京都の闇に魅せられて(新館)

京都妖怪紀行(17):粟田口刑場跡:蹴上側から




 かつて江戸の日本橋から京都の三条に至る道……東海道と言われる道がありました。
 その三条に至る少し手前に、蹴上、九条山と呼ばれる地があります。
 そこにかつて公開処刑場がありました。
 それが粟田口刑場です。
 
 この刑場は、平安京遷都の頃から江戸時代まであったといわれて言われています。
 その間、1万5000人以上の罪人が処刑されたといわれています。

 それゆえに、今でもいろんな噂もあるそうです……。




 現在の京都・蹴上付近。
 ここは、南禅寺、無燐庵、平安神宮、そして以前紹介しました青蓮院門跡などのいくつもの寺社仏閣、名勝旧跡などがあり、観光客の姿も多く見られます。
 




 この写真は、京都の有名なホテルのひとつ、都ホテルです。
 蹴上には、こういった観光地として顔もあります。
 が、その一方で蹴上には、かつての一大処刑場だったという歴史もあるのです。


 ずっと前の話ですが、知り合いのおじさんからこんな話を聞いたことがあります。

「きみ、蹴上はなんで蹴上って言うか知っとるか? 
 昔な、この蹴上にはな、ごっつい処刑場があったんや。そんでな、処刑された罪人の死体がこの辺りのあっちこっちに転がっとったんや。
 それでここを通る人は、道端に転がっている罪人の死体を、文字通り「蹴って」「上げ」ながらでないと通ることができひんかったんや。
 それで蹴上(けあげ)って言うんや」

 本当かな? と思いました。

 通説では、あの源義経まつわる血なまぐさい伝説に由来しているそうです。
 ただ、あの時のおじさんの話も全くのデタラメでもなかったようです。
 少なくとも、かつて大きな処刑場があったということ、そして多くの屍が生み出されていたということは、事実のようです。

 蹴上から少し東側に進みます。





 写真の右側に見える塀は、京都市の重要なライフラインである水道に、水を供給する蹴上浄水場です。
 
 そこからさらに、東側へと……山の方へと進みます。





 普通に通っていたら見落としてしまいそうな。
 道端に……というより、道から少し離れたような所にひっそりと立っている石碑がありました。

 ここは、「首塚」と呼ぶ人もいるという、処刑場跡の石碑だそうです。
 この道は、元々今の半分くらいまでの道幅しかありませんでした。
 ここには元々、京阪電車の線路が通っていたそうです。それが京阪電車の線路が地下に移設された後しばらくは、線路だった地はほとんど更地のままだったそうです。
 何年か前にその更地も整備・工事され、道幅も現在のように拡張されたそうです。
 なおその工事の際、工事関係者はわざわざ神主さんを呼んで、この石碑の前に集合して、大々的にお払いを行ったそうです。
 現在でも、いわくつきの地として怖れられているということでしょうか?

 石碑が立っている場所の下まで言ってみます。





 上へのぼる階段がありました。
 そから上って、石碑の近くへいきます。





 近くまで寄ってきました。
 もうひとつ、横にも墓石のような石碑がありました。





 失礼の無いように、簡単にですが黙祷し、拝んでいきました。
 
 次回も粟田口刑場跡についての記事にします。


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