裕子は部屋で晩ごはんの時に着る洋服を選んでいた。船長のアナウンスが聞こえた。
「紅海に夕日が沈むのは左舷側です」
裕子は左舷側の窓にへばりつく。少しゆがんで見えるが広い美しい夕日がもやに包まれていた。地平線の彼方にゆっくり沈んでいった。
「パパ、一緒に見たいよ」
涙が溢れる。
化粧直しにバスルームの洗面所に向かうと 夕食の案内のアナウンスが聞こえた。
裕子がクルーズ船のダイニングルームに近づいていくと何人かの女性たちの真ん中に聡美がいた。
遠ざかろうと思った裕子だったがやめて思い切って聡美たちに近づいた。
「マサラマレン 貴女に神のお恵みを」
怪訝な顔の女性たち。お辞儀をして離れる裕子。ため息をもらすが少しほっとした顔になっている。
裕子は後ろから肩を叩かれる。
振り向くと聡美が笑顔で立っている。
「お隣りいい?」
「でも皆さんは?」
「貴女の神の恵みを 裕子さんはオマーンの言葉をよく覚える みんなきょとんとしてた」
「この頃いつも何でも必死よ」
「裕子さん」
「聡美さん えっ! 泣いてるの?」
「マサカ 嬉しかったの」
二人は自分たちが座れる席を見つけた。
「ここにしません?」
聡美もうなづきながら
「でも私 パパと聡美さんが浮気した夢見ちゃって 嫉妬しちゃって」
「ええ? 何それ?」
座りながら舌を出す裕子。スタッフが二人に近づく。
「本日のスペシャルディナーでございます」
二人の前にお品書きを置いていく。裕子は
「わぁ」
とお品書きを読みながら
「このわたの小鉢 おひたし 次はエビ ホタテ えのき 鮭 しらたき ネギ 豆腐のお味噌仕立て鍋 サイコロステーキにサラダ
漬け物 ごはん きしめん 和菓子 盛りだくさんだわ」
くすくすと笑う聡美。
「食べるの大好き でも聡美さんと一緒に食べられるのが幸せ気分」
テーブルにこのわたの小鉢が来る。
「あー おいしそう 聡美さん おビールいただいちゃおうか」
「賛成」
と聡美がスタッフを呼んだ。
その後クルーズ船のデッキをウォーキングしている裕子と聡美。夜の海は真っ暗闇。星だけがまたたく。
「宇宙の孤独ってこんなものかしら? それともこれが死の世界?」
「裕子さん」
「あっ!?」
「裕子さん どうしたの?」
「紅海に感動したんだけど 写真撮るの忘れてた ほんと私ってうっかりもの」
「裕子さん かわいい人よ」
嬉しそうな裕子だった。
一方裕子と聡美はバスに乗りサラーラ博物館見学はじめ ゴールドスーク見学 アルプスん宮殿 アルバラード遺跡など車窓観光していた。
最後にラクダのいるところでバスを降りて自由に写真を撮れた。
聡美は前も船に乗ったこともあっていつもみんなに認められて中心にいる。だが裕子はそうでなく今度も一人でラクダの写真を撮っていた。
ガイドがいった。
「ここではラクダの数はいつも登録されています。ラクダが車道を横切る時には必ず車は止まらなければいけません。運悪くラクダをはねてしまったら罰金を払わなければいけません」
撮り終えた裕子が聡美を探すと聡美は他の何人かの女性と話をしていた。みんなの楽しそうな声が聞こえた。裕子は「聡美さん」と呼んだが聞こえないようで諦めて一人でバスに戻った。
しばらく経つと聡美がバスに戻って来た。真っ青な聡美。
「裕子さん 探したわ」
「私も探したわ」
「気がつかなかったわ」
「聡美さんはファンが多いから」
「そんなこと」
「それより昔のこと思い出したの」
「何?」
言いながら席に座った聡美。
「日本にはラクダ事件はないけど大昔奈良で鹿事件があったの 自分の家の前で鹿が死んでいるとその家の者はみな処刑されるから早起きして自分の家の前にもし鹿が死んでいたらよよその家の前に置いて来たそうよ 鹿は春日さん 春日神社の神様のお使いとされていたから」
「そんなこと知らなかったわ」
「子どもの頃オバァちゃんがそんな話をしてた 子どもの頃のことをよく思い出すの」
「生き物も命はみんな一つだものね」
「サスガ聡美先生」
「もう」
クスクス笑う二人。バスが走り出した。
E子はベッドメイキングルームにいた。
31 パパのヤキモチ
の次の日だった。
ドアを叩く音が聞こえたのでドアを開けた。それが片山さんだった。
「片山と申します」
そうは言ったけど真っ青な顔をしていた。
「片山さま お客様とうなさいましたか?」
「私はシーツは毎日は変えないの」
「お客様によってシーツをどう変えるか お好きに言ってくだされば」
「ちょっと汚しちゃったから 変えたくて それを言いに来たけど道に迷ってぐるぐる 一時間は経ってるんじゃないかしら」
「一時間ですか お電話くだされば伺います シーツを変えます」
「でもドッチャラかっちゃらで部屋の中を見せたくないの」
「はぁ」
「それに部屋にネズミがいるの」
「マサカ 船にはネズミはいませんよ」
「本当? だけどタイタニック号にはネズミがいたでしょ」
「この船はタイタニック号ではありませんから」
「あぁ そうだったわね」
と楽しそうにクスクス笑った。あんなに真っ青で困った顔をしていたのに違う人のようだった。結局E子はシーツを持って片山さんを部屋の近くまで送って行った。本当にネコは飼っていないのかわからない。
「片山さま ネズミはいないと思いますけどネコはいませんか?」
「ネコ? いいえ 私は動物は苦手なの 娘は何とかいう小さい犬が大好きでそれはそれは可愛がってるけどね」
にこやかに答えた裕子だった。それならいいけどね。片山さんについてはかなり心配だとE子は思った。でも片山さんがネコは苦手でよかった。実は誰にも言っていないけどお客様が飼っていたネコが逃げ出して頼まれて追いかけたとき捕まえた。なのにうっかり海に落としてしまったのだ。もちろん誰にも言えない言わない言うわけがない。そしてそれ以来ネコが怖くて怖くてたまらなくなってしまった。
E子に会えると思った3番は小走りになっている。デッキに出るとE子は海を見ていた。若い頃年上の女性たちはみんな上から目線で何を言っても相手にされなかった。それが今は自分が上から目線で誰のこと信用しなかった。それがE子だけは違った。若くて可愛くて爽やかで賢い。付いた3番はE子の背中に言った。
「お待たせ」
振り向いたE子は答えた。
「船で走ってはいけませんよ」
「そうだったわね」
「それでどうでしたか?」
「片山さんはオプショナルツアーのバスに乗ったみたい だけど片山さんの部屋に行ったら彼女がいて」
「彼女って今日の午前中は休みだった人?」
「そう だけどスタッフの格好をしてたわ」
「ナゼですか?」
「わからない でも片山さんのことは心配みたい」
「気になりますね」
E子はまるで探偵みたいだった。
「私は先日飲みすぎた片山さんを送った時に初めて会話を交わしたけど別に ただ部屋はドッチャラかっちゃらだから近づかないでって途中で返されたわ」
「とにかく片山さんはおかしいです」
「お客様よ」
「私も心配なんです 船にネズミがいるって言うけどそれはネコじゃないかと」
「マサカ」
「どっちが」
「どっちも」
「船にはどちらもいないわ」
「でも前に乗ったときこっそりネコを連れていらしたお客様がいらして 結局ネコは死んでしまいお客様は海に飛び降りたりするかと心配で心配で」
「へぇ そんなこともあったんだ」
そう答えながら3番は別のことを考えていた。どちらかといえばネコがいい。ネコになってE子のペットになりたい。マサカ同性でしかもずっと年下の女性に惹かれるなんて思ってもみなかった。どうしてこうなったのか考えるのも怖かった。