裕子はリビングルームで開いた段ボールに服をたたんて入れている。テーブルに置いてある大判の封筒に目を止めた。赤字で「資料」と書いてある。
受話器を手にしながら少し首を右や左に傾いた。
「ママ〜どうしたの?」
悩んでいた裕子だったが数時間後には銀座の四丁目で白ワインを一口飲んでいた。前の鞠子も一口二口三口。
「鞠子ちゃん、ゆっくりゆっくり」
「慌てて来たから喉がカラカラ」
「急に言ったから無理かと思ってた」
「銀座のみかわやよ。何があっても飛んでくる」
「イヤね。私に会いたいんじゃなくて、みかわやさんに会いたいのね」
「まぁネ」
「しっかりした子」
「正直にいかないと損よ。ママの世代の人はやけに御愛想やお世辞ばかり。だから疲れるのよ」
「ハイハイ」
二人に近づいてきたのはゴージャスなオードブルだった。
ランチを済ませた二人はいつも有楽町駅で別れる。丁度真反対に帰るから。
「次に会うのはお見送りの日ね」
と裕子。
「先生にもらった薬も飲み過ぎちゃ駄目よ」
と鞠子。
「ハーイ、お母さん」
「またママチャラして」
不機嫌そうな鞠子に手を振る裕子。
だが階段を上がり始めた鞠子を追いかけて鞠子の肩を叩く。裕子を振り向いて
「何?」
「なんでもない」
「何よ」
「実はね、お兄ちゃんは大阪だから代わりに聡美さんが弁護士さんを紹介してくれるんだって」
「弁護士?」
「私はタイタニック号でも助かるつもりだけど、もしいなくなったらあの土地はお兄ちゃんにあげたくて」
「なるほどね」
「何笑ってるの?」
「ママ、なかなか言えなかったのね」なかな「そんなことないわよ」
「弁護士さんとよく相談して」
大きくてうなづく裕子。
鞠子はチワワと散歩しようとして自宅の玄関にいた。電話がなる。鞠子は仕方なく靴を脱いでリビングルームに戻った。電話機を取る鞠子。裕子の沈んだ声が聞こえた。
「ママよ」
「こんな時間なんて珍しいわね」
「あぁー」
鞠子は聞きたくないけど仕方なく聞いた。
「どうしたの」
「聞いてくれる? お兄さんに脅かされたの」
「どういうこと?」
「乗った船がタイタニック号になったらどうするんだよ」
「ヤーね」
玄関で音がしたから鞠子が振り向くとチワワがくるくる回っている。鞠子が「あっ!」と叫ぶとトイレをしているチワワ。
「あぁー」
「ママはそんなこと言われて可哀想でしょ
。鞠子ちゃんならわかってくれるでしゃ」「ハイハイ。お兄さんが悪い」
「そうそう」
「だけどタイタニック号だって沢山の人が助かったのよ」
「えっ? そうなの? だったら私は助かる方ね」
「そうそう」
「よかったワ。やっぱり娘は頼れる頼れる」呆れ顔の鞠子。
その朝車の中で運転している聡美と助手席の徹。車が新横浜駅のロータリーに入って行った。スーツ姿の徹を聡美はクスクス笑う。
「タイタニック号のこと言い出すし牛で大瓶で飲みすぎよ」
「ヘヘヘ」
と頭をかく。
新横浜駅ロータリーの朝はかなり混雑している。
徹は「ここでイイよ。ありがとう」と言いながら下りようとしていた。その背中に聡美は「ネェ」といった。徹が振り向く。
「ん?」と徹。
「学生時代の同級生、弁護士さんと結婚した子がいるのよ。ランチ誘って相談しようかな」
「弁護士?」
「だって船に乗るって何が起きるかわからないでしょ」
喉をごくんと飲む徹。
「女って怖いのよ」
と徹の鼻をつまむ聡美。
朝裕子が二階のリビングルームでコーヒーカップを洗っていたらドアを叩く音がした。ハイと答えると徹が入ってきた。
「あっ、賛成してくれるの」
「ちょっと待ってよ。せっかちだなぁ。ホントに大丈夫? ゆっくり考えたら?」
「そういうけど、お兄さんとは年が違うの。楽しそうなことに気付いたら行動しなきゃ」「でも心配は心配だよ」
裕子は
「そう言われると泣いちゃう」
とグズグズ言い出した。
「わかったよ。聡美も賛成してるし気を付けて行ってらっしゃい」
急に大喜びの裕子。
「いい嫁いい嫁、ありがとさん」
すぐにくるっと後ろにあった段ボールを開けはじめる。
「もうお金払ってあるの」
徹の質問にこくんとうなづく裕子。
呆れた顔で部屋から出ていく徹の背中に向かって裕子は
「今日の晩ごはんはここでね」
という。
徹は振り向いて
「いいけど」
「しゃぶしゃぶ」
徹は変な表情で
「昨日だってしゃぶしゃぶじゃないか」
「昨日は賛成してもらいたいから食べるとこじゃなかったわ」
「えっ」
「お兄さんしゃぶしゃぶ好きでしょ。特に豚より牛」
とニヤッと笑った。
徹は一階のリビングルームに戻って来た。掃除をしていた聡美。
「賛成してあげた?」
「いい嫁いい嫁って喜んでた。今日の晩ごはん上でいい?」
と二階を指さす。
「いいけど」
徹は笑いながら
「悪いけどまたしゃぶしゃぶだって。バァさん昨日は食べた気がしないって」
「はぁ。徹さん豚より牛の方が好きだものね」
「それほどでもないよ」
「ビールもここでは缶だけど上では大瓶」」と二階を指差す。
同時に二階の外階段を降りていく裕子の足音か聞こえる。カツンカツンという音。
「あれはパンプスでデパートに行く音」
「ほう」
「そうだわ、船ではどんな靴がいるのかしらね?早速買って来るかも」
とくすうす笑う聡美。
テレビを見ながら電話をかけている鞠子だが突然立ち上がって叫ぶ。
「世界一周? 一千万円? 何も聞いてないわ」
一階の徹はリビングで電話を切りながら
「鞠子は何も聞いてないってさ」
裕子は徹の向かいの席に座っている。
聡美は鍋を洗っている。
裕子「私、言ったと思うけど」
徹「バァちゃんは慌てものだからな」
裕子「私のことバァちゃんって言わないで」徹「じゃあ僕のことお兄さんって言わないでよ」
裕子「じゃあボクちゃんにする」
徹「バァちゃん」
聡美は二人に近づいて来て
「ケンカしないの」
膨らむ二人に
「よく似てるわ」
と笑う。
鍋やお皿も片付いて三人は二階の裕子のリビングに上がって行った。たくさんの段ボールを眺めいている裕子に徹は
「しかし一千万円ネェ、3ヶ月で一千万円」
「そう3ヶ月で一千万円」
聡美はイヤミたっぷりでな言い方をする
「お母さんは優雅ネ」
「そう優雅な人はね、上を見たらキリがないけどでももっと安いのもあるのよ」
首をかしげた聡美は、
「クルーズ船でしょ」
「聡美ちゃんクルーズ船でもあるのよ、三分の一で」
信用していない徹。
「それに安くても一ヶ月で百万だろ」
ため息まじり。
徹と聡美は一階のベッドルームに戻った。
ベッドに座っている聡美の肩を揉んでいる徹。
徹は二階を見ながら
「バァちゃんのことだけどそれでもいいの?」
聡美は
「マッサージ交代」
と言いながら今度は徹をベッドに座らせて肩を揉みはじめる。
「私の母も世界一周させてあげたかったもん。でももちろんお母さまのお金でしょ」う「もちろんだよ」
「でもいいのかな?お母さんは3ヶ月も船に乗って大丈夫かしら?」
とにやっと笑っていた。
裕子は自宅の二階外階段で開いた玄関に立っていた。階段を降りて行く宅急便屋に向かって大声で
「お兄さん、お兄さん、ありがとね」
という。
ちょうど外から自宅に戻ってきた聡せ美。
宅急便屋の車が遠ざかっていくのを見た聡美だが外階段に近づいて見上げると玄関から段ボールの束を入れている裕子が見えた。
外階段の下から聡美は
「お母さん」
ギョッとして下を見下ろす裕子。
聡美は見上げて
「お母さんが『お兄さん』って呼ぶから徹さんがいるのかと思ったわ」
「あらぁ、宅急便屋さんよ。ホントのお兄さんは大阪」
「あらぁ、今日は金曜日。徹さん帰ってくるわよ」
裕子はしまったという顔をする。
「お母さん晩ごはん今日一緒にしましょう」
「はーい」
といいながら段ボールを玄関から押し込む裕子。
徹の自宅一階に入った聡美は買って来た物を冷蔵庫にしまう。
裕子が外階段をパンプスで降りていく音がする。
チラッと上を見た聡美。
「今日もデパートね」
内階段をそっと上がっていく聡美。
裕子の自宅二階ドアを開けると山ごとの段ボールがあった。
夕方になって車を走る聡美。
新横浜駅では多くの車が並んでいる金曜日の夕方。
ロータリーで車の運転側に座っている聡美。聡美に向かって手を振りながら近づいて来る徹。
車内で運転している聡美と助手席の徹。
「あのね」
と言ってから聡美は何も言わない。
「えっ! 何か欲しいものあるの?」
「イヤね〜お母さんのこと」
「バァさんが何だって」
「どこかに行きたいみたい」
「どこへ」
「さぁ、でも段ボールが山ごと」
「何だよソレ?」
「お母さんの気持ちはわかるわ」
横の聡美をじっと見つめて
「転勤族やめようか?」
「そういうことじゃないの。女はみんな違う街に行ってみたくなるのよ」
首をかしげる徹。
鞠子は自宅で座ってケイタイを右手で持ちながら、左手で洗濯物をたたんでいる。近づいてきたチワワがたたまれていた靴下を加えようとしていた。
「だめよ。ダメダメ」
ケイタイの相手の裕子の声がした。
「ダメなの?」
靴下を取り上げながら鞠子は
「何のこと?」
「旅行のことよ。ねェ、いいでしょう?」
「別に私に聞かなくたって。でも誰といくの?」
「初めての一人旅」
「えーっ」
「それは大丈夫。はじめは一人でも向こうに行けば沢山いるの」
「ああ、団体旅行ね」
「あのねェ、もう少しオシャレな呼び方あるでしょ」
「はぁ?」
「一千万円もかかるんだから」
鞠子はギョッとした顔になる。ケイタイの
向こうでピンポーンと鳴った。
裕子の自宅は二階。裕子は二階の玄関を開けながらケイタイを切った。
ドアを開けると宅急便屋がお辞儀をした。
「お兄さん、ありがとうねェ」
何束もの段ボールを宅急便屋が持っている。
「他にもあるんですけど、持ってきていいんですか?」
「お願い」
「お引っ越しですか?」
「昔の私とお別れするの」
「えっ?」
「いやねぇ。離婚じゃないわよ」
裕子ははしゃいだ。まるで子どものようだった。
裕子は銀座を歩いていた。
文房具屋さんに寄ってから銀座四丁目を目指す。突然銀座四丁目あたりでチャイムの音がした。小学校音? でも通っていた銀座の小学校のチャイムは確か違う。昼のごはんの12時だ。犬は体内時計を持っているけど人間だって同じだわと裕子は思った。特に戌年の鞠子は12時頃になると機嫌が悪くなる。
「鞠子ちゃんは銀座一丁目駅から歩いて四丁目に向かうのよね」
と裕子は思ってキョロキョロ眺めたら偶然鞠子を反対側に見つけた。犬みたいにお腹すかしている鞠子が小走りになった。
「鞠子ちゃん慌てないで転ばないで」
叫びながら鞠子のところに走り出した。クラクションの音がした。叫び声。
一軒家の二階。ガバっと飛び起きる裕子。 暖かい冬の朝昼。
慌てて電話に飛びつく裕子。受話器を取る鞠子に
「鞠子ちゃん、私、死んじゃったのよ」
「ママ、死んだ人は電話出来ないの」
「だって、銀座であなたを助けるためにひかれたの。雑誌に出るかも」
「その程度の出来事は雑誌に出ないの。忙しいからまたね」
切られた受話器にため息交じりの裕子。裕の大きな写真に目を移して、
「パパ、もう3年ね」
裕子が目を閉じれば走馬灯のように蘇る。写真を引っ張り出して、アルバムの中の過去に戻っていく。
「お姑さんはきつかったけど亡くなって。だけどすぐにパパを迎えに来ちゃった。私に取られたからヤキモチ焼いたんだわ」
ゆっくりアルバムを眺めて行くと写真もカラーから白黒に変わる。ふと目を止める裕子。クルーズ船に乗っている若い頃の裕。
「パパ、船ってステキ?」
「素晴らしいよ、いつか一緒に乗ろう、世界一周」
裕の写真を抱きしめる裕子。
「私、世界一周する。まだまだ死にたくないもん。しばらくはパパをお母さんに預けとくわ」
あふれる笑顔
裕子はかと先生より先に受付の部屋に入って行った。電気が付いて裕子は少し眩しかった。そして、
「いつも先生が一番最後にお帰りになるんですか?」
と聞いた。
「最後は私と彼女だけですからね」
ああそうだ。3年も前のことだけど裕子はよく覚えていた。裕子が名前やら住所など質問に答えて彼女に渡すと彼女は奥にいたかと先生を大声で呼んだ。
「かと先生、かと先生」
呼ばれたかと先生は奥からやって来て裕子にお辞儀して質問表を手にして奥に戻った。
裕子はずいぶん偉そうな女性だなと思ったけどそれより「かと先生」が気になって聞いてみた。
「かと先生のかとはどんな漢字ですか?」
「ただの加藤ですよ」
「ただ!?」
「この階には他にもクリニックたくさんあるからみんなの先生にそれぞれ名前呼ばないとね」せ
「なるほど」
「でも加藤先生じゃ長いからかと先生。一度かと先にしたんだけど」
「もっと短く」
「そうなんですよ、だけど加トちゃんになっちゃって」
彼女のマスクの先でベロっと舌が出たのがわかった。
ははーん、トイレで会っては先生の悪口を言うのかもしれない。でもかと先生は嫌なところはないと思うけど、まぁ人それぞれだからねと裕子は思った。
「片山さんソファにお座りください」
とかと先生の声が聞こえた。かと先生は裕子のカルテを探すところだった。
裕子はソファに座らずかと先生に少し近づいて言った。
「3年も前にお会いしてそれっきりなのにわたくしのことを覚えていただいてありがたいです」
裕子は大事な方と会話を交わすときは必ず「わたし」ではなく「わたくし」と言った。このことで一番嫌な思い出は天敵とのこと。裕子はパパはもちろんだけど舅も大好きだった。だけど姑さんだけは大の苦手。初めて会って裕子が「わたくし」と言ったら姑は「はぁ」と小馬鹿にしてたっけ。わかってないわね!? と思ったけどにっこり笑ってやった。
かと先生は裕子を振り向いた。
「片山さん、裕子さん、ずっと裕子さんのことを考えてました」
「えっ」
もしかしてわたくしのことア・イ・シ・テ・ルの? マサカね〜
「ご主人は裕さん、裕という同じ漢字で亡くなって半分になってしまったようで夜眠れなくてと言ってらした」
「ああ」
「医者がこんなことを言ってはいけないんですがあの薬が効かなかったのかと」
「いえいえ、先生が私の話をよく聞いて下さって、それで満足しちゃって飲んでいないんです」
「そういうことならわかります」
「ただまた眠れなくてなってしまって、息子や娘に話してもウソでしょう!って冷たいんです」
「わかりますわかります」
「前の薬また飲んでいいんですか?」
「大丈夫ですよ、でも薬はどんどん新しくなるんです」
「そういうものなんですか!?」
薬も新しくなるといいもの。裕子は薬が新しくなったキレイなケーキをもらう
ような楽しい気になって来た。