新編 辺境の物語 第一巻 カッセルとシュロス 前編 9話
第三章【新任の指揮官】②
これで不倫の話題も一段落かと思ったところ・・・
「フリンって何ですか」
マリアお嬢様がお付きのアンナに尋ねた。消えかけた焚き火に火を点けようとしている。
「お嬢様は知らなくて良いことです」
「知りたいです。もしかしてフリンは食べ物ですか。硬いパンより甘くて柔らかいお菓子が食べたくなっちゃった」
俄然、お嬢様はいたって前向きになった。
「ここの子供たちはチョコレートではなくて本物の木の枝を齧るのよ」
マリアが言うのは小枝の形をしたチョコレートのことなのだが、辺境の城砦ではそんな高級なお菓子は手に入らない。子供たちはニッキという齧ると甘味のする木の枝をお菓子の代わりにくわえている。
「お嬢様、不倫とお菓子は甘いという点では似ているかもしれません。ですが、最初は甘くても、発覚してしまうと苦い思い出に変わるんです」
「そんなお菓子はいらないわ」
「お嬢様、不倫については、あとで副隊長補佐殿からじっくり教えてもらうんだね」
ベルネがお嬢様をけしかけた。
「はい、副隊長補佐さん、よろしくお願いいたします」
「よろしくないです、お嬢様」
「副隊長補佐さん、ギロチンでバッサリですね」
何故かギロチンで喜ぶお嬢様であった。
「それじゃあ、町へ繰り出そう」
ベルネが立ち上がった。
「お嬢様、後片付けは頼むよ」
「はーい、またですか、ベルネさん」
「あんた、お嬢様に皿洗いを押し付けて飲みに行っているようだけど、酒場の代金はちゃんと払っているのかい」
メイド長のエリオットが心配した。
「ツケですよ。だって、まだ給料貰ってないんですから。副隊長、早く給料ください」
「そういうことは経理の人に言って」
「もう何度も言ったよ。でもダメだった」
副隊長補佐のアリスでさえ、まだ給料を手にしていないのだから、部下が支給されないのは当然だ。
「副隊長殿、あんたのツケにするよ、いいね」
都合のいい時だけ「副隊長殿」と言われた。
マリアお嬢様は食事の後片付けをおえて部屋に戻った。お嬢様には特別に個室が与えられている。
「お嬢様、今日もよくお働きくださいました」
お付きのアンナが床に這いつくばって深々と頭を下げた。
「これも我が公国のためです、どうかご辛抱ください」
「分かっていますとも、こうして辺境の、それも軍隊に身を投じたのですから、辛いことは承知しています。だけど、どんな時もアンナがいてくれれば心強いわ」
「もったいないお言葉でございます」
「だったら、足と腰を揉んで。働き過ぎて身体中が痛いの」
働いたのはこっちでしょ、お嬢様はサボってばかりでしたね、と思いながら、アンナは差し出された足を揉んだ。
「それにしても、この部屋、何とかならないの。もうちょっと待遇改善してくれてもいいんじゃない」
マリアに宛がわれた部屋というのは、あまりにもお粗末な作りだった。板張りの床で、片側に二段ベッドがあり、窓際には小さな机と椅子があるだけだった。建付けの悪い窓からはしょっちゅう隙間風が入ってくる。天井は雨漏りの染みだらけだ。
お嬢様は二段ベッドの下段に寝ていて、上段にはドレスが詰まったトランクが幾つも置かれていた。お付きのアンナはベッドではなく床に寝ているのだった。
「お屋敷の物置より狭くて、埃っぽくて汚いわ」
「本当でございますね、王宮にいた時は・・・」
アンナは言葉に詰まった。昔のことは言うまいと決めているのだが、つい愚痴が出てしまった。
「そうだ、仕送り催促した? 早くお金を送ってくれるように言ってよ」
「手紙は出しておりますが、仕送りが届くまでには、少し時間が掛かるかと思います。しばらくお待ちください」
「ドレスとお化粧道具も欲しいわ」
「はい、百合の紋章入りの特注ドレスを注文してあります」
お嬢様にはこの辺境でも、メイド服よりは豪華なドレスを着たがるのだった。
翌日、アリスは事務官のミカエラに遅れている給料の支払いの件を尋ねたが、いい返事はもらえなかった。これもアリスの不倫のせいだ。給料を出してもらえないとなると、また部下に脅されるだろう。
指揮官のエルダと当面の対策を練ることにした。
「少しでも給料がもらえるように」
と、エルダが言った。
「レイチェル、マーゴット、クーラさんたちには、メイド長の言いつけを聞いてしっかり働くように頼みました」
「それがいいです・・・というか、それぐらいしか仕事がないので」
「マリアお嬢様も頑張るそうです」
「お嬢様は、あまり役に立つとは思えませんが」
「そこはアリスさん、あなたがサポートしてあげてください」
「私がですか」
「指揮官はこの私です」
「確かに」
アリスに事前の相談もなく決められてしまった。
「部隊長のベルネさんとスターチさんも手伝うと約束してくれました」
「今、「部隊長」と聞こえましたが、あの二人はいつから部隊長に昇進したんですか」
「ついさっき伝えました。役職手当を上乗せすると言ったら喜んでいました。何か問題でもありますか」
「いえ、それも私には相談がなかったもので」
「指揮官はこの私です」
「はい、その通りでした」
ベルネとスターチを部隊長にしたのは城砦から逃げ出さないために処遇したのだろう。
「レイチェルたち三人は役職ではありませんが、三姉妹って呼んであげましょう」
部隊長に三姉妹か・・・アリスの知らないところで人事が進行しているのだった。
ドン。エルダが左手を伸ばしてアリスの脇の壁に付けた。
「うっひ」
エルダのきれいな顔が間近に迫った。スッとした鼻先が触れそうになり息が掛かった。
女性同士ではあるが、心臓がドキドキしてきた。
「これからも、指揮官の言うことは聞き届けてくださいね」
「はい、何でも言う通りにいたしますです」
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