千鳥足こと博多のおいしゃんの独り言

呉服町流

こないだの山笠見物3件目は「町家ふるさと館」さぃ
旧町の法被見に行ってきました。


戦後、山笠復興のため「博多祇園山笠期成会会長」の落石栄吉さんは
山笠の門戸ば開き今まで舁山に参加しとらん地域からの
参加ば認め山笠の流がぐんと増えました。
従来の博多七流(山笠においては福神流を除く)に加え
今も残る「中洲流」「千代流」以外に
新町流から分かれた岡流(岡新町流)浜流(浜新町流)に
櫛田流(厨子流)、南流、築港流、(あと忘れとらんかいな?)
ほとんどが数年で姿ば消し残ったとが今の七流です。
新町流・厨子流はもともとから博多七流に加え流として
存在しましたが山笠は建てておりませんでした。
この頃から自治の「流」から山笠ば運営するグループに変遷していきます。
現在の「千代流」「中洲流」です。
て、言うたっちゃ現在その他の流も学校校区は一つになり
従来の自治区の「流」ではなく山笠のグループになったとは否めませんけどね。

ふるさと館の展示ではその中の「岡流」「呉服町流」「蔵本町」の
法被が展示されとりました。







普通、法被は現在の「千代」「東」「中洲」のごと統一法被やのうて
町の法被ば用いとったはず。
けど岡流、呉服町流のごと流の当番法被ば用いよったとかもですね。

調べるべく「なが冨」へ・・・・
「この法被覚えとる?」
「ちょっと待って・・」
奥から当番法被持ってやった来ました・・・
おいしゃん「あるったい・・」
「流全部で統一法被やったと?」
「覚えん、小山町あたりはどげんやったか?」
「水法被は斜めに(呉服町流)で前立てに町名やった」
「水法被探してんろうか?」

そこで旧呉服町流のお話聞いてきました(面白い)

もともと今の大博通(今とは少しずれとった)の縦筋で構成されとった流やけん
北は市小路(上・中・下秀吉が町割りの起点にしたとこ)から
南は小山町(上・下)の10ケ町で構成されとった流です。
隆ちゃんとこはその中程の下呉服町(今のごと上中下は無く上と下だけ)
なが冨の一本北側の横筋は従来の恵比須流(おいしゃんが住む中石堂)
中石堂はその昔は大店が多くお金もいっぱい持っとったらしい。
麹屋番筋から続く横筋やけそうでしょうね(昔のメイン通り博多6町筋やもんね)
清道旗も以前は中石堂が建てよったらしいばってんが
貧乏町内になっったけん言いくるめて(ステイタスば)下東町に
譲ったげな・・そいけん下東は今でちゃ積立金に追われよる・・

昭和41年に解散した呉服町流、東側は東流、西側は西流に吸収。
けど横町筋にあたる町は恵比須に入ったり山ば辞めたり・・
人形屋の「奥村商店」に付き合いのあるなが冨は一時期
恵比須流から参加しよったばってんがその頃から東流から
寄付取りに来たりの無法地帯やったらしい。

呉服町流は博多七流の最初からの流で歴史もあり
戦後追山馴しで櫛田入最速の30.0秒ば記録したほど・・・・
昭和40年の一番山(飾りは黒田節)ば最後に解散しました。

今は山に出よらん隆ちゃんやばってんが
やっぱ山の話したら盛り上がります・・・・・

山は動かんばってんがこの時期は「山」でお酒が飲めますね。
今年も山は動かんけんその間11日から追い山当日まで
おいしゃん3食昼寝付きの雲隠れします。
資料持ち込んでゆっくり山笠の歴史の掘り起こししてきます。

明日は入院前のPCR検査と入院手続きで仕事はおやすみ。
今年も朝山の日の若の誕生祝してやれんとが気がかりです・・

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