夜の飲食店に勤めていたY美さんは、自分が直接見たわけではないけど――と前置きして話し出した。
「――でも、店に来る半分近くのお客さんが幽霊を見たっていうから信憑性はあるかな」
客が見たという場所は、その店が入っている三階建てテナントビルのエレベーターの中だった。
夜の七時に開店する店はビルの三階にあった。非常階段もあるが、もちろん客はエレベーターを利用する。
一階の赤いドアの前でボタンを押し、チンと鳴ってドアが開くと一人の女が後ろ向きで乗っているという。
たいていの客は女が降りると数秒待つのだが、いっこうに動かないので首をひねりつつ、そのまま乗り込むのだそうだ。
女はこちらを見る気配もなく、マネキンを置いてあるのかと思うほど微動だにしない。
まさかこんなところに置かないだろうと苦笑するのだが、突然、これは見てはいけないものだと感じ、ぞっとするのだという。
三階に着くとなりドアの開閉ももどかしくエレベーターから転び出て、
「ママ、出たっ、出たっ」
入り口から飛び込んでくる客に、ママはまたかと塩を振りかけるのが日常だった。
だが、こんなことが起きていても店に悪い影響は出なかった。
体験したことを話すと、キャアキャア怖がって店の女の子たちが抱きついてくるので、男性客がはむしろ喜ぶ。
エレベーターで幽霊に出会うことは幸運だと考える客もいた。
だが、ママとY美さんたち数人の従業員は客に内緒にしていることがあった。
見た客のほとんどがエレベーターの女は後ろを向いているというのだが、ごくたまに前を向いていたという客がある。
その客はもう二度と店には来ない。幽霊が怖いからとか店が気に入らなかったからとかいうわけではなく――
ある日、常連のB氏が友人を店に誘った。一緒に来るつもりが時間の都合がつけられなくなり、友人は遅れてくることになった。
B氏が店で待っていると携帯電話が鳴った。方向音痴の友人が道案内を乞うてきたのだ。
電話を掛けたままB氏は道案内をし、友人は順調に店に向かっているようだった。
そのまま二人は電話を切らず世間話に花を咲かせている。
店に来てからゆっくり話をすればいいのにと、Y美さんは苦笑した。
突然B氏が電話口を押さえ、ママやY美さんを振り返った。
「エレベーターに女が乗ってるんだけど、なんで降りないんだろうって不思議がってる」
小声でささやきながらぷっと吹き出す。B氏も女を見たことがあったので友人の狼狽ぶりを楽しんでいた。
「あいつ、どこで降りるんですかって聞いてるよ。まだ幽霊って気づいてないな」
ママの隣に立つ霊感のある女の子が眉をしかめた。
「え? 幽霊に話しかけてるの? やだ、見えてるって気づかれちゃうのに」
「三階に行きますよ、いいんですか? って、不思議がってる」
B氏は笑いを堪えきれず大きく吹き出すと「それ後ろ向きの女だろ? 実はなそれ――」そう言いかけて、「えっ?」とママとY美さんに視線を送り、電話口を押さえた。
「前向いてるけど、それが何? だってさ。なぁんだ、幽霊じゃなかったのか。面白くないな」
ママとY美さんは顔を見合わせた。
もちろんB氏は前向きのことは知らず、電話に戻り、
「もしもし、もしもし? あれ?」
相手は電話を切ったようなので自分も切った。
入口からチンとエレベーターの到着した音が聞こえる。
B氏は友人が入って来るのを待ち構えた。本当に幽霊がいることを教えて怖がらせようと企んでいる。
しかし、待てど暮らせど友人は店には入ってこなかった。事情があって帰ったにしてもおかしいとB氏が何度も電話したが友人は応答することはなかった。
後日、B氏に友人のことを訊ねたが、あれからまったく連絡が取れないという。