生前の富や権力を得る代償として魂を悪魔や邪神に魂を売る。
契約の代償として、死後魂は必ず地獄に墜ちるか、魔物に喰われる。
こういった契約は、いわゆる「悪魔の契約」のイメージとして知られています。
祭壇に髑髏(人間の頭蓋骨)を祀り、その前で裸の男女が性交をしながら儀式を行う。
このようなものは普通、それは「邪教」「淫教」とか、「黒魔術」だと考えられます。少なくとも、現代日本社会ではそのようなイメージでとらえられます。
何故、いきなりこんな話をしたかと言いますと……このような「黒魔術」や「悪魔の契約」などで本尊とされた神様を祀った寺社仏閣が京都市内にもあるからです。
しかも、京都の有名な繁華街・観光地のすぐ近くで堂々と祀られているのです。
こんな話をしたら信じられますか?
そのひとつが、今回紹介する祇園・花見小路界隈にある興雲庵(こううんあん)・陀枳尼(だきに)尊天堂です。
京都でも有名な繁華街・観光地のひとつである四条通りと花見小路通りの交わる交差点周辺。
この辺りは“祇園さん”の相性で有名な八坂神社もあります。
最寄りの交通機関は、京都市営バスの「祇園」停留所か、「四条京阪前」停留所、もしくは京阪電車の「祇園四条」駅があります。
四条通りの交差点から、花見小路通りを南へと進みます。
花見小路通りの南端付近です。
建仁寺の北門、歌舞練場、ウインズ京都という競馬の馬券売場などがあって、多くの人々や車などが行き交っています。
花見小路は建仁寺の北門前までで、そこからは東へ曲がって安井北門通りになります。
建仁寺北門前よりも少し手前。ウインズ京都前で花見通りと交わっている団栗(どんぐり)通りという、西行き一方通行の小さな通りがありますが、そこを西へと進みます。
少し行くと、町の一角に入り口が見えてきました。
建仁寺の塔頭・興雲庵。
この興雲庵は、初めは「臥雲庵」と号され、元出身の臨済(りんざい)宗の僧で、建仁寺の住職にもなった石梁仁恭(せきりょうにんきょう、1266~1335年)という人によって天文5(1536)年に開基されたそうです。
また、入り口横にはこの寺の略縁起が記されていて、それによればだいたい以下のような話です。
この寺の中興の祖で、北政所を帰依させるなど江戸時代の初期に活躍した三江紹益(さんこうしょうえき、1572~1650年)という建仁寺の禅師が居ます。
三江紹益禅師の両親には子供が居なかったので、この寺の本尊として祀られている陀枳尼尊天(だきにそんてん。茶枳尼尊天とも記されます)に、子を授けてもらえるように祈願します。
その満願の日、母親が「金輪の玉」が飛来して口の中に入る夢を見て、懐妊します。
その後、「玉の如き男子」が生まれます。
不思議なことにその赤ちゃんの手には、ありがたい経文の一句が記された紙片が握られていました。
父母は感涙し、陀枳尼尊天を一層深く信仰するようになったといいます。
この因縁もあって、三江は『堅固な信心あらば一切の願望悉く成就する』という陀枳尼尊天を生涯信仰し、諸願成就の善神としてこの地に勧請し、長く鎮守として祀るようになったと伝えられています。
門から中に入ってみます。
静かで落ち着いた雰囲気の境内です。
ただ、境内の敷地の多くが駐車場になっていて、その時も多くの車が。
寺院の維持・経営等のためには必要なことかもしれませんが、私としてはその点だけが少し惜しい。
陀枳尼天尊を祀っている「京都の豊川稲荷」こと、陀枳尼尊天堂です。
(正面の看板の後ろに上半分が隠れてますが)「豊川稲荷」と書かれた大きな提灯がぶら下げられています。
お寺のはずですが、「豊川稲荷」と書かれています。
「豊川稲荷」とは、愛知県豊川市にある曹洞宗の寺院です。正式の寺号は妙厳寺(みょうごんじ)で、より厳密に言えばそこで鎮守として祀られている陀枳尼天尊のことです。
豊川稲荷は、京都の伏見稲荷、佐賀県鹿島市の祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじんじゃ)と共に、「日本三大稲荷」のひとつです。
ここでも陀枳尼天尊を祀っているので、豊川稲荷の名前があるのでしょう。
もっとも、「日本三大稲荷」のひとつにあげられているとはいうものの、豊川稲荷だけは他の2つの神社とは異質な存在のようです。
というのは、伏見稲荷と祐徳稲荷が宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ。倉稲魂尊と表記されることもある)を主祭神として祀っています(注:よく誤解されているようですが、稲荷の神様とは狐ではありません。主祭神は「宇迦之御魂神」であって、狐はその使いなのです)。それに対し、豊川稲荷だけは陀枳尼天を祀っているのです。
一般的には白狐に乗る天女の姿で表されることなどから、同じく狐を使いとしている稲荷神と同一視、習合されていったものと思われます。
さて、ここで祀られていた陀枳尼天という神様について。
現在では仏教を守護する天部という神様の一人で、人々に守護やご利益をもたらす善神として祀られていますが……この女神様、実は非常に怖い別の顔も持っているのです。
というよりも、元々はヒンドゥー教で血と破壊・殺戮を好むとされる戦いの女神カーリーの眷属で、敵を殺してその血肉を喰らうという恐ろしい鬼女だったのです。
他の多くのヒンドゥー教の神々や魔族など同じように、後世に仏教の天部として取り入れられていますが、その後も人喰い鬼女としての性格を遺して伝えられています。
現代では狐にまたがる美しい天女の姿で表現されることがほとんどですが、平安初期の密教では、半裸で血器や短刀、屍肉を手にする姿で伝えられたそうです。つまり、元々は姿形からして人喰いの「鬼女」「羅刹女」そのものだったわけです。
何年か前に放映されたNHK大河ドラマ『天地人』の原作者でもある火坂雅志の著書のひとつ『魔界都市京都の謎』(PHP文庫)など、いくつもの本で書かれていたことですが、陀枳尼天は「外法(げほう)」と呼ばれる禁断の呪術で本尊として使われた、ともされています。
それは、「陀枳尼天を崇めることによって、現世では富や権力などを思いのままにできるが、その代償として死後は自分の肝を陀枳尼天に喰われなければならい」というもの。
つまり、魂を神や魔に喰わせて死後の往生・成仏を諦める代わりに、現世での利益や栄華を得るという、まさに「悪魔の契約」と言ってもいいようなものが「外法」だったのです。
さらに「才槌頭」という、特定の特徴を持った髑髏(つまり人間の頭蓋骨)を本尊として使うという……まるで黒魔術のようなことも行われていたそうです。
前掲の『魔界都市京都の謎』によれば、日本の歴史上、こういった外法が行われたことが何度もあったようで、外法に本尊として使われる特殊な髑髏を得るために、墓所や葬儀の場から死体の頭が盗まれるという事件もあったそうです。
さらに同著によれば、歴史上有名な人物の中にも、この外法に手を染めた人たちが居たそうです。
平安時代末期に関白職に就いた貴族・藤原忠実(ただざね)。
室町時代の管領・細川政元。
鎌倉幕府を倒して建武の新政を行った後醍醐天皇。
そして何と、あの江戸幕府を開いた徳川家康までもが、陀枳尼天を信仰し、外法に手を染めていた、とされています。
そして陀枳尼天といえば、もうひとつ。
真言立川流の本尊としても祀られたことも、オカルトマニアなどの間では有名です。
主に鎌倉時代から南北朝時代にかけて流行したという密教の一流派ですが、その内容は「陀枳尼天を祀り、髑髏を本尊として、その前で性交の儀式を行った」というもの。
そんな内容だったから、真言立川流は邪教とみなされて弾圧され、江戸時代には途絶えてしまったと伝えられています。
現在でもこの興雲庵だけでなく、陀枳尼天を祀る寺社仏閣は京都市内にも、日本全国にたくさんあるそうです。
でも、稲荷の一種として普通に祀られている神様にも、そんな側面があった(かもしれない)という火坂氏の説を『魔界都市京都の謎』で知って、えらく驚き、衝撃を受けたものです。
もっとも現代では(もちろんここ興雲庵でも)、外法や性愛の儀式、髑髏を本尊に使うなどの行為はさすがに行われていないでしょうが。
さて、ここで境内の探索に戻ります。
裏側にも何かありそうなので、ちょっと覗いてみます。
裏側には随分と古い小さな祠が。
失礼ながら、あまり手入れ等もされていないようで、寂れた感じすらします。
何故なんでしょうか?
というか、そもそも何の神様を祀った祠なんでしょうか?
私の情報不足、勉強不足等もあって、それは今でもわからないままですが……。
しかし、こういう寂れた感じや、何だかよくわからないままのところなども、魔所っぽくていいな、という気も私にはするのですが。
普段見慣れている、町中に普通に立っている祠や寺社仏閣なども、こういう「闇の歴史」も知った上で見れば……また違った印象を受け、その裏に隠された別の側面があることに気づくものですね。
なお、この陀枳尼天を祀っている、あるいは祀ったと思われる祠や寺社仏閣などは、この興雲庵の他に、京都市内にいくつもあるそうです。
また別の機会に、そういった陀枳尼天関連の霊場魔所も本シリーズでとりあげていきたいと思います。
それでは、今回はここまで。
また次回に!
*京都妖怪探訪まとめページ
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