恐怖日和 ~ホラー小説書いてます~

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恐怖日和 第四十六話『みちのえき』

2020-09-26 03:06:56 | 恐怖日和

みちのえき

 くねくねとカーブを描いた山道は永遠に続くように思われた。
「ね、どこかに休憩所あったら止めてくれる?」
 ドライブの間もよおしてきていた尿意がだんだん耐え切れなくなった美和子は前方を睨むように運転している浩二に頼んだ。
「どうしたの? トイレ? 恥ずかしがらないで、もっと早く言えばよかったのに」
「え? うん――」
 美和子が我慢しているのは夫の手前だからではなく、単に不潔な公衆トイレに入るのが嫌だったからだ。
 こんな山道に設備の整ったきれいな公衆トイレがあると思えないが、背に腹は代えられない。
「おっ、あった」
 大きなカーブを抜けた先に広い駐車場を備えた休憩所があった。入り口には『みちのえき』と手書きで書かれた木製の看板が掲げられてある。
 駐車場の奥には赤い三角屋根の公衆トイレがあり、少し離れた場所には同じ色形の屋根の東屋も設えてある。
 周囲は桜やツツジの植え込みに囲まれ、一見公園のようだが他に何もない。
 新設時はお洒落な休憩場だったのかもしれないが、赤い屋根は日に焼け色褪せているし、白壁は青黒いコケに覆われている。木々も手入れされておらず枝が伸び放題で、駐車場の縁を彩るはずの花壇には雑草しかなく、柵も壊れ荒れ果てていた。
 こうなればトイレの中が不安だが、選り好みしている場合ではなく、こっちが頼んだ手前、勝手に駐車場へと入っていく浩二に不満を漏らすわけにもいかない。
 トイレに近い一画に車を止め、浩二がドアロックを解除した。
「ありがと」
 美和子は礼を言いながらバッグを持って車を降り、急いでトイレへと駆けこんだ。
 夕方とはいえ空はまだ明るかったが、山の影が被さってトイレ内は海中のように薄暗い。
 だが、足を踏み入れた途端、ぱっと自動的に照明が点いた。
 結構新しい設備なのね。
 便器も洋式の洗浄機付きで、五つの個室はきれいに清掃され、使用できる場所を選別する必要もない。
 トイレットペーパーの有無に不安も抱いていたが、予備を含め全室に完備され湿気でよれていることもなく、横に設置された汚物入れもきちんと処理され清潔さが保たれていた。
 美和子は手前の個室に入ると壁に取り付けられたフックにバッグをかけて用を足した後、ほっと一息ついた。
 山間に鳴くひぐらしの声が静かにトイレ内に響いている。
 衣服を整えた美和子は個室を出て三台ある真ん中の手洗い台の前に立った。ここも自動式で、手をかざすと水の出る蛇口だったが、そんなどこもかしこも新しい設備にもかかわらず、目の前の壁には鏡がなかった。
 いや、以前はあったが今はないというのが正解なのだろうか、長方形の白い跡がついている。
 三台ともすべてなく、心ない利用者にいたずらで割られたのかもしれない。
 美和子はため息をついてバッグからコンパクトを取り出し、化粧直しを始めた。口紅を上塗りし、鏡の角度を何度も変えながら顔全体のチェックをしていて、ふと自分の背後にさっき使ったトイレが映り込んでいるのに気付いた。
 そのドアの隙間から人の顔が覗いている。
 照明が照らしているにもかかわらず暗がりに滲んだように輪郭が曖昧な、だが女性だとわかる顔立ちをしていた。
 美和子は鏡が割られたのではなく、故意に取り外されたのだと瞬時に悟り、気付いたことに気付かれないよう、知らん顔をして急いで外に出た。
 まっすぐ車に向かい、助手席に乗り込むと、
「早く出てっ」
 窓を開けてゆっくり煙草を吹かしていた浩二を急かす。
「もうちょっと待って」
「早くっ」
「なんだよ、勝手だな」
 文句を言いつつも煙草を灰皿でもみ消し、浩二が車を発進させた。
「どうしたんだよ」
 繰り返すカーブをハンドル操作しながら浩二が訊いて来る。
「何でもない」
 そう答えると、それ以上何も訊いて来なかった。
 上り下りの山道をどんどん進み、長いトンネルを過ぎて隣市の標識を超えてから、美和子は大きく長いため息を吐いた。
「これだけ離れたらもう大丈夫よね」
「なに? どういうこと?」
「実はね――」
 美和子はさっきの出来事を浩二に説明した。気付いていることに気付かれて憑いて来る可能性を考え、今まで黙っていたのだと。
「ああ、そういうことだったのか――でも、それ意味なかったよ」
「え?」
「さっきからずっと後ろにいる」
 浩二が声をひそめ、美和子にも見えるようにルームミラーをずらした。
 ぼやけた薄墨色の女が後部座席でうつむいて座っていた。


「なんとかしろよっ、連れて来たのはお前だからな」
「わかってるわよ。でもどうしようもないでしょ」
 浩二が朝刊から顔を上げ、いきなり怒鳴り始めた。それに負けじと美和子も返す。
 あの日から一週間後の日曜日。二人はずっとこの調子で、美和子はいい加減うんざりしていた。
 家の中にまで憑いてきた女の霊は、今はリビングの片隅にいるが、キッチンや寝室、トイレや風呂にまで現れては消え、消えては現れと、ところ構わず美和子たちの目にその姿を映していた。
 ただうつむいて立っているだけで何かされるわけではない。だが、その周囲は禍々しい気に汚染され、次第に拡大してきている。場所だけでなく心の中もどす黒く濁り始めているのが自分でもわかった。
 それは浩二も同じらしく、日中は仕事でいないものの疲れのせいか同じ影響を受けるようで、お互い自分自身で掌握できない感情をぶつけることが多くなってきていた。
「だからっお祓いを頼むなりなんなりしたらいいだろっ」
「そんなお金ないわよ。効果があるかわかったもんじゃないし」
「やってみないとわからないだろうがっ」
 浩二が持っていた朝刊を美和子にぶつけリビングを出て行く。
「なによ、えらそうに」
 憤慨しながら美和子は散らばった新聞紙を集めてそろえた。
 もとはと言えば浩二が悪い。
 あのドライブは浮気のバレた浩二が詫びで設けた温泉旅行の帰り道だった。
 自然現象で止めて欲しいと言ったのは確かに美和子だが、あそこに入ったのは浩二の独断だ。
 気付いたら片隅にいた霊が消えていた。
 だが、いなくなったわけではない。
「お願いだから帰ってよ――」
 美和子はせっかくそろえた新聞の中に顔を埋めたが、
「あ――そうよ。送ってけばいいんじゃない」
 そう思いついて、くしゃくしゃの新聞から顔を上げた。

 美和子の提案で休日を潰された浩二の機嫌はさらに悪化した。
「お前だけ来ればよかっただろ」
「あの日と同じでないとうまくいかないかもしれないでしょ。それにわたし、こんな山道の運転苦手だし。やっぱりあなたでないと」
 山道に入ってからもまだ文句を言い続けている浩二に辟易していた美和子だったが機嫌を取りながら微笑んだ。
 後部座席に女が座っているのをそっと確認し、まだ家に侵食していなかったことに安心した。
 出発時間が遅かったので『みちのえき』に着く頃には、あの日より空が暗くなるだろう。そんな時間の違いで引き離しに失敗するのではという不安はあるが、美和子は賭けるしかなかった。
 到着した『みちのえき』にはすでに街灯が灯っていた。あの時には気付かなかったが、昔風のお洒落なガス灯を模している。だが、その光は弱々しく細かな羽虫が群がっていた。
「どうすんのか知らないけど、さっさと行って来いよ」
 浩二はまったく関係ないと言ったふうに煙草に火をつけ、こちらを見もしない。
「わかったわよ」
 舌打ちしそうになるのを押さえて、美和子は車外に出た。後部座席をチラ見すると女はいない。街灯の光では見えないが、自分の背後についているのかもしれない。
 美和子は足元の暗がりに注意しながら急いで公衆トイレに向かった。
 トイレに入るとあの時と同じく自動で照明が点いた。今回も清潔で塵一つ落ちていない。
 ここに戻す方法などまったくわからなかったが、勝手について来たのだから、勝手に戻るのではないかと期待した。
 とりあえずトイレの奥に入り「ここにお戻りください」と祈った。
 なんの実感もなかったが、一応洗面台の前でも祈る。
 戻ったことを確認するため上着のポケットにコンパクトを忍ばせてきたが、鏡に映ってまたついてくるはめになったらと思うと開けない。
 ふっと思い立ち、美和子はトイレの出入り口から顔を出して駐車場を確認した。
 街灯の鈍い光の下、運転席の窓から肘を出した浩二が煙草を吹かしている。その後ろの席にうつむいた女の霊が座っていた。
「やっぱりだめか――」
 失望しながら中に戻った美和子はもう一度、深く深く心から祈った。
 トイレから出てくると後部座席に霊は見えなかった。
 祈りが通じたのかどうかまだわからないが、とりあえず美和子は車に戻り、助手席のドアを開けて中を覗いた。
 待ちくたびれて居眠っているのか、肘を窓にかけたまま浩二が深く項垂れている。指に挟んだ煙草の火はフィルターまで達して消えてしまっていた。
「ごめんね、待たせて」
 話しかけても目を覚ます様子はない。
「あなた?」
 軽く肩を揺すっても同じだった。
「あなたっ、あなたってばっ」
 激しく揺さぶると煙草がぽとりと浩二の腿でバウンドして足元に落ちていった。
 カーブの向こうからヘッドライトが見え、一台の車が駐車場に入って来た。
 眩しい光に照らされると同時に、浩二が胸に倒れ込んできた。苦悶を浮かべた白目が美和子を見上げている。
「きゃあぁぁぁぁ――」
 ボートを積んだワゴン車から降りてきた若い男女が美和子の悲鳴を聞きつけ駆け寄ってきてくれた。
「どうかされましたか?」
「しゅ、主人が――主人が――」
 浩二を抱いて泣き喚く美和子に緊急事態を察知した若者たちはてきぱきと行動し始めた。
 美和子は浩二から引き離され、崩れそうな身体を女性たちに支えてもらっていた。男子たちの救急車を手配する声がする。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
 背中をなでてくれる優しい声にうなずきながら、さっきの『その人をあげるからここにお戻り下さい』という心からの祈りを美和子は思い出し、漏れ出そうになる笑みを両手で覆い隠した。


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