優れた歌人にして絶世の美女としても名高く、そして異能者としての不思議な伝説がいくつも遺されている小野小町という女性。
今回も前回と同じく、小野小町に関する話をします。
その小町の伝説のひとつに、『草紙洗小町』という謡曲に記されている次のような伝説があります。
大友(大伴)黒主という人物は、「六歌仙」の一人にあげられるほど優れた歌人でしたが、「小野小町には勝てない」と考え、彼女の才能を妬んでいました。
そして、小町を陥れようとたくらみます。
歌合わせの前夜、黒主は小町の家に忍び込み、小町の出す歌を盗み聞きします。
そして『万葉集』の草紙にその歌を書き加えます。
翌日の歌合わせの席で、小町がその歌を詠むと黒主は、歌を書き加えた草紙を取り出して「この歌は万葉集の盗作だ」と言い出しました。
しかし小町は、「その草紙が本物かどうか、水で洗って確かめましょう」と提案します。新しく加筆した文字の墨ならば、水で洗えば流れてしまうだろう、と考えたのです。
すると黒主が書き加えた文字は、一字残らずきれいに消えてしまい、小町の無実と黒主の陰謀とが明らかになりました。
恥じて自害しようとした黒主に、小町は「歌人同士、恨みを忘れてお互い精進しましょう」と言って慈悲をかけます。
以上が『草紙洗小町』の伝説のストーリーですが、その時われた水は古くから京の名水の一つとして知られる「清和水」で、この伝説によって「草紙洗水」と呼ばれるようになったと伝えられています。
その「草紙洗水」の井戸があった跡に立てられた石碑が、「小野小町双紙洗水遺跡(おののこまちそうしあらいのみずいせき)」です。
今回はここを訪れた時の記事を書きますが、この辺りにはこれ以外にも歴史やを感じさせる遺跡や、不思議な伝説の遺るスポットがいくつも遺されています。
まずは、京都市営バスの「一条戻橋・晴明神社前」停留所の付近から。
この停留所の名前の通り、シリーズ第1回、第14回、第63回、第79回でとりあげた「晴明神社」が、このすぐそばにあります。
この神社から、堀川通りを挟んだ東側には、シリーズ第2回でとりあげた「一条戻り橋」があります。
シリーズ第2回でもとりあげましたが、ここもいくつもの不思議な伝説が遺されている場所です。
安倍晴明が配下の式神「十二神将」を隠していたと伝えられる一条戻り橋の下。
私が訪れた時には、十二神将には会えませんでしたが……。
堀川が現在のようにきれいに整備されたのはここ数年くらいのことで、それまではほとんど水の流れない、コンクリートに覆われた殺風景な放水路(というより溝)でしたが、近年に行われた「堀川水辺環境整備事業」によって、現在のようにきれいに改修・整備されました。
ところでこの工事の際、一条戻り橋の下を掘ったところ石棺が出てきたそうです。
どこかの古文書に「十二神将を封じた石棺が一条戻り橋の下に埋められた」という意味の記述があり、その石棺が十二神将を封じたという伝説の石棺か、と思われたそうですが……。
しかし、誰もが怖がって石棺を開けられず、結局その石棺は埋め戻されたとか。
「うーん、何とも惜しいことをしたなあ」と思いましたが、これは事情を知るというある人から聞いた話です。
それを信じるかどうかは、読者諸氏の自由ですが……。
その一条戻り橋から、一条通りを少しだけ東へと歩きます。
なお、この付近の一条通りは西行き一方通行となっていますので、お車やバイクで訪れる際には、少しご注意ください。
また、一般の住宅が並ぶ場所でもありますので、近隣住民の皆さんの迷惑にならないようにもご注意ください。
一見ごく普通の住宅が並んでいるこの辺り。
しかし、この一角に……ある住宅の際にこんな石碑があるのです。
応仁の乱において、洛中で最初の合戦が行われたという場所の石碑。
幕末・明治維新期に活躍した薩摩藩士・小松帯刀(こまつたてわき)が身を寄せていたという近衛家の堀川屋敷の跡。この地を長州藩の桂小五郎が訪れ、あの薩長同盟が結ばれたとする説もあります。
この石碑を違う方向からも見てみました。
『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母や、鬼・妖怪退治の英雄として有名な源頼光が住んでいたという「一条邸跡」。
その頼光の部下である四天王の一人・渡辺綱が鬼と戦ったという一条戻り橋がすぐそばに……。
一見普通の住宅地に見えるこの地も、実は凄い場所なのではないか、という気がしてきます。
そこからさらに、少しだけ東へ進んだ場所。
2つの小さな駐車場にの間にある、小さな通り。
その通りの両側をご覧ください。何やら小さな石碑のようなものが立っています。
そのうちの東側にある石碑です。
トタンで覆われていますが、できるだけ近寄って撮影します。
すみません、トタンの中をうまく撮れなっかたもので、なんと書かれてあるかわかりにくいでしょうが……(汗)。
この小さな石碑には、「諸侯屋敷・一条下り松遺跡」と書かれているようです。
この辺りには、昔は武家屋敷が並んでいたようです。
そして宮本武蔵が、足利将軍家の剣術師範であった吉岡一門と戦ったという「一条下り松」もここにあったというのです。
昔、吉岡の屋敷・道場がこの辺りにあり、その裏庭にあった松が「下り松」と呼ばれたことから、この辺りは「一条下り松」と呼ばれたそうですが。
なお、「一条寺下り松」という地名が京都市内の別の場所(左京区)にもあり、一般にはそちらの方が「武蔵と吉岡一門との決闘場所」だと伝わっていますが、「一条寺下り松」の方はこの「一条下り松」と混同されていた、とする説もあります。つまり、こちらの「一条下り松」の方が、本当の決闘場所だとする説もあります。
その小さな通りの西側に立っている石碑を見ます。
その名も「小町通」と書かれています。
この石碑を違う方向から眺めてみると、ありました。
『草紙洗小町』伝説の場所を示す石碑です。
今では名水が湧き出す井戸もなく、伝説を示す痕跡はこの石碑だけとなってしまいました。
ただこの『草紙洗小町』伝説は、事実ではなかったとする見方もあるようです。
『六歌仙』の一人でもある優れた歌人・大伴黒主が、『草紙洗小町』伝説で描かれたようなセコい、卑怯な手を使うとは思えないというものですが。
創作だとしても、小野小町というスーパーヒロインを引き立てるために悪役に仕立て上げられてしまったとしたら、黒主さんも何だか気の毒に思えてきます。
一見して普通の住宅地の中にも、実は様々な歴史や伝説の舞台になっていたりする。
こういうのも、京都の魅力のひとつかもしれませんね。
この記事に最後に、あとひとつだけ。
何故、「諸侯屋敷・一条下り松遺跡」の石碑が、歴史の痕跡を示す貴重な石碑がトタンで覆われていたのか、という問題について。
石碑がある駐車場の持ち主の方のお話によりますと、石碑に対して悪質ないたずらをする人たちが絶えなかったからだそうです。
石碑を削ったり、石碑を引っこ抜いて道に投げ出したりとか。
そのため、防衛措置としてトタンで覆わざるをえなかった、ということらしいです。
あまりこういう言い方をしたくはないですが……、このような話を聞くと、「日本人の、京都人のモラル、教養、人間としてのレベルも地に落ちてしまったのか?」と、疑念を抱かざるをえませんでした。
今回はここまでにします。
それでは、また次回!
*「小野小町双紙洗水遺跡」の地図はこちらをご覧ください。
*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm
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