くるみの世界

金でやっていく世の中や、あいさつが正しいとされていることは間違っているということを主張したいです。

脱あいさつ あいさつは正しくない15

2022年10月22日 | 脱あいさつ

目次

第1章から第9章へのリンク
第10章から第12章へのリンク
第13章から第20章へのリンク
第21章から第23章へのリンク
第24章へのリンク
第25章から第28章へのリンク
第29章から第37章へのリンク
第38章から第47章へのリンク
第48章から第52章へのリンク
第53章から第56章へのリンク
第57章から第59章へのリンク
第60章から第67章へのリンク
第68章から第75章へのリンク
第76章から第77章へのリンク
82.嫌われないための防嫌対策
83.人間は人のことを分かっていないところがある
84.自分が正しいと信じていることを一方的に押し付けているのは自転車の防犯登録もあいさつも同じだ
85.あいさつと不審者
86.スケープゴート
第87章から第93章へのリンク
第94章から第99章へのリンク

 

82.嫌われないための防嫌対策

 

言いたいことを具体的に詳しく、はっきり言えば、言いたいことを分かってもらえる場合もある。
無言だったり、言葉で言っていても逆の言い方をしたり、遠回しに言ったり、詳しく言わないと何が言いたいのか分かってもらいにくかったりするし、詳しく言っても言いたいことが分かってもらえない場合もある。
詳しく具体的に言わない理由は人によって違うだろうが、遠まわしに言ったり、はっきり言わないことが大人な態度であるとか、
相手や周りの人から嫌われたくないからという理由ではっきり詳しいことを言わない人もいるだろう。
同じことを言い表すのに色んな言い方をしたりするが、
言った人には意味が分かっていても、聞いた人や読んだ人が、言った人が何を言いたいのか分からなければ言っていない無言と同じようなものだ。

嫌がらせをしている人の目的が、嫌がらせをする人が相手に嫌な思いをしてほしい場合と、相手のせいで不快になったと思っていて、その不快さを発散させるために嫌がらせしている人もいるだろう。
嫌がらせされている人はたくさんいるだろうが、嫌がらせされていること自体に気づいていない人もたくさんいると思う。
嫌がらせをしている人が、嫌がらせをされている人に自分がやった嫌がらせや、嫌がらせしている理由を気づいてほしいと思っていても、
嫌がらせをされている人が気づいていないなら何のために嫌がらせをしているのかということになる。ただの自己満足だ。

嫌がらせをされている人は大体、嫌がらせをしている人から嫌われていたり、見下されていたりするだろう。
多くの人は大勢の人から嫌われたくないだろうし、嫌がらせなどされたくないだろうから、嫌われないようにしようとしているところがあるだろう。
自分が嫌なことは人にはしないようにしているとか、他人に自分が嫌なことはしないようにと言っている人がいるが、こういう人たちは自分と他の人をほとんど同じ人間だとは思っていないだろうに、自分が嫌なことをしなければ人は嫌がっていないという信仰を持っていてバカなところがあるのだ。

同じ共通点があったとしても、全てが同じ人間などいないだろう。だから、他人のことは分からないところがたくさんあるのだ。
他人のことが分からないところがあるから、他人が何を嫌がるのかも分からなかったりする。
かといって、誰かが何かを嫌がっているのを分かっていても、人が嫌がることをやってもいい場合があるなどと思っているところもあるだろう。
生きていく中で、大勢から嫌われないようにするために、大勢と同じことをして仲間だと思われようとするところとか、大勢が悪だと思っていることをやらないようにして、自分の本音や本心にウソをつきながら生きて、嫌われないようにしている人がたくさんいるだろう。
あいさつをする理由も嫌われないためにしている人もいるだろうけど。

この嫌われないようにすることを、寒さを防ぐための防寒対策や刑法違反などのことをされないために監視カメラをつけたりなどすることを防犯対策などと言ったりするが、これに似た言い方をすれば「防嫌対策(ぼうけんたいさく)」や「嫌われないための対策」とか「嫌われないようにするための対策」とか「嫌われることを防ぐための対策」とも言い表せる。

あいさつをする人の理由の一部や、それ以外の多くのことも防嫌対策だろう。
嫌われたくなかったり、好かれるためにする態度を媚売りとか、胡麻すりなどとも言う。
嫌われて不満を言われたり、嫌がらせをされないために防嫌対策という理由であいさつしていても、あいさつを社会のルールや常識、マナー、コミニケーションなどと言う人はたくさんいるだろうが、あいさつしている人の心理、動機、目的に全く関心がないか、ほとんど関心もなかったり、
あいさつしている理由の具体的なことが分かっていないのに、分かったようなことを言っている人もいるのだ。

あいさつする理由を「あいさつは嫌われたくないからやった」とか「大勢と同じことをしないことで変な人とか思われてバカにされたくないからやった」などと本心は言わない人が多いだろうから、人が一部の人にだけあいさつしている理由はあまり分からないだろう。
大勢がやっていることを社会のルール、マナー、モラル、常識などと言い表す人が多くても、あいさつをやっている目的、心理などについては言っていないのだ。
年金は世代間の支え合いとか、給料を貰うようなことをするのは社会参加や社会貢献などと言い表して綺麗事を言う人がいるが、
やっている人たちの心理とか信仰心については言っていないし、あまり分かってもいないだろうし、分かる気もなかったりするだろう。

嫌われないためにというのも、内面で嫌われているだけや、一回だけ不満を言われる程度ならよくても、しつこく不満を言われたり、
嫌われた後に嫌がらせされることを嫌がる人の方が多そうだ。
防嫌対策とか、嫌われないための対策という言い方よりは「嫌がらせされたくない対策」とか「嫌がらせ防止対策」と言った方がいいだろう。

人に不満を持って嫌うのは自分の思い道りにならなったからだろう。
自分の思い道りにならないことの不満に大勢が共感して同じことを感じていると許されて、普通の感覚とか常識的など思われるだろうが、
大勢が嫌がらないことを嫌がると、変人や心が狭いなどと言われて、悪く言いわれやすい。

人が何に不満を持つのかは人によって違うので、自分や自分の周りにいるごく一部の人が嫌がらないようなことを嫌がる人もいるのだ。
大勢が嫌がっていて、それを口に出したり、書く人が多いことは知られやすいが、ごく一部が嫌がっていることや少数の人が嫌がることの場合は、
知られにくいだろう。
大勢から嫌われている人で多くの人が知っているのは、政治家や逮捕されているような人だろう。これ以外の人も色々なことで嫌われているのだ。
あいさつで言えば、初めにあいさつをしないことに不満を持ったり、本人の目の前で悪態ついたり、はっきりと「あいさつもしねーよー」とか
言う人がいるのだ。こういう人は例外中の例外だろう。
あいさつを返されないことに不満を持ったりして、おかしいとか思う人はたくさんいそうだが、あいさつ返さない本人の目の前で悪態ついたり、身体暴力やったり、嫌がらせする人や不満を言う人はあまりいないだろうし、これも例外的な少数派だろう。
防嫌対策や嫌がらせ防止対策は、相手が嫌がることをしなければいいわけだが、同じことをしても、ある人が嫌がらなくても別の人が嫌がったりするのだ。
何をやろうがやらなかろうが、誰かは不満を持つということになる。だから人間関係は難しいのだ。

人間は自分が一番可愛いのだ。自分よりも大切な人がいると言う人がいるが、自分より大切な人がいるからこの人のために死ねるなど思うのは、
自分が大切だから自分の思い道りにしたいということだろう。つまり、自分が一番大切なんだよ。
大切な人が嫌がることした人に嫌がらせしに行くのを、自分より大切な人のためにと言えばかっこが付くのだろうが、自分が大切な人が嫌がっていることで自分が不快だから、嫌がらせに行くのも、自分が嫌な気持ちになりたくないのに嫌な気持ちになったことを嫌がられた人のせいにしていて、
結局は自分が一番大切なんだよ。
人のためにという言葉と自分のためにという言葉は同義語とも言える。
人に喜んでほしいからという理由で何かをやると人のためにというが、自分がそれをやりたいからやっているのだから自分のためとも言える。

人から不満を言われたり、攻撃されたりしている人に、「人のことを考えていない」とか「人のことを分かっていない」などというようなことを
いう人がいるが、それはあからさまに人から不満や攻撃されていない人も同じで、多くの人はほとんどの人のことは考えていないだろうし、
人のことなどほとんど分からないだろう。
人のことを考えたら人が嫌がることはしないかのように思っているような人がいるが、同じ人間ではないのだから、人のことを考えても、ほとんど人のことなど分からないだろう。
あいさつを初めにする人の多くはあいさつを返されたいからあいさつをしてくるだろうが、あいさつ返されないことに「あいさつ返されたいからあいさつしたの分かってるんだろう。何であいさつ返さなかったんだ?」と不満や疑問を持ち、自分に合わせて従わなかったと不満を持つ人がいるが、こういう人もあいさつ返さなかった人の体の状態や、信仰心や気持ちなど知らないだろうし、知る気もない人が多いだろう。
結局、自分が可愛いので自分を擁護して、相手のことを考えはしないような勝手で我がままなことを思っているのだ。

日本以外のアメリカだかどこかの国で、小学生か中学生ぐらいの生徒と先生が性的両思いでセックスして、それがその国の法では違法で先生が逮捕されていたような記憶があるのだが、セックスした2人はお互い性的両思いでセックスしていても、他の誰かがそれをおかしいと思ったり、
逮捕する法律があって、その法律を適用すれば逮捕される場合もあるのだ。

逮捕されることではなくても、私がいとこの子どもにあいさつ返しをしなかったことに、いとこが私の近くで不満を言ったが、私にあいさつした子ども自体が不満を持っていたのか?
あいさつ返されなかった子ども本人がどう思うかではなくて、自分が子どもにあいさつ返してほしいのに
返されないことで不満を持ち、すぐに不満を言う。
人間は自分が可愛いので、自分の思い道りにならないと不満を持つところがある。

 

83.人間は人のことを分かっていないところがある

 

今までに誰かにプレゼント(贈り物)とか、食べ物などを渡された人の中には、本当は渡された物を迷惑したり、嫌がっていたり、いらないと思っているのに、色んな理由から形だけ受け取って貰った人もたくさんいるだろう。
あげた人の中には、相手が受け取ったから嫌がっていないと思う人もいるだろう。
貰われたから嫌がられていないと思った人の中には、またあげようと思う人もいるだろうが、相手は要らないと思っている場合もあるのだ。

あいさつ信者たちは、あまりにも数少ない人にあいさつをしてきて、あいさつした相手の全員か、ほとんどの人に言葉であいさつを返されたから
他の人もみんな言葉であいさつを返すと勝手に自信を持って信じた人がたくさんいるだろう。
そして、この人達はヘレンケラーを知っている人が多いだろうが、初対面の人にあいさつしたら、みんながあいさつを言葉で返すと
信じているバカで頭が悪いところがあり、鈍いところもあるのだ。
根本的に人のことを同じ人間だと思っていないだろうから、人には一部同じところがあると適当に思い込み、自分が正しいところがあると信じているのだ。
本当はあいさつ返しを正しいと信じていない人が、嫌われたくないからなどの理由で渋々あいさつするから、あいさつ返された方が、
「またこの人にあいさつをしよう。今あいさつを返したから、今後も自分があいさつするたびに毎回あいさつを返してくる」などと思って勘違いしたり、「あいさつ返されたのは自分が嫌われていないからだ」「自分の思い道理になってうれしい」などと無意識、意識的に思ったりするのだろう。

人間は全てが自分の思い道りにならなくても、一部は自分の思い道りになることがあると信じているところがある人が多いと思う。
その一つがあいさつで、あいさつを初めにしてあげたら、絶対に100%言葉であいさつを返されると勝手に信じ込んで、ごく一部の人に
初めにあいさつしたら、あいさつした相手全員が言葉であいさつを返すと「ほら私が信じていることが正しいこともある。
あいさつしたら、みんなが言葉であいさつ返すんだよ。」とか「言葉であいさつを返されたいと思っている自分の気持ちが相手に通じたから、
相手は言葉であいさつ返したんだ」「ああ、やっぱり自分が正しい」などと自分が思いたいように都合のいいことを思うのだろう。
人間は自分に都合のいい捉え方をするところがあるのだ。

あいさつをすることを心のふれあいと言う人がいるのだが、あいさつを返させたいと心で思ってあいさつしたら、自分の思い道りにあいさつを返されたことを、自分の気持ちが通じて、心が通じたからあいさつされたと思って心のふれあいと言っていそうだが、みんながあいさつ信者ではないので、あいさつしていても形だけ渋々あいさつしている人もいるのだが、
あいさつ返した人や、初めにあいさつした人がどういう理由であいさつしたのかの心理、理由を分かっていなくても、心のふれあいだと思いたい人は思うのだ。言葉の定義は人によって違うので同じ言葉をどういう定義、意味付けで使っているのかは人によって違うからだ。こんにちはとかのあいさつも同じ言葉とはいえ同じ意味で使っているわけがないのだ。

人が嫌がることをしても多くのことは許されたり、嫌がった方が間違っているとか、おかしいと思われる場合がある。
例外あれど、プレゼントや食べ物などをあげて、物を渡された相手が嫌がっていても、あげた方が悪くは思われないどころか、褒められる場合もあるのだ。
仲間ではない人に気を使ったとか、コミニケーション能力が高いとか、協調性があるなどと良く思われる場合がある。
自分が嬉しいことや、正しいと信じていることをやった人には、やられた人やそれ以外の誰かが迷惑していたりして嫌がっていても
悪く言われない場合があるのだ。
あいさつも、あいさつ返ししろという押し付けを嫌がっていたり、あいさつを返すことを正しいと信じていない人の方が白眼視されたり、
見下されたり、バカにされて、少数派が悪く言われやすいところがある。
いい加減で適当なところなど誰にでもあるだろうが、
例外あれど、そんないい加減で適当なところがある人が普通の人、一般人、堅気の人間、いい人、まとも、正しい人などと良く言われたりする場合もある。

私が中学生の時のある日、姉が家に帰ってきた時に私が姉に「お帰り」と言わないことに対して不満を直接言われたことがある。
それを言われたことに対して、私は自分が間違っているとは思っていないし、悪いとは思っていない。
姉が親や私が返ってきた時にお帰りと言っていた記憶はないが、
私の知らない所で家族にお帰りと言っていることがあったとしても、いつも言っているわけではないだろう。
この私の姉のお帰りと言われたいのに言われないことの不満とあいさつも同じだ。
他人にある言葉を言わせたいのに、自分の思い道りのをことをしないことに勝手に不満を持ち、自分の思い道りのことをしない方が間違っていておかしいと思っているのだ。

日本人を良く言いたがる人が謙虚、控えめ、つつましやか、辛抱強いなどと大げさなことを言うが、そうではないところなどたくさんある。
自分の信じていることには合わせてほしいのに、自分は他人に合わせないところがあるのだ。
日本人には我がまま、自己中心的、支配的、独裁的なところがあるのだ。
自分が信じていることが間違っていても根拠なく正しいと信じ、同じことを信じていない人を見下したり、嫌ったり、気味悪がったり、不思議がるのだ。
やくざや極道、暴力団と言われている大勢から悪く思われている人たちでも不満を持たないであろうことに不満を持って悪態ついたり、
警察を呼べば逮捕されるような嫌がらせをしていても、暴力団ややくざと呼ばれるわけでもない。
やくざ、極道、暴力団と言われている人を怖がっている人がいたり、悪い人間だと思っている人もいるだろうが、やくざや極道、暴力団と言われていない人のことも悪人や犯罪者などと呼んだり、あいさつをしなかった一部の人をダメ人間などと言う人もいるのだ。
やくざのこともダメ人間で劣っている人のように思っている人がいても、やくざと言われている人以外の人にもダメ人間などと言ったりして見下していて同じように言っているのだ。
やくざと言われている人や刑法違反をしていて犯罪者と言われている人などは、札付きの悪という扱いをされていたり、
悪者という言葉のレッテルを張っている人が多いだろうが、
一方で、ほとんどの人は悪い人ではないと言いたいのだろうが、言葉とは言葉遊びであり、どうにでも使えるものなので、誰でも悪人だとも言えるし、悪人なんていないとも言えるのだ。
人や人間以外の生物が嫌がることをしていたり、誰かが悪だと思うことをやっていることを悪や罪と定義づければ、
誰でも悪人であり、犯罪者であり、罪を犯しているとも言える。
人から嫌がられていたり、バカにされているところがあったり、誰かが人間としてしてはいけないと思うことをしている点では、
やくざと言われている人も、普通の人と言われている人も逮捕されるようなことをしている人も同じなのだ。

人によっては、自分も悪いことをしているけれど、それはかわいい悪さで、大したことなどしていないなどと思っていたりして、
自分よりも劣っている格下がいると上から目線になっていて特権階級意識を持っていたりする普通の人や常識人と呼ばれている人がいる。
人を見下したり、上に見たりして人に上下を付けているのは白人だけではない。人を見下すことを悪だと定義づけるなら、みんな悪人だ。
例外はあれど、少数派を悪者扱いすることで、それ以外のほとんどの人は逆に善人であると決めつけ、多数派が正しいと根拠や裏付けもなく適当、いい加減な信仰持っている人達が普通の人や一般人や堅気の人間などと呼ばれて良く言われているのだ。

江戸時代にキリスト教信者が権力者から迫害されて殺されたが、ほとんどの人は権力者側のやったキリスト教信者を殺すことを正しいとは思わないだろう。
ある時代にまかり通っていたことが正しい正義だからまかり通っていたわけではないのだ。
大勢がやっていたり、大勢が感じていることだから正しいということにはならない。
大勢がやっていることを正しいと信じている人がたくさんいるが、一方で例外もあって、大勢が学校に行っているし、子どもの多くも学校に行くことが普通で当たり前で正しいと思っている人もたくさんいるだろうが、
子どもたちも学校の授業を嫌っていたり、「なんで勉強しないとだめなのか?」と疑問を持っている人もいたり、
給料貰うような仕事に行っている人の多くは本当は働きたくないけど金がないとやっていけないから嫌々働いている人もたくさんいたり、
税金や年金を払っているけど本当は払うことを正しいとは思っていないのに嫌々払っていたりなど、大勢がやっていることに疑問を持っていたり、おかしいと思っていたり、間違っていると思っている場合もあるわけだ。
あいさつも同じだ。みんながあいさつ返すことを正しいとは思っていない。あいさつ非信者もいる。

政治家に不満を言う人がいるが、政治家以外の国民も同じようなものなのだ。
政治家が金に汚いとか、国民のことを考えていないとか、ウソをつくと言って不満を言ったりするが、国民もそんな人達なのだ。
全く同じではないから分かりにくくても、似たり寄ったりであり、五十歩百歩、目くそ鼻くそだ。
政治家への不満は、自分の身の回りの人が不満を言っていたり、テレビや新聞などのメディアで政治家に対する不満を言う人がいて、
政治家に不満を持っている人がいることが分かりやすいが、
国民の多くは他人から不満を持たれていても、影で不満を言われていて不満を言われている本人は不満を持たれていることに気づいていなかったり、
本人の目の前で遠回しに不満を言っても、本人や周りの人は遠まわしに不満を言われていることに気づいていなかったりするから、
自分たちが不満を持たれていることに気づいていない場合も多いだろう。

 

84.自分が正しいと信じていることを一方的に押し付けているのは自転車の防犯登録もあいさつも同じだ

 

自転車を買う時に店側から防犯登録をするように言われるが、みんなが防犯登録をしたいなどとは思っていない。
自転車の防犯登録は法律で義務付けられているなどと警察のホームページに書いていたが、その警察自体が法律のすべてなど守っているわけがないのだ。
みんなが自転車の防犯登録の法律を正しいとは信じていない。
信じていない人に防犯登録料を払うように強制している警察側も店側も合法の犯罪をやっているのだ。
店などの値段を付けて何かを売る商売自体が合法の犯罪で合法で詐欺、泥棒をしているだけだ。

警察側や店側が自転車を購入した人に一方的に防犯登録料600円ぐらいを払うように言っているが、払うことをみんなが正しいとは信じていないのに払わなければいけないようにしているのは、
あいさつしたら、あいさつを返せという信仰を持っている人と同じなのだ。
一方的に自分の信仰を押し付けているのだが、
あいさつの場合は、多くの人は社会のルールや常識、コミニケーションなどと言って正当化したり、美化させていて、防犯登録の場合は法律で義務付けられているなどと言い、義務や法律などという言葉で正当化させているのだ。

日本は独裁国家と言う人はあまりいないだろうが、防犯登録を見てもわかるが、権力者側が決めたことに従えと一方的に押し付けてきている独裁国家だ。
あいさつも、あいさつをされた側が満足して喜んでいたとしても、あいさつした方がごく一部の人に一方的にあいさつをして、あいさつされた人が嫌がっていなかったら一方的という言い方をしないのだろうが、
一方的にあいさつをしたら、あいさつされた方がたまたま喜んだりして満足しただけとも言える。
あいさつ信者も一方的で自分のあいさつ信仰が正しいと信じきり、独裁的なところがあるのだが、あいさつ信者が多いので綺麗事で美化されやすい。

自転車の防犯登録に少数の人が不満を言っていたら、権力者側の警察が知っても防犯登録を辞めないだろうが、大勢の人が不満を言ったら辞める可能性はあるだろう。
人が嫌がることをした一部の人は刑法違反で逮捕されるが、ほとんどのことは誰かが嫌がっていても逮捕されないが、防犯登録料を取ることに加担している警察や店側は防犯登録料を払うことを正しいとは信じていない人から金を取っていても逮捕されることはない。ただの差別だ。

防犯登録は義務と言っているが、義務という名目の宗教や教義とも言える。
宗教の押し売りはダメだけど、法律や義務という言葉で言い表しているものの押し売りはしてもいいと言いたいのだろう。
キリスト教や創価学会の人が自分たちが新しい教会や、宗教の建物を建てるのに金が要るから信者ではない人も金を出せと言ってきても払う必要はないと大勢の人は思うだろうが、税金や年金などの権力者側が決めた決まりは守らなければいけない場合があるとして、強制で押し付けることを許しているのだ。法律という宗教の押し売りだ。

誰かの自転車が盗まれた時に防犯登録をしておけば、自転車の持ち主に自転車が返ってくる場合があるから、防犯登録を義務などと勝手に決まりを決めているのだろう。自転車盗難と言われているのは刑法違反だから犯罪という言葉で言っているが、誰かが嫌がることをしていることや、誰かが嫌がっていて正しいという根拠もないようなことを犯罪と言うと定義付けるならば、
防犯登録料を払えというのも犯罪だ。刑法違反ではないから警察呼んでも捕まりはしないし、牢屋には入れられないけど。
防犯登録料を払えというのは合法の犯罪行為だ。
警察も合法をいいことにやりたい放題なところがあるのだ。そして、その警察のやっていることが自分達に都合がいい場合は、
警察が合法でやっていることも違法でやっていることも、多くの人は許しているのだろう。
職務に忠実で真面目などと警察を良く言う人がいるが、警察が法律の全てを守っているわけがない。
刑法を適用して誰かを逮捕していても、その刑法の全てを警察が正しいと信じているわけがない。
正しいと信じてもいない決まりを適用して人のことを逮捕するようなことをしていて、おかしいことをしているのだ。

法律の一部を正しいと信じて守っていたり、正しいとは信じていないのに法律の一部を色んな理由で守っている人が、
自分が守っている一部の法律や、法律以外の決まりを守らない人に対して不満や疑問を持っているが、こういう人たちも法律や法律以外の決まりのほとんどを守ってはいないのだが、自分と同じことをしないことに不満や疑問を持つが、
自分が守らなくてもいいと信じている決まりなどを、他の人から押し付けられることは嫌がり、我がまま勝手なのだ。

 

85.あいさつと不審者

 

ネットで不審者情報と書かれたものをいくつか見たのだが、
他の人なら不審者という言葉で言い表さないことを不審者という言葉で言い表している。
車から中年の人が「遊びに行こう」と声をかけていたということを不審者と言い表していて、その紙には不審者に注意などと書かれているのだ。

言葉の定義、意味付けが違い、言葉が通じていない。不審者という言葉の定義が違う。
遊びに行こうと言っているのは、ナンパという言葉で言い表す人もいるだろうが、おかしいとか、気味が悪いと思えば不審者と呼ぶ人もいるから、遊びに行こうと言った人を不審者と呼ぶ人もいるのだろう。

多くの人の不審者という言葉の定義は、誰かの外見や言動を気味悪がったり、悪いことをしているとか、悪いことをしそうとか、見下している人のことを不審者と定義づけている人が多いと思う。

同じことをしているのに、おかしいとか、気持ちが悪いとか思うと不審者と呼ぶ人がいても、他の人が同じことしたら不審者とは呼ばない勝手なことを思っているだけだろう。
子どもや年金暮らしや身体障害者や、主婦などが給料や印税という形で金を貰っていなことは許して、おかしいとは思わなくても、それ以外の人が給料や印税という形で金を貰っていなことには不満を持ち、見下したり、
不審な目で見たりしている人がいる。

ネットの別の不審者情報について、相模原北警察署からのメールマガジンに書かれていたのを読んだら、夜に自転車で帰宅途中の女が自転車に乗った男に後を付けられる事案が発生したと書かれていて、
その文章の初めに「犯罪情報」などと書かれていた。
以前、数年前の日中に、私が近所の住宅街で自転車に乗っていたら、数メートルぐらい前に制服を着た高校生の女が自転車に乗っていて、
その高校生が後ろの私を見た後に、自転車を早く漕ぎ出したことがあった。
その後、その高校生は再度、後ろを振り返って私を見たような気がするがはっきり覚えていない。
この女子高生は、断定か半信半疑で私が自分の後をつけてきていると思っていたんじゃないかと思うのだが、私は女子高生をつけているのではなくて、女子高生が向かっている方向に用があるから、その方向に向かっていただけのことだ。他の人もこういうことを思われている人がいるだろう。
日本人は子どもの時から鈍くて人のことや物事の正しいことが分からないところがあるのだ。

不審者という言葉をみんな自分に都合のいいように利用して勝手に定義付けて使っているだろうが、言葉とはどうにでも使える。不審者というのは、よくわからない人で謎だと思う人のことを不審だと定義付けるならば、
みんな不審者であるとも言える。ごく一部の人には住所や電話番号などの個人情報を教えても、他の人には教えない。
それ以外の色んなことも多くの人に隠して秘密にしていて不審だとも言える。
地球の一部である畑や田んぼなどの一部を自分達一部のものであると占領するようなことをしていても、多くの人から不審者とは言われにくいだろうが、不審なことしている不審者とも言えるのだ。

同じことをしても自分や仲間や、気持ち悪がってない人がやると不審や不審者とは言わないのに、他の人が同じことをやると不審者と言っているのを差別とも言わないのだ。
日本人が排他的な村社会と言われているのも、こういうところがあるからだろう。

警察が盗難自転車かどうかを調べるために人を止めたり、
職質と言われているようなことをしているのも、職務に忠実とか、仕事や職業と言えばかっこが付くだろうが、これらのことをやられた人の中には嫌がっている人もいるし、嫌がっていなかったとしても、警察のやっているこれらのことは、おかしいことをしている不審者とも言えることだ。
人が嫌がることをしていることを犯罪と言い表すなら、職質や盗難自転車かどうかを調べるために人を止めることも犯罪であり、
それをやっている警察も犯罪者ということになる。
ほとんどの人が誰かが嫌がることをしても逮捕にはならないけど、一部の人は逮捕されるような差別していることを、差別犯や差別犯罪者とも言える。

警察のもいい例だが、不審者と言う人も不審者と言うことだ。他人の姿は自分の姿だ。
他人が嫌がっていることして税金から給料という形で金を貰っても逮捕されるわけでもなし、不審者、変質者と言われるわけでもない。
警察の一部はおかしいことしているけど、ほとんどの警察はまともであると信じている人もいるんだろうが、警察という組織、集団自体がおかしいとも言えるが、警察も警察以外もほとんどの人まともないい人だと信じている人がたくさんいるのだろう。
見抜けている人が、警察のことを国営の暴力団、やくざで、一般に暴力団と言われている人との違いは、国営か私営の違いだと言っている人がいたが、
良い得ているが、ほとんどの人は一部の警察を悪くは言っても、ほとんどの警察のことを悪くは思っていないだろう。
人を逮捕したり、牢屋にいれることが正しい根拠などどこにもないが、大勢がやってもいいことだと信じているから、逮捕する法律はまかり通らす場合が多いのだろう。

私は以前、家の中で独り言を言っていた。その独り言の内容はあいさつのことなどの不満、悪口で、特定の個人や大勢がやっていることの一部について独り言を言っているのだが、その声が家の外に漏れている時があるみたいで、隣人の小野という男の老人に嫌われている。
私の家の隣で大声で他の人に私の悪口を言っている。独り言に不満を言っている小野が自分も私が独り言を言っていない時に、
「何をごにょごにょ独り言言よーんじゃ」と何度か言っているのを聞いたことがあったり、鳥がキーキー大声で鳴いている時に小野が「うるせーんじゃ」
と大声で言っていたことがあった。
自分も音の面では私の独り言よりも大きい音を出していて、草刈り機などの音出していたり、私への嫌がらせだと思っているが、小野の家の母屋から離れた所に以前、職場に使っていた建物があり、その建物の壁を外から、
金づちか金づちみたいなものでカンカンと大きな音を出して叩いてたり、クワの刃の部分を上に向けて、金づちか金づちみたいなもので大きい音出して叩いていたりした。
そんな小野が数年前に私が家のリビングにいた時に、リビングの外から小野の声で「不審者がいると犬吠える」という声が聞こえたのだが、
不審者と言ったのは私のことを言ったのだと思っている。
その当時うちには犬がいたのだが、うんこをする前とか、それ以外の時にもワンワン吠えることがよくあったので、
犬はおかしい奴を見抜けるから、私の家から犬の吠え声がするのは、独り言を言っているおかしい奴がいるから犬が吠えていると言いたいのを
「不審者」という言葉で表したんだろうが、小野がやっていることも誰かがおかしいと思うことをやっているので、
小野も不審者ということになる。不審者と言う人が不審者だ。
小野は外で猫を飼っているが、猫を外飼いしていることを嫌がっていたり、迷惑している人もいるが小野はそれを知らなさそうだ。

人が嫌がることは人によって違うのだ。人が喜ぶことも人によって違う。
多くの人はそれを頭では分かっているのだろうが、実際、現実に人がいろんな言動を取っているのを見て、自分と同じことをしていないかったり、
自分が正しいと信じていることをやらないとおかしいと思う場合もあるのだ。

数年前に、近所のお大師堂の前を私の母親と通りすがった時に、お大師堂に60代ぐらいの男の人が上半身はノースリーブの白い下着を着て座っていて、
お大師堂から離れた所で、私の母親が同町内のじいさんにお大師堂にいた年配の人のことを言ったら、じいさんが同町内でネズミ捕りをしている警察の所のお大師堂の所にいた人のこと言ったらしいが、ほとんどの人なら警察には言わないだろう。私はその人を怪しいとも不審とも思わなかったけど。
同じ外見の人を見ても、気味悪がったりして警戒する人もいれば、気味悪がらない人もいるのだ。
気味悪がっても、みんながその人を不審者とは呼ばないし、警察に連絡したりはしないだろう。

あいさつについても、おかしいと思われるのは、あいさつを返さなかった方か、あいさつされて会釈だけした方が不審がられて、おかしい人や、
異常な人と思われやすいだろうが、あいさつしたらあいさつ返すことが正しいと信じているあいさつ信者が間違っていることを信じている不審な人とも言えるのだ。
何で一部の人にだけあいさつをさせたがっているのかを隠していて不審だ。
あいさつ返さなかった方が不審な不審者という感じだろうが、バカと言う人がバカと同じで、あいさつ返さないことを不審だと思う人も、
あいさつ返すことが正しいと信じている自分の信仰を同じことを信じていない人に押し付けている不審者とも言える。

相手のことを全然知らないか、よく知りもしないのに断定か半信半疑で人のことを決めつけて、自分の感じたことに自信を持っているようなところが
日本人にはあるのだろう。自分の一部は知ってほしいけど、別のことは知ってほしくない。
自分のことは知ってほしいところがあっても、相手のことは全く知ろうとしないか、ほとんど知ろうとはしないところが、人間には誰にでもあると思う。
あいさつ信者があいさつ非信者のことや、あいさつ信者の中にも知らない人にあいさつしなくてもいいという信仰を持っている人がいることを知らずに、一方的に自分の信じていることを押し付けているのも、相手のあいさつについての信仰を知らなかったり、知る気もないのだ。

 

 

86.スケープゴート

 

子ども全員か、ほとんどの子どもはいい人(善人)だと信じている人がいる。
子どもはいい人だから悪いこと、おかしいことをしないと信じている人がいるが、こういう人の中には子どもが悪いこと、おかしいことをしていると思ったら、その原因、理由は大人のせいだという理由をつける人がいるのだ。
自分が感じて信じていることが正しいと思っていて、それが外れていたとしても、自分の感じたことが正しいと思う場合には、自分が感じていることが正しいと思えるような理由をつけるのだ。

子どもをいい人だと思いたい人が子どもが悪いこと、おかしいことをしていると思った場合に、「大人がおかしいから子どもがおかしいことをする」と言う人もいるし、「親の躾がなっていない」とか「大人が教えていないから」「大人の心を吸った」「大人の真似をした」と思う人もいるのだ。
もし、大人が同じことをしたら本人が悪いとか、変人や悪人などと言って悪く言うことも、子どもがやれば悪く言わずに、大人のせいにするのだ。
大人のせいにしているのもをおかしいとも言える。
子どもは大人の真似をしていると言っている人がいるが、子どもはほとんどの大人の真似などしているわけがないし、大人の色んなことを馬鹿にしたり、見下している子どももいるのに、大人のせいにばかりしているのもおかしいのだ。
大人も、自分より年上の大人の影響を受けているところもあれば、年下の影響を受けているところもあれば、色んなことの影響を受けているだろう。
今、子どもの人も20才過ぎて年齢が大人になれば、年齢が子どもの人がおかしいとか悪いと思うことをしたら、大人のせいだと言われだすのだろう。

好きな人や、いい人だと思う人や自分のことを悪く言わないために、特定の一部の人を悪者に仕立てたり、問題視してスケープゴートにしているのだ。
人間は自分の感じたこと、信じていることが正しいと根拠や裏付けもなく信じているところがあるので、子どもをいい人だと思いたい人は、悪いことをしていると思っても、それを子どものせいにはしないのだ。
子どものことでは大人をスケープゴートにする人も多いだろう。
逆に、初対面で出会った人の雰囲気などを見て悪人だと思ったら、その後、その悪人だと思った人が悪いと思うことをしたら、自分が初対面の時に感じたことは正しかった、自分が感じたことが正しいと自信を持つ人もいるだろう。自分が感じたことが正しいと信じているところがあるのだ。

国民が不満を持っていることの一部は政治家のせいであると信じている人がいる。
こういう人は、政治家に不満を持ったり、言ったり、あからさまな攻撃をしたりするが、政治家の方に問題があるとは思っていない人からすれば、なんで政治家のせいにするのか理解できないだろう。
信じていることが真逆だったり、違うことを信じているので同じことに対して同じことを思わないのだ。

あいさつにおいても、あいさつをしたら返すのが正しいとか、あの人が初めにあいさつしてこなければいけないと信じている人は、
根拠なくても自分が正しいと信じこんでいるので、あいさつしてほしいのにあいさつしない方がおかしいと思い、あいさつしない方をスケープゴートに使う人もいるのだ。
日本人のことを謙虚、控えめ、つつましやかなどと言っていて大げさなことを言っているが、あいさつやあいさつ以外で、そうではないところがたくさんある。

 


脱あいさつ あいさつは正しくない14

2022年10月22日 | 脱あいさつ

目次
第1章から第9章へのリンク
第10章から第12章へのリンク
第13章から第20章へのリンク
第21章から第23章へのリンク
第24章へのリンク
第25章から第28章へのリンク
第29章から第37章へのリンク
第38章から第47章へのリンク
第48章から第52章へのリンク
第53章から第56章へのリンク
第57章から第59章へのリンク
第60章から第67章へのリンク
第68章から第75章へのリンク
76.自分が正しいと思い込んでいるところがある人間
77.人のせいにする人達とあいさつ
78.学校の先生の罪、親の罪、みんなの罪
79.日本人は自分を基準に物事をとらえる所がある
80.自分の姿を相手に見ているあいさつ信者 .
81.脱あいさつ、脱学校(だつがっこう)、脱金社会(だつかねしゃかい)
第82章から第86章へのリンク
第87章から第93章へのリンク
第94章から第99章へのリンク

 

76.自分が正しいと思い込んでいるところがある人間

 

釈迦を祖とする仏教の宗派が100を超えてると書いている本を読んだことがあるが、なんで同じことを言っているものに宗派が100を超えているというおかしなことになってるのか?
人が同じことを言っている人の言い分を同じように捉えていないからだ。
あいさつでも、あいさつをしろと他人から言われても、誰にでもあいさつはせずに、一部の人にしかあいさつしなかったり、
あの人があいさつ返さなかったら許さずに、この人なら許すという勝手な決まり作っていて、人に教えてもらったと言っているような人がいたり、実際はあいさつの決まりを独自に勝手に自分が決まりを作っていたり、
勝手に信じていることを、同じことを信じていない人に押し付けたり、
自分の思い道りにあいさつしない人を攻撃してきたり、見下してダメ人間などと言っている人もいる。

昔、私が小学校の時にそろばんを習いに行っていた。ある日、そのそろばん教室でそろばん以外のことで、伝言ゲームをしたことが一回あった。
私が覚えている限り、私が伝言ゲームをしたのは、それが初めてで、その後は伝言ゲームはやったことはない。
伝言ゲームとは、前の席に座っている人が後ろの人にある言葉を言い、後ろの人は自分が聞きとった言葉を自分の後ろの人に言っていき、
一番後ろの席に座っている人が聞き取った言葉をみんなに言うというようなことだ。
初めに言った人の言葉が最後の人まで伝わらない場合もあるだろう。
世の中や社会などと呼ばれている大勢の集団が生きているこの世界はこの様なものなのだ。

例えばAさんが言った言葉が「おじいさんが腕立て伏せをした時にオナラをした。」とBさんに言い、BさんはAさんが言ったのと同じ言葉を聞き取り、Cさんに「おじいさんが腕立て伏せをした時にオナラをした。」と言ったら、
Cさんが「言ってることちゃんと伝わったよ、おじいさんが腕折ってオナラをしたと言ったんだよね。」と言っているようなもんだ。
CさんはBさんから聞いた言葉をそのまま聞き取ったと信じ込んでいても実際は間違っているのだ。
伝言ゲームの場合、そこに参加している人全員が聞き取った言葉を紙などに書いておけば、どこで間違って伝わっているのかが
分かるだろうが、伝言ゲームをやっても誰の所で間違って伝わっているのかは紙とかに書いていないので分からないだろう。

ある一人の人の見た目を見たり、ある人の生き方や言動を知っても人によって思うことが違い、真逆のことを思っている場合もあるのだ。
思った本人は相手が自分にそう思わせたのだと信じ込んでいる場合があるのだ。
嫌な気持ちになったのは相手のせいで嫌な気持ちになったと信じている人もいるのだ。
同じ言動や態度を取っても他の人なら同じことを思っていない。

他の人も言っているが「みんな他人に関心がない」とか「自分を知りたいのは自分だけで、他の人は他人に興味がない」という感じのこと言っていたりするが、多くの人に関心がある人もいるだろうが、そういう人は例外の人で、多くの人はほとんどの人のことや、物事や世の中にあまり関心、興味はないと思う。
自分が感じたことが大切だから、自分が嫌な気持ちになった原因や理由を相手のせいにしたり、他人のせいにする場合があるのが人間と言われている生物だろう。
相手の信仰や気持ちが分からないという以前に、あまり分かる気もない人がたくさんいるのだろう。
でも、好きな人や尊敬している人などのことには関心、興味があり調べたり、好意的に喋りかけたりする。
どうでもいい人や嫌いなだけの人に喋りかけたり、あいさつしたり、調べるのは表面的な形だけだったり、仕事関係の人にやってる場合が多いだろう。

あいさつでも、他人のあいさつに対する信仰や気持ちを知らないし、知る気もない人があいさつのことを社会のルール、人間のルール、常識などと言ったり、子どもや職場の新人などに対してあいさつするようにと言う人もいるのだ。
大勢と同じことをするのが正しいと信じている人がたくさんいるだろうし、
大勢と同じことをしていないと変な目で見られたり、バカにされたりするのが嫌だろうからあいさつしている人もいるだろう。

我が身可愛さがあり、自分や好きな人のことをあまり悪く言いたくない人が、自分達が間違ったことを信じていたり、やったりしたことを人のせいにしたりして、自分を問題視することはあまりなかったりする。
「あの人が言ってたり、やっていたりするから信じたんだ」などと思ったり、言ったりして人のせいにしていてもそれはウソなのだ。
自分の意見がない人は他人の言っていることを真に受けやすいなど言う人がいるが、人間は他人の言っていることや、やっていることのほとんどは取り入れもせずに、正しいとは信じない人が多いだろうに、
一部のことについては、裏付けを取らずに勝手に信じこんだり、他の人にもそれを正しいこととして言ったりして、自分が信じたことは根拠もなく正しいと信じているところがあるのだ。
裏付けや根拠がないことを信じないことも出来るのに、根拠なく自分が正しいと信じているところがある日本人のことを
控えめ、謙虚、つつましやかなど言う人がいるが、
いい加減で、適当で勝手で大雑把などとはあまり言わずに、名もなきその他大勢の庶民、国民などと言われている人たちを良く言いたいのだろう。

幼稚園や学校などで子供の時にあいさつしろと言われて、幼稚園ぐらいの時にあいさつを正しいと信じる人はあまりいないだろうが、
同じ人や別の人に初めにあいさつしたら、面白いように同じ言葉が返ってきて、面白がった人もいるだろう。
10代や20代や60代の人で今まで周りにいるほとんどの人にあいさつしなかった人も、一部の人にあいさつしてあげたら、全員があいさつ返してきたから
世界中のみんながあいさつしたら返すと勝手に間違ったことを信じてる人もたくさんいるのだろう。

今までうまくいっていたから今後も同じようになると思っていることを例えで言うならば、ある28歳の男がいて、この人は今までに27人の女をセックスに誘って断られたことがなく、27人の女全員とセックスをしてきた。
ある日、Aさんという女をセックスに誘ったのに無言でその場を去って行って、セックスを断られた28歳の男が不満を持ち、腹を立て、
「何でセックスを断られたのか分からない、俺のセックスの誘いを今まで断った奴なんかいないのに」と不思議がっているようなものだ。
この男が今まで20人以上の女をセックスに誘い、面白いように、すんなりとセックス出来てきて、今後も自分がセックスに誘えば女は断らないんだと
勝手に信じ込んでいたのが、自分の思い道りにならずにセックスを断られて勝手に嫌な気持ちになっているようなものだ。

今までうまくいってきたことを、これからも同じようにうまくいくと無意識、意識的に思っているので、自分の思っていることが、思い道りにならなかった場合に疑問を持ったり、不思議がったり、不満を持ったり、びっくりしたりするのだ。
災害があった時に、その災害にあった地域の人が、自分の住んでいる地域に災害が起きるとは思わなかったというようなことを言っていたり、
東日本大震災の後、私の母親と犬が寝ていた部屋には大きな衣装ダンスなどが数個あるので、私が衣装ダンスと天井の間につっぱり棒をつけていたら、
私の母が「岡山に地震はこない」というようなことを言ったのだが、
それを言った前にも後にも岡山に地震はきている。私の母が言いたいのは、岡山には小さい地震はおきても、大きな地震はおきないと言いたいんだろうが。

知っていることは「既知」と言い、知らないことを「未知」と言ったりするが、誰でも知らないことの未知の方が多くて、知っていることの既知の方が少ないのだ。
それなのに、自分は人間や世の中をすごい知っているように言う人もいる。
あいさつを社会のルール、人間のルールなどと言っているのも、実際は人のことをあまり知らない人がこんなことを言っているのだ。
少数の人にしかあいさつしてきていないのに、数十億いると言われている人類の全員があいさつ返すと勝手に信じているような人がいるのだ。
あいさつを初めにしたら、あいさつされた人はあいさつ返すと勝手に信じ込んで、分かった気になり、知ったかぶるのだ。
大勢と同じことしておけば何とかなると信じ込んで、根拠や裏付けもないことを正しいことの様に言ったり、思ったりしている人の方が、
まともな人や正しい人であるかのように言われたり褒められたりする場合もある。
だから、あいさつする人を素晴らしい人など言う人が出てくるのだろう。

あいさつしたらみんながあいさつ返すと勝手に信じ切っていたり、言葉であいさつ返さなければいけないと信じている人の中に、
あいさつ返さなかったり、会釈だけした人を変な目で見たり、見下したりしてダメ人間などと言う人がいる。
あいさつ返されたいからごく一部の人にだけあいさつしてきて、みんながあいさつ返すと間違ったことを信じているわけだが、
もし、相手があいさつを返さないことを分かってたら初めからあいさつなどほとんどの人はしないだろう。
つまり、相手のあいさつについての信仰などを知らない人が、その人のあいさつの信仰などについて知っていると思っているのだ。
そして、自分が正しいと信じているあいさつ返しををしなかった人を不審がり、変な目で見て、バカにしたり格下に見たりする人もいるわけだ。

 

 

77.人のせいにする人達とあいさつ

 

2021年6月7日の夜10時代に私が家のリビングにいた時に、珍しく外から誰かの声がしたのでリビングの窓を開けたら二人の男の喋り声が聞こえてきた。
歩きながら喋ってい私の住んでいる家の前を通り過ぎていくのならば声は小さくなっていくはずだが、同じぐらいの声の大きさで喋っているのがずっと聞こえていたので、喋っている人たちは歩いて喋っているのではなくて、同じ場所で喋ている感じだった。
その人達が誰なのかの私の推測は、私の住んでいる家から道を挟んだ斜め前の家に住んでいるおじいさんと、別の場所に住んでいるこのおじいさんの中年の息子だと思った。
私の住んでいるところは田舎で大道りの近くではないし、昼も夜もあまり人や車が通るところではないし、以前にも夜に同じ人の声を何回か聞いたことがある。
私はこの時間帯にはリビングにいることが多いが、喋り声を聞くことはほとんどないのに同じ場所でずっと喋っている人がいるのは、すぐ近くに住むおじいさん親子だと思った。
しゃがれた元気のない声の人はおじいさんの声で、大きい声で元気のある声の人は息子の声だろうと思った。
私の親がここのおじいさんの奥さんのことをハラダさんと呼んでいたのでハラダという人みたいだ。
2人とも片言で短く喋っていて、喋っている声が全部が聞こえたわけではないが、元気のある声の方が「○○で見た」と言った。
しゃがれた声の方が何かを言った後に、元気のある声の方が「愛想がない」「変わっている」と言っているように聞こえた。
私の勘違いの可能性もあるが、愛想がない、変わっているというのは私のことを言っているような気がした。「○○で見た」と言っていた
○○は、私が住んでいる所から数キロ離れた場所の地名で、私はこの地域に自転車で何回も行ったことがあり、
この人がその地域で私を見たことを言っているような気がしたのだ。
愛想がないと言った元気がある声の人の前に何かを喋った方は「あいさつしなかった」か「あいさつ返さなかった」と言ったのではないかと私は推測している。それに対して愛想がない、変わっていると言っていると思った。

以前、数回このじいさんに初めにあいさつされたことがあるのだが、私は言葉であいさつを返さなかったので、このじいさんはあいさつのことで私のことを嫌っていたりなどして私に不満を持っている可能性があると思う。
このじいさんのあいさつは、私の目を見ずにあいさつをしてきていて、珍しい変わっているあいさつをしている。
別の日にじいさんが私があいさつを返すかを確認するための実験的な感じの態度を取ってきたあいさつをしてきたことがある。
ある日、私が家の裏側から表の庭の方に行こうと歩いていた時に、数メートル先にハラダじいさんが自転車にまたがって、じっと止まっていた。
じいさんは私の方は見ておらず、じいさんの体は私から見て横を向いていた。だんだん、じいさんの方に近づいて行って私がじいさんの隣に来た時に、こんにちはとじいさんが言ったことがあったのだが、私は言葉ではあいさつはしなかった。

あいさつを初めにする人の多くはあいさつをする時に相手の目を一瞬にしろ、じっと見るにしろ、目を見る人が多いだろうが、
このじいさんは目を見ずにあいさつしてくるのだ。6月7日に聞こえてきた愛想がないとか、変わっていると言っているのが私のことを言っていようが、言っていなかろうが、このじいさんのあいさつは珍しい変わったあいさつをしているとも言えるし、人の目を見ずにあいさつをすることが、
愛想がないあいさつをしていて無機質、機械的で、いかにも形だけのあいさつをしているとも言える。
あいさつに限らずに人と喋る時に、何かの作業をしていて目が離せない状況でもない時に、全く人の目を見ないことを嫌がる人がいるが、自分がそれを嫌でなかったり、嫌がっている人がいることを知らなければ、
目を見ずに喋ることを嫌がっている人がいることを知らない人もいるのだ。
人の目を見るのが怖いなどと言う人がいるが、ほとんどの人はそんなことは思っていないだろう。

この親子は私の住んでいる家から聞こえてくるドアを閉める大きい音に不満を持っている人達だと思っている。
この人達が明らかにドアの音に不満を持っていることに私が気づきだしたのは2020年の前半の時で、私が家の庭にいた時に一階の部屋のドアを叔父がすごい大きい音で一回閉めた後にハラダさんの家の方から
大きい音で一回ドアを閉める音がしたのだが、ドアを閉める音がうるさいと思って不満を表すためにドアを閉めたと思った。
ハラダさんのとこは近くに、じいさんの男の兄弟も住んでいるみたいで、この兄弟の人が不満を持ってドアを閉めた可能性もあると思った。
2020年の6月か7月ぐらいの夜の7時か8時頃に、私が暗がりの中で庭にいたら、道路の右側から誰かが一人歩いてきて左の方に通り過ぎて行った。
そのすぐ後にハラダさんの家の方から、ものすごい大きい音で一回車のドアを閉める音がした。
その時にハラダさんの家の前に軽自動車が止まっていた。以前から何度もハラダさんの家の前にシルバーの軽自動車が止まっているのは見たことがあって、その車はハラダさんの息子の車だと思う。
私はその時にハラダさんの家の前に止まっていた車も以前何回も見た車も同じ車だと思っていて、大きい音で車のドアを閉めたのはハラダさんの息子がやったと思っている。
では、なんでハラダさんの息子が大きい音で車のドアを閉めたのかの理由は、私の家から聞こえてくる大きい音で家のドアを閉めるていることで、この息子の親か、近くに住んでいるこの息子の叔父が嫌な思いをしていることに対して不満を持っているからやったのだろうと思っている。

この車のドアを閉める前の月ぐらいのある日の夜に、ハラダさんの家の方から外で大きい声で「隣の家」という声が聞こえてきたことがある。
その後「気をつけて」という声がしたのでハラダさんのところの息子の一人が兄弟が帰る時に気をつけてと言ったのだろうと思っている。
ここのじいさんの奥さんから息子が2人いると聞いたことがあるので、その日、息子2人が親の所に訪ねて来ていた時に、
親か叔父が息子に対して私の住んでいる家から聞こえてくる
ドアを閉める大きな音に対する不満を言ったのだろうと思っている。だから外に出た時に「隣の家」と言ったのだろうが、たまたま外で言った可能性もあるし、私の家に住んでいる人に聞かせたいから、わざと外に出た時に言った可能性もあると思った。
これらのことから見ても、夜にすごい大きい音で車のドアを閉めたのはハラダさんの2人の息子のどちらかだろうと思っている。
この大きい音を出した息子は私を庭で見た時に、私がすごい大きい音で家のドアを閉めている奴だと思ったのか、大きい音でドアを閉めている奴ではなくても、家族も同罪と思って不快になり大きい音でドアを閉めたのだろう。
どちらの理由で大きい音でドアを閉めていても、私の住んでいるところは住宅街なので大きい音でドアを閉めることで周りの他の人や、この人の身内にも音が聞こえているはずだが、そのことが頭になくて人のことを考えていないところがある可能性もあるわけだし、周りの家に住んでいる人に音が聞こえているのが分かっていて凄い大きい音を出していたとしても、他の人のことを考えてはいないところがあるわけだ。
この息子は大きい音で家のドアを閉めている方が悪気があろうと、悪気がなかろうと自分の身内が大きい音で迷惑して嫌な思いをしていて、
自分たちが嫌がることをしているのは相手が自分たちのことを考えていないからだと思っていそうな気もするが、自分も大きい音で家のドアを閉めている相手や、他の近所の人のことを考えていないところがあるから音で嫌がらせをしているのだ。

その後、2021年8月の上旬の月曜日の深夜1時代ぐらいに、私がリビングにいて電気をつけてインターネットをしていた時にハラダさんの家の方から男の声で「まだ起きてんのか。はよー死にねー」という声が聞こえてきた。
この2時間くらい前の前日の夜11時代ぐらいに、ハラダさんの家の方から車を閉める音が一回聞こえた。息子が車で来た時にドアを閉める時の音か、
車で帰っていく時に車のドアを閉めた音だと思った。
翌日の深夜12時代にまた車のドアを閉める音が聞こえたので、前日の11時代の車のドアの音は来た時の車を閉める音で、
12時代の音は息子が帰っていく時の車のドアを閉める音だと思っていたら、
深夜1時代に、「まだ起きてんのか。はよー死にねー」という声が聞こえたので、嫌がらせで音を出すために外に出てきて車のドアを閉めただけで、
その後に親の家にまた入ったか、一旦どこかに車で行って1時間後ぐらいにまた親の家に戻ってくるということをやっていそうな感じがするとも思った。
「まだ起きてんのか。はよー死にねー」と言っていたのは、ハラダさんの息子が言ったのではないかと思っている。

この同じ月の8月に私は庭の井戸ポンプの防音をするために、井戸ポンプの周りを木の板で囲うことにした。
木の一部はホームセンターのナフコで買って切ってもらい、他に使う木は以前からうちの家にあった長細い木を使うことにした。
玄関を閉めて、細長い木を玄関で手動のノコギリで切る作業を2日間連続でやり、その時に電動ドライバーも使った。
一週間後ぐらいに、また木を手動のノコギリで切り、合計3日間手動のノコギリで木を切る作業をやった。
3回目にノコギリで作業した日の翌日か2日後ぐらいの平日の昼頃にハラダさんの家の方の近距離から電動で木を切る音が短時間してきて、
その後、ヤスリで擦るような音も聞こえた。更にその後、電動で金属を切る音が短時間した。
今住んでいる母親の実家の所に引っ越して来てから、この家に10年ちょっと住んでいて、家にいる時間が長いが、こんな音を家の近くで聞いたことなど一度もない。
私が3日間ノコギリと電動ドライバーを使った後に、ハラダさんの家の方から電動で木などを切る音がしたのは、私の家から出てくる手動ノコギリで木を切る音や電動ドライバーの音と、以前からうちの家のドアを閉める音に不満を持って、ハラダじいさんか、じいさんの兄弟が音で嫌がらせ、仕返しをしたいからやったのではないかと思っている。
ハラダさんや、それ以外の人がたまたま電動のノコギリを使っただけで、シンクロニシティ―なんじゃないのかとか思う人もいるかもしれないが、私は違うと思う。
その後、翌月ぐらいに数回電動で金属を切る音が短時間だけ聞こえた。

私たちが住んでいる所から少し離れた同町内の住宅街の中に昔、店に使っていたようなシャッターがある建物がある。
聞き間違いかもしれないが、以前私の親が、そこがハラダさんの所と関係があるようなことを言っていた気がするのだが、
2020年の後半に、そのシャッターがある場所の近くを私が自転車で通っていた時に、ハラダさんの家の方から聞こえてきたのと同じ電動で金属を切る音が聞こえてきたので左後ろを振り返ると2人の大人がいて、その人たちが金属を切っていたのだ。
もし、私が以前親から聞いたのが間違いではなければ、ハラダじいさんか、じいさんの兄弟は昔、その場所か別の所で電動で金属を切る仕事をしていた可能性があるのではないかと思った。
うちの家に住んでいる者に嫌がらせ、仕返しの意味で電動で金属を切る音を出すためだけに、新品か中古で電動のこぎりをわざわざ買ってきて音を出すのなら、家のドアを閉める音で嫌がらせをすることも出来るだろうが、わざわざ数回、短時間だけ電動のこぎりを嫌がらせ、仕返しに使うためだけに買わないと思うので、以前に仕事で電動のこぎりを使っていたことがあって使い方が分かっていた可能性があるのと、電動のこぎりを元職場から借りてきている可能性もあると思った。

私はごみを捨てに行くのはほとんど夜なのだが、2020年か2021年の後半のある日の朝の早い時間に、自転車の前かごにゴミ袋を乗せて捨てに行こうとした時に自転車が横に倒れて、自転車のベルが一回鳴った。その翌日ぐらいの夕方に私が家にいた時に、私の家の庭の前の方から自転車のベルが一回鳴り、そのあと少しして自転車のベルがもう一回鳴ったのだ。
いつも自転車のベルの音を聞くことはほとんどないのに、私の自転車が朝に倒れてベルが鳴った翌日ぐらいに鳴った自転車のベルの音は、
ハラダのじいさんがやっている可能性があると思った。
以前の朝6時ぐらいの時に私が庭の作業をしていた時に誤って足をプランターの上に置いた時にプランターが音を立てて割れたことがあるのだが、その後ハラダさんの家の方から足音がしたのだが、ハラダじいさんが、いつも聞かない音を聞いて様子を見に来た可能性があると思っている。
自転車のベルの時もベルが鳴った後に外に出て見に来たか、窓を開けて見た可能性があって、私が外にいたのを見て、嫌いな家の奴が自転車のベルを鳴らしたから、気に入らなくて自転車のベルを意図的に嫌がらせの目的で鳴らした可能性があると思った。

2020年の8月か9月ぐらいに、同じ家に住んでいる叔父の部屋のクーラーが壊れていて、ハラダさんの家の近くにあるうちの家の建物の2階にクーラーがある部屋があり、そこを叔父が使うことになったので、私がその部屋で短時間だけ掃除機をかけた翌日ぐらいに、ハラダさんの家の方から掃除機の音がしてきた。
今までハラダさんの家の方や近所で掃除機をかける音など聞いたことがない。
ハラダじいさんか、その兄弟の人が掃除機をかける音を嫌がらせ、仕返しの目的でやっているのではないかと思った。

2020年後半の夜6時ぐらいに私が家にいる時に、いつもなら車が閉まる音はほとんど聞こえないのに連続して4回車のドアが閉まる音がしたので、
ハラダさんの息子が嫌がらせ、仕返しの目的でやっているのではないかと思い、家の裏から外に出て見に行ったら、ハラダさんの家の前に、見覚えのある軽自動車が止まっていて、車の前の部分だけが見えた。
運転席に誰か座っていて白い手袋だか、軍手みたいなものを付けている時だった。
ドアを閉めているところを見てはいないが、いつもならこの時間帯に車のドアが閉まる音などほとんど聞こえないのに、4回も連続で閉まる音が聞こえ、
外に出たら音がした方に人が乗っている車が止めてあったのは、その車に乗っていたのはハラダさんの息子で、その人が嫌がらせで音を出していると思った。

叔父が一階の部屋のドアを大きい音を出して閉める部屋のドアには2020年5月に私がドアダンパーを付けたので、その後、一階のそのドアから大きい音が出ることはなかったが、2020年の8月の上旬ぐらいのある日、
ドアダンパーを付けたドアがある部屋から、ものすごい大きい音で一回ドアが閉まる音が聞こえた後に、ハラダさんの家の方から車のドアが閉まる音が一回した後、一回目のドアの音よりも更に大きい音で車のドアが閉まる音が聞こえたのだが、ハラダじいさんか、近くに住んでいる兄弟の人が私の叔父が閉めたすごい大きい音で部屋のドアを閉めたことに対する不満の仕返し、嫌がらせで車のドアを2回閉めたのではないかと思っている。

叔父がものすごい大きい音で部屋のドアを閉めているのも珍しいだろうし、おかしくても、それに対する不満を表すために、
その音を出しているわけではない近所の人や、自分の身内が住んでいる家の隣で身内にも聞こえる大きな音を出して不満を表しているハラダさんのところの人達も、ある意味似たり寄ったりの目くそ鼻くそ、五十歩百歩なのだ。
他の多くの人なら、ものすごい大きい音なら例外あれど嫌がる人は多いだろうし、そこまで大きい音ではない音に対しても不満を持っている人もいるだろうが、音で仕返し、嫌がらせはしない人が多いと思う。もし、その大きい音を出すことで、他の人にその音が聞こえたら悪いと思う人が多いだろうから、音で嫌がらせする人は少ないと思う。隣人の小野やその息子が私の独り言の音に対する不満を持ち、音の嫌がらせをしてきているが、大きい音だから許さないのではなくて、独り言が気持ち悪いから許さないという不満、嫌悪感だろうが、音の大きさは別として自分が許せない音を出す人に対して、
音の嫌がらせをしている点ではハラダさんのところも小野のところも同じだ。

不快になったのは不満を持った相手のせいだと思っているのだが、音で嫌がらせをすることで自分が嫌いではない近所の他の人や、
自分の家族にも嫌がらせで出している音が聞こえているのだからバカなことをしているのだ。
自分が不快になったのを相手のせいにしている人はたくさんいるだろうが、自分も誰かから嫌がられたりして、迷惑されているのだ。
自分が不快になったのは自分のせいではないとか、自分は人が嫌がることはしていないと思っている人もいるだろう。
あいさつでも、自分があいさつしてほしいのにあいさつされないことで疑問や不満を持ち嫌な気持ちになったことを他人のせいに
している人がいるから、あいさつしなかった人に怒りだしたり、嫌がらせしたり、相手に不満を言うのだ。

 

 

78.学校の先生の罪、親の罪、みんなの罪

 


学校の先生や親が子どもにあいさつするように言っていて、
正しくもない間違っているあいさつを大勢が正しいと信じているから、あいさつを人間として正しいことであるとウソを付いている。
子どもも鈍いところがあり、みんながあいさつをしたいわけではないことに気づかない子どももたくさんいるだろうし、自分があいさつさせたい人にだけあいさつを求めて勝手なあいさつしているだけ。

人が嫌がることをしていることや、正しくない不正を罪と呼ぶとするなら、あいさつ運動を学校でしていたり、それ以外でも先生や親が誰かにあいさつをするように言っているのも罪だ。
みんなが誰にでもあいさつしたいわけでもないし、あいさつを返すことや、初めにあいさつをすることを正しいとは信じていない人もいて、あいさつを嫌がっている人や迷惑している人もいるのだから、あいさつをするように言っている学校の先生や親やそれ以外の人にも罪があるとも言えるのだ。
一般に罪と言えば、刑法違反で逮捕されるようなことをしたことを罪と言う場合が多いが、誰かが嫌がることをしている点では同じことなのだ。
言葉の定義は人によって違うから、あることを罪と言う人は罪と言い、罪と言わない人は罪とは言わない。

あいさつ信者は、いい加減、適当にあいさつの決まり(ルール)を決めつけて自分がやりたい時にだけあいさつしているだけだ。
あいさつに限らず、誰かが嫌がることなどみんなやっているのに、ほとんどのことは罪とは呼ばれない場合が多いが、みんな罪があるとも言えるのだ。

「日本人は国家犯罪に甘い」と言っていた人がいるが、権利者側がやった刑法違反に甘いところがあると言っているのだろうが、刑法違反ではなくても、日本人は権力者側が決めたことで自分に都合がいいことや、正しいと思うことを権力者が決めた場合は、それをまかり通らして甘いのだ。
政治家や知事などを権力者と言うが、多数派も勢力の強い権力者の様になっていて、あいさつをされたら、あいさつを返さなければいけないことが人間の正しさだと大勢が信じているのだ。
あいさつ返しをしないことは刑法違反ではないが、刑法違反をした人よりもあいさつ返しをしない人に対しての方がよっぽど嫌っていたり、見下している人もいるのだ。
人がひどいと思うことは刑法違反だけではないのだから、あいさつ返さないことに対しても、ひどいことをしていると思う人はいるから、
あいさつ返しをしない人を見下したり、嫌うのだ。
日本人は例外除いて、多数派に甘くて少数派に冷たいとも言える。
日本人だけではなくて、日本人以外も大体こんな感じだろうけど。
あいさつを返さない少数派に冷酷なところがあり、自分の適当な、あいさつ信仰はまかり通らせて自分に甘いところがある。

 

 

79.日本人は自分を基準に物事をとらえる所がある

 

日本人は英語に比べると、はっきり主語を言わずに言葉を使ったり、
主語以外のことでも、はっきり言わずに、あいまいな言い方をするなどと言われていたりするが、日本人にはっきり言わないところがあるのは、
はっきり言うと都合が悪いから、あいまいな言い方をしたり、遠回しに言っている場合と、はっきり言わなくても自分の言いたいことが通じると思っている場合と、はっきり言わないことで自分の言いたいことが通じないと思っていてもはっきり言わない場合があるだろう。

日本人に英語を使う外国人のことを、I(アイ)と言って、私はと言うのは、自分中心であるかのように言っていた人がいるが、日本人が主語を言わないことが多いから、自分のことを言っていないということにはならないし、
「私は」と言っていないから自分中心に物事を捉えていないとは言えない。
日本人は主語を抜いたりして、はっきり言わないところがあるだけで、自分中心なところがある人達だろう。
あいさつのことでもそうだが、はっきり言わなくても自分に合わせて従ってほしいと思っているようなところがあるのだ。
自分の思い道りにならないと不満を持ったり、不満を言ったり、嫌がらせをしたりするようなところがある。

日本人のことを人の気持ちが全部わかる人が多いとか、ほとんど人の気持ちが分かると思っている人もいるみたいだが、
私は日本人は、ほとんど人の気持ちが分からない人だと思う。
日本人がはっきり物を言わないところがあるのは、相手の言葉の定義とか、相手のことを全く分かっていなかったり、ほとんど分かっていないのに、はっきり言わなくても自分言いたいことを分かってもらえるとか、
相手が自分に合わすべきだと思っているところがあるからだと思う。
だから、自分の言いたいことを相手が分からなかった場合に、気づかないとか、気がきかないなどと、不満を言っているのも、
自分の言いたいことが相手に通じていないのを、相手を原因にして、相手に問題があると思っているところがあるのだ。

例えば、Aさんの数メートル離れた所にコップが2つあって、コップの近くにBさんがいた時に、AさんがBさんに、Aさんから見て左側にあるコップを取ってほしいことをはっきり言わずに、「Bさん、左のコっプ持ってきて」と言ったら、BさんがBさんから見て左のコップを持って行ったら、
Aさんが「それじゃない。左のコップって言っただろ。」と言い、Bさんが「だから、左のコップ持ってきたでしょ」と言ったことに、
Aさんが「あんたから見て左じゃなくて、私から見て左のコップのことを言ったんだ。気が利かないな」と言ったとする。
Aさんは自分の思い道りにならないことをBさんに問題があると思い、Bさんに気が利かないと不満を言っているが、自分が詳しいことをはっきり言わなかったことを問題視はしていないのだ。
日本人には多かれ少なかれAさんのようなところがあるのだ。
AさんはBさんに分かる言い方をしなかったことを問題視するのではなくて、
Bさんが自分の言いたかったことを分からなかったことを問題視して自分に問題があるとは思わない。
日本人は自分に甘いと言われていたりするが、それに気づいていない人もたくさんいるだろうが、自分可愛さがあり、自分が相手より大切なら、相手よりも自分を擁護して自分のことを正当化しやすいのだ。
人間は自分が可愛くて大切なのだから、コップのことでも自分が思いたいように思うだけなのだ。
Bさんが気が利かないと思いたい人はそう思うし、Aさんの言い方が気が利かないと思う人は、そう思うだけのことだ。
人間は自分が思いたいようにしか思わないのだ。

誰かが言っていたことだが、クモの巣に引っかかったクモを先生がクモの巣から放したことに、一人の子どもが「クモがかわいそう」と言ったという。
先生のやったことに多くの人は共感するだろう。蝶がクモに食べられたり、クモの巣に引っかかったまま死んだらかわいそうと思って、
クモの巣から蝶を放したがる人がいる一方で、他の人はクモが蝶をエサとして食べなかったら生きていけないからクモがかわいそうと思う人もいるということだろう。
あいさつも同じで、あいさつを返されなかった人の方が大勢から憐れまれたり、かわいそうとか思われそうだし、あいさつ返さなかった人の方が悪く言われやすかったり、変な目で見られるだろう。
クモのことで言えば、クモがかわいそうと言った方が変わっている人と思われるだろう。
あいさつでも、あいさつ返さなかった少数派の方が、おかしい人や、変わっている人と思われやすいだろう。
大勢と同じことをやらなかったり、大勢と同じことを思っていないと変な目で見られたり、バカにされやすいのだ。

日本人があいさつされたら返すことが正しいと信じていることは「私はあいさつを返すことは正しいと信じている」と言えるが、
この言い方を主語を抜いた言い方で言えば「あいさつを返すことは正しいと信じている」と言えば、みんながあいさつを返すことを正しいと信じているというようにも捉えられる言い方になる。
主語を入れていえば、「私はあいさつを返すことを正しいと信じている」とか「俺はあいさつを返すのを正しいと思っている」ということになるが、
日本人の中には例外はあれど、「私は」を「私たち」にするようなところがあるのだろう。
だから、「私はあいさつを返すことを正しいと信じている」は
「私たちはあいさつ返すことを正しいと信じている」というように思っているようなところがあるから、あいさつしたらみんながあいさつ返すと間違ったことを信じているところがある感じもする。
「自分がやられて嫌なことはやらないように」というようなことを言う日本人がいるが、自分が嫌なことを他の人もみんな嫌がっていると思う人もいるのだろう。
自分が嫌がっていることを他の少数の人や大勢の人が嫌がっている場合もあるだろうが、全ての人が嫌がっているということはないだろう。
日本人が自分中心に人間を捉えているところがあることのいい例だ。

 

 

80.自分の姿を相手に見ているあいさつ信者

 

あいさつしたら、オウム返しで返されると信じている人や、最低限会釈などを求める人の中に、自分の思い道りにあいさつを返さなかった人に不満を言ったりして悪態ついてきたり、ネットに不満、悪口を書く人がいるが、ほとんどの人なら、あいさつ返されなくて不満を持っても内面で思っているだけか、本人のいない所で誰かに不満を言うだけだろう。
ネットに不満、悪口を書いていたり、本人の近くで不満を言ったりして悪態ついたり、嫌がらせをしたり、身体暴力を振るう人など例外中の例外だろう。

あいさつをしたらあいさつ返しをすることが正しいとか、オウム返しで返すことが正しいと信じている人は自分は大勢と同じ普通の人で、まともな人だと思っている人もいるだろう。
あいさつを返さない人を常識なっていないとか、変わっているとか、ダメ人間などと言って見下したり、嫌っている人が自分も独自にあいさつの決まり(ルール)を決めつけて勝手なあいさつをしていて、
自分はほとんどの人にあいさつしないくせに、自分があいさつをしないことは許し、他の誰かがあいさつをしないことは許さなかったり、
子どもや好きな人が自分にあいさつをしないことは許すような差別をしていたりして、変わったあいさつ信仰を持っている変わり者のあいさつ信者だが、自分が変わっていて、おかしいことに気づいていない人もいるのだ。
あいさつ返さない人に不満を持っている人は、あいさつを返さな人に自分の姿を見ているところもあるのだ。全く同じではないので分かりにくいのだろう。

大勢と同じことをせずにあいさつを返さなかったから常識がなっていないと低評価や悪評価している人も、他のことでは大勢と同じことをしていないところがたくさんあるくせに、それに気づいているところと、気づいていないところがあっても自分には甘いところがあり、悪くは言いにくいのだろう。
キリスト教の信者がたくさんいることを知っていても、キリスト教をよく知ろうとしていなくても、キリスト教を信じていなくても
常識がなっていないとは言わないのに、あいさつを返さないことには、常識がなっていないと不満を持つあいさつ信者もいる。

人の目を見ずにあいさつする人は少数だろうが、少数の人しかやっていないことを変わっていると定義付けるならば、人の目を見ずにあいさつしている人も変わっているあいさつの仕方をしているのだが、
あいさつしたところだけを持ち出して、あいさつは大勢がやっているから変わっていないという人もいるだろう。

 

81.脱あいさつ、脱学校(だつがっこう)、脱金社会(だつかねしゃかい)

 

学校に行く理由を人によって全然違う理由を付けていたりする。
自分が思いたいように思うのだから、同じことに対して同じことを思わないわけだ。
学校に行く理由を、算数や国語や社会など色んな授業を受けることで
同じことに対しても違う見方が出来ることを知るために学校に行くかのように言っている人がいる。
別の人は、学校は行かなくてもいいことを知るために行くと言っている。
大勢と同じことをすることに対して自分が思いたいように思うのだ。
大勢と同じことをすることを美化して綺麗事を言いたい人は、勉強や学び進化などと言って良く言いたがる。
人間として正しいことは、例外あれど大勢と同じことをすることだと信じている人がたくさんいるだろうから、学校に行くことや、あいさつを返すことが正しいと勝手に信じているのだ。
そして、同じことをしない人を見下して、蔑んできたり、バカにする。
例外除いて、大勢と同じことをして、大勢と同じことを感じることが正しい正解だと信じている人がたくさんいる。
大勢と同じことをすることに良い意味を付けて、自分が大勢と同じことをたくさんしてきたことや、大勢と同じことをする多数派を良く言い、例外あれど人間としての正しさは大勢と同じことをすることであると決めつけたい人がたくさんいるのだろう。
自分が嫌ではなかったからとか、自分や大勢に都合がいいことだから良く言って褒めて、他の人にも同じことをさせようとする人がいる。
こういう人が自分達に都合がいいことや、いい思いをしたことを他の人に押し付けても、人のためのいい人などと良く言われたりして褒められる場合が多いだろう。

学校に行くことが正しい根拠や裏付けなどどこにもないし、学校など行かなくてもいいが、学校に行くことを正しいことだと信じていたり、正しいとは信じていなくても、親の中には見栄や体裁、世間体を気にして
学校に行かせたい親もいるだろうし、子どもの中にもそれを気にして学校に行っている人もいるだろう。
大勢と同じことをしていないと異常者と思われたり、不審がられたり、気味悪がられたり、バカにされる場合があるので、こういうことを思われないために、大勢からバカにされたり、嫌われないために学校に行っている人もいるだろう。
学校に行っていない人をバカにしていたり、間違っていると思っている人は、学校に行っていない人が大勢と同じことをしていないから
間違っていると思っていて、おかしいと思っている人もいるだろう。
大勢が学校に行っていなかったら学校に行かないことを許して許可するのだろうけど。大勢が正しいと信じている人はいい加減で適当なのだ。

大人のあいさつ信者の一部は、学校のあいさつ運動などであいさつ返しが人間として正しいことだと子どもに言いたいのだろうが、これも間違いで
あいさつ返しや、あいさつすることが正しい根拠などどこにもない。あいさつを正しいと信じるあいさつ信者がたくさんいるだけだ。
学校には行かなくてもいいというのを、別に言い方でいえば「脱学校(だつがっこう)」で、あいさつは正しいことではなくて、やらなくてもいいというのを別の言い方で言えば「脱あいさつ(だつあいさつ)」だ。
大勢がやっているから正しいと信じていることの中には、金でやっていく世の中が正しい信仰があるが、金でやっていく世の中も不正で間違っているが、この金でやっていく世の中をなくして、辞めていくことは「脱金社会(だつかねしゃかい)」とも言える。