今から62年前の今日の夜・・・・・
昭和20年6月19日
西の空からB29の編隊が博多の夜空に飛来します。
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午後11時11分から20日午前零時53分までのおよそ2時間に、
221機のB29爆撃機から約1500トンの焼夷弾が投下されました。
街は一夜にして燃え尽き、千人以上の死者・行方不明者が出ました。
空襲は約1時間40分にわたります。
それまで大きな工場やらないけん
「空襲やら無いやろう」て言うとが
博多の人の当時の考えやバッテン、夜空から
火の柱が振ってきます。
かなりの低空飛行で、機影も大きくはっきり見える。
日本軍の通信妨害をするためだろうキラキラ光る錫のような
金属片が大量に撒かれ、照明弾も投下される。
わが方は東平尾台など高台に陣取る3~4箇所の高射砲陣地から
高射砲弾が打ち上げられるが、いっこうに当たる様子はない。
わが方のサーチライトや敵の照明弾のせいでよく見える。
焼夷弾は先ず街を円形に囲むように落とされたようだ。
B29爆撃機編隊は波状的に来襲し、絨毯(じゅうたん)爆撃を繰り返した。
攻撃はおよそ2時間、翌20日の午前1時ぐらいまで延々と続いた。
焼け爛れた死体が転がっている。
性別すら分からない状況の遺体がそれも次々に目に入る。
木レンガを敷いた繁華街の道路はまだ燃えている。
アスフアルト舗装も燃えている。
溶けたアスフアルトが下駄にまつわり、歩きづらい。
玉屋デパート、松屋デパートのビルの窓からはまだ火が出ている。
石堂川、那珂川には犠牲者が無数に浮いている。
まさに地獄絵なのだが、ここまで来るともう私は感覚を失い、何も感じない。
~福岡大空襲・少年の記憶~より・・・
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私の親父は、海の向こう「釜山」で
「釜山日報」で福岡大空襲の記事ば読んで
それはそれは心配したそうです。
この年の8月、長崎と広島に「新型爆弾(原爆)」が
落とされ、日本は終戦ば迎えます。
21年5月25日。山笠と博多復興の第一歩が踏み出されます。
子供山笠がはだしの子供達によって
奈良屋小学校界隈に元気な声ば響かせます。
博多の復興の始まりです。
「オイサ、オイサ」。福岡市博多区の寿通商店街。子供山笠の元気な掛け声がアーケードに響く。屈託ない子供たちの笑顔を見て、山崎吉米さん(91)=同区奈良屋町=は、五十年前を思い出した。
「人も、街も、祭りも、のうなってしもうた」。昭和二十年六月二十日。山崎さんは、焼け野原の中に立っていた。前日の十九日夜、福岡市は米軍機の大編隊の襲来を受けた。福岡大空襲。容赦なく降り注ぐ焼夷(しょうい)弾で、博多の街は炎と化し、死者九百二人、行方不明二百四十四人、負傷者千七百八人の大惨事となった。
戦時中も継続された博多祇園山笠。この夏も準備は進んでいた。だが、この空襲で、各流れの山笠台、法被などはほとんどが灰になってしまった。「こんな形の山笠中止は、本当に悔しかった」。当時を振り返り、山崎さんは唇をかんだ。
山笠が消えた夏・焦土からの復活より・・・
今年も山笠がやってきました。