実家に向かう新幹線の中でこの記事を書いた。
新幹線の帰省は本当に久しぶりである。
右には携帯ゲームをするこいちゃんが。
左には「デルトラクエスト」を読むいっくんがいる。
のどかな景色を眺めながら、おにぎりを食べ、チョコレートやポテトチップスを食べる。
おばあちゃんが亡くなった。
子供達にとっては曾婆ちゃん。
享年98歳であった。
私達が土日を使って実家に帰り、大量の八朔とともに大阪に引き返した翌日の事であった。
お婆ちゃんは寝ていることが多くなっており、体調によっては反応もないし、声も出せなかった。
酸素マスクを口にあてがい、ナースセンターに直結する心肺測定の機械などやチューブにつながれて、痛々しかった。
私達が祖母に会った土曜日、私達家族を見ると判ってくれた様子で、呼吸が荒くなり、声を出そうと頑張ってくれていて、その姿を見るのがつらかった。
私を始め、こいちゃんもいっくんも涙をこらえることが出来ず、病室を出ると関を切ったように3人で泣き始めた。
負担になってはいけないだろうと、10分程で病院を後にし、日曜日に再び来院。
前日とは打って変わった穏やかな表情で、目をしっかりと見開き、私達を一人一人をじっくりと見回した。
口は動くものの声は出ない。
肺を患っていたこともあり、呼吸自体が困難だったのかもしれない。
それでも必死に声を出そうとしていたところを見ても、私たちの事がはっきり判ってくれていたのだと思う。
温かい手に触れて沢山「ありがとう」を言えたのがせめてもの救いである。
不思議な夢を見た日、そのリアルさと、なんとも言えない違和感にその内容を両親にメールした。
さらにいても立ってもいられなくなり実家に帰る手配を整え、土日の休みを利用して帰省した、その矢先の事だった。
虫が知らせたとしか思えなかった。
お婆ちゃんと別れて病院を出る時に、口には出せなかったが「私は死に目に会えそうにない。それに死に立ち会う事も出来なさそうだ。それと、これが今生の別れになるだろう」とぼんやり思った。
あの不思議な夢を信じるわけではないが、何だか故郷に呼ばれたような気分がずっとしている。
想えば、あの「家」自体がおばあちゃんそのものだったのではなかろうか。
お嫁に来てから、戦争で夫を失った後も、必死に家を、家族を守ることに命を懸けてきたお婆ちゃん。
寂しいときいつも一緒にいてくれたお婆ちゃん。
梅の木を剪定する際、巣に戻らなくなった鳩の卵を梅の木から降ろしていて、落下したお婆ちゃん。
腰を打って痛がるお婆ちゃんをしり目に「鳩の卵が割れた」と号泣した私。
やんちゃでハクレンの木のてっぺんに上った私に手を焼いて、「蛇がいる木だから登ったらダメ」と大げさに脅していたことも。
汗が滴るような暑い日に「お前たちが幸せにいられるように」と毎日お寺に参るお婆ちゃんについて私も一緒に参拝していた。
一緒に仏壇に向かううちにお経も覚えた。
頭からガラスに突っ込んで割ってしまった時も、「散髪嫌い!」と自らの髪を適当にハサミで切ってしまった時も、心配こそされたが、あまり怒られた記憶がないのが不思議である。
怒られて納戸に閉じ込められた記憶は残っているが、本当に優しかった祖母の思い出しかないのだ。
私と弟がばらばらに散らかして遊んだ玩具を、それこそパズルの一つ一つのピースまでもとに戻して片付けてくれていた。
1日置いて帰省したこともあり、知らせを聞いてとりみだし声を上げて泣いた子供達二人はすっかり落ち着きを取り戻していた。
駅に到着すると、子供達は電車から見えていたお城に上りたがり、珍しく記念写真をねだった。
いつもはむしろ写真が嫌いで立ち止まらないくらいなのに。
駅まで大好きなお婆ちゃんが車で迎えに来てくれる。
こいちゃんといっくんにはそれが嬉しかったのかもしれない。
お通夜、お葬式は3日後に無事に終了した。
色々な関係で長く家にとどまることとなったのも、家から離れたくなかったのかもしれないね、などと話をした。
葬儀屋さんが驚くほど、孫やひ孫が号泣し別れが惜しまれたが、十分にお別れが出来た良いお葬式だったと思う。
弟の家族は新しく女の子が生まれていた。
まだ2か月足らず、命を実感する。
消える命があれば生まれる命もある。
若い命だって、時がたてば歳を取る(当たり前だけど)。
まるで女優さんのようだと称されたらしい結婚当時の若かりし日の母の写真を絶賛するこいちゃんだが、今のお婆ちゃんは「女優さんのその後」なんだとか。
どんな風に老いるか、いつ死ぬのか、そんなこと、誰にもわからない。
遠方に住んでいるのだから、親の死に目には会えないかもしれない、などとぼんやり考える事もある。
今、私に出来るのは遠く離れて暮らす両親に少しでも子供達の元気な姿を見せる事くらいである。
今までありがとうおばあちゃん。きっと天国でおじいちゃんと会ってるだろうね・・・。