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京都の闇に魅せられて(新館)

阿弥陀寺「信長忌」 @ 京都妖怪探訪(788)

 

 

(記事中の写真はクリックで拡大します。プライバシー保護等の為、人の顔部分に修正を加えていることがあります)

 

 

 どうも、こんにちは。

 今回は、今年(2022年)6月2日も行われた「信長忌」で、京都・寺町の古刹・阿弥陀寺を訪れました。

 「信長忌」とは。

 日本人ならほぼ誰でも知っている有名な戦国武将の一人・織田信長が、天正10年6月2日(1582年6月21日)に、あの「本能寺の変」で部下・明智光秀の謀反により死んだと伝えられています。

 毎年6月2日には、その信長の死を悼み、供養をする「信長忌」が行われる寺院もあります。

 シリーズ前回で、織田信長が「第六天魔王」を名乗り、そのイメージが後世の様々な創作物に影響を与え続けてきたことについての話をしました。

 その信長を、墓を作ってまで葬り、現在も供養し続けている仏教寺院が京都市内にあります。それが、あの本能寺の変と舞台となった本能寺と、そして京都・寺町通り沿いにある阿弥陀寺です。

 織田信長と言えば、比叡山延暦寺や石山本願寺などを破壊するなど、「仏教の敵」というイメージもあるはずですが、その信長を供養する仏教寺院があるのか?

 また、信長の遺体は本能寺の変で所在不明となっているはずでは?

 そんな疑問も浮かび上がったのですが、その疑問を解消する為に、まずは阿弥陀寺「信長忌」を訪れました。

 

 

 

 まずは、いつもの通りアクセスから。

 最寄りの交通機関には、京都市営バス「河原町今出川」停留所がありますが、京都市営地下鉄「今出川」駅京阪電車「出町柳」駅などからも、少しばかり歩いたら辿り着けます。

 今回は、京阪電車「出町柳」駅から、高野川、加茂川の橋を渡って。

 

 

 

 

 出町商店街を通り抜けて、寺町通りを北上します。

 

 

 

 

 寺町という名の通り、道の西側に住宅地が、東側にはいくつもの寺が並びます。

 

 

 

 

 その中に阿弥陀寺の山門が見えてきます。

 

 

 

 

 まさに「信長忌」が行われていました。

 

 

 

 

 山門から入ってすぐの場所に地蔵菩薩像が。

 

 

 

 

 この光景から想像するに、普段は静かな場所だと思われますが。

 この日は「信長忌」の為、多くの参拝者や・・・そしておそらく、信長ファンや歴史愛好家なども、多くの人が集まっていました。

 

 

 

 朝の10時から、1時間ほど法要が行われます。

 

 

 この時参拝者に配布された「阿弥陀寺略記」によれば、この古刹の歴史と、織田信長との関係は、だいたい以下の通りになります。

 天文24年、開基・清玉上人により、現在の今出川大宮付近に正親町天皇の勅願書として建立されました。

 織田家とも親交のあった清玉上人は、本能寺の変を知り、本能寺へ急行しましたが、上人が辿り着いた時には既に信長自害の後でした。「自分の遺体を絶対に的に渡すな」という信長の遺言に従い、清玉上人は信長の遺体を誰の遺体かわからないように火葬して、法衣に包んで阿弥陀寺へと持ち帰ります。その後、二条城で亡くなった信長の息子・信忠と家臣たちの遺体も埋葬供養します。

 その後、信長の後継者となった羽柴秀吉が、信長の遺体を分骨する様、三百石の寺領朱印を提示してまで清玉上人に申し入れますが、上人はそれを断固拒否し続けます。それで激怒した秀吉は、大徳寺に一山を建立して盛大に葬儀を行い、その為に阿弥陀寺は次第に人々から忘れ去られていきました。

 また天正15年に後陽成天皇の勅願所になるも、同年より狭い現在の地に移転した(秀吉の嫌がらせで移転させられたか?)ので、信長・信忠や一部の重臣の墓のみ立て直され、後は一カ所に埋葬し直されました。

 

 

 歴史の通説では、織田信長の遺体は、本能寺の変以後発見されないまま行方不明となっているのですが、ここ阿弥陀寺では信長親子の遺体と墓がある理由をこのように伝えています。

 今回の阿弥陀寺は、自称‘第六天魔王’織田信長の記事ですが、魔王や妖怪などと直接関係があるわけではありません。

 しかし歴史の通説では失われたことになっているはずの歴史上の有名人の遺体と墓が存在していたというのも、ある種の不思議ミステリーと言えると思います。

 

 

 ところで、もうひとつ。

 織田信長といえば、やはり比叡山焼き討ちなどから、仏教に対して否定的、或いは敵対的というイメージがありますが。こうして信長の菩提を現在もなお弔い続けている仏教寺院もあり、さらに阿弥陀寺の開基者・清玉上人とも親交があったということから、必ずしも仏教勢力に対して敵対的だったというわけでも無いようです。

 では何故、延暦寺や石山本願寺を攻撃したのか。

 シリーズ前回記事でも少し触れましたが、それは信長が攻撃した大寺院は、単なる宗教勢力ではなかったから。宗教勢力というよりむしろ、莫大な財力や利権と、強大な武力や権力を持った政治集団、もしくは武力集団であり、少なくとも信長にとっては、並の戦国大名よりもよほど恐ろしい脅威であったからではないか。

 そう言えば、何年か前にも阿弥陀寺「信長忌」を訪れた時のこと。供養が終わった後、当時のご住職のお話の中でも、「当時の信長は何故、比叡山延暦寺を攻撃したのか」という理由の解説がありました。その中で「当時の延暦寺の僧侶は、私利私欲ばかりを追求し、悪事をはたらいていたのです。つまり僧侶失格、仏教者ですらなかったのです」と発言されていたのを今でも記憶していますが。清玉上人開基の頃から阿弥陀寺は親信長の立場だったとはいえ「おお、比叡山をそこまでボロクソに言いますか!?」と驚いたものですが。

 

 

 

 供養と説法が終わった後は、皆で墓参りをします。

 

 

 

 

 開基者・清玉上人の墓所。

 

 

 

 

 小姓・森蘭丸の墓。

 

 

 

 

 森蘭丸の弟で、同じく織田信長に小姓として仕えた森坊丸、森力丸の墓も。

 

 

 

 

 そしてここが織田信長の墓所です。

 

 

 

 

 今年の6月2日は木曜日。本記事の写真ではわからないかもしれませんが、平日昼間にも関わらず多くの人が訪れ、信長墓所の前には長蛇の列が出来ていました。

 前回記事でも紹介したように、オーソドックス(?)な武将像から、魔王像など、何百もの信長像が創られ続けてきたことといい。

 現在もなお続く織田信長という人物の人気の高さを感じさせます。

 魔王や虐殺者など、その悪名の部分も含めて・・・。

 

 

 

 

 なおシリーズ次回は、妖怪や怨霊などの話ではありませんが、織田信長と本能寺にまつわるちょっと不思議な伝承を紹介したいと思います。

 

 

 

 

 今回はここまで。

 また次回。

 

 

 

 

 

*寺町・阿弥陀寺の周辺地図はこちら

 

 

 

 

*寺町・阿弥陀寺の紹介ページ(「そうだ京都、行こう」より)

https://souda-kyoto.jp/guide/spot/amidaji.html

 

 

 

 

*『京都妖怪探訪』シリーズ

https://kyotoyokai.jp/

 

 

 

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