市民病院が、9月1日からシステムを一新した。
「かかりつけ医の紹介状」を持って来院することが求められるようになり、同時に、受付から支払いまで、「患者名の呼称」ではなく「患者番号」で処理されるようになった。
番号は機械的で温かみがないという声も聞こえてはくるが、だいぶ以前から、入院部屋の表の名前プレートを廃止するなど、病院での個人情報の扱いに変化が出てきた。
見舞いに訪れる人にとっては、不都合ではあるが、自分の氏名が公然と晒されることを良しとしない事情をもつ人がいることは容易に理解できる。
受付や病室前で名前を大声で呼ばれることに抵抗があるという人もいるだろう。
「病(やまい)」は、とてもセンシティブな個人情報なのだと、様々な事例を経験して痛感する。
しかし、それを意に介さない人も少なくないということを、2日付けの信毎夕刊を読んで再認識した。
ドイツ文学者でエッセイストという肩書きの男性のコラムである。
月に一度、かかりつけの医者に行くという筆者は、「なるたけこみそうな時間帯」に出かけ、診察室に近い長いすに座る。診察室の中から聞こえてくる医者と患者のやりとりに耳をそばだてているという。それを「ひそかに『病人の研究』と名づけている」、と筆者。
夕刊のトップページに掲載しているコラムである。
下痢が3日とまらない人、3日便通のない人、一ヶ月で3キロ余りも体重が減った人と、3人の診察室のやりとりを紹介し、丁寧に、診察室で患者に語っている医者の言葉を「 」をつけて紹介していた。
エッセイの主旨は、盗み聞きしたやりとりを例にあげ、聞きかじりの情報で簡単に医者に行くべきではないというもの。「気で病むヤマイのために保険制度が用意されているわけではない」と締めくくっている。
診察室から出てくる患者の顔を、品定めをするかのように盗み見しているドイツ学者の姿が目に浮かんだ。
暇な高齢者の悪趣味と一笑すればいいのだろうが、それをコラムとして掲載している新聞の見識を考えると、途方もなく暗い気持ちになった。
少なくとも、自分が病院に行った際には、そばだてている耳の存在に注意することにしよう。
「かかりつけ医の紹介状」を持って来院することが求められるようになり、同時に、受付から支払いまで、「患者名の呼称」ではなく「患者番号」で処理されるようになった。
番号は機械的で温かみがないという声も聞こえてはくるが、だいぶ以前から、入院部屋の表の名前プレートを廃止するなど、病院での個人情報の扱いに変化が出てきた。
見舞いに訪れる人にとっては、不都合ではあるが、自分の氏名が公然と晒されることを良しとしない事情をもつ人がいることは容易に理解できる。
受付や病室前で名前を大声で呼ばれることに抵抗があるという人もいるだろう。
「病(やまい)」は、とてもセンシティブな個人情報なのだと、様々な事例を経験して痛感する。
しかし、それを意に介さない人も少なくないということを、2日付けの信毎夕刊を読んで再認識した。
ドイツ文学者でエッセイストという肩書きの男性のコラムである。
月に一度、かかりつけの医者に行くという筆者は、「なるたけこみそうな時間帯」に出かけ、診察室に近い長いすに座る。診察室の中から聞こえてくる医者と患者のやりとりに耳をそばだてているという。それを「ひそかに『病人の研究』と名づけている」、と筆者。
夕刊のトップページに掲載しているコラムである。
下痢が3日とまらない人、3日便通のない人、一ヶ月で3キロ余りも体重が減った人と、3人の診察室のやりとりを紹介し、丁寧に、診察室で患者に語っている医者の言葉を「 」をつけて紹介していた。
エッセイの主旨は、盗み聞きしたやりとりを例にあげ、聞きかじりの情報で簡単に医者に行くべきではないというもの。「気で病むヤマイのために保険制度が用意されているわけではない」と締めくくっている。
診察室から出てくる患者の顔を、品定めをするかのように盗み見しているドイツ学者の姿が目に浮かんだ。
暇な高齢者の悪趣味と一笑すればいいのだろうが、それをコラムとして掲載している新聞の見識を考えると、途方もなく暗い気持ちになった。
少なくとも、自分が病院に行った際には、そばだてている耳の存在に注意することにしよう。
しかし、必要な医療を受けるために保険制度を使うのは本人の自由ではないでしょうか。
誰も、好んで病に罹っているわけではない。人にはそれぞれ病院に診察を受けに来る事情がある。文学者だったら、もう少しそういうことへも配慮をしていただきたかった。