ピーター・フランクル氏が、朝日新聞の取材の中で、「愛国主義と国粋主義は違う」と語っている。彼のあげる違いの観点に説得力がある。
「愛国も国粋も、自分の国を愛する気持ちは一緒。愛国主義者は、自分の主観的気持ちだと認めているが、国粋主義者は客観的だと思っていて、いつも外にスケープゴートを探して、何かを槍玉に挙げている。」
彼の主張から思い浮かぶのは、自分の主張を「我われは」あるいは「私たち日本人は」というような、客観的主語で論じる癖をもつ人の多さだ。
「あなたがそう思っているだけでしょ」と突っ込みたくなるような無責任な発言が諸所にある。「私は」の一人称で語ることのできない弱さとずるさを感じてしまうと、どんなにすばらしい演説も急に色あせて聞こえてしまう。
「私の知る限りでは」「私の訪れた地域では」と、自分の視野の限界を認識した発言に、その人の大きさと見識の深さを感じるのだが、そう語る人に出会う機会が最近は少ない。
国粋主義者に限らず、自分の考えが多数を代表していると考える人に排他的思考の人が少なくないのも、フランクル氏の論理が当てはまるのだろう。
日本の伝統的な結婚式スタイルを敬遠するからと言って、すべての日本文化を敬遠するわけではない。
激しく変容する現代社会の中で、広い視野と多くの可能性から何をその都度選択するのか、その自己責任に基く判断力と他者意識に基く説明力が求められる。
「愛国も国粋も、自分の国を愛する気持ちは一緒。愛国主義者は、自分の主観的気持ちだと認めているが、国粋主義者は客観的だと思っていて、いつも外にスケープゴートを探して、何かを槍玉に挙げている。」
彼の主張から思い浮かぶのは、自分の主張を「我われは」あるいは「私たち日本人は」というような、客観的主語で論じる癖をもつ人の多さだ。
「あなたがそう思っているだけでしょ」と突っ込みたくなるような無責任な発言が諸所にある。「私は」の一人称で語ることのできない弱さとずるさを感じてしまうと、どんなにすばらしい演説も急に色あせて聞こえてしまう。
「私の知る限りでは」「私の訪れた地域では」と、自分の視野の限界を認識した発言に、その人の大きさと見識の深さを感じるのだが、そう語る人に出会う機会が最近は少ない。
国粋主義者に限らず、自分の考えが多数を代表していると考える人に排他的思考の人が少なくないのも、フランクル氏の論理が当てはまるのだろう。
日本の伝統的な結婚式スタイルを敬遠するからと言って、すべての日本文化を敬遠するわけではない。
激しく変容する現代社会の中で、広い視野と多くの可能性から何をその都度選択するのか、その自己責任に基く判断力と他者意識に基く説明力が求められる。