京都の闇に魅せられて(新館)

源融の墓と豊臣秀頼の首塚@京都妖怪探訪(308)





 どうも、こんにちは。
 シリーズ前回から1ヶ月以上経ちましたが、『京都妖怪探訪』シリーズを再開したいと思います。

 8月の終わり頃、京都・嵯峨の有名な古刹のひとつ、“嵯峨釈迦堂”こと清涼寺を訪れました。
 その時目にした清涼寺境内にある面白スポットのいくつかを、今回紹介します。
 源融の墓とか、豊臣秀頼の首塚とか。



 まずは、アクセスから。
 アクセス方法はいくつかありますが、そのうちの3つを紹介します。


 JR・山陰本線の「嵯峨嵐山」駅。ここから歩いて15~20分ほどです。






 京都市営バス京阪バス「嵯峨釈迦堂前」停留所から、歩いて数分ほど。


  



 京都市営バス「嵯峨小学校前」停留所からも、歩いて5分ほど。






 嵯峨薬師寺及び、釈迦堂(清涼寺)の主なアクセス方法はだいたいこんなところでしょうか。
 少し歩けば、清涼寺の大きな門が見えてきます。















 門をくぐって境内へ。
 両脇には門を守護する2体の仁王像が。









 嵯峨釈迦堂の本堂。






 実は今回ここを訪れた主目的は清涼寺の参拝ではないのですが、清涼寺の境内にもいろいろ面白いものがありますので、ちょっと寄り道をしていきます。


 浄土宗の開祖・法然上人の像と多宝塔。





 ここは浄土宗の寺院ですから、法然上人の像が。



 清涼寺の庫裏。





 庫裏(くり)とは、僧侶の居住・生活する場所みたいなものですね。



 清涼寺を開山したちょう然上人の墓です。






 嵯峨天皇とその后・檀林皇后の宝塔です。





 小野篁が尊敬して仕えたのが嵯峨天皇です。
 檀林皇后も、いろいろなエピソードがある人です(※シリーズ第203回等を参照)。
 なお幕末まではここが嵯峨天皇の御陵となっていたそうですが、現在では大覚寺の西北、嵯峨野の北にある御廟山の山頂にある嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)が墓所となっています。



 嵯峨天皇の十二男で、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルとなったとされる平安時代初期の公家・源融(みなもとのとおる)の墓。





 ここ清涼寺は、元々は源融の山荘「棲霞観」(せいかかん)でだったそうです。
 源融本人が亡くなって棲霞寺と改めらたが、天慶8年(945年)醍醐天皇・皇子の重明(しげあきら)が、亡き妃のために新堂を建て、開山・ちょう然上人が宋に渡った際に造ったという釈迦如来を安置したのが始まりだそうです。
 


 阿弥陀堂。





 寛平7年(895年)、源融の死後に遺族がこの御堂を建立しました。
 現在の阿弥陀堂は、何度かの火災で焼失した後に、江戸時代末の文久3年(1863年)に再建されたものだそうです。
 ところで、『京都妖怪探訪』シリーズ関連で言えば。
 源融は「河原院」という広大で壮麗な邸宅を建てた事でも有名です。
 その死後、河原院が天皇に献上された後も未練を残して宇多上皇の前に化けて出てきたなど、亡霊となって迷い出て災いをなしたこと。さらに河原院が、平安京でも有名な心霊スポットとなったことでも有名です。
 河原院跡については、シリーズ第15回でも取り上げたことがあります。
 
 しかし……。
 ここ清涼寺となった、棲霞観もいいところです。
 河原院を失っても、源融にはこんないい住処があったのに。
 死後も化けて出るほど未練を残して、しかも人妻を襲ってやがるとは、源融という人は一体何を考えているのか?
 そんなことを思ったりしたものですが。
 壮麗な邸宅や山荘どころか、金もないし、女性にもあまり縁のない、私のような者にはちょっと理解できません(苦笑)。



 さて、他にも清涼寺境内には、面白いスポットがいくつもあるのですが。
 記事が長くなり過ぎますので、あとひとつだけとりあげます。



 本堂のすぐ隣に立つ「豊臣秀頼の首塚」。





 昭和55年(1980年)に大阪城・三の丸跡地の発掘調査現場から出土したという豊臣秀頼の首を、昭和58年(1983年)に葬ったのがこの塚だそうです。
 慶長20年(1615年)大阪冬の陣の際、豊臣秀頼は母・淀君と共に自害し、その遺体も残らなかった。
 通説ではそう言われてきたはずですが。
 また、遺体が残らなかった上に、秀頼絶命の瞬間を目撃した生存者が居なかったため、「実は薩摩や琉球で生き延びていた」等の生存説も一部で流されていましたが。
 なお、出土したという首が秀頼のものだと考えられた理由が、首に介錯の跡があったのと、耳に障害があったことが確認され、さらに死亡時の年齢や身体的特徴等から、秀頼の首だと類推されたそうです。
 確かに、それだと本当に秀頼の首である可能性は高いでしょうが、100%断定できるものでもないと思います。
 鑑定などの技術がさらに進歩して、あるいはさらなる物証が出たりして、いずれその真偽が明確になる時が来るかも知れませんが。
 ただこういう歴史や伝説上の謎は、不明確なままで、様々な諸説が囁かれている方が、ある意味面白いかもしない。
 変な話ですが、そんな考えも浮かんだのですが、いかがでしょうか。



 さて、記事がそこそこの長さになったので、今回はこの辺で切りたいと思いますが。

 ところで、記事中で「今回ここを訪れた主目的は清涼寺の参拝ではない」と申し上げました。
 では清涼寺を訪れた主目的は何かと言いますと。
 “生の六道”とも言われた清涼寺境内の薬師寺で、毎年8月24日に行われる「地蔵盆」を見るためなのです。
 この嵯峨・薬師寺の地蔵盆には、何年か前にも訪れたことがあったのですが、今回も再び訪れる機会があったので、こうして来ました。
 その時、貴重な秘仏や寺宝等も見せていただいたのですが、あれから写真の腕前も少しは上達してもっと良い写真が撮れるかもしれませんし、また前回訪れた時とは違った発見もあるかもしれない。
 そう思って再訪したのですが、そのついでに通った清涼寺境内にもいろいろと面白いスポットがありましたので、こうして記事にしたのです。
 
 いかん。
 またしても、行き当たりばったりな私の性格が、明らかになってしまいました(苦笑)。



 最後に、境内庭の写真を。





 ここは秋になれば紅葉が楽しめそうな場所ですね。
 もうそろそろ紅葉の季節ですから、機会があれば訪れてみてはいかがでしょうか。



 それでは、今回はここまで。
 シリーズ次回は、何年かぶりに訪れた嵯峨・薬師寺の地蔵盆の様子をお届けします。





*嵯峨・薬師寺へのアクセスについてはこちらを参照。   


*嵯峨・薬師寺のHP
http://yotsuba.saiin.net/~saga/yakusiji/index.html



*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm





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小路@管理人
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>酔っぱの猫さん

 いつもコメントありがとうございます。
 今回のコメントは……いや、なかなか鋭いと思いますよ。
 思わず「なるほど、そうか!」と納得です。
 と同時に「くっそーっ、なんでそんなことに気づかなかったのかー!」とも思いました(笑)。

 確かに、言われて見れば。
 いくら皇室の血をひく大臣と言っても、あれだけ広大かつ壮麗で、「尼崎から毎月30石の海水を運んで塩焼きを楽しんだ」という屋敷や庭園を造って維持して行くには、莫大な財力が必要だったはず。
 源融という人は、それだけの財力をどうやって得ていたのか? そういう疑問はあったのですが……。

 学生時代に社会学や経済学を少しかじり、ツイッター等で政治や経済などの話題にも触れていると……。
 同じ事実や事象も、経済や経済的利権という観点から見ると、また違った意外な真実が見えてくる。そんなことがあるものです。

 それにしても、この「塩利権」説が正しいとしたら……。
 河原院や源融をめぐる物語の裏に、そうした莫大な利権を巡るも絡んでいたとしたら……。古文書や言い伝えにも出てこないようなドロドロしたものが裏にあったりするかも。
 そんな気もしてきました。
酔っぱの猫
源融の和歌"陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れむと思ふ我ならなくに"と河原院があった辺りが当時「塩竈(しおがま)」と呼ばれていた事や、尼崎から毎月30石の海水を運んで塩焼きを楽しんだ河原院の庭園が陸奥国塩竈の風景を模した等から源融の資金源が「塩」だった可能性が高い?
源融(一族)が塩の利権絡みで何事かあったとしたら・・・。
出ても不思議じゃないですね
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