印度にはカーストという特別な制度があった。親の職業をそのまま子どもが引き継ぐのが当たり前とされていた。
農家に生まれた子が
「病気で苦しんでいる人のために医者になりたい」
とか
「料理が好きだからコックになりたい」
という本人の希望は印度では許されなかった。
最近ではカースト制度による差別は見られなくなかったそうだが地方では今なお差別が根強く残っているそうだ。
「だからマハトマ·ガンディのような人が現れたんです」
二人はマニ·ババン·ガンディ記念館を歩いていた。医師はまるでガイドのように説明する。この記念館は1917年〜1934年までボンベイにおけるガンディ運動の本部として使われていた。ここからガンディは真理と非暴力という不滅の理想に基づいて国家を築きあげていきました。1919年にはガンディが初めて自由を勝ち取るための大衆闘争を繰り広げ英国支配の基盤を揺さぶりました。
建物の一階にはガンディの生涯や思想の本の図書館になっていた。そのあたりから裕子は自然に左腕で医師の腕に絡まった。パパとよくこんな風には歩いていたと懐かしく思っていた。
二階にはガンディの部屋がそのまま保存されていた。そして1932年ガンディはいつも睡眠してお祈りするテラスのテントで逮捕されたという。裕子は立派な指導者の悲痛な最後に胸を打たれた。だからろくにガンディのことも知らずホテルでバッグや宝石をいかに安く買えるかそんなことばかりの自分がとても恥ずかしくなっていた。
21 浅野内匠頭
に登場した医師と裕子はバスに乗っていた。
医師はホテルのタクシーなら安心だと言っていたがスタッフに連絡したら反対されたらしい。タクシーでなくバスでと言われ しかもスタッフの二人も乗るといった。バスに乗っていたのはほとんど外国人。医師はバスの一番うしろの窓際に裕子を座らせた。もちろんその隣に座った。スタッフ二人は前の方に座っている。バスが走り始めてからずいぶん経っている。スタッフは船の客と医師が勝手にバスから降りてどこかに行ってしまったら大変だから前に座っているんだわ。もしスタッフが後ろに座ってグズグズしていたら二人がどこかに行ってしまう それを心配しているんだと裕子は妄想中。デートなんて言ってたけど何も言わないのねと医師の横顔を見つめる裕子。その時医師が裕子の方を見た。裕子はドギマギ。
「片山さん」
「はい」
あれ? さっきは片山裕子さんだったのに片山さんに戻ってしまっていた。
「片山さんのご主人のお父さまも医師でしたか?」
え!? これがデートの会話?
「サラリーマンでした ただ主人が小児麻痺にになってしまって よくなって歩けるけど走ることが出来なくなってしまったんです 医者になって子どもたちを治したいと思ったそうです」
「素晴らしい話ですね」
「先生のお父さまはやはり?」
「はい 高校に入った途端言われたけど嫌で嫌で でも母親に泣かれてね」
「お優しい」
「印度はカーストでね」
「カースト!?」
「意味は生まれです」
「あぁ 聞いたことあります 主人も印度にいたらお医者さんになれなかったんですよね」
「船に乗っていろんな国に来たのに意外と見物してなくて特に印度にはどうしても会いたい人がいて」
「初恋のインド人?」
「会ったことない人です」
「えぇ!?」
「昔のひとですよ」
それっきり医師は遠くを見ていて何も言わなくなってしまった。これデートかな? 首をかしげる裕子だった。
バスがホテルの地下駐車場にぐるっと回って行った。止まると船のグループたちかゾロゾロと一緒に出て行く。裕子と聡美はよくバスの前の方の席に座っていたが一人っきりの裕子はバスから離れなければいけないのになかなか出ていけないでグズグズしていた。バスの通路を通っていった女性の一人が裕子を振り向いた。
3/2に横浜を出て22日の朝8時頃にボンベイ港に着く。印度といえば広い国、男の人は頭にターバンを巻き白いタプタプの衣服をまとい、裸足で砂の上を歩いている風景を裕子は想像していた。そろそろお出かけしようかと裕子は化粧品をパタパタとつけていた頃船の船長のアナウンスが聞こえた。
裕子はパーティ場の片すみで一人でダンスの練習をしていた。そばにいた人たちも彼女がそんなことをしてもさして興味を持たなかった。何しろこの夜は普通の人などいない仮面舞踏会だから。
そして肩を叩かれた裕子は振り向いてホッとした顔になった。
「聡美さん」
だが首を振りながら
「はじめましてサトシです」
と答えた。仮面を付けた男装麗人だったからだ。
「ご主人の?」
「亡くなった父の。かなり古物」
「でもすごいわ! 似合ってる」
「それより何してるの」
「ピエロが私とダンスをしたいらしいの」
「私が右足を出したらあなたは左足を引く あなたが右足を出したら私は右足を引く 」
「サトシさんも同じこと言われたの!?」
「くるりと回ってオーレ!」
「オーレって掛け声でしょう?」
「スペインの闘牛士よ。真っ赤なファーの扇子みたいな色で牛を誘うのよ」
「私が牛?」
「それより写真撮ってくれるそうよ。裕子さんもステキよ」
と手を引っ張った。サトシはいつもより強引だった。
写真コーナーではそれこそ多種多様。大きなお腹のカエル、インドのサリー、ミツバチマーヤ、オテモヤン、日本髪の人、ヒョウにカンガルー。裕子は小声でこっそり
「私たちが一番まともよね」
大きくうなづいてからサトシは
「でも一番の大物がいるわ!?」
サトシが知っていた船の中で一番年上だった老婆が赤ちゃんの格好をしていた。その彼女を見て
「わぁ、みんないつかはああなるのね」
大きくうなづく二人だった。
酔っ払って部屋に戻った裕子は夢を見た。ピエロが船の中で一人で踊っていた。くるくる回って右手を上げて「オーレ!」。そう言ってグスグス泣き出した。
「ピエロどうしたの? 泣いたりして」
「ボクのこと忘れたんだね」
「えっ!?」
「一緒に船に乗ろうと言っただろ?」
裕子はその声で目を覚ました。
「忘れてた」
まだなんの整理も出来ていない段ボールの山。引っかき回している裕子。
「あったー」
裕子は家から持って来たピエロの人形を裕の位牌と写真の隣りに置いた。そして裕子は自分がどんどん物忘れが酷くなることにまだ気づいていなかった。
クルーズ船の廊下を裕子は歩いていた。階段の途中で同じ階の夫婦と出会う。妻は上海のデパートで共に過ごしていた仲間。喜んで一緒に歩くことにした。
彼女の話で今日のレストランではインド料理の有名シェフがインドカレーを作っているという。レストランに入り裕子は夫婦と同じテーブルに座った。食べるの大好きな裕子はもうワクワクしていた。頼んですぐにインドカレーが3人のテーブルにやって来た。
「いい香りですね!」
妻も大きくうなづく。ナンも来た。ドキドキしながら口にする裕子。
「美味しい〜」
喜んでパクパク食べる。ナンも食べながら
「ナンもカレーと合いますね!」
妻を見ると困ったような顔をしている。夫は食べているが首をかしげている。キョトンとし頼んで裕子。
「カレー苦手ですか?」
「いいえ〜ただこの人(夫を見ながら)大好きなんですけど」
「だったら」
口元を隠して、
「好きなのはグリコアーモンド。アレ甘いでしょ。これとは違うそうですよ」
クツクツ笑う裕子。他のテーブルを見ながら、
「グリコアーモンドはないようですけど、ナンの代わりにごはんはもらえるかも!」
聞いた妻は立ち上がってスタッフに近づく。夫は裕子に感謝していた。
その時近づいて来る聡美。。
「裕子さん、こちらにいらしたのね」
「あら、聡美さん。おいしいから、私もごはんいただこうかしらと思って」
ごはんを持って戻ってきた妻に挨拶しながら聡美は
「私はナンしか食べなかったわ」
夫の前にだけご飯を置いた妻も
「私もごはんは食べません!」
「えーっ」
と叫ぶ裕子。怪訝な顔になる。聡美と妻は二人でニヤッと笑って
「忘れちゃったの?」
「何だっけ?」
「ナイショ」
「意地悪ね」
聡美と妻は声を合わせて
「今日はこれからプールよ!」
「あ〜。そうだった!?」
立ち上がる裕子。
裕子は自分の部屋のベッドに寝転んでいる。ノートにメモを書いている。「寄港地上海、日本は清潔、シワ取りクリーム、クマ取りクリーム」
と思い出しながら書いている。
「あっ! シルクのパジャマ」
と書きながら
「忘れてた!」
ベッドから降りて、紙袋に入れたままのシルクのパジャマを引っ張り出す。
「試着試着」
バスルームに向かう。数分経ってベッドルームに戻って来る。ピンクのシルクのパジャマを着ているが、鏡に写してゲラゲラ笑う。袖口も裾も長い。
「まるで松の廊下の浅野内匠頭だ」
笑いながらバスルームに戻る途中にひっくり返ってベッドの角に頭を思い切りぶつけた。しばらくの間、頭をかかえる。またベッドに寝転ぶ。
「いたた」
ベッドのテーブルにいつも置いてある小さな鏡で見るとコブが出来ている。 少々目立っている。裕の声が聞こえる。
「そそっかしいから気を付けて下さいよ」
舌を出してコブによだれを付ける。
仕方なく裕子は船の診察室に出かけることにした。
診察室は静かな部屋だった。たった一人でやってるのかなとキョロキョロと眺める。
裕子の頭を見ている医師は頭を動かす裕子に少々困っている。
「母はくも膜下、父は脳軟化、私も血管弱いんじゃないですか?」
「大丈夫です。お薬付けましょう」
と言いながら塗り薬を付けている医師は
「でもそそっかしいから気を付けて下さい」
ハッとして医師を見つめる裕子の目から涙がボロボロ落ちてきた。
「どうしました?」
「主人が私によく言ってたんです。先生と同じこと」
裕子にティッシュペーパーごと渡す医師。
「主人は先生と同じ仕事をしていたんです」
「なるほど」
また泣く裕子。
裕子は夜また部屋でベッドに寝転んでいた。ノートに「浅野内匠頭」と書いている。
そして裕の位牌を横目で見ながら「パパのライバル」とも書いて位牌の隣に置く。そして 電気を消した。