京都の闇に魅せられて(新館)

境港編(11):正福寺





 「この松をまっすぐに見た人にはほうびがでます 一休宗純」
 この松は一体何か?
 あるいは、この言葉の意味は何か?
 これは、鳥取県境港市にある正福寺というお寺の境内の光景です。
 
 こんにちは、小路です。
 妖怪マニア、水木しげるファンの聖地でもある鳥取県境港「水木しげるロード」を訪れるシリーズももう11回目、最後になりました。
 最後は、境港編第3回デモ少しだけ予告しましたが、正福寺というお寺を訪れます。

 一部の水木しげるファンなどには有名な話ですが、この正福寺というお寺に遺されている地獄絵は有名です。
 幼き日の水木しげる先生には、この寺の地獄絵を目にしたことが、異世界や妖怪などへの強い関心を持つきっかけになったといいます。
 水木先生の幼き日の描いた自伝的作品『のんのんばあとオレ』などで描かれている有名なエピソードです。当時、実家の武良家にお手伝いに来ていた“のんのんばあ”こと「景山ふさ」に、妖怪のことを教わり、異世界や妖怪などの世界への関心を高めていったことが描かれています。
 “のんのんばあ”に連れられて正福寺を訪れ、地獄絵を目にし、死後の世界について教わったというエピソードもそのひとつとして有名です。
 正福寺も、その地獄絵も、現在でも境港市内に遺されています。


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 あの水木しげる作品の原点にもなったと言っても過言ではない。
 今回の旅の一環として是非、そんな貴重な地獄絵が遺されている寺を訪れてみたいと思いました。


 JR境港線“一反木綿駅”「上道」駅。









 そこからしばらく東へと歩きますと、正福寺が見えてきます。












 元は代台寺と称する真言宗の寺院であっったそうですが、後世に洪水や戦災などで被災するなど紆余曲折を経ながら、貞享年間(1686~88)にこの寺は現在の場所へ移され、曹洞宗に改宗、巨嶽山正福寺と称して現在に至るそうです。

 寺の入り口(山門)と、その門前に立つ地蔵です。









 山門から中へ。





 この鐘楼門の上には、人が上がれるそうです。
 私が訪れた時には、小学生くらいの子供たちがこの上で遊んでいました。

 ところで、この山門と鐘楼門との間には、いくつか面白いものがあります。


 永代供養塔。






 松尾芭蕉の句碑。





 境港市に遺されている唯一の芭蕉の句碑だそうです。
 「梅が香にのっと日の出る山路かな 翁(芭蕉)」と刻まれているそうです。


 水子地蔵菩薩。





 どこの地域でも、昔は子供の死亡率が高かった。
 だから、どの地方の寺にも、こういう水子地蔵があるのでしょう。


 水木しげる先生の記念碑。








 やはり、水木先生にゆかりの深いこの寺らしいですね。


 では、鐘楼門よりさらに中へ。
 鐘楼門の中にあった像。









 美しく整備されている境内です。






 この鳥居は一体?






 本堂前の狛犬です。








 なんか、インドネシア・バリ島の神獣バロンみたいな姿の珍しい狛犬です。
 よく見ると、小さな子供の狛犬を抱えている、かわいらしい面も。


 境内に立つ「三葉の松」。





 古来より日本では松とは、豊穣や平安をもたらす神霊が降臨するという神聖な木であったそうです。
 松の葉は普通二葉か五葉ですが、三葉というのは珍しく、仏具の三鈷を連想させることから、密教呪術的な要素があると考えられたのかもしれません。「夫婦和楽・家内安全」「金運」「心願成就」などのご利益があるとも考えられたそうです。

 「この松をまっすぐに見た人にはほうびがでます 一休宗純」





 うーん、すみません。
 私は一休宗純ほど頭は良くないので、この問いの答えも、この問いの意図もよくはわかりません。
 どなたかご存知の方、コメントでもくださればありがたいです。


 そして、本堂内に入ってきました。
 もちろん、水木先生が妖怪や異世界に関心を持つきっかけのひとつになったという地獄絵も見てきました。
 しかしながら、撮影の許可を得たわけではないので、残念ながら地獄絵を撮ることも、ここで読者の皆様にご覧いただくこともできません。
 皆様には、正福寺を直接訪れていただき、その目でご覧いただければいいいのですが、「それでも見たい」とか「どうしても行けそうにもない」という方は、正福寺HP内の「寺宝」コーナーにその一部が掲載されていますので、そちらをどうぞ。
 あと参考までに、『京都妖怪探訪』シリーズ第53回第203回にも、「地獄絵(六道絵)とはどんなものか?」が、描かれています。


 そうえいば、昔はほとんどの寺にああいう地獄絵(六道絵)があり、教化のために使われていたそうです。
 近代合理主義が広まり、ああした地獄などの死後の世界や異世界の存在を信じる人も少なくなり、そうした地獄の存在も、妖怪や異世界などの存在も力を失ってしまったようです。
 ですが、幼き日の水木少年にはそれを素直に受け入れるだけの感性や想像力があり、それが後に多くの作品を生み出し、世に出すこととなった。

 水木先生の作品とその世界が世に広まり、現在でも多くの人々に愛され続けているのは何故か?
 他の誰にも真似できないような水木作品の独特の世界観。
 メディアミックスをうまく利用したアピール戦略。
 いろいろと考えられますが、次のようにも考えられないか。
 我々日本人が近代化や経済成長の道をひた走ってきた中で、その代償として切り捨ててきた「何か」が、その根底にあったのではないか。
 のちに水木作品を生み出すきっかけとなった地獄絵の世界と、それが作られた当時のことなどに思いを馳せながら、こんなことも考えてしまいました。


 今回はここまで。
 境港編は今回で終わります。
 次回から、再び京都に戻りたいと思います。
 それでは、また次回。




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*正福寺のHP
http://www.shofukuji.info/syusi.html



*境港市観光協会HP
http://www.sakaiminato.net/



*水木プロダクションHP
http://www.mizukipro.com/



『京都妖怪探訪』シリーズもよろしく!




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