くるみの世界

金でやっていく世の中や、あいさつが正しいとされていることは間違っているということを主張したいです。

脱あいさつ あいさつは正しくない3

2022年10月14日 | 脱あいさつ

目次

第1章から第9章へのリンク
第10章から第12章へのリンク
13.あいさつについて良く言う場合と悪く言う場合
14.あいさつは政略結婚のようでもある
15.学校のあいさつ運動というあいさつ信仰の押し売り
16.みんなを家族みたいに思うようになったら、一部の人にはあいさつをしなければならないという信仰心も終わるだろう
17.一抜けたくても一抜けることが出来ない
18.みんなほとんどのことを知らない
19.袴田事件とあいさつと信仰心
20.他人の姿は自分の姿、他人は自分を映す鏡、目くそ鼻くそ、五十歩百歩
第21章から第23章へのリンク
第24章へのリンク
第25章から第28章へのリンク
第29章から第37章へのリンク
第38章から第47章へのリンク
第48章から第52章へのリンク
第53章から第56章へのリンク
第57章から第59章へのリンク
第60章から第67章へのリンク
第68章から第75章へのリンク
第76章から第81章へのリンク
第82章から第86章へのリンク
第87章から第93章へのリンク
第94章から第99章へのリンク

 

13.あいさつについて良く言う場合と悪く言う場合

 

あいさつを良く言う人は、常識、社会のルール、人間のルール、人間の基本、当たり前、マナー、モラル、社交辞令、コミニケーションなどという言葉で言い表す。
これはあいさつをしている人たちの心理や、動機、目的などについては一切触れてはいないのだ。
例えば、「多くの人たちは食べ物、料理を食べています」と言えば、
多くの人は同じように食べ物、料理を食べていて
同じことをしているように思えても、実際はみんなが同じ食べ物や料理を食べているわけではないし、同じ目的、理由で食べ物、料理を食べているわけではない。

食べ物、料理を食べている目的、動機が
・体の健康のために食べている人
・味覚を満たすために食べている人
・健康のためと味覚を満たすために食べている人
・どんな味かを知るために試食で食べている人
・人に食事に誘われたから、本当は食べたくないけど仕方なく付き合いで食べている人
・不快なことがあり、それを忘れたりするために食べている人
・本当はまずいから食べたくないけど、捨てたら罰が当たるかもしれないとか、もったいないからとかで食べている人
などの目的、理由で食べていて、みんなが同じ目的、理由で食べていない。

別の例えで言えば、「大勢の人が働いて仕事をして給料や印税という形で金を貰っています」と言っても、
同じ目的、動機、理由で働いてはいない。
好きなことや、自分が言いたいことを言って給料や印税という形で金を貰っている人がいる一方で、
ほとんどの人はこういうことで金を貰っていないだろう。
多分、シンガーソングライターとか作家などの一部の人は、自分が言いたいことを言って、自分のやりたいことで給料や印税という形で金を貰っていたり、好きなことをやっていたら後から給料という形で金を貰えるようになったという人もいるだろうが、ほとんどの人は金がないと生活していけないし、欲しいものが買えないので、金を貰うために給料を貰うような仕事をやっていると思うが、同じ仕事をしているわけではないし、
給料や印税で貰っている金は人によって違うのだ。

あいさつをしている人全員が同じ目的、動機、理由であいさつしているわけではないが、ほとんどの人にあいさつしていないし、大人から教えてもらったと言っていても、実際は自分が勝手にあいさつの決まり(ルール)決めていたり、気分次第の適当、いい加減なあいさつをしていたりする。
正しくもないあいさつを正しいと信じていたり、正しくもないあいさつを人にやらせようとしたり、あいさつを初めにされたがってたり、
あいさつ返されたがっていることなど、あいさつを悪い感じに言えば、
・勝手なあいさつ ・自分勝手なあいさつの決まり(ルール) ・勝手なあいさつの決まり(ルール)
・自分勝手なあいさつ  
・自分中心なあいさつ  ・自分中心なあいさつの決まり(ルール)
・いい加減なあいさつ  ・いい加減なあいさつの決まり(ルール)
・適当なあいさつ   ・適当なあいさつの決まり(ルール)
・我がままのあいさつ ・我がままのあいさつの決まり(ルール)
・気分次第のあいさつ
・やりたいときにだけあいさつ
・上から目線のあいさつの決まり(ルール)  ・上から目線のあいさつ
・支配的なあいさつ  ・支配的なあいさつの決まり(ルール)
・独裁的なあいさつ  ・独裁的なあいさつの決まり(ルール)
・バカのあいさつ  ・バカのあいさつの決まり(ルール)
・アホのあいさつ  ・アホのあいさつの決まり(ルール)
・意地悪あいさつ  ・意地悪なあいさつの決まり(ルール)
・イカレてるあいさつ  ・イカレてるあいさつの決まり(ルール)
・あいさつ自分ルール
・オレ様あいさつルール
・あいさつはウソルール  ・ウソあいさつ  ・あいさつはウソ
・あいさつはウソの決まり(ルール)
・変なあいさつの決まり(ルール)  ・変なあいさつ
・あいさつは差別   ・あいさつ差別ルール
・あいさつの押し売り
・あいさつの押し付け
・あいさつ返せの押し付け、押し売り
・異常なあいさつ  ・異常なあいさつの決まり(ルール)
・あいさつ自分宗教
・あいさつ自分勝手宗教
・あいさつ宗教自分宗派
・あいさつオレ様宗教 ・オレ様あいさつ宗教
・あいさつカルト宗教
・あいさつされたがるバカ
・あいさつ返されたがるバカ
・あいさつを初めにされたがるバカ
・あいさつの奴隷
・暴走あいさつ ・暴走あいさつ人 ・暴走あいさつ族 ・あいさつ暴走族 ・あいさつ暴走人(ぼうそうじん・ぼうそうにん)
・あいさつの呪縛 
・あいさつで人を呪縛する
・自己満足あいさつ
・無茶苦茶なあいさつ
・統一されてもいない支離滅裂なあいさつの決まり(ルール)
・支離滅裂あいさつ
・統一されてないあいさつ
・バラバラなあいさつの決まり(ルール)
・あいさつにうるさい奴にロクな奴いない

仕方ないから渋々、嫌々あいさつしていたり、
好かれたい、嫌われたくない、攻撃されたくない、気に入られたい、大勢と同じだと思われたいからやっているようなあいさつの場合は
・機械的なあいさつ
・あいさつロボット
・あいさつマシーン
・形だけのあいさつ
・表面的なあいさつ
・うわべだけのあいさつ
・血も通わないあいさつ
・薄っぺらいあいさつ
・嫌々あいさつ
・渋々あいさつ
・仕方なくあいさつ
・あいさつは見栄
・あいさつは体裁
・あいさつは虚栄心
・あいさつは媚売り
・媚売りあいさつ
・あいさつは胡麻すり、胡麻すりあいさつ
・攻撃回避のためのあいさつ
・嫌われることを回避するためのあいさつ
・あいさつは建前  ・建前あいさつ
・あいさつ擬態  ・あいさつ型擬態
・あいさつするという演技
・恐怖のあいさつ
・恐れからあいさつする
・あいさつの恐怖
・あいさつ地獄
とも言える。

 

 

14.あいさつは政略結婚のようでもある

 

AさんがBさんにCさんに初めにあいさつしろと指示を出して、CさんにDさんがBさんにあいさつ返せと指示を出して、
AさんやDさんは他人を自分の思い道理にさせたがっていて、BさんとCさんはあいさつしたいとは思っていなかったり、
あいさつを正しいと信じていないのに、他人に指示されたことに従い、形だけあいさつしているのは、政略結婚にも似ているのだ。
あいさつしあった人達がお互いどちらともが相手と関わりたいとも思っていなかったり、お互いどちらともが、あいさつすることを正しいと思っていなかったり、あいさつを面倒だとか窮屈だと
思っていても、周りの人などが「あいさつできる人は素晴らしい」などと褒めて良く言い、あいさつしていることに満足していても、本人たちは本当は嫌々、渋々あいさつしている。
政略結婚でも親や一族の都合で結婚させて、本人たち以外が満足している感じだ。
大勢と同じことをさせたいという親や祖父母の見栄や体裁で、子どもや孫にあいさつしろと指示出して、命令して、孫や子どもが自分の言いなりになると自己満足するだけだ。

もしくは、政略結婚でも、片方はかわいい子と結婚出来て、セックス出来て良かったと思っていても、もう片方は結婚したことを嫌がっているような感じだ。
あいさつも、片方はあいさつを初めにされたり、あいさつ返されてうれしがったり、満足しても、もう片方は本当はあいさつしたくはなかったり、相手と関わりたいとも思っていない場合もあるだろう。
あいさつは自己満足とも言える。あいさつしあった両方があいさつされたことに満足していたら、自己満足している人が2人いるとも言えるわけだ。
言葉など言葉遊びなので、2人ともが満足していたら自己満足とは言わないと言いたい人は自己満足とは言わないと言うのだろうけど。

 

 

15.学校のあいさつ運動というあいさつ信仰の押し売り


学校のあいさつ運動というおかしな変なことをしているが、
先生や地域の大人が、どういう目的、理由であいさつ運動などしているのだろうか?
「あいさつは人として絶対にしないといけないこと」と子どもに信じさせたいのか、「あいさつを初めにされたらオウム返しをしなければいけないのが人として正しいこと」と言いたいのか、「学校の一部の人や、近所の人や職場の人にはあいさつしろ」と言いたいのだろうか?
何で一部の人にだけあいさつをさせたいと思っているのだろうか?
親や先生や、地域の人が子どもにあいさつしろと言っても、子どもが誰にでもあいさつをするわけないし、大人も誰にでもあいさつするわけではない。
自分が勝手にあいさつの決まり(ルール)を決めつけて、独自の勝手なあいさつをしているだけだ。

先生も親も大人も、誰でも人間や世の中、社会などと呼ばれているところをあまり知らないのに、適当、いい加減なことを言ってるところがあるのだ。
まるで、人は誰でも初めにあいさつされたらオウム返しであいさつを返すとでも言いたいかのようにあいさつ運動をしているのだろう。
みんながあいさつを正しいとは信じてはいないし、多くのあいさつ信者はあいさつの決まり(ルール)は人によって違うことが分かっていないし、知らないし、ヘレンケラーみたいに耳が聞こえない、喋れない人がいることさえ忘れていてバカでおかしいところがある人もいるのだ。

みんながあいさつを正しいと信じていないということを言っておいた方がいいが、それを言ってないから、20才過ぎても、60才過ぎても、あいさつ返されなかったり、言葉であいさつ返さずに会釈した人に
不満や疑問を持ったり、攻撃してくる人がいるのだ。
日本人は小さい時からあんまり人のことが分かってないだろうし、
老人になってもあまり分かっていないだろうが、日本人は人の気持ちが分かるなどと言っている人もいて間違ったウソを言っている人もいる。
世の中ウソが多いのだ。

学校教育を良く言わない人は「学校狂育」とか「学校という洗脳教育機関」などと言う。
戦争のことでも誰かが「学校やメディアが競って軍国少年を作り上げ」という感じのことを書いていたが、
あいさつも子どもに対して大人の一部がウソを言っているが、子どもは人が見抜けるとか、正しいことが分かるかのように言う人がいるが、
大人と同じで、子どももあまり人のことを分かってないところがあり、
あいさつされたらオウム返しであいさつを返すことが正しいことだと間違ったことを信じている子どもがたくさんいるのだろう。

ある作家の子どもの先生が「仕事が軌道に乗るまで3年はやらないといけない」と言っていたと、
その作家に言ったら「分かる人は分かるから3年は行かなくてもいい」というようなことを言ったみたいで、
同じことを思っていないのだ。あいさつでもみんなが同じあいさつの決まり(ルール)を信じているわけではないし、
あいさつ非信者もいるのだ。仕事が軌道に乗るまで3年やらなければいけないと言っていた先生は誰かがそういうことを言っていたことを
信じたのだろう。

あいさつを「学校狂育」に似せた言い方をすれば、「あいさつ狂育」とか「あいさつ狂育運動」とも言える。
正しいと信じていることを良く言う場合は、教育や育てる、躾などと言い、
正しいと信じていないことや間違っていると思っていることを子どもや他人に言うことを、「押し売り、押し付け、洗脳、マインドコントロール、支配、命令、指図、呪縛」などという言葉で言い表していたりする。

あいさつは正しことではないので、あいさつのことを「押し売り、押し付け、洗脳、マインドコントロール、支配、命令、指図、呪縛」
という言葉を使ってあいさつ運動に似せた言い方をすれば、
あいさつの押し売り運動、あいさつの押し付け運動、あいさつ洗脳運動、
あいさつの命令、あいさつ信仰の押し売り運動、あいさつの指図、あいさつ呪縛、あいさつで呪縛する、あいさつ命令、という感じだ。

誰かがブログに、子どもの時に学校であいさつ運動がある日は学校を休みたかったと書いている人がいて、
はっきり覚えていないが、その記事の題名か、記事にあいさつの押し売りと書いていた気がする。
この人は、学校のあいさつ運動の時に、あいさつしたらあいさつを返せというのとか、一部の人に初めにあいさつしなければいけないというような押し付けが嫌だったのではないかと思う。

 

 

16.みんなを家族みたいに思うようになったら、一部の人にはあいさつをしなければならないという信仰心も終わるだろう

 

言葉の定義は人によって違うので、家族の定義も人によって違うが、多くの人の家族の定義は、親、兄弟を家族という人が多いと思う。
一部の人は嫌いな家族を家族と呼ばない人もいるが、ほとんどの人は親、兄弟を嫌っていても家族と呼ぶ人が多いだろう。
家族や親戚にあいさつしない人もたくさんいるだろうし、
家族や親戚にあいさつして、あいさつ返されなくても、例外あれど不満は持たない人の方が多いだろう。
不満を持たない理由は、家族や親戚に生きているだけでいいと思っていたり、過去にたくさん自分の役に立っているところがあるからとか、
好きだからとか、魂で繋がっているからとか、仲間だからとか、血が繋がっていて特別な関係だから、という理由だろうが、全ての人間に対して同じようなことを思っていれば、あいさつなど要らないのだ。
友達、恋人や子どもにも、家族と同じようなことを思ってる人が多いだろうから、例外あれど、友達や恋人や子どもに初めにあいさつして、あいさつを返されなくても不満を持たないだろう。

みんなを家族みたいに思うようになったら、一部の人にはあいさつをしなければならないという信仰心も終わるだろう。
あいさつ非信者の中には、あいさつをやりたくないとか、面倒だと思っていたり、嫌がっている人が「あいさつから解放されたい」というようなことを思っている人もいるはずだ。
別のいい方をすれば「自分が正しいと信じていない決まり(ルール)から解放されたい」という感じだ。
あいさつ信仰がなくなれば、一部の人にあいさつしなかったら、自分や家族が嫌われたり、不満を言われたり、悪態つかれたり、身体暴力を振るわれたり、影から嫌がらせされるかもしれないという不安や恐怖心を持たなくてもいいし、煩わしいあいさつから解放されるだろう。

 

17.一抜けたくても一抜けることが出来ない

誰かと一緒に何かをしていて、それを辞めたり、何かの集団に属していて、そこから出ていくことなどを「一抜けた」「一抜ける」
と言ったりするが、この一抜けたをやりたくても、一抜けた後のことを考えると、自分や家族などに不利益がある可能性があり、
それが恐ろしかったり、怖くて一抜けたが出来ない人は多いだろう。
給料を貰うような仕事を辞めるのにバックレと言われているものがあるが、許可なく連絡なしで辞めることは簡単にその集団から離れることは出来るが、その後に職場の人や、それ以外の人から、バックレをやったことに対して不満を持たれたり、不満を言われたり、
見下されたり、何かの攻撃をされることを嫌がって恐れて、バックレで一抜けたができない人もいるだろう。
見栄、体裁、虚栄心などで一抜けたが出来ない場合もあるだろう。
バックレ以外でも、辞めたいと言うと職場の人などに不満を持たれる場合があったりするから、それが嫌で辞めたいとは言わないとか、
辞めてもいいという許可をされても、数週間後や数か月後などに辞めていいと言われた場合はすぐに辞めることが出来ないので、すぐに簡単に一抜けたが出来ないのだろう。
金がないとやっていけないので、辞めた後に次の仕事が見つかるまでの期間に、金が入ってこないと死活問題なので今やっている辞めたい仕事を辞めるわけにはいかない人もいるだろう。

あいさつでも、あいさつから一抜けたは簡単にできることで、あいさつをしなければいいだけのことだが、あいさつしなかった後のことを考えたり、想像すると怖くて、あいさつから一抜けれない人もいるだろう。
あいさつ返さなかったりとか、初めにあいさつしなかった時に、絶対に嫌われたり、不満を持たれたり、不満を言われたり、何かの攻撃をされたりするわけではないが、それをされる可能性や危険性もあるので、
自分の気持ちにウソをついて、あいさつをする人もいるだろう。逮捕などで牢屋に入れられたりなど、どこかに閉じ込められている場合は、
その場所からの一抜けたはしにくい。

宇宙飛行士などは別として、生きている人間のほとんどの人はこの地球から体は出ていけない。
地球に体がありながらも精神、心、意識は地球の外の世界の宇宙や地球以外の惑星や銀河や月を意識することが出来るから、
目に見えない所では地球から一抜けたが出来ているとも言えるが、体は地球から一抜けたは出来てはいない。
宇宙飛行士などが宇宙空間に行ったことを地球から一抜けたと言ったとしても、それは一時的なもので、また地球に戻って来て地球に住むのだ。

例外あれど、大勢がやっていることが正しいというような信仰を多くの人が持っていて、大勢の多数派の信仰が世の中で強い影響力を持っているのだ。
金でやっていく世の中が正しいという信仰を多くの人が持っているから、
金でやっていく世の中はなくならないのだ。
地球が金の惑星みたいになっているのだ。
表向きは人のために給料貰う仕事をして働いていて、金ではないというようなことを思っている人もいるだろうが、
本当に全ての人のためにやっているのならば金など要らないのだ。
つまり、金でやっていく世の中をやっているということは、
みんなで助け合いすることが出来ていないということなのだ。
例外あれど、あいさつを一部の人にしないといけないと信じている人がいるのも、ほとんどの人を仲間と思っていないし、大切ではないからだろう。

金でやっていく世の中が正しいと思わないからと、値段ついているものに金を払わなったり、金でやっていく世の中は正しいと信じている人でも、
税金を払うことは正しいと信じていない人が税金を払わなくて、
金でやっていく世の中や、税金制度の決まりから一抜けたをしたとしても、
金でやっていく世の中が正しいと信じている金信者たちから不満を言われたり、逮捕されたり、税金Gメンから差し押さえをされたりして、一抜けたくても抜けきることが出来ずに、自分のやろうとしていることを押さえ付けられて止められるのだ。
大勢の多数派の信仰が、金非信者が金でやっていく世の中から一抜けきることを許さないのだ。

誰にでもあることだろうが、自分の自由は許すけれど、他人の自由は許さないところがあるのだ。
あいさつの決まり(ルール)を勝手に決めて、一部の人にだけあいさつする自分の自由は許しても、あいさつされた人があいさつを返さない自由は許さなかったり、自分がほとんどの人に初めにあいさつをしない自由は許しても、ごく一部の人が自分や自分の家族に初めにあいさつしない自由は許さない人もいるのだ。
金でやっていく世の中が正しいと信じて、この金社会を辞めようとしない自由はまかり通らせても、金でやっていく世の中から抜けようとする人の自由は許さない人がたくさんいる。



18.みんなほとんどのことを知らない

 

日本人が人の気持ちが分かると言ってる人もいるが、日本人はあまり人の気持ちは分からないだろうが、自分は人の気持ちが分かるところがあるから、
あいさつしないのは嫌われているからだとか、嫌われている可能性があると思ったら、それが正しいと勝手に信じる人もいるのだ。
あいさつするのを嫌がっている人もいて、あいさつをみんなが正しいと信じているわけではなく、あいさつの信仰心は人によって違うことを知れば、あいさつしてほしいのにあいさつしてこない人がいてもほとんどの人は不満を持たなくなると思うけど。

常識の定義も人によって違うが、大勢がやっていることや大勢が正しいことだと信じていることを常識と定義づけるとするならば、
今はあいさつすることが常識ということになるが、今後もあいさつが常識ということにはならない。
日本人も数十年前までは、スマホもガラケーも持ってないし、昔はインターネットもラインもSNSもやっていなかったのが今は大勢の日本人がスマホを持ち、インターネットやラインやSNSをやっているのだ。
昔の日本人が和服を着ていたり、ちょんまげを結ってた時があっても、今の日本人は普段は和服を着ていない人が多かったり、ちょんまげなど結っている人はほとんどいない。

法律でも大麻取締法などは昔の日本の法律にはないから、昔は大麻吸ってても、大麻栽培してても、大麻を持っていて所持していても逮捕されることなどなかったのだ。
今も他の国では大麻を吸ったり、所持していても逮捕されない国もある。
同じことをしているのに許される場合もあれば、許されない場合もある。
大麻についても逮捕されることだから大麻は良くないと信じている人もたくさんいるだろうが、みんなが大麻を悪く思っているわけではない。
自分で調べようとはせずに、逮捕されたから悪いことだと思い、いい加減で適当なことを信じているのだ。あいさつ返されたくてあいさつして、相手があいさつ返さなくても、みんながあいさつ返さなかった人を許さなかったり、嫌ったり、見下したりはしない。

テレビ番組で「土産物を返す文化がなくなってほしい」とツイッターに誰かが書いたものがその番組に出ていた。
土産や貰い物を返したくないのならば、返さなければいいだけのことだが、見栄、体裁とか、嫌われたくないとかで嫌々返しているから不満を言うのだろう。
大勢がやらなくなったら、堂々とやらないんだろうが、大勢が土産物などの貰い物を返しているから、形だけ大勢と同じことをやる人が多いのだろうけど。
他人に物をあげて、何かを返されたら、あげた物を嫌がられていないとか、嫌々何かを返しているとは思わない人もいるのだろうが、
あげると言われたものを嫌がっている場合もあれば、何かを貰って返すのを嫌がっている人もいるが、それを知らない人もいるだろう。
あいさつも同じで、大勢があいさつしなくなったり、あいさつ返さなかったら、大勢と同じ人間だと思われたい人や、大勢がやっていることが正しいと信じている人もあいさつしなくなるだろう。

はっきり覚えていないが、以前、しゃべり場というテレビ番組で、、
10代の女の子が「あいさついるか?」みたいな感じのことを言っていた。
この人はあいさつ非信者で、あいさつを正しいとは思っていない人だろう。
こういうことを言っている人が概にテレビに出て喋ってても、
ほとんどの人はこのテレビ番組を見てないだろうから、
みんながあいさつ正しいと思っていなかったり、あいさつしたいと思っていない人がいるということを知らないのだ。
知ったとしても、大勢があいさつしていれば、これからもあいさつを一部の人にだけする人もいるのだろうけど。

私と同じ家に住んでいる親戚の叔父が、近所の人のことを「○○町にも変なのがいる。ほとんどの人は変ではない」というようなことを以前言っていたが、叔父は近所の人のことなどほとんど知らないだろうけど、ほとんどの人は変ではないと思っているようだ。
誰にでも叔父みたいなところはあるだろう。
他人の一面、一部分を見聞しただけで、その人のすべてが分かっているかのように思っている人もいるだろう。
誰かに悪印象を持っていない人が、その後、その人に悪い印象を持つと「印象変わった」などと言っていたりする人もいるが、人のことなど一面を見聞しただけで、その人の全てなど分かるわけないのだ。

このあいさつについて書いている文章の題名をあいさつの闇という題名にしたが、信仰の闇、心の闇、心理の闇などとも言えるだろう。
日本人も日本人以外も、人のことなどあまり分かっているわけないのだ。
あいさつ信者やあいさつ非信者の多くも、あいさつされたら人はあいさつ返すものであると思っているのだろう。
だから、あいさつ返さないことに、違和感を感じておかしいとか変だと思ったり、大勢と同じようにあいさつ返さなかったり、最低限でも会釈しないことに不満を持つ人がたくさんいるのだろう。
人のことをあまり分かっていないのだ。人の心、人の心理や信仰をあまり分からないという心の闇が隠されている。
他人の分からない心の中を自分は知っているところがあると信じていて知ったかぶっているところがあるが、
あいさつについて人が何を思って、信じているのかをあまり分かっていないし、あいさつ以外のことについてもほとんど分かっていないのだ。分かっていないのに人はみんな初めにあいさつをされたら、あいさつを返すことが正しいと信じていて、みんながあいさつを返すのだと知らない人の内面を分かっていると知ったかぶっている人のことを、あいさつ出来る人は素晴らしい、常識人、普通の人、一般的な人などと呼んで片付けているのだ。

人間のことを全てがみんな同じ人間だと思っていなかったり、
あんな人と同じ人間だと思われたくないと思ってる人も、一部のことは
大勢と同じことをしなければいけないと信じている人がたくさんいるのだろうけど。そのうちの一つがあいさつだ。

みんな世の中のことも、人のこともあまり知らない。
知っていることの方を持ち出して、自分が知っていることを知らない人を下に見て優越しても、所詮ほとんどのことなど知らないのだ。
多くの人に知られていないことを闇と言うとすれば、世の中のほとんどは闇だ。
今後は今までよりは、大勢には秘密にされていて一部の人しか知らなかったことや、大勢に知られていなかったことが今までよりは知られていくだろう。
他の人が言っていることでも、「今後は社会の片隅でひっそり生きていた人が日の目を見る」というようなことを言っているが、実際そうなるだろう。
例外あれど、今までは多数派のやっていることが素晴らしいことであるとか、大勢と同じことをすることが多くの人から求められて、望まれていたところがあるだろうが、今後は少数派がいい意味で注目されることも増えるだろう。

下剋上という言葉があるが、意味、定義は人によって違うことを言っていたりするが、誰かの定義では「下の勢力が上位の者にうちかつこと」などと言っているが、今後の世の中もこんな感じになり、色んなことが逆転すると思う。
多くの人から立場が下だと思われていて、見下されている人やバカにされていた人や物などが、高評価されるようになったり、今までほど悪くは言われないようになったり、今まで大勢が正しいことで正義だと信じてきたことが、間違っていて不正であると逆のことを信じるようになるだろう。

勢力が強い人達と言えば、権力者やその権力者を支持する人や多数派や、少数派であったとしても大勢から支持されている歌手や芸能人などや
その少数派を支持している人達や、あいさつしなかった人を見下してバカにしている人がいる理由の一つは、大勢と同じことをしないからだろうけど、
今後は一人一人の個人の信仰が色々知られていけば、あいさつ返さないことにびっくりしたり、見下したり、バカにしたり、嫌う人も減ってくるだろうし、あいさつ以外のことでも色んな信仰を持っている人がいるということが今までより知られてきて、今までよりは個人や少数派が尊重されやすくなると思う。

 

 

19.袴田事件とあいさつと信仰心

 

袴田事件が冤罪なのに裁判で死刑判決になったが、この裁判の時に裁判官は3人いたみたいだが、一人の裁判官は無罪にしたのに、裁判長と他の裁判官は無罪に反対して死刑判決になったようだ。
裁判に関わらず、こういうことは日々、色んなことでたくさんあるだろう。
自分が属している集団の中で自分の信仰心や感じたことを言うと否定されたり、自分の言い分が通らないことなどよくあることだろう。
集団の中で立場が上の人の決めたことで決まったり、袴田事件の裁判の様に多数決で決めて大勢の方で決まることが多いだろう。
あいさつも同じことだ。大勢の人が一部の人にだけ初めにあいさつして、あいさつ返す人が多かったり、
自分が数少ない人に初めにあいさつしたら必発百中でオウム返しであいさつを返された人が多いだろうから、
誰でもあいさつ返すと信じ込んでいる人がたくさんいるだろう。
もし、大勢の人があいさつを返さないのならば、あいさつを初めにしてくる人自体がほとんどいなくなるだろう。

袴田事件のことについて、雑誌か何かに書かれていたことに、
冤罪なのに袴田巌さんがやったことだとデッチあげた警察や検察の名前を実名で告発するというようなことが書かれていたが、
警察や検察がウソをついて、やっていない人をやった人であるように仕立てたと不満を言いたいのだろうが、それならば、法律のほとんどを知らないし知る気もなく、知っている法律のほとんどを守らずに、守っている法律でも原則道理には守らなかったりして、自分達に都合のいいように法律を利用している人たちにも問題はあるということになる。
死刑賛成だったり、裁判官が人を刑務所に入れることを決めていいとか、損害賠償を払えなどということを決めてもいいなどと、
正しい根拠もなく信じている人はたくさんいるだろうが、裁判官の判決が気に入らない時にだけ不満を持ち、裁判官の判決に共感して正しいと思えば満足するようなことをしていたり、警察が人を逮捕することをやってもいいと信じている人にも問題はあるということになる。

ほとんどの人は裁判官や警察や検察をやっていないから、自分が決めたことではないし、関係ないと言いたいのだろうが、
裁判官や警察や検察という職種はあってもいいと、まかり通らせている人達もたくさんいるのだから、警察や検察や裁判官がやったことや判断に不満を持った場合は、警察が人を逮捕してもいいとか、裁判で裁判官が判決してもいいと信じている人も同罪だろう。
裁判官や警察や検察がやった言動や判決に対して気に入らないとか、共感しない時にだけ不満を持ち、自分達が共感したり、やってもいいと許していることをやった場合は不満を持たずに許すような勝手なことを思っているのだ。
袴田さんのことで警察や検察や裁判官をおかしいと思う人で、警察が人を逮捕したり、裁判官が判決することを正しいとか、やってもいいとか信じている人にも問題があるのだ。

人や人以外の生き物が嫌がるようなことをやっていても、ほとんどの人は逮捕にはならないのに一部の人だけ逮捕することをおかしいとは思ない人が多いだろう。
警察が逮捕することが正しいとか、裁判官が判決することが正しい根拠などどこにもない。
多くの人は自分に都合のいいように法律を利用しているのだ。
正しいと思う法律をまかり通らせているというよりは、自分に都合のいい法律だけを適用して利用しているのだ。

あいさつも同じで、先生や親にあいさつを教えてもらったとか、大人や親の真似をしてあいさつをしたという人が一部いるが、
親があいさつしたこともない人にあいさつしたり、ほとんどの人にはあいさつをしないのに勝手に一部の人にだけあいさつしたり、
あいさつを返すことが正しと誰かから言われたことがない人の方が多いだろうに、勝手にオウム返しであいさつを返すことが正しいと信じているのは、
親や先生に教えてもらったからではないだろう。
自分が勝手にあいさつは誰にでもやらなくてもいいとか、あいさつ返しが正しいと信じたのだろう。

裁判官や警察や検察の職種があってもいいとか、自分が共感できる判決や言動を裁判官や警察や検察がやったら許すのも、
あいさつが正しいと信じているのも、それ以外のことでも、自分が感じたことが根拠や裏付けもなく正しいと信じている信仰心なのだ。

 

 

20.他人の姿は自分の姿、他人は自分を映す鏡、目くそ鼻くそ、五十歩百歩

 

以前、何かのテレビ番組でAV男優のしみけんが、「セックスする時にコンドームをつけない人はあいさつができない人と同じ」というようなことを加藤鷹というAV男優が言っていたと喋っていた。
意味は多分、子作りではないセックスをする時にコンドームなどの避妊具をない付けなかったりして避妊をしていない人や、
あいさつされたのにあいさつ返しをしない人はダメ人間で劣っていて、人としてすべきことが出来ていない人だとでも言いたいのだろう。

この加藤鷹のことをある占いをしている人がブログで取り上げていて、
「インドだったらアウトカーストだ。でも羨ましい」というようなことを書いていた。
私はアウトカーストという言葉は、この人のブログを読んだ時に初めて知ったのだが、その時はアウトカーストという言葉がどういう意味か調べていなかったが、この文章を書く時にグーグルでアウトカーストと検索して調べた。アウトカーストの定義については人によって違うことを言っていて、
カーストの身分制度にも入っていない人と書いている人や、最下層と書いている人がいた。
AV男優やAV女優の人みたいに人にセックスをしていることを見せるのを誰かは格下に見てバカにしたり、やってはいけないことだと思っていても、
色んな女とセックス出来ていることを羨ましがっている人もいれば、AV女優やAV男優を下に見ていない人もいるわけだ。
AV男優の人があいさつを返さない人をおかしいと思って、あいさつは返さなければいけないことだと思っていても、
AV男優やAV女優をバカにしていたり、セックスしているところは見せたらだめだと思っている人もいるわけで、
自分が誰かをおかしいと思っていても、自分も他の誰かや、おかしいと思っている人からおかしい人だと思われているのだから、
五十歩百歩であり、目くそ鼻くそだ。

同じ国に住んでいる同国民であっても、同じ人間だとは思っていなくて、同国民を上に見たり、下に見たりして、縦社会のヒエラルキーがある。
この縦社会、ヒエラルキー、カーストがあるのは日本や他の国でも同じだ。
違いは誰をどうゆう理由で上に見たり、下に見たりしているのかが違うだけだ。
日本人には天皇家の人や天皇を日本国民より上に見ている人もいるが、そうは思わない人もいるわけだ。
同じ日本人でも同じことを思っていない。

ネットでGanasuというサイトと、こくちーずプロというサイトに書かれていたのを読んだのだが、インドのカースト制度は1950年に憲法で廃止されて、アウトカーストの低いカーストの人のための留保制度というものが出来たらしい。
留保制度で大学への進学や公務員への就職が低いカーストの人に優遇されているらしい。
それで高いカーストの人が入りたい大学にも入れないと不満を持っているインド人の人がいるみたいだ。
こういう不満はたくさんの人が持っていると思うが、
今までなかった決まり(ルール)を決めると、その決まりがなかった時に自由にやれていた人たちなどや優遇されていた人が不満を持ったりする。
今までなかった新しい決まりで得をする人もいれば、不利益になる人もいるのだ。

あいさつでも、あいさつ返されたいと思っている人が初めにあいさつして、
あいさつ返されたら、自分の思い道りになって満足したり、喜んだりしても、あいさつ返している方は嫌々あいさつしている場合もあるわけだ。
誰か片方が得をしていい思いをすると、他の誰かが嫌がっていたりする。
大勢がやっていることで、大勢が得しているようなことは良いこととして片付けて、嫌がっている人がいることも知らなかったり、嫌がっていることを知っていても大勢と同じことをしない人や、嫌がっている方が悪く言われやすい。

多くの人は誰かを嫌ったり、見下したりしていることをカーストやヒエラルキーや差別とはあまり言わないだろう。
人間は自分が感じていることが正しいと信じているところがあり、
自分が正しいと信じていることをやらない人を見下しても差別、カーストなどとは言わない人が多いだろう。
見下された人や嫌われた方に問題や原因があると信じているのだろう。

私の住んでいる近所で、私が初めにあいさつしないことに不満を持って、
私の近くで不満を言ってきたり、悪態ついてきた老人達がいるが、
この人達が誰に対しても初めにあいさつさせたいと思っているわけがないし、自分が住んでいる近所を通りすがる人の全てにあいさつを初めにしてほしがっているとは思えない。
推測だが、この老人達が初めにあいさつしないことに不満を持っているのは、私にだけ不満を持っているのではないかと思っている。
田舎で近所を通りすがる人もほとんどいなくて、生まれた時からずっと60年以上同じ場所に住んでいたり、
結婚して引っ越してきてから数十年、同じ場所に住んでいて、近所で直接見かける人もほとんどいなくて、
人を見かけても以前から知っている人ばかりだったりするところに、知らない人が引っ越してきたり、知らない人が近所を通りすがると、
初めて見る人でも好きな子どもとかではない場合は警戒したり、嫌がったりする人もいるのだ。

私の住んでいる近所で、私が初めにあいさつしないことに不満を持っている人は多分、自分達が住んでいる地域は、例外あれど、以前から長年この土地に住んでいる人のもので、それ以外の人の土地ではないと思っていたり、
先にこの土地に住んでいる人の信仰に合わせろとか思っていそうだ。
例外は長年住んでいなくても子どもや、好きな見た目をしている人や、好きな人などは受け入れていそうだ。
つまり、地球上のごく一部の場所、土地を自分達ごく一部の人のものだと勝手に信じているのだろう。
上から目線で支配的なのは権力者や白人や信長や秀吉などの武将だけではないのだ。

土地を一部の人のものと信じていて、自分の住んでいる地域に好きでもない人が引っ越してきたり、同じ地域に親しくない人が来て気に入らないと思い、引っ越してきた人に悪態ついたり、見下している人のことをガラが悪いなどの意味でやくざ、チンピラ、極道という言葉で言い表すならば、
「地域やくざ」「地域チンピラ」とか「組長気取り」とか
「地域組長」「土地組長」「土地チンピラ」「土地やくざ」とも言える。

自分の住んでいる地域に好きでもない人が引っ越してきたりして、
同じ地域に親しくない人が来て気に入らないと思い、引っ越してきた人に悪態ついたり、見下している冷酷さを持っている人を悪魔という言葉で言い表すならば「悪魔の土着民」とか「悪魔の現地民」とか「悪魔の先輩現地民」「悪魔の先輩住民」という感じだな。

あいさつをしてほしいのにあいさつをしない人に不満を持ったり、
悪態ついてきたり、不満を言ってくる人や、嫌がらせをしてきたり、身体暴力を振るってきたり、見下す人を「あいさつ鬼」「悪魔のあいさつ信者」「悪質あいさつ信者」「悪徳あいさつ信者」などとも言える。
あいさつ信者であいさつしない人を見下したり、不満を持つ人をガラが悪いという意味でやくざやチンピラ、極道という言葉で言い表すならば「あいさつやくざ」「あいさつチンピラ」「あいさつ極道」という感じだ。

大勢が正しいと信じているあいさつをする人のことを、あいさつ出来る素晴らしい人や、コミ二ケーション能力が高いとか、心の成長が出来ているなどと言って、甘やかして高評価している人もいるけど、自分の言いなりにならずに、自分の思い道りにあいさつしない人を嫌ったり、見下したり、
あいさつ返すまで執拗にあいさつしてきたり、あいさつしてほしいのにあいさつしない人に対して色んな悪態ついてきたり、
不満を言ってきたり、嫌がらせしてくる人を、あいさつした一面だけ持ち出して素晴らしいとか、心の成長が出来ていると言っているのもおかしいのだ。
あいさつにしろ、あいさつ以外のことでも、自分が勝手に正しいと信じたことをまかり通らせようとして、
自分に合わせてほしいけど自分は相手のことを全くか、ほとんど知る気もないような人は、自分が思いたいように勝手に色んなことを信じたり、感じたというだけだろ。
あいさつを正しいと信じ、あいさつ返しは人としてしなければいけない勝手に信じて、大勢と同じことを感じて、大勢と同じことを信じたというだけのことだろう。

あいさつを初めにしてほしいのにしなった人に不満を持つ人は上から目線であり、悪態ついた相手を仲間だと思っていないのだ。
以前、テレビか何かで知ったのだが、自分の住んでいる地域の海を他の人に使わせたくないというような感じのことを言っている人がいた。
同じ人間だとも思っていないし、仲間扱いしていないから、自分達の縄張りだと思っている所に、好きでもない人や仲間扱いしていない人が入ってきてほしくないのだろう。

控えめ、謙虚と一部の人が言っている日本人が、結構、図々しくて、上から目線で高慢、傲慢なところがあるのだ。
やくざ、暴力団、チンピラ、極道と言われている人を悪く思っていたり、格下に見ている人もいるだろうが、
やくざと言われていない人達も誰かから嫌われたり、格下に見られたり、バカにされているのに気づいていない場合が多いのだろう。
やくざの人とやくざと呼ばれていない人では、やくざの人の方がガラが悪いと思っている人の方が多いだろうが、
やくざではない人で普通の人や一般人や堅気の人間などと呼ばれている人なども誰でもガラが悪いところがあるとも言えるのだ。

ひどいと思う態度を取った人に、人のことを人間扱いしていないなどと言う場合があるが、仲間だと思っていない人や大切ではない人にあいさつをしてほしいと思ったのに、相手があいさつをしないことを許さないのも、相手のことを人間扱いしていないとも言える。
こういう人は、自分があの人に初めにあいさつさせたいのにあいさつされなかったと勝手に不満を持ったことをおかしいことだとか差別とは思わないだろうし、相手の方がおかしいと思っているのだろう。
根拠がなくても自分が正しいと信じているところがあるのだ。

こういう人の信仰心は、下が上に合わせて従えという信仰を持っている人もいるだろう。
先に住んでいた人の方が立場が上だと信じている人もいるのだ。こういう人は田舎に多そうだ。
昔から先祖や親や自分が同じ土地に住んでいたり、先祖や親が同じ土地の田んぼや畑を長年使ってきているので、
その土地は自分達一部の人のものだと思っている人もいるだろう。
勝手な縄張り意識を持ち、高慢、傲慢なところがあり、排他的、閉鎖的なところがある。
日本人は、日本人という同じ民族だとは言っても、日本人みんなを同じ人間だとは思っていないのが日本人なのだ。

土地に対する日本人の信仰はみんなが同じことを信じているわけがない。
多くの日本人は、土地はその土地を金を払って買った人のものであるとか、
今使っている土地を先祖が昔から使っていて、そこの土地を土地税を払って使っている場合は、その土地は土地税を払って使っている人やその人の家族のものであると信じていそうだ。
つまり、地球の一部は特定のごく一部の人のものであると信じている人もいるのだ。

日月神事には、人間に与えられているのは食べ物だけと書いていた。
これを知ってもみんなが正しいと信じるわけではないだろう。
日月神事に、衣類や家や土地は預けられていると書いていたが、
これを知っても、地球の一部分は特定の一部の人のものであると信じる人もいるだろうし、日月神事を知らなくても、
土地は人間のものだとは信じていない人もいるだろう。土地に対してもみんなが同じことなど思っていないのだ。

ほとんどの決まりを正しいとは信じない人達が、あいさつをされたらオウム返しであいさつを返すことが正しいとか、
絶対にオウム返しであいさつ返されると信じている人がたくさんいる信仰の謎だ。
あいさつのことも、多くのことも信仰心だが、信仰とは言わない場合が多いどころか、日本人は無宗教などと言う人もいて、
信じていることがない民族であるかのように言う人もいるが、実際は日本人は信じていることだらけなのに、自分の信じていることを言葉で一切言わなかったり、自分の信じていることがまかり通らないと怒りだしたり、不満を言ったりするのだ。

私の今住んでいる町内に、うちのとこの田んぼがあったのだが、2019年の後半にその田んぼが不動産屋に売れて金が入ってきたのだが、
叔父がその田んぼの土地のことに関わった人に不満を言っていた。
不満の内容は不動産屋が土地を買うことに「騙し」というようなことを言っていたり、その買われた土地をある会社が使いだしたのだが、その会社のことを「〇〇腹立つ」と言っていた。
この言い分を聞いていると叔父は買われた田んぼを自分や自分の家族などの一部の人のものだと信じていて、
自分のものである土地を取られて盗まれたとでも思っていそうだ。
うちで使っていた田んぼの近くの田んぼも不動産屋に売れているのだが、
叔父が「みんな言わないな」という感じのことを言っていたのだが、土地を不動産屋が買ったことに、土地を買われた他の人が、
土地を買われたことに対して不満を持っていても言っていないと言いたそうだ。

私の母親が言っていたのだが、一字一句はっきり覚えていないが、
田んぼが売れた別の人が「外では言わないけど家では言っている。人の財産取ってな」という感じのことを言っていたらしい。
その人が言っていたことの意味は、「田んぼの土地が買われたことに不満を持っていることを家で家族とかには言っているけど、
よその人には言っていない。うちの収入源になっているものを取られて気に入らない」とか思っていそうだ。
こういうのを聞いていると、年輩の人でも地球の一部の場所、日本の一部の場所は自分達ごく一部の人の土地だと信じていて、
正しいという根拠や裏付けもないことを信じていて傲慢、高慢なところがあるのだ。
刑法違反をしても不満を持ち叩くが、刑法違反ではないことでも色々なことに不満を持っている人が普通の人や、
一般人などと呼ばれている。
万引きや、スリ、詐欺など刑法違反で捕まるようなことをしたら、盗んだなど言って悪く言うが、刑法違反ではなくても
不動産屋が合法で田んぼなどを買うことにも、自分のものを取られたと思っている人もいるのだ。
控えめ、謙虚、つつましいなどと一部の人が言っている日本人にもこういうところがあるのだ。

私の母親が「百姓は騙されやすい」などと言っていたが、私の母親を含めてほとんどの人は金でやっていく世の中が正しいと信じている
金信者だろうが、たくさんの物やサービスに値段を付けることは正しいとか、税金や年金を払うのは正しいことで、やらなければいけないことと信じて、この金でやっていく世の中を辞めようとせずに、他の人にも金払えと求めていたり、商売をやることをまかり通らせていることも、直接的や間接的に人のことを騙すことに加担しているのだ。
他人の姿は自分の姿で、騙されて自分たちの土地を奪われて盗まれたかのように思うのは自分も人のことを騙して生きているからだろう。
正しくないことなのに自分が正しいと信じていることに従えと、直接的や間接的に自分の信仰を押し付けるのは信仰泥棒とも言える。
土地を誰か特定の一部の人のものだと信じている人は土地泥棒とも言える。泥棒と言う人も泥棒なのだ。
日本人が排他的な村社会と言われるのも、ほとんどの人を仲間だと思っていなくて、例外除いて、仲間だと思っていない人にあいさつをしてほしいと求めて、思い道理にあいさつされないと仲間だと思っていないから不満を持ったり、嫌ってくる。

2021年ぐらいに私が住んでいる家で聞いたのだが、叔父が私の母に誰かが、うちの株内のことを「泥棒の株内と言われてる」ということを
言っていた。うちの株内の誰かが大勢が泥棒と言っているようなことをしたのか、それを知っている誰かが、うちの株内の人がいるところでは言っていなくても、うちの株内以外の人に、あの人のとこは泥棒の株内と言っているのを聞いた人から叔父が聞いたのだろう。
大勢が泥棒と言っている刑法違反で捕まるようなをことをした人を泥棒と見下してバカにしているのではなくて、
大勢が泥棒と言っているようなことをやった人の株内の人のことを泥棒の株内と呼んでいるということは、
自分が見下しているようなことをやった人の株内の人達のこともバカにして見下しているのだろう。
そうでなければ、わざわざ泥棒の株内などとは呼ばないだろう。

日本人を陰口民族と言う人もいるが、こういう風に影でコソコソ人のことを見下してバカにしていても、知らなければないのと同じなのだ。
泥棒の株内と言った人も、それ以外の人も自分や自分の家族や自分の株内や、ほとんどの人は泥棒ではなくて、
刑法違反もしていない素晴らしい、立派な人であるとでも信じているのだろうか?
自分は全てのことにおいて正しいことをしている人とでも言いたいなら、顔や名前を見下している人や大勢に晒して
堂々と言えそうなものだが、名前や顔を晒して大勢に人を見下してバカにしていることを言える人は、ほとんどいないだろう。
正しくもない金でやっていく世の中を正しいと信じて、この金社会で大勢が迷惑していても、
自分たちほとんどの人は問題がないと思っている人もたくさんいるだろう。
自分達がやっていることや、何かをやらないことで誰かが嫌がっていたり、不正をやっていることに気づいていない場合も多いだろうし、
自分可愛さから自分のことは悪く言わなかったりして、自分に甘いところがあるのだ。

私が今住んでいる近所に住んでいた、あるおばあさんがいて、この人は数年前に亡くなっているのだが、
この人が近所の家から何かを取っていったと聞いたことがある。大勢の人が泥棒と呼んでいることをやったらしい。
それが本当のことなのかウソなのかは知らないが、近所の多くの人もこのことを知っているみたいで、
以前、私が私の母親づてに聞いたのだが、このおばあさんが私の母親に「みんなが私のこと○○と言うんじゃ」というようなことを言ったらしい。
○○の部分はなんて言っていたのかはっきり覚えていないのだが、多分○○のところは、「泥棒」とか「悪く言うんじゃ」だと思う。

私の母親に聞いたのだが、近所の別のばあさんが、このおばあさんが来ると「なんか物はなくなってねーかー」と言ったらしい。
近所の一部の人がこのおばあさん本人のいるところで、言葉でこのおばあさんを悪く言って悪態をついていたのだろう。
このおばあさんを悪く言っていた人や、悪く思っている人は自分が刑法違反をしたことがないから悪人ではないと思っていそうだが、
自分や他の人が誰かが嫌がることをしていることは、あまり悪くは言わない人が多いだろう。
人を悪く言っているのを侮辱していると言えば、多くの人は人を侮辱していて悪口、中傷を言っているということになる。
侮辱罪や名誉棄損罪という法律があるが、これらの法律は正しくはないし、これらの法律を適用して人を逮捕したり、
罰金を取っているのは不正でおかしいし、差別している。

私の住んでいる近所で何か物を取ったと言われていたおばさんが刑法違反のことをやったのだと見下している人は、このおばあさんを本人のいる所や、本人のいない所で悪く言っているのは法律の侮辱罪を犯しているのと同じようなことをしているのだ。
侮辱罪の内容が、他人の人格を蔑視しているようなことを公然とやることとしているが、大勢が見聞できる所では言っていないから公然ではないとしても、大勢が見聞できる所で言ったか、そうではないかの違いで、誰かのことをバカにしたり、見下すようなことを本人がいる所や本人がいない所で言っている点では同じなのだ。
このおばあさんを見下して悪態ついてバカにしていた人は、大勢の見聞できる所でこのばあさんを見下すことを言っていなくても、
本人や本人がいない所でこのばあさんのことを悪く言うようなことをしているのは、侮辱して人を悪く言っている点では公然と大勢が見聞できる所で
言っていなくても、侮辱して悪く言っている点では同じなのに、公然と大勢の見聞できる所で言った人が逮捕になる場合もあれば、
公然と言っていても、逮捕されている人のことや政治家などのことをテレビやメディアやネット上で侮辱して悪く言ってバカにしても、ほとんどの場合は逮捕になどならない差別をしているし、大勢が見聞できる公然で悪口言って人を侮辱していることでは侮辱罪にしているのに、
大勢が見聞できないところで、本人や本人以外の少数の前で人を悪く言い侮辱することは侮辱罪にはしない差別をしている。
法律という決まり自体が差別法なのだ。

このおばあさんを悪く言っているバカな人達は、自分達が肉食をしていることでも誰かは低評価して悪く言っていたり、嫌っていたり、
金でやっていく世の中を正しいと信じて合法で金社会ををまかり通らせていることで、多くの人が金社会で苦しんでいることに加担して、
人が嫌がることや、誰かが不正だと思うことをやっていることに気づいていない場合も多かったり、誰かが嫌がったり、誰かが不正だと思うことをやっていても、自分が不正だと思っていないことや、
ほとんどのことで誰かが嫌がっていることはひどいことや、悪いことだとは思っていないのだろう。
肉食をしている人のことを「こんな人類なくなればいいのに」とネットに書いている人がいたり、人間は動物を食べるようにはできていないと言っている人もいるが、こういうことを言っている人がいることも知らない人が多いだろう。

大勢か自分が見下しているようなことや、悪いと思っているようなことをした人のことは悪く言ったり、見下してもいいと多くの人は信じているのだろう。
ほとんどの人が金でやっていく世の中を正しいと信じている金信者だろうが、この金でやっていく世の中で大勢が苦しんでいるが、
人が嫌がることに加担して金でやっていく世の中をやっていても、多くの人からは悪く言われにくく、合法をいいことに金でやっていく世の中をまかり通らせているのだ。
本来値段が付いていないものに値段を付けていても、多数派には甘い人が多いので、詐欺や泥棒とは言わないのだろうが、
合法泥棒や、合法の詐欺をしているだけだ。

おばあさんを悪く言っている人の中には年金暮らしの老人もいるだろうが、みんなが年金払うことを正しいとは信じていないし、
年金取ることは合法の不正で、不正をやり、人が嫌がるようなことをしている人が、おばあさんを泥棒と言って、この人のことを軽んじて、下に見てバカにしているのだ。
刑法違反で逮捕される方の泥棒と言われている人たちとの違いは、合法か違法かの違いなだけで、不正の正しくもないことをやっている点では同じだ。
多くの人は大勢がやっていることは例外あれど正しと信じているだろうから、金でやっていく世の中や、
本来値段が付いていないものに値段を付けて商売をしていることが間違っていて不正だと気づいていないのだ。
他人の姿は自分の姿で、他人は自分を映す鏡で、目くそ鼻くそ、五十歩百歩だ。他人に泥棒と言う人も泥棒なのだ。

金でやっていく世の中で給料や印税という形で金を貰っていない、無職やニートなどと言われている人を見下したり、バカにしている人はたくさんいるだろう。
多くの人は大勢が見聞しやすいところでは言っていないだけで、本人のいる所や、本人がいない少数の人の前で無職、ニートと言われている人を見下したり、バカにするようなことを言っても、大勢の前で言っていないなら言ってもいいけど、大勢が見聞できるところでは言ってはいけないと思っている人の中には、大勢が見聞できる所で言ったら、言った自分が大勢か少数の人から不満を言われたり、嫌われるのが嫌だから言わない人もいるだろう。
大勢が見聞できないところで、誰かを悪く言っても、ほとんどの人には分からないし、大勢がいる所で言ったとしても、どうでもいい人や嫌いな人が悪く言われていても他人事な人が多いだろうから、どうでもいいことだと思う人が多いだろうけど。

 

 


脱あいさつ あいさつは正しくない2

2022年10月14日 | 脱あいさつ

 

10.バカの変な差別


「あいさつできない若者」とテレビ局の人が題材にして取り上げていたが、
「あいさつできない」という言葉に隠している意味は「あいさつしたのにあいさつ返さない」という意味だろう。
適当に一部のあいさつ返さない若者を題材にしてテレビで扱い幼稚なことをしている。
あいさつ返さないのは若者だけではないし、老年や中年にもあいさつ返さない人はいる。
どの年齢の人も、ほとんどの人にあいさつなどしているわけないのに、
一部の人にだけ「あいさつできない人」などと言うのだ。変なバカの言葉の定義だ。
他人は自分を映す鏡だが、あいさつできない人と言っている人もほとんどの人にあいさつなどしているわけないのだ。
変なおかしい異常な差別をしている。

私があいさつしなかったことに、不満を言ってきたり、悪態ついたりしている人もいるが、
以前、近所にいた中年の人3人と70代ぐらいのじいさんに私が初めにあいさつしたら、あいさつも会釈もしてこなかったことがある。
近所で私の近くを通りすがった年寄りや中年、子どもにも初めにあいさつしてこない人はたくさんいる。
同じ人と何度かすれ違っても会釈もあいさつもしてこない。
老人でも初めにあいさつも会釈もしないし、あいさつ返さな人もいる。
一部のあいさつ信者は、年上の老人は年下に初めにあいさつしなくてもいいという独自の勝手なあいさつの決まり(ルール)を作って
信じているのだろうから、老人が初めにあいさつしないことは許してえこひいき差別するのだろうけど。

江戸時代の権力者がキリスト教信者への禁教令でキリシタン迫害していて、
隠れキリシタンと呼ばれているキリスト教信仰を隠していた人みたいに、
今でも色んなことを隠している「隠れ〇〇」なんかたくさんいるだろう。
「あいさつできない人」などとバカにされて、見下されたくないだろうから、あいさつ非信者も表向きはあいさつ返したり、初めにあいさつしたりしてるだろうが、あいさつしていたり、会釈してるからあいさつすることを正しいとか、あいさつしないといけないと信じているわけではない。
あいさつをしていたとしても、あいさつ非信者のことを「隠れあいさつ非信者」とも言える。

子どもに「知らない人にあいさつしなくてもいい」と言っている親が
「マンションでのあいさつを禁止してほしい」と言ってることに不満を言うあいさつ信者がいるが、
不満を言ってる人も似たようなものなのだ。
この親に「ご都合主義」などと不満を言っているあいさつ信者がいたのだが、ご都合主義と言ったあいさつ信者も、
ほとんどの人にあいさつしなくてもいいというあいさつの決まり(ルール)を信じているのだろうし、
他のあいさつ信者たちも、それぞれ勝手にあいさつの決まり(ルール)を作って勝手に一部の人にだけあいさつしているご都合主義であり、
他人の姿は自分の姿であり、目くそ鼻くそだ。あいさつを初めにしても、オウム返しや会釈であいさつを返しても、あいさつした人を嫌っている人は嫌っているし、あいさつの仕方に不満を持つのだ。何やっても不満持つ人は不満を持つのだ。
知らない人にあいさつしてもいいと信じているあいさつ信者も、所詮は身の周りにいるほとんどの人にあいさつなどしてないだろうし、
ほとんどの人にあいさつしなくてもいいと信じていて、ほとんどの人にあいさつしてこなかっただろうけど。
例外あれど、職場や近所、学校で知らない人にあいさつするぐらいで、ほとんどの知らない人にはあいさつなどしているわけがない。
あいさつ信者は知ってる人にもあいさつしないところがあるくせに、
他の人があいさつしないことや、特定の場所でのあいさつ禁止を許さないのは変な異常な差別している。

昔、同じキリスト教でありながら、カトリックとプロテスタントが争っていたというのにも似たものを感じるが、あいさつしているのは同じでも、そのあいさつの決まり(ルール)が真逆で違うのだ。
あいさつは正しくもない宗教だが、多くの人はあいさつ信者で、たくさんのあいさつ信者が、勝手に独自のあいさつの決まりを作って無茶苦茶ない加減で、適当なことやっている。
親や先生などにあいさつしろと言われたり、周りにいる一部の人やテレビなどであいさつしているのを聞いて、
それぞれのあいさつ信者が勝手にあいさつの決まり(ルール)を決めて、
統一もされていないバラバラなあいさつの決まり(ルール)を「我こそが正しい」「我がルールなり」「自分が正しい」と勝手に信じているのだろう。
社会のルールや常識、人間のルールなどという言葉を隠れ蓑にして、人を自分の思い道りに言いなりにさせたいという支配欲や独裁欲を
隠しているのだろう。

あいさつが正しいと信じて、あいさつはしなければいけないと信じている理由が、大勢があいさつをしているから正しいと信じている場合は、
「大勢上位」「大勢天下」「多数派天下」「多数派上位」「天下の多数派」「多数派優位」とも言える。
自分が正しいというのを別の言い方で言えば、
「自分天下」「自分上位」「オレ様上位」「オレ様天下」「自分優位」とも言える。

「亭主関白」という言葉は、亭主が関白みたいに家庭で威張っていることを言うみたいだが、亭主関白という言葉に似せて、自分が正しいから自分に合わせて、従えということを言い表すなら「自分関白」「オレ様関白」とも言える。
大勢(多数派)が正しいから自分に合わせろ、従えということを言い表すなら「大勢関白」「多数派関白」とも言える。
世の中の多くのことは、例外あれど大勢がやっているから正しいと信じている人が多いだろうから大勢関白や多数派関白の世の中、社会という感じだ。
例外あれど、少数派は多数派に合わせて、従えということなのだ。
あいさつも同じことで、あいさつは大勢がやっているから正しいのだから、あいさつしなければいけないと信じているあいさつ信者がたくさんいそうだ。


あいさつ信者の人達は、自分たちはあいさつで何も禁止なんかしていないと思っているんだろうが、「あいさつしてあげたらあいさつ返せ」というあいさつの決まり(ルール)を信仰しているということは、
別の言い方で言えば、「あいさつ返さないことを禁止する」「あいさつ返さないこと禁止令」「あいさつ返さないこと禁止教義」
「あいさつ返さないことはタブー」「あいさつ返さないことはダメ」「あいさつ返さないことは人として間違っている」
「あいさつ宗教を信仰しなことを禁止する」と言っているようなものだ。
禁止という言葉を使っていないだけで、あいさつ信者も禁止しているのだ。
宗教の押し売りはしてはいけないけど、あいさつは宗教という言葉で言われていないから押し付けてもいいという魂胆なんだろう。
「あいさつはしないといけない」というのは「自分が正しいのだから、自分の信じていることに合わせて、従え」ということを言いたいのだろうけど。


11.他人は自分を映す鏡

「あいさつを返さない人は相手の存在を否定していることになる」というあいさつ信者がいる。
嫌いな人にあいさつしたり、喋る人もたくさんいるだろうし、
嫌いな人が職場や近所にいても、みんなが職場を辞めたり、引っ越したりしないだろうし、自分の行く店に嫌いな人がいてもその店に行く人もいる。
あいさつ信者は自分のことを嫌っているのはいいけど、自分があいさつしてあげたら返せと言いたいのだろうか?
あいさつ返しをしてくれるならば嫌われていてもいいと思っているのだろうか?
それとも、あいさつを返してきた人は、初めにあいさつした人のことを嫌っていないとでも思っているのだろうか?
あいさつ信者の中には、あいさつを返さないの相手を嫌っていると思っている人がいる。
嫌いな人にもあいさつや会釈をする人がいるのを知らない人がいて、鈍くて頭が悪いバカなところがあいさつ信者にはあるのだ。

「あいさつ返さない人は相手の存在を否定していることになる」という人も、あいさつを正しいと信じていない人(あいさつ非信者)や、知らない人にあいさつしなくてもいいというあいさつ信仰を持っている人
の信仰を否定しているのだから同じようなものである。
あいさつを返さない人に不満を持ってる人も、ほとんどの人にあいさつしていないのだから。
他人に自分の姿を見ているが、それが自分の姿だとは思わないのだ。
他人は自分を映す鏡で、目くそ鼻くそ、五十歩百歩だ。
日本人は人の気持ちが分かるという人もいるが、あんまり分かっていないだろう。
60才過ぎていても人のことも世の中のこともあまり分からないのだろうけど。

あいさつしたり、喋りかけて、相手から自分の思い道りの返事をされなかったことを無視やシカトやスルー、存在を否定されたなどと不満を持ち、
相手がおかしくて、間違っていると信じているのだろうが、ただの我がまま勝手だろう。
人を自分の言いなりにさせたいことを「常識、社会のルール、人間のルール、人間の基本、当たり前、マナー、モラル」などの言葉で
カッコつけて正当化させているのだ。
あいさつを返してほしいのに、あいさつ返しされなかったことで、あいさつ返されなかった人が「存在を否定されている」など
と言い、「人のことを否定していることはひどいことで、してはいけないことである」とでも思っているのだろうが、
こういう人も色んな人や人間以外のものを色々と否定して生きているだろうが、自分が人を否定するのはやってもいいけれど、
あの人たちが人を否定しているのは気に入らないと思い、えこひいき差別している。

金でやっていく世の中自体が不正のウソであり、金でやってく世の中が正しいと信じている大勢の人が、値段がついている物に金払わなかったり、
税金、年金とかを払わないことなどに不満を持ち、自分と同じことを信じていない人間を例外あれど否定して、逮捕していい、牢屋に入れていいなどと思い、一部の法律を都合よく利用して、自分と同じことを信じていない人達を見下して、苦しめさせようとしたり、恥をかかせようとしている人もいる。
自分が正しいと信じていれば、自分の思い道りにならないのは、自分が正しいと信じていることをやらなかった相手が悪くて、相手に問題や原因があると思うのだろう。

あいさつ返さないことに不満を持つ人の多くは、大体、あいさつ返さない人に対して不満を持っていて、何で不満を持っているのかは、あいさつ返されたいからあいさつしたのに自分の思い道りにあいさつ返されないことで、
嫌われてるか、嫌われている可能性があると思ってるか、自分の存在を否定されて無視されたと思い不快になって、不満を持つのだろうが、
この逆で、自分は相手に初めにあいさつする気がないのに、相手に初めにあいさつしてほしがっている人がいる。
あいさつ返しをしないことへの不満ではなく、初めにあいさつしなかったことに不満を持つ人もいるのだ。

私が30歳前後ぐらいの時に、初めに自分にあいさつされたがっている老人から不満を言われた。私が自転車に乗って近所を走っていた時に、
数メートル向かいの建物に、80才過ぎているぐらいのおばあさん3人が座っていて、私もおばあさん達も会釈もあいさつもしなかったんだが、
一人のばあさんが「あいさつもしないよ」と大きめの声で不満を言ったのだ。
これ以前か、その後も何度か同じ場所でこのおばあさん達のいる数メートル近くを通ったけど、おばあさん達はあいさつしないが、一回だけ私のほうが会釈したら、一人だけ会釈してきた。

私が30才前後ぐらいの時に、60代ぐらいの年配の男の人たちが、近所に集まっていて、その人達の数メートル前を私が自転車で通り過ぎたすぐ後に、「あいさつもしねーよー」と一人が言ったのだ。
私も年輩の男たちも誰もあいさつはしていないし、目も合っていないのにこういうこと言ってきた。

私が今住んでいる家は母親の実家で、私が20代半ばの時に引っ越してきた。
近所に住んでいる今70代のイノウエという名前の女の人と2、3回ぐらい畑と家の庭で目が合ったことがあるのだが、
私もイノウエもどちらもあいさつ、会釈はしなかったが、その2、3回とも目が合った後に、先に私が目線を逸らした。
その後、ある日の朝、私が庭にいた時に、この人が大きい声で、明らかに怒りながらトゲのある言い方で「おはようございます」と言ってきた。はっきり具体的に言っていなくても、私が以前に目が合った時にあいさつしなかったことに対して不満を持っているのは明らかだろう。

さらにその後、家の近くをこの人と孫娘が私とすれ違った時、誰もあいさつをしなかったのだが、孫が「おばあちゃん、あの人誰?」と聞いたら、イノウエが「知らない」と答えたのだ。
イノウエは絶対私のことを知ってるだろうが、以前あいさつされたかったのに、私からあいさつされないことで私に対して不満を持って嫌っていて、自分が無視されて、自分の存在をないもののように扱われたとでも思ってそうだ。

このばあさんはスーパーとかほとんどの場所で周りにいる人にあいさつしないだろうが、多分、このばあさんが勝手に決めているあいさつの決まり(ルール)は「近所の人はあいさつをしなければいけない」という決まりを作っているのだろうが、それで自分の思い道りにあいさつされなかったことで不満を持って私を嫌ってそうだ。
なおかつ、今まで見たこともない顔で、好感持てる外見でもなく、私に対して好きなところもなく仲間だと思っていないから、
あいさつしないことを許さないのだろうが、あいさつしなかったのが知らない人でも子どもや、好感が持てる外見の人なら許しただろうけど。

私が自転車でこの人の家の近くを通った時に、ばあさんがじーっと私を見ていたので、形だけ会釈をしたら「お帰り」と言っていた。
このばあさんとはその後もほとんど会わないが、たまに近所ですれ違う時、ばあさんの方から私にあいさつしてきてて、
私は会釈するだけなんだが、2017年の後半に、この人の夫と家の近くで会った時、2、3メートルぐらい斜め前にこのじいさんがいて、
私のことを無言でじーっと目線を逸らさずに見ていて、私はあいさつも会釈もせずに先に目線を逸らした。
その数日後ぐらいにまた家の近くでこのじいさんが私の2、3メートルぐらい斜め前にいて、以前と同じようにまた私を無言でじーっと見ていて、私はあいさつも会釈もせずにまた先に目線を逸らした。

その数日後、このじいさんの妻が自転車に乗っていて、私とすれ違った時にあいさつも会釈もしてこなかったのだが、多分、じいさんが家に帰って、私があいさつしなかったと不満でも言ったか、
不満ではなくても、私があいさつしなかったということを妻に言ったのではないかと思うのだが、ばあさんの方は、「私に対しては会釈するくせに、うちの夫には会釈もあいさつもしないなんて気に入らない。うちの夫が無視された」などと思っていそうな気がする。
私とすれ違った時に、今までと違ってあいさつしてこなかったのは「私の夫にやったのと同じ態度を返してやったんだ」とでも思ってそうだ。

2019年前半の時に、私が母親にこの夫婦のあいさつのことについて話題に出した時に、私の母が言っていたことによると、ここの夫は、以前はあいさつしても返さなかったけど、最近あいさつ返すようになったというようなことを言っていたと思う。

このばあさんの孫と夫と近所に住むこの人の親戚は、近所で私が近くにいてもあいさつも会釈もしない。
このばあさんは、自分の家族や親戚が私や他の人に近所などであいさつを初めにしなくても、あいさつ返さなくても、
あいさつしないことを許して不満は持たないと思うけど、
私がこのばあさんや、この人の家族に初めにあいさつしなかったり、あいさつ返さなかったら許さずに不満を持つのだろう。

このイノウエというばあさんはよく近所を歩いているのだが、誰かが私の母に「ここらへんで歩いているのはイノウエさんぐらいだ」
というようなことを言っていたようだが、
ここらへんの人だけではなくても、あいさつ初めにしない人に不満を持つような人はこの人を含めてごく一部の人だけだろう。
人間は今まで知らなかったことを初めて知って、こういうこともあるんだとか、こういう人もいるんだと知っていく。
大勢と違うところがない人などいるわけないが、大勢が思っていないことや、やっていないことをしている人がいることを具体的に知らなければ、どんなことで大勢と違うことを思ったり、やったりしている人がいるのかを知ることなど出来ないのだ。
初めにあいさつしないことに不満を持つような人がいることを知っている人は知っていても、少数の人しか知らないだろう。ほとんどの人はこういう人がいることを知らないのだ。

このイノウエ夫婦はあいさつ信者だ。
あいさつ信者ではなかったら、初めにあいさつしなかったことで不満を持つわけがない。
自分独自にあいさつの決まり(ルール)を決めて、人を自分の思い道理にさせたいのだろう。
一部の人があいさつをコミニケーションとか社会のルールなどと綺麗事で美化させた、適当、いい加減なことを言い、あいさつ信者たちも野放しにされて、泳がされて調子に乗っているところがあるのだ。
人間に差別していない人などいない。誰でも差別している。好きな人や仲間だから褒めて良く言うのもいい意味の差別だ。このイノウエ夫婦も差別者である。

イノウエ夫婦の様に初めにあいさつしないことに不満を持っているのは、明らかに相手を仲間だと思ってもいなければ、相手のことを軽視して軽んじていたり、見下したり、バカにしているからだろう。
そもそも、家族、友達や両思いの人や、自分の役に立っていると思っている人など、仲間だと思っている人であれば、
例外あれど、あいさつをしてほしいと望んでいないから、あいさつを返させたいからと初めにあいさつすることもないだろう。

良く喋る、おしゃべりのな人を知っていても、
その人よりも更におしゃべりな人がいても知らなければ、知らない人にとってはいないのと同じだ。
すごい美形の人がいてもそれを知らなければ知らない人にとってはいないのと同じだ。
あいさつを初めにしない人に不満を持つ人がいるのを知らなければ、そんな人いるとは思わないだろうし、あいさつを返さない人に身体暴力をやったり、本人の近くで悪態ついたり、不満を言う人がいるのを知らない人は、
そんな人がいることは分からないし、そんな人いないのと同じなのだ。

でも、ある言動を取る人がいたり、ある信仰を持っている人がいることを知っても、そんな人がいると信じたくない場合は、あれは演技やポーズだと思ったり、誰かにやらされていると思う人がいたり、ウソを付いていると思う人もいるのだ。
人間は自分が思いたいようにしか思わないし、自分が感じていることの全てが正しいと信じていなくても、自分が感じていることが正しいと信じているところがあるからだ。

マツコデラックスが、店で店員に横柄な態度を取る人のことを、一字一句覚えていないが、そういう人は顔がバカな顔しているというようなことを言っていたと思う。
顔や雰囲気の見た目にその人の性質が表れている場合があって、
あいさつを初めにしないことに不満を持っているイノウエ夫婦の雰囲気や態度の見た目に高飛車で上から目線の高圧的、威圧的なものを感じたからだ。

戦後、アメリカのどこかの店に「ジャップとドッグはお断り」というようなことが書かれてあったというが、日本人と犬は入って来るなと言っていて、
日本人のことを見下していたり、嫌っていたりするから来るなという意味だろう。
あいさつをする人たちは、ごく一部の人にしかあいさつしていなくて、そのあいさつしている相手は例外あれど、大切ではない人や、嫌いなだけの人や、見下している人や、どうでもいい人にあいさつしている場合がほとんどだろうが、こういう理由で関わりたいとも思っていない人などにあいさつしていることを高評価して褒めて、あいさつできる人は素晴らしいなどとバカなことを言う人がいるが、本当は関わりたくもない人や、あいさつや形だけの雑談や、お菓子や飴をあげるようなことだけで形だけ人と関わったというようなことしていることはひどいことではないとか、
いらない人や、どうでもいいと思っている人などに気を使ってあげたと自分や自分と同じことしている人を褒めたりしている人もいるだろうが、
ジャップとドッグはお断りと書いていた人と、あいさつ信者は内面の心理においては同じようなところがある。
「あの人が嫌いだ」とか「あいつを見下している」とか思っている人に形だけあいさつしている場合もあるのだから、
受け付けない人や、見下している人、嫌いなだけの人に表面的にあいさつしているだけで、内面で人を見下したりして嫌っている点では同じだが、
それをあからさまに外側に表す場合と、そうではない場合があるだけだ。

喋ったり、体を触ることをコミニケーションと言うのならば、警察の職質や逮捕の時や腰縄付けるときなどに警察が逮捕されている人に触ることもコミニケーションや社交や交流などの言葉で言い表さなければおかしいということになる。
躾で子どもに身体暴力を振るったとか、気に入らないから身体暴力をやって人の体に触っていることはコミニケーションとは言わないだろう。
あいさつをコミニケーションと言う人がいるのだが、あいさつのことを良く言いたい人の中にはコミニケーションと言いたい人もいるのだろうが、
好きな人に好きの気持ち込めてあいさつしても、
どうでもいい人や、嫌いなだけの人や見下しているだけの人に形だけや、
嫌々あいさつしてもコミニケーションという言葉で言い表していい感じの言葉で美化して、綺麗事を言っているのだろう。
人があいさつをしている動機などの心理や気持ちが分からなかったり、心理の方に全くか、ほとんど興味がないのだろう。
あいさつを人をバカにしたり、見下したりしてやっている人などがいて、それを分かっていて綺麗事を言わない人は、そういう人のことを
「あいさつを嫌がらせの道具に使う人」とか「あいさつにうるさい奴にロクな奴いない」と言っている人もいる。あいさつを嫌がっている人が「あいさつの押し売り」と言っていたり、
身内などが知らない人にあいさつをすると「あいさつの押し売りになるから」などと言う人もいる。
あいさつが自分に都合のいい人や、あいさつで嫌な思いをしたことがない人はあいさつやあいさつする人を悪く言いにくいのだろう。
人間は自分を中心に物事を捉えるのだ。自分が知っている範囲のことでしかものを考えないので、自分があいさつを嫌がっていなければ、他の人も嫌がっていないと思うのだろう。

逮捕されるようなことをして、刑法違反をしている人のことを色んな理由で見下して悪く言う人もたくさんいるが、
逮捕されるようなことではない、刑法違反ではないことをしている人の方を逮捕されている人よりも見下して格下に見ていたり、
嫌っていたりバカにしている人もいる。
あいさつをしてほしいのにしなかった人に不満を持って嫌っている人の中には、逮捕されている人に対しては、自分や自分が好きな人に対して嫌だと思うことをやったわけではないから他人事で、逮捕された人を嫌うこともないか、少しだけ嫌うぐらいの人もいるだろうが、
逮捕されるようなことした人が、自分や自分が好きな人に対して刑法違反のことをしてきた場合はやった人を嫌ったり、ものすごい嫌ったり、見下す人もいるだろう。
凶悪犯罪とか軽犯罪とか言われてることをやっている人よりも、刑法違反ではないことをした、あいさつをしてほしいのにあいさつしなかった人に対しての方がよっぽど嫌ったり、見下したりする人もいるだろうし、
自分の結婚相手や交際相手が自分以外の人とセックスしたり、キスしたりしたことの方が許せなかったり、その結婚相手や交際相手や浮気相手の人の方を嫌ったり、見下す人もいるだろう。
誰かは凶悪犯罪や軽犯罪などと言われている逮捕された人の方を見下したり、すごい嫌悪して嫌うのだろうが、みんなが同じことなど思っていないのだ。

あいさつしてほしいのにしないことを多くの人は罪とか犯罪という言葉では言い表さないだろうが、あいさつをしてほしいのにしなかった人をダメ人という人もいたり、嫌ったり、見下す人もいるわけだが、
こういう人は、罪や犯罪という言葉で言い表していないだけで、あいさつしてほしいのにあいさつしなかった人を、あいさつ返さなかった犯やあいさつしなかった罪というような感じに思っているようなものだ。

言葉などは、ただの言葉遊びであり、人が嫌がることをした一部の人や、大勢が悪いと思っていることをやった一部の人を
刑法違反で逮捕するようなことをして、逮捕されるようなことを大勢の人は犯罪、罪という言葉で言い表しているのだ。
誰かが嫌がることや、誰かが悪だとか、やってはいけないと思っていることをしたことを罪という言葉で言い表すのならば、
みんな罪人だということになるし、みんな罪を犯していることになる。
犯罪と言えば聞こえが悪くて、悪く思われやすくても、やんちゃとか、かわいい悪さとか、魔が差したとか、みんなやっているとか、
常識や社会のルールと言えば悪い感じに思わない人の方が多いのだろう。
みんなバカなところがあるのだ。逮捕されている人も、逮捕されていない人も、誰かが嫌がることをしていたり、誰かが間違っているとか、不正だと思うことをやっている点では同じだ。
だから、みんな泳がされている所があり、合法で逮捕になるようなことではないからと、一部のことに対してやりたい放題の所があるのだ。
あいさつは大勢がやっているから変な目で見られにくいところがあり、あいさつしている理由、本心、動機は言う必要がないし、
ウソをつくことも出来るので都合よくあいさつを利用しているのだろう。

どういうことを嫌ったり、見下しているのかは人によって違うのだ。誰かが凶悪犯罪とか軽犯罪などと分けて言っているが、みんなが同じことなど信じていない。
凶悪犯罪と言われていることをやっている人よりも、逮捕されるようなこと以外のことをやっている人の方を見下したり、嫌っている人もいるのだ。
凶悪犯罪や軽犯罪をやった人よりも、自分や好きな人にあいさつしてほしいのにあいさつしなかった人の方を嫌っている人もいるのだ。
そりゃそうだろう、人間は自分が可愛いのだから、刑法違反をした人が自分や自分の好きな人に刑法違反のことをやってきたわけではないのだから、
関係のないことだと思っていても、自分や好きな人にあいさつしてほしいのにあいさつされなかったことの方が重大であり、気に入らなくて、
許さないと思う人もいるのだ。暴行罪で誰かが捕まっていても、自分や好きな人がやられたわけではないから、暴行やった人に不満はなくても、
その暴行をやった人か、別の人が自分や好きな人に暴行をやると不満を持ち、怒ったり、許さなかったりするのだ。
自分の思い道りにならなかったから不満を持つのだ。あいさつしてほしいのに大切でもない人などがあいさつをしなかったから不満を持ち、許さなかったりするのだ。
自分には合わせて従ってほしいところがあっても、自分はほとんどの決まりや、他人の欲求には従わないのだ。
多くの人は他人にあまり興味がないだろうから、人が何を思っているかにあまり関心はないだろう。

あいさつのほとんどなど形だけだろうし、一部の人にだけあいさつして欲しがっているのは、関わる気もない人か、関わってあげてもいいけど条件付きであいさつや、形だけの雑談で関わってあげてもいいとか、形だけではないけれど、ごく一部に事だけを話して喋ってあげてもいいとか、お菓子とかあげるとか、仕事のことだけで関わるなどの表面的なこととかで関わってあげてもいいと勝手に決まりを決めて関わっているだけで、
全てのことで関わりたいなどとは思っていないのだ。

あいさつできる人は素晴らしいとか、誰よりもあいさつできる人などと言ってあいさつする人を褒めているバカな人は、
ウソで適当にこういうことを言っているか、大勢と同じことをすることを正しいと信じている人か、あいさつが自分に都合がいいから褒めているなどの理由だろうが、こういう人は人があいさつしている心理や動機や目的に全くか、ほとんど関心、興味がないのだ。
鈍くて鈍感でバカで頭が悪いところがあり、人の気持ちや信仰心などに疎い人なのだ。

おいしいものを食べたい、味覚を満たすために食べ物を食べたい人の多くは、食べているものの材料や、作っている店や会社や、農薬が使われているのか使われていないのか、外国産なのか日本産なのか、
作っている人たちが何を思って作っているのかなどに関心、興味がないだろう。
「おいしいものを食べたいのだから、おいしいものが食べれたらそれでいいんだ。」と思っている人は例外あれど、それ以外のことに興味がないのだ。

それと同じで何かしらの理由であいさつを一部の人にだけさせたい人は、相手があいさつしてくれたらそれでいいのだ。
食べ物を買ったり食べる時に、動物性の物を食べない人は材料表記をちゃんと読んだり、何が入ってるかを聞くだろう。
人があいさつをしている動機や目的や、あいさつについての信仰心に何も関心がない人は、あいさつだけしてくれたらそれでいいのだから、例外あれど、あいさつしてくれたら満足するのだ。
例外は、大きい声であいさつしてほしいと望んでいる人などは、あいさつしても声が小さい人に不満を持ったりすることなどだ。
自分の思い道りにならないから不満を持つのだ。自分の思い道りにならないことに不満を持っていることを悪く言えば、
我がまま、勝手、自己中心的、人のことを考えていない、自分ばかりが正しと思っている、などという言葉で言われたりするが、
あいさつのように大勢がやっていることの場合は、常識、マナー、モラル、社会のルールなどという言葉で言い表し、これらが人間の正しさであるかのように勝手に決めつけている人がたくさんいるのだ。

本などの文章も自分に都合のいいように捉えたりしていて、書いた人が何を言いたいのかではなくて、自分が思いたいように思っている場合もあるわけだ。
自分に都合のいい文章を書いた人に感謝して褒めても、褒めているのは自分に都合が良かったからだ。
書いた人が何を言いたいのかが分からなくても、自分に都合が良ければ褒めるのだ。
人間は自分が可愛いので自分の都合のいいことをした人や、自分が好きな外見をしている人を好きになったりする。
つまり、誰でも自分中心なのだ。
宇宙の中心がどこなのかを、天動説なら地球が中心で、地動説の方なら太陽が中心などと言われているが、
人間は宇宙の中心が自分だと思っているところがあるような感じで、自分が感じたことが根拠もなく正しいと自分中心に捉えているようなところがあるだろうけど。

 

               

12.あいさつというものは変で異様だ

 

あいさつをしている人たちは変な人達だが、大勢と同じことをしていることを多くの人は普通や一般的などと言ったり、
それをやっている人を普通の人や一般人、常識人などと呼ぶのだ。
自分があいさつしてほしい人にだけあいさつしてきてほしいけど、
あいさつしてほしいと思わない人があいさつしてこないのは許すというような勝手で変で、異常な決まり(ルール)を多くの人が正しいと信じているのだろう。

私は10代の時に長期間家にいた時があるが、家にいることにも不満を持ち、家の外に出ても、やれ初めにあいさつしてこなかったとか、
あいさつ返さなかったとか、それ以外でも人に対して色々なことに不満を持っている人がたくさんいるのだ。
逆のことをやっても誰かが不満を持つのだ。

日本を平和や幸せの国や民族みたいに言う人もいるが、あいさつされたいのにされなかったことに不満を言ってきたり、
影で不満を言ったりしている国民を幸せ、平和などと言っているのも変な言葉遊びしている。
「戦争がない国に生きているから幸せや平和というのです」という人もいるだろうが、自殺者が年間数万人いたり、自殺未遂の人や死にたいと思っている人がいたり、気に入らないこと、不満をたくさん持って生きている人がいる国を平和などと言うのだ。
言葉とはどうにでも使えるし、どうにでも捉えることが出来る。

「鏡よ、鏡、あいさつしてこない、ダメ人間で、常識なってない、ひどい態度取ってくる変な奴がいるんだよ、どう思う?」と鏡に聞いたら
「お前もほとんどの人にあいさつしてこなかっただろ。お前の姿じゃ」と言われたら、あいさつ信者は何を思うのだろうか?

差別と言えば白人の黒人差別が有名だが、これは人種差別やレイシストと呼ばれている。
白人がやったら許したことを、黒人が同じことをやったら逮捕したことを差別と言ってるが、あいさつの場合はほとんどの人があいさつしてこないことは許して不満を持たないのに、
一部の人があいさつしないことは許さないことはを多くの人は差別とは言わないが、差別しているのだ。あいさつ信者は、おかしいあいさつ差別ルールを作って自己満足してるだけだ。

あいさつのことを「常識、社会のルール、人間のルール、人間の基本、当たり前、マナー、モラル、共生の精神、コミニケーション」など
カッコつけた言い方をして美化して、さも、あいさつが正しいことであるかのように仕立ててウソを付いているのだろう。
ほとんどの人にあいさつしないのにあいさつしたところだけ持ち出して「あいさつできる人」とか「あいさつできる人は素晴らしい」などと言い、
高評価して褒め称える人もいてバカげている。

老人が人のことを見抜けていて、人間が丸くなっているんだったら、老人があいさつしないことに不満を持ってるのもおかしいけど。
そして、日本人は控えめ、謙虚、つつましやかなど言うが、控えめなら、あいさつしないことに悪態もつかないだろうし、不満も持たないだろう。
人類も世の中もウソまみれだ。

おばあちゃんが昔入っていた老人ホームの関係者が老人の誰かのことを「こんなに難しい老人がいるのかと思った」と言っていたということを母づてに聞いたことがある。
年よりは角が取れて丸くなるなど言ったり、人を見抜けるなど言うが、あんまり当たっていないと思うけど。

言葉など言葉遊びなのでどうにでも使えるので、あいさつが世界中の大勢の人たちが何かしらの目的でやっていることを、
暴走族という言葉に似せていえば、あいさつ暴走族。
特に、あいさつされたいのにあいさつを初めにされなかったり、あいさつ返されなかったことに不満を持って、不満を持ったことをあいさつしなかった相手のせいにしたり、見下したり、ダメ人間などと言う人や、悪態ついてきたり、本人のいる所やいない所で不満を言ったり、身体暴力振るったりして攻撃してくる人は、なおのこと、あいさつ暴走族という感じだ。
あいさつ暴走族以外にも、暴走あいさつ人、暴走あいさつ族 という感じだ。
あいさつなど正しくもないし、ほとんどの人にあいさつなどしてるわけがなく、一部の人にだけあいさつしまくる暴走あいさつ。
老人ならあいさつ暴走老人。
暴走というと、多くの人は、やりすぎていることとか、おかしいと思うことに暴走という言葉を使うだろうけど、
あいさつは正しいとか、しないといけないことだと信じている人が多いだろうから、あいさつのことは暴走とは言わないだろうけど。
自分の信じていることをはっきり言わずに、自分のあいさつが正しい信仰を人に押し付けているので、信仰の押し売り暴走族とも言えるが、
大勢がやっていることは暴走とは言われにくく、正しいことだ思われやすかったり、許されやすい。

近所や職場の人に会ったり、目が合ったら必ずあいさつか会釈はしなければいけないと信じているあいさつ信者もいるだろうけど、
ほとんどの人にはあいさつしなくてもいいけど、一部の人達には
あいさつしないといけないという変な不正の決まり(ルール)をまかり通らす暴走あいさつだ。

一部の人があいさつしてこないことに悪態をついたり、ダメ人間などと言って格下に見ていることを、「意地悪(いじわる)」という言葉で言えば、意地悪あいさつや、意地悪あいさつ信者だ。

あおり運転と言われているものがあるが、自分の前の車がゆっくり走っているとか、信号が橙の時に止まっている車の後ろからクラクションを何度も鳴らしたりしていることなどを煽っていると言っているが、
あいさつもこれに似た言い方で言えば「あおり挨拶」とも言えるのだ。
特に相手をバカにしていてあいさつさせようとしていたり、あいさつしなかった後に嫌がらせをしてきたり、悪態をついたり、不満を言うのは
いかにも「あおり挨拶」という感じだ。あいさつをコミニケーションと呼ぶのならば、「あおりコミニケーション」という感じだな。
どうでもいい人や、見下している人や、嫌っているだけの人などの仲間ではない人に対して、「あいさつで関わってあげようとしているのだから、あいさつ返しなさいよ。」というような心理、気持ちであいさつしている人もいるのだ。
大勢がやっていることや、自分や好きな人がやっていることを悪く言いたくない人は、社会のルールや、常識、コミニケーションなどの言葉で言い表して、あいさつを一部の人にだけさせたがる理由を隠すだろう。
隠しているつもりでも、隠せていないけど。頭にかつらを付けている人をバカにして、滑稽だとか思っている人がいるけど、何かを隠していることを「かつらを付けている」というとすれば、みんなカツラを付けているとも言える。
あいさつはコミニケーションのツールとか、社会のルールなんて言っているのもウソなわけだから、かつらを付けているのだ。
世の中や社会と言われている所で正しいとか、人間がしなければいけないことだと大勢が信じていることのほとんどなんかウソだろう。
金でやっていく世の中がウソのように。
金社会自体がウソの詐欺、どろぼう社会なのに、金払わない人や、給料貰うようなことやっていない人となどを悪く言って叩き、牢屋に入れたりしている。

今まではウソの時代だから、ウソがまかり通りやすかったけど、今後は今まで程ウソは通用しなくなるだろうけど。
だから、あいさつはコミニケーションだとか、社会のルール、常識などという言葉で、表面的に適当なウソもつけなくなる。
一部の人にだけあいさつをさせたがることを、社会のルールやコミニケーションなどという言葉で適当、いい加減に綺麗事を言って言い表しても、
ごく一部の人にだけあいさつさせたい理由にはなっていない。

私の姉が昔「あいさつしない人嫌い」という感じのことを言っていたが、私はこの人があいさつしているのを聞いたことがない。
誰か一部の人にはあいさつしているのだろうが、ほとんどの人にはあいさつしないだろう。
あいさつ以外では、私が中学1年か中学2年の時、私が家のリビングのソファーに座っている時に姉から、家に帰った時に、お帰りと言わないことが気に入らないというようなことを言われて不満を言われたのだが、
私の記憶にある限り、この人が家族にお帰りと言っているのを聞いた記憶がないし、長期の学校の休みの時に母方の祖父母の家に泊まっていた時も家に帰ってきた祖父母にお帰りと言っているのを聞いた記憶がないのだが、
私が覚えていないだけで、毎回言ってなくても言ってた時があるのかもしれないし、私が知らない所では言っていた時もあるのかもしれないが、そうだったとしてもほとんど言ってないだろう。
不満を持ったり、嫌った相手に自分の姿を見ていて、他人の姿は自分の姿なのだ。

独身の70代の叔父が10年ぐらい前に仕事が終わって実家に帰ってきて、同じ家に住んでいるのだが、数年前に近所に住んでいる叔父より年上のじいさんのことを「〇〇ちゃん、どうしたんだ?あいさつせんかったぞ」という感じのこと言ってたり、叔父と同い年ぐらいの、すぐ近くに住んでるばあさんのことを「〇〇さんあいさつせんかったぞ、こっち嫌っとんか?」と言っていたが、叔父は私にはあいさつしないし、私の母親などの叔父の家族や親戚にあいさつしているのも聞いたことはない。叔父はほとんどの人にあいさつしないだろうし、近所を通りすがる全ての人にあいさつしてるわけでもないと思う。
近所の一部の人はあいさつしなければいけない、あいさつを初めにしたら、あいさつ返しすることが正しい、というあいさつの決まり(ルール)を勝手に作っているのだろう。
他人は自分を映す鏡で、自分も誰にでもあいさつしているわけではないのだ。

叔父に限らず、あいさつしてほしいと望んでる相手があいさつしない場合に、自分が嫌われていると思う人がいるのだ。
おもしろい心理だ。あいさつしてきてほしいと望んでいない人があいさつしてこなくても、その人から嫌われていると思わないのに、
あいさつしてきてほしいと望んでいる相手があいさつしてこなかった場合は嫌われていると思う場合がある変な心理だ。

「災害があった時に人間関係が大切だと思ったからあいさつは必要」や「災害があったときのために、茶でも飲める関係を作っておいたほうがいい」
というようなこと言っていた人がいるが、
町中や店などほとんどの場所で周りの人にあいさつをしなかったり、ほとんどの人からのあいさつを求めていなかったり、
家族や親戚や友達、恋人などからのあいさつを求めていない人の方が多いだろうが、ごく一部の人には災害の時のためにあいさつをしなければいけないと思っているのもおかしなことだ。
みんながあいさつ返すことを正しいとは信じていない。
「どうでもいい人や嫌いなだけで好きなところがない人にもあいさつという言葉を与えてあげるから、オウム返しをしてくれ」
と多くの人が望んでいるのだろうが、みんながあいさつ信者ではないので、誰でもオウム返しをするわけではない。
あいさつをしなければいけない理由が、もし災害などがあった時に助けてもらったりするために、相手に気に入られたいとか、嫌われないためにとかの理由であいさつするならば、ただの媚売りだ。
日本人は排他的な村社会と言われたりもするが、みんなか、ほとんどの人を仲間とか家族だと思っていれば、
そもそもあいさつ自体をする必要もないのだ。
つまり、ほとんどの人を仲間や家族とは思っていないから、災害の時のためにあいさつしておかなければいけないと思う人も出てくるのだろう。

需要と供給という言葉があるが、Aさんが「あいさつを与えてあげて供給してあげる」とBさんとCさんにあいさつしてもBさんはあいさつを正しいとは信じていないあいさつ非信者で、誰からもあいさつという供給など望んでいないのだ。
Cさんは知らない人からのあいさつの供給を望んでいなくて、知らない人からあいさつされたいという需要、ニーズがないのだ。

訪問販売で家に商品やサービスを売りに来て、商品やサービスを供給しますよと言っても、言われた人に需要、ニーズがなければ、例外あれど買わないようなものだ。
例外は、本当は欲しいものではないけれど、買ってあげないと可哀想だからとか、売りに来た人が美形で気に入ったから買ったなどだ。
商売の場合は、商売人は商品、サービスを売りに行っても、断られる可能性があることを分かっているだろうけど、
あいさつ信者の多くは、初めにあいさつされたら絶対にオウム返しされると勝手に信じている人が多いだろうから、
思い道りにあいさつ返されないと、おかしいと思ったり、オウム返しであいさつ返すまでしつこくあいさつしてきたりする人もいて、
人のことを分かっていないところがあるのに、分かっていると勘違いしているところがあるのだ。

日本人も外国人もあまり人のことが分かっていないだろう。
日本人は人の気持ちが分かるという人がいるが、ほとんど分かっていないだろうけど。
あいさつ返されたいのに返されなかったと不満を持つのも、
相手があいさつ返さない人だと分かっていたら、ほとんどの人は初めからあいさつなどしないだろう。
他のことでも、ナンパして気に入った人を誘ったりしても、初めから断られることが分かっていたら、誘わない人の方が多いだろう。

日本人には結構、強引なところがあるが、自分の信じていることを押し付けても常識やマナー、モラル、社会のルールなどと言えばカッコが付く。
自分の思い道りにしたいのを、自分ではやらずに他の人にやらせたりする場合があっても、自分では直接的にやらないので控えめ、謙虚に見えるのだろう。

あいさつする人はコミニケーション能力が高いという人がいるけど、私は逆だと思うが、コミニケーション能力が低いからあいさつしてるところがあると思うけど。
そもそも、関わる気もない人に仕方なく形だけであいさつすることを、
コミニケーションや、社交など言っていること自体おかしいが、言葉などは言葉遊びだったり、適当なので、どうにでも使うことが出来るのだ。
誰かと数年や数十年間の間にあいさつ以外で関りがなかったり、あいさつと、たまに雑談をしているようなことをコミニケーションや
社交などと言ってカッコつけたり、美化したいんだろうけど。変な自己満足あいさつだ。
あいさつしている理由、目的などをコミニケーションという言葉で隠していて、本音を言っていないのだ。
あいさつ返させたい相手があいさつしたいと思っていない場合があるのに、それが分からないから勝手にあいさつ返しを求めてあいさつしているのは、
一方的力が高いとか、押し付け力が高いとか、人の気持ちが分からない力が高いとか、人の気持ちを理解したいと思っていない力が高いと言った方がいいだろうけど。
関わる気もない人に形だけ、めんどくさくやっているあいさつには、形だけ力が高いとか言った方がいいと思う。
同じ理由であいさつしていないのに、人と関わる能力の高さからあいさつしていると理由を付けているのは間違いだ。
あいさつ以外や、ほとんどのことで関わる気もなく、あいさつさせたい相手の全部か、ほとんどに興味がない人のことを、
人と関わる能力が高いと言っているのだからバカげている。相手の心理を全くか、ほとんど知る気もない人の方がコミュ力高いなどと良く言われて、
こういう人にあいさつ返さない方が悪く言われたりして叩かれる。
あいさつをしている人がほとんどの人にあいさつしないのに一部の人にだけあいさつを求めている理由、目的を全くか、ほとんど知る気もない人が、
あいさつをした人を褒めて良く言いコミニケーション能力が高いなどと高評価するのだろう。

あいさつというものが、あいさつしている大勢の人たちに都合のいい利点がなかったら、誰もあいさつしないだろうから、
大勢の人があいさつしているのも何かしらの都合のいい利点があるわけだが、その利点は、好きな人からあいさつされたり、好きな人にあいさつしたりすることは嬉しかったり、大勢と同じことをすることで変な目で見られにくいとか、不満を持たれにくいという都合のいい利点がある。
好きでもない人にあいさつしたり、されたりしても嬉しくない人の方が多いだろうが、自分の思い道りにあいさつ返されたいと思っていて、
好きでもない人があいさつ返してきたら満足はするのだろう。

赤ちゃん、幼児、子どもや友達、恋人、家族、親戚や、
自分の仲間だと思っている人や役に立っている人や、生きているだけでいいと思っている人はあいさつを返さなくてもいいと思っているあいさつ信者は多いだろう。
好きな人とは目があったり、体を触ったり、セックスしたり、キスしたりしてるだけで満足する。
あいさつ信者は、好きな人で自分の役に立っている人や、ほとんどの好きではない人はあいさつしなくても許すということだろうが、
一部の好きではない人にはあいさつすることを求めて強要するのだろう。

「ほとんどの人とは体を触れ合いたくないから触ってこないで欲しいけど、
近所、職場の人には、嫌な奴にも好きな子にも、どうでもいい人にもあいさつで関わってあげるから、気を使ってあいさつを返せ、
あいさつでコミ二ケーションしてあげてる、関わってあげている」と思っているあいさつ信者もいるだろう。

あいさつをしてオウム返しをされることを「あいさつを交わす」とか「言葉を交わす」など言ってカッコ付けて、美化した言い方する人がいるが、あいさつしている動機や理由、心理を分かってないから良く言って美化したがるのだろうけど。
バレンタインデーに女のAさんが好きなところもない同僚の男のBさんに職場でチョコレート渡したことを、Bさんが「バレンタインデーに男に女がチョコくれるのは好きだからくれたんだ。Aさんは俺のこと好きなんだ」と思ったとしたら、それは間違っていて、勘違いしているということになるが、Bさんは自分が間違ったことを思っていることに気が付かない。
あいさつされたのは自分が嫌われていないからだと思う人もたくさんいるだろうけど、嫌いな人にもあいさつしている人はいるだろう。
逆に、赤ちゃん、幼児、友達、恋人、家族、親戚、犬猫など好きな対象にこそあいさつしない人もたくさんいるだろう。
あいさつされないから嫌われていると思っている人も、自分もほとんどの嫌いではない人にあいさつしないくせに、
自分があいさつしてほしいと望んでいる人があいさつしないと嫌われてると思ったりする人もいるのだ。

面白いのは、日本人なんか同じ日本人のことを、外見でも、県民性の性格とかでも、色んなことで同じ人間だと思ってないだろうし、
同じ人間だと思われたくない人もいるくせに、一部のことでは人はみんな同じでなければいけないところがあると思ってる人が
たくさんいるのだろう。
その一つがあいさつで、同じ人間だと思っていないけど「あいさつされたらみんながあいさつ返さなければいけない」と信じてるのだろう。

あいさつされたいのにされなかったのは、「あいさつしてこなかった人が相手のこと嫌っているか、不器用な人」などと言う人がいる。
大勢があいさつ返したり、近所の人や仕事関係の人にあいさつしていると思っているから、大勢と同じことしない人を不器用な人など言う人もいるのだろう。バカなことを言っている。
人から嫌われる特徴があることを不器用な人などと言っているとするならば、誰でも何かしら嫌われているだろうから、みんな不器用な人だということになる。
自分達が嫌われていることに気づいていない人もいるのだろう。気づかないのは誰でも鈍くてバカなところがあるからだろ。
動物を食べている人を嫌う人がいるが、そういう人がいることに気づいていない人もいるのだ。
自分が嫌いではないから他の人も嫌っていないと自分中心に捉えている人もいるだろう。

相手から気に入られたいからやっていることを悪く言う場合「媚売り、胡麻すり、いやらしい、人によって態度変えている」など言ったりして悪く言うが、あいさつみたいに特殊で特異なものの場合や、正しいと信じていることをやることに対しては、「媚売り、胡麻すり、いやらしい、人によって態度変えている」とは言わない人の方が多いだろう。
人から気に入られたい、嫌われたくない、好かれたいとかの理由であいさつしても「常識、社会のルール、人間のルール、人間の基本、当たり前、マナー、モラル、コミニケーション」などと言う人もいるだろう。

多数派(大勢)が正しいとされやすいだろうから、大勢があいさつ返されたいのに返さなかった人を、人の気持ちが分からない人などと思い不満を持っても、多数派が少数派の信仰心や気持ちを全部分かっているわけでもないし、ほとんどの人は分かる気もないだろうけど。
多数派と少数派と分けて言っているが、誰でも多数派でもあるし、少数派でもあるけど。

例えば、知ってる人や知らない人が「セックスしよう」と言ってきても、多くの人は断ることを許すだろうが、
許している人の中には、あいさつ返さない人のことは許さなかったり、嫌ったりする人もいるのだ。
あいさつ返さないということは、言い方変えたら、「あいさつ返しを断っている」「あいさつ返しを拒否している」「あいさつ返しを拒んでる」などとも言い表せるが、あいさつ返しを断ることは許さない人がたくさんいるのだろう。

人が嫌がることなど人によって違うのだ。大勢が嫌がることは正しいとか、普通などと言われるのだろうが、大勢が嫌がらないことや、大勢が好むことを嫌う人は、見下されたり、変わっているとか、間違っているなど思われやすいだろうけど。

「承認欲求」などという言葉があるが、嫌われたくないとか、自分を認められたいと思ってる人がいっぱいいると思う。
自分が勝手に決めたあいさつの決まり(ルール)に従わず、その決まり(ルール)を守らなかったからと自分の決めたあいさつの決まり(ルール)が承認されなくて認められなかったと不満を持ち、自分に合わせず、
気を使わなかった相手が悪いと思っている人がいるが、自分の思い道りにならなかったことに不満を持ったり、
不満を言ったりする人や、誰かの言動や態度を問題視して悪く言う場合は、
「独裁的、独裁者、支配的、支配者、勝手、自分勝手、我がまま、親に甘やかされたから、頭おかしい、おかしい、人のこと考えていない、変人、変わり者、変な奴、バカ、アホ、お前の価値観押し付けるなよ、お前の常識は他人の非常識、常識はずれ、常識なってない、常識なってなさすぎ、
親の顔が見てみたい、躾がなってない、あなただけが正しいわけじゃないんですよ、世間知らず、世の中知らない、失礼、自己中、自己中心的、自分中心、人の気持ちが分からない、性格悪い、悪人、悪者、獣、畜生、悪魔」などの言葉で言ったりするが、あいさつ返されなかった場合は、あいさつ返されたい人の方が被害者で、あいさつ返さなかった人の方が問題がある加害者で、あいさつ返されたい人を無視した、ひどいことをしている、間違った態度取っている、異常な人間だと思う人がいるのだ。

正しくもないことしている人の方が常識人などと言われて褒められて高評価されたりするところがある。
もし大勢があいさつ返さないか、誰もあいさつ返さなかったら、あいさつ返さなかった人をダメ人間だと見下したり、嫌ったり、悪態ついたりはしないだろう。
大勢と同じことをやらないと、例外あれど悪く言われたり、間違っていると思われるのだ。
根拠や裏付けがなくても、正しいことや人としてすべきことは、例外あれど大勢と同じことをしないといけないという信仰心持っているのに、
その信仰心を自分の言いなりにさせて思い道りにさせたい相手にちゃんと言葉で伝えることもなく、自分の思い道りにならないことに不満を持ち、本人や本人のいない所で不満を言ったり、
体に暴力振るったり、影から嫌がらせしたりするのだ。

多くの人は、ほとんどの人は普通の人、まともな人と思っているのだろうが、誰でも変わってるところはあるのだ。
あいさつにもそれが表れている。
「あいさつされたらほとんどの人はあいさつ返しているんだから、同じ人間で普通のまともな人です。」と
思う人もたくさんいるのだろうが、あいさつ返す理由、動機、目的までもが同じということにはならない。
表面的に同じ言動、態度を取ったから、内面までも同じことを思っていると捉えて、バカなこと思っている人もいるのだ。
誰にでもあることだろうが、建前と本音の違い分からないところがあるのだ。
言葉で言っていることと、内心の本音が違っている場合があることを頭では分かっていても、現実には分からない場合も多いだろうけど。

きれいだと思っていない人に「おきれいですね」と言ってるのは建前でウソをついていて、本音はきれいだとは思っていない。
言ってもいいと思うウソをつくと「嘘も方便、優しいウソが世の中を平和にする」などと言ったり、思ったりして、ウソつくことを良く言い、
ウソつくことを悪く言う場合は、「うそつきは嫌われます」とか「汚い」「ひどい」など悪く言う。

あいさつしたから「あの人は仕事ができる」と思う人がいたり、
あいさつするから「いい子」などと思ったり、あいさつしてほしいのにしなかったから、ダメ人間だと思ったり、嫌いだと思っている人がいる。
あいさつする人が仕事ができると信じているのは信仰心なのだ。

あいさつしたから「あの人は仕事ができる」と思う人が、何であいさつするから仕事ができると思うのか
不思議だが、「大勢と同じことをすることが正しいことだから、あいさつは大勢がしていることで、それをする人
は素晴らしくて、立派な人間だから、素晴らしくて立派な人は仕事ができるに違いない」などと思っているのか、
「あいさつしてほしいと思っていて、自分の思い道理にあいさつした人に対して好印象を持ったから、
あの人は仕事ができる人なんだろう」と思っているのだろうか?
色んな人がいるのだ。あいさつしたから仕事ができる人などと、ほとんどの人は思わないだろうし、
あいさつしてほしいのにあいさつしなかった人をみんなが嫌ったり、見下したりなんかしない。