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絶え間なく車両の行きかう大通りの歩道を文也は塾に向かって歩いていた。
もう夕方だというのにまだ蒸し暑く、首筋に流れ落ちる汗を手で拭う。
文也の通う北尾塾は通りに面した三階建てのビルにある。小学生から高校生、予備校も併設されているその塾は親切丁寧な講師たちがそろっていると人気があった。
文也は四年生から通い始め、もう二カ月経つ。
「おーい。野地ぃ」
後ろから呼ばれ文也は振り向いた。
宮島が駆けてくる。幼稚園からの親友で、小学校も塾も一緒だった。
「よっ」
声を掛け合い二人並ぶと他愛のない会話をしながら歩き出す。宮島となら好きなゲームや漫画の話を一日中していても飽きなかった。
しばらくして北尾塾の茶色い外壁が見えてきた。
「野地、あれ見ろ」
宮島が指さした。
講師のひとり、佐野が玄関先で声を荒げている。
「なんだろ。佐野先、怒ってるみたいだね」
文也は宮島と顔を見合わせた。
近付くにつれ、佐野がガラスドアの横に座り込む大男に大声で注意していることがわかってきた。
それを眺めながらアプローチの階段を上がる。
太った男は佐野の大声にも微動だにしなかった。もとからそういう色なのか、汚れてそうなったのかわからないが黒ずんだ灰色の作業着がひどく臭う。
ぼさぼさの髪が垂れたうつむいた顔は半開きの分厚い唇しか見えず、そこからよだれが糸を引いているので眠っているのだと思った。
「こら、見てないでさっさと入れ」
佐野がこっちに気付いて『行けっ』と手で合図する。
「なになに? 先生どうしたの? なんかあったの?」
常に好奇心旺盛の宮島は不躾な視線で男をじろじろ眺めていた。
「何もないから。ほら早く行きなさい」
佐野が寄って来て宮島の背中を押す。
「教えてくれてもいいじゃん。ケチぃ」
先生と親友の後に続きながら、文也はさりげなく男の様子を窺った。
男が顔を上げていた。血の塊のような赤い目がぐりっと動き佐野と宮島を追っている。
その異様な眼球を見て文也の背中に怖気が走った。慌てて佐野と宮島の後ろにくっつく。
「ここまでくっせー。先生、何なのあのおっさん」
「こらっ。そんなこと言うもんじゃない」
自動ドアが開くと、佐野は「ほら入った入った」と二人の背中を押した。
ドアが閉まると佐野はすぐ戻っていった。
またうつむいている男を見て、さっきの薄気味悪い目は見間違いだったんだろうかと文也は思った。
「さっきから何度も言うけど、そんなとこに居られちゃ迷惑なんだよ。早くどっかに移動してくれ。でないと警察呼ぶよ」
佐野の怒声がガラス越しに聞こえてくる。
男は座り込んだまままったく動こうとしない。
「佐野先も大変だな」
成り行きを見守る宮島がつぶやいた。
業を煮やした佐野が男の腕を引っ張り上げて無理やり立たせた。思いのほか身長が高い男に一瞬ぎょっとなった佐野だったが、階段下の歩道まで誘導する。
よたよたと階段を下りる男の姿はとても愚鈍に見え、やっぱりさっきは見間違いだったんだと文也はほっとした。
歩道に下ろされた男は立ったまま眠っているように見えた。
「役に立たなくなったサーカスの熊みたいだな」
宮島が嘲りを含んで笑う。
とりあえず敷地内から追い出したからか、佐野が安心した表情で玄関に戻ってきた。
何度も振り返り、中に入ってからもガラス越しに男を監視している。
「先生、あのおっさんなに?」
「なんだ。お前らまだいたのか」
佐野は呆れた顔で「玄関先で眠り込んでたのを女子たちが見つけてな。気味悪いってんで、注意しに来たんだけどまったく動かないんで参ったよ。ちょっとおかしいのかもなぁ――
おっとっと、こういうこと言っちゃあいかんな。
お前ら、からかったりすんなよ」
「はーい。気を付けまーす」
「ほんとにわかってんのか」
宮島の軽口に苦笑し、佐野は額にかかった白髪混じりの前髪を指でかき上げた。
二人の後ろにつき、文也は窓から男を窺った。
歩道に立ったままの男が顔を上げ、血の塊のような目でこっちをじっと見ている。
見間違いなどではなかったんだ。
分厚い唇が笑っているように歪むのを見て、文也はまた背筋が寒くなった。
だけどもう追い出したから大丈夫さ。
そう自分に言い聞かせて窓から目を逸らし、宮島の横に並んだ。
「じゃ、がんばれよ」
事務室の前で佐野が手を振って中に入っていく。
開け放された廊下側の事務室の窓から事務員たちや他の講師たちが佐野に集まって来るのが見えた。みな不安な表情をしている。
「きょうは塾長、研修でいないんだって、さっき佐野先言ってたよ」
宮島の言葉に「そっか」と返し、文也は再び窓を覗いた。
佐野の隣で腕を組んだ河津が眉をひそめていた。若くてイケメンで女子に人気がある文也たちの担当講師だ。
「河先ならああいう場合、さっさと警察に連絡しちゃうだろうね。面倒なこと嫌いだから」
文也の言葉に「ふん。それを言うなら塚先だよっ」と宮島が鼻を鳴らす。
嫌悪感丸出しで佐野の話を聞いている塚田に宮島と二人同時に視線を向けた。
美人だが性格がきつく、勉強だけでなく生活態度にも厳しい塚田は生徒みんなから敬遠されていた。五年担当なのに宮島はよく注意されている。もちろんいつも一緒にいる文也もだ。
「うんうん。もし塚先なら超速で警察に通報だろうね」
特にあんな不気味な奴は佐野先みたいにあのまま放っておくより、そのほうが良かったかもしれない。
文也は心の中でそう続け、男の赤い目を思い出して身震いした。
六年やその他の講師たちもみな顔を曇らせている。塚田の一一〇番という声も聞こえてきたが佐野は首を横に振った。塾長が留守の間の警察沙汰は極力避けたいのだろう。
佐野は中学担当の一講師だが、塾長の北尾に信頼されていて、さっきのような厄介ごとの処理から研修など出張時の塾長代理も任せられていた。
「おーい。野地。早く行こうぜ」
いつまでも事務室を覗いていた文也をとっくに先に進んでいる宮島が呼ぶ。
「あっごめん」
駆け足で追いつくとふたり並んで四年クラスに向かった。
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