
このところまた多忙が重なって更新が滞りがちになりましたが、再開します。
更新が遅くなりがちということもありまして、桜の散ってしまった今頃でもまだ「霊場魔所の桜」特集をやっているのですが(笑)、今回は桜の話だけでなく、伝説等が遺されている場所も紹介したいと思います。
今回紹介しますのは、おかめ面の元になったというおかめという女性の伝説が遺されている京都市内の古刹です。
大報恩寺、一般には「千本釈迦堂」の呼び名で知られている真言宗の寺院です。
年末の風物詩である大根焚きなどで知られています。
あの奥州藤原氏の藤原秀衡の孫にあたる求法上人・義空によって、安貞元年(1227年)に開創されたという寺院で、応仁の乱(1467~1277年)で京洛で唯一残った、旧京都市内最古の木造建築としても知られています。
また桜の名所としても有名ですので、今年の霊場魔所の桜めぐりのスポットのひとつとして選びました。
まずは、いつものとおりアクセスから。
シリーズ前回の千本今出川の交差点から、千本通りを一筋北上した五辻通(いつつじどおり)との交差点。

交差点北東の角に、「五辻の昆布」の店舗ビルがあります。
最寄りの交通機関は京都市営バスの「千本今出川」停留所です。
ちなみに、この「五辻(いつつじ)」は、千本通りの……平安京の北にあったというかつての葬送地・蓮台野(れんだいの)へと通じています。
そもそも京都では、「辻」という地名は、葬送地である「野」へと通じる場所を意味していたそうです。
平安京・西の葬送地「化野(あだしの)」へと通じる「帷子(かたびら)の辻」。
平安京・東の葬送地「鳥辺野(とりべの)」へと通じる「六道の辻」。
などなど……。
つまりこの辺りも、元々はそういういわく付きの地だったのであり、千本通り沿いに古刹が多いのも、そういう事情が関係しているのかもしれません。
話を戻して、五辻通りを西へと進んでいきます。


この辺りは、かつて「上七軒」という花街があったためか、古い町屋も見られます。
なお、この辺りには京都市営バスの「上七軒」停留所も近いです。
千本釈迦堂の入り口が見えてきます。



門の前に見事に咲き誇った桜が。



門から境内に入って、まず摂末社の稲荷社が見えてきます。
稲荷社の前にも桜の樹が。

この稲荷社は、伏見稲荷のように「宇迦之御魂(うかのみたま)」といよりも、興雲庵などのように、陀枳尼天(だきにてん)を祀っているようです。
仏教系の寺院で稲荷が祀られている場合は後者の例が多いようで、ここもそのひとつです。
北野経王堂・願成就寺。

室町幕府3代将軍・足利義満が、明徳2年(1391年)に、奥州陸奥の大領主・山名氏清が起こした「明徳の乱」で犠牲になった敵味方の兵と、(謀反人として討ち果たしたとはいえ)かつての配下・氏清とその一族を供養するために建立されたそうです。
多くの納経が行われ、またかつてはかなり大きな寺院だったそうですが、現在ではこのように縮小され、千本釈迦堂境内に遺されているのみとなったそうです。
なお、かつてここに納められていた多くの貴重な寺宝(経典や仏像など)は、重要文化財として千本釈迦堂の霊宝館に納められています。
そしてこれが、旧京都市内最古の木造建築となった本堂です。


本堂横に立つぼけ封じ観音像。

どうも真言宗は、仏教の宗派の中でも、「無病息災」だとか現世利益を追求する傾向があるようですね。
同じ仏教でも真宗や浄土真宗など、来世の往生に救いを求めようとする宗派とは、明らかに違いが見られます。
話を千本釈迦堂境内に戻します。
境内の一角に立つ布袋像。

七福神の一人でもある布袋は、元々は中国の伝説上の放浪僧だったそうです。
それにしても、元は陀枳尼天のような異教の神(しかも人を喰うという鬼神!)や、布袋のような元は人間だった神様なども仏教寺院内で崇められているというのは、いかにも多神教でなおかつ神仏習合の日本らしくて、面白いところですね。
本堂前に立つ枝垂れ桜「阿亀(おかめ)桜」。


残念ながら、この時もう既に盛りは過ぎてしまったようです……。
今年は寒さのためか、桜の開花が全体的に遅く、それにも関わらず散るのも早かったようです。
つまり、満開の桜を見られる時期が短かったような、そんな気もします……。
ところで、この桜の名の由来ともなった「おかめ」伝説。
このおかめ伝説の塚が、おかめ像と共に境内の一角に遺されています。


おかめの伝説。
それはだいたい以下の通り。
鎌倉時代、京都の西洞院一条の辺りに、長い飛田守高次という大工の棟梁と、その妻・阿亀(おかめ)が住んでいました。
義空上人が千本釈迦堂を建立し、本堂建立の棟梁に高次が選ばれます。
しかしここで高次は、信徒が寄進した4本の天柱のうち一本を短く切りすぎてしまうという失敗を犯してしまいます。
思い悩み続ける夫を見かねた妻・阿亀は、古い記録から「(短く切りすぎてしまった部分に)枡組を用いたらどうか」と提案します。
これが成功し、見事な本堂の骨組みが出来上がりました。
しかし阿亀本人は、夫が「女の知恵で成功した」という評価が世間に広まるのを恐れて、本堂上棟式を待たずして自ら生命を断ちました。
(「こういう理由で自殺しなければならないのか?」と、私は疑問に思ったのですが……。当時の感覚というのが、私にはよくわかりません……)
高次は、上棟式の時に亡き妻の面を御幣につけて飾り、その冥福と本堂の無事完成を祈ったとされます。
またこの話を聞いた人々は、阿亀の菩提を弔うために、境内に宝篋印塔を建て、それが「おかめ塚」と呼ばれるようになりました。
またこの話から、「建築工事成就」や「工事安全」、「商売繁盛」、「家内安全・繁栄」、「女性の厄難除け」などを祈る福徳信仰として「おかめ信仰」が広まりました。
以上が、おかめ伝説のおおまかな内容です。
昔、お正月に遊んでいた「福笑い」などでお馴染みの「おかめ」の由来がここにあったとは。
何か感慨深いものがあります。
さて、今回の記事もそこそこの長さになりましたので、ここで一旦切ります。
この続きはまた次回に。
次回は、本堂に入ります。
*千本釈迦堂(大報恩寺)の周辺地図・アクセスはこちらをご覧下さい。
*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm


