「1日300kgもの不純ごみが出ます。廃プラの分別もできない市民は困るけれど、行政ももっと指導が必要でしょう!」と男性が怒り満面で言った。
地域懇談会の一場面だ。
男性は、公設のごみ焼却場に勤務していると名乗った。
毎日、毎日、廃プラスチックの処理作業で、ベルトコンベアで運ばれてくる廃プラに混じる不純ごみを取り除く作業に当る。
「信じられない物が混じっているんですよ!」と、撮った写真を広げて提示する。「注射針でしょ、鉄くず、弁当の食べかす、野菜くず・・・」
最初は呆れ、次にうんざりし、やがて怒りがこみ上げたであろう男性のやるせなさが伝わってくる。「仕方ない、これも仕事のひとつだから」と自分自身に言い聞かせることもあっただろう。
それにしても、やはり黙っていられない。だから、行政理事者が揃う地域懇談会の開催を知って、写真を準備した。この掟破りの市民たちの意識変えられるのは行政に違いない、と思ったかどうかは別にして。
あまりに男性の憤りと勢いが激しいので、聞いている理事者の間からため息が漏れた。「行政に訴えられても・・・」と囁く声がした。
それにしても、廃プラ用の袋に「注射針」や「鉄くず」なのだ。いや、一般可燃物用の袋にだって入れるものではない。
「それはきっと、日本語や袋に表示されている5ヶ国語を理解できない国の出身者の方々が、ルールを知らないまま放り込んでしまったに違いないです」などとは言えない。
1日300kgなのだ。一ヶ月で10t近い。
行政が設定する社会のルールがわかり難いという批判もある。厳しすぎるという苦情もある。そもそも、分別することがどれほどの効果を生むのかと疑う声もある。
それにしても・・・と思うのは、行政の人間だからなのだろうか。
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地域懇談会の一場面だ。
男性は、公設のごみ焼却場に勤務していると名乗った。
毎日、毎日、廃プラスチックの処理作業で、ベルトコンベアで運ばれてくる廃プラに混じる不純ごみを取り除く作業に当る。
「信じられない物が混じっているんですよ!」と、撮った写真を広げて提示する。「注射針でしょ、鉄くず、弁当の食べかす、野菜くず・・・」
最初は呆れ、次にうんざりし、やがて怒りがこみ上げたであろう男性のやるせなさが伝わってくる。「仕方ない、これも仕事のひとつだから」と自分自身に言い聞かせることもあっただろう。
それにしても、やはり黙っていられない。だから、行政理事者が揃う地域懇談会の開催を知って、写真を準備した。この掟破りの市民たちの意識変えられるのは行政に違いない、と思ったかどうかは別にして。
あまりに男性の憤りと勢いが激しいので、聞いている理事者の間からため息が漏れた。「行政に訴えられても・・・」と囁く声がした。
それにしても、廃プラ用の袋に「注射針」や「鉄くず」なのだ。いや、一般可燃物用の袋にだって入れるものではない。
「それはきっと、日本語や袋に表示されている5ヶ国語を理解できない国の出身者の方々が、ルールを知らないまま放り込んでしまったに違いないです」などとは言えない。
1日300kgなのだ。一ヶ月で10t近い。
行政が設定する社会のルールがわかり難いという批判もある。厳しすぎるという苦情もある。そもそも、分別することがどれほどの効果を生むのかと疑う声もある。
それにしても・・・と思うのは、行政の人間だからなのだろうか。
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全ては自由であれば良い。
人間は本来自由であり、何らかの処分をされる場合は他人の権利を侵害した場合にのみ行われるべきです。
分別しなくても、それは自由ではないでしょうか。
特に、法治国家であれば法で禁止されていること以外、一個人が個人を制約することはそもそも権利として存在していません。
仮に分別しないことが、社会通念上どうしても許せない場合、議会で討論をし、制度化して何らかのペナルティを与えるべきでしょう。
例えば、一方通行を逆走した個人がいたとします。
彼が行ったことを処罰できるのは警察権のみではないでしょうか。
なぜならば、道路交通法に伴う処分権は警察にのみ与えられているはずです。
個人が一方通行の逆走を処罰する権利は何等ありません。
仮にその逆走者が誰かに権利侵害を行って初めて、処罰する権利が発生するはずです。
逆走する自由ですね。
一方、個人が逆走を非難する自由も大切です。
一番重要なことは、お互いの自由を認識し、こうしなければならないというような考え方を人に押し付けないことですね。
日本は自由という概念が無く、国家と市民(日本は市民社会ではないと考えています)が一体となっているため、一方向に触れやすく、マスコミの誘導に乗りやすいのだと考えます。
なぜそうなっているのか、疑問を持ち、考えることが民度の熟成に必要不可欠であると思います。
そんな人たちばかりになると、僕は利益を上げれなくなりますがm(__)m
問題になりそうでしたら削除してくださいm(__)m
そう昔のことでもなく、私の周りでも家の前を掃き、打ち水をするという姿がありました。人様に迷惑をかけないという心持ちも、今よりも強く生きていたように思います。
ゴミは、結局燃やすか、埋めるかの2つの処理の方法しかないと言われていますが、最近になって、技術的にゴミを資源にして再利用するということが生まれてきましたが、いずれそれもゴミとして循環することにはなりますが、そのことで、資源の持続や環境の汚染に対して大きな時間を稼げます。
ゴミの分別はそのことを効率よく進めるための入り口になるものですが、それを「知ったことではない」というか「その役に立つなら」と思うかは、それぞれの気の持ち方でもあります。
ゴミの集積場に行ったことがあります。主にお年寄りでしたが、集まられてきたゴミをさらに資源化できるように分別をしていました。
混ぜて出せばその手間が増えるだけです。ゴミの処理はそんなコストとして私たちの税金にも関わってきます。
個人的には、ゴミの収集に携わる人の給与は、社会の中でも、最も手厚いものにしてもいいように思えます。心地よく歩ける町や快適な生活は、彼らの作業の上に成り立っているものですからね。
いろいろなことを考えさせられるブログでした。
どこかでしっぺ返しがくるという覚悟をして、今を生きる時代なのかもしれません。