どものようだった。