目次
第1章から第9章へのリンク
第10章から第12章へのリンク
第13章から第20章へのリンク
第21章から第23章へのリンク
第24章へのリンク
第25章から28章へのリンク
第29章から37章へのリンク
第38章から47章へのリンク
第48章から52章へのリンク
第53章から56章へのリンク
第57章から59章へのリンク
60.コミニケーションという言葉の定義
61.あいさつの押し売りと需要と供給
62.悪徳レフェリーの国民
63.みんな毒人間、毒生物とも言える
64.あいさつと家の鍵を閉めること
65.女神と六人のあいさつ信者
66.テレビ局とスポンサー企業とあいさつ信者
67.自分の気持ちや信仰心に正直で自分の気持ちにウソを付かなかった人の方が嫌われたり、悪く言われる場合と良く言われる場合がある
第68章から第75章へのリンク
第76章から第81章へのリンク
第82章から第86章へのリンク
第87章から第93章へのリンク
第94章から第99章へのリンク
60.コミニケーションという言葉の定義
コミニケーションという言葉があるが、この同じ言葉の定義、意味づけは人によって違うので、言葉が通じていないのだ。
ブログやSNSなどインターネットの世界に、文章や写真や音楽や作品を写真や動画などで出して、それを他人が見ることを、交流やコミニケーションと言う人もいるだろうし、作品とかを見て、その作品を見た人に自分の思ったことを言うことをコミニケーションと言う人もいるだろうし、
作品を見た人が作品を作った人に言葉で思ったことを言って、それに対して作品を作った人が言葉で返答することをコミニケーションや交流と言う人もいるだろう。
コミニケーションや交流という言葉を同じ意味で使っていないのだ。
「コミニケーション出来ていない」「コミニケーション能力低い」などと不満を持ち、はっきり具体的に言葉の定義を言わずに
自分の思い道りにならなかったことに対する不満を言ったり、思っている。
「コミニケーション出来ていない」「コミニケーション能力低い」という言葉に隠している意味は、「私が正しいのに、私が正しいと信じていることが出来ていない」「私が正しいのに、あの人は正しいことを分かる能力が低い」などと不満を持っているのだろうが、言いたいことの詳細をはっきり言わずにコミニケーションなどという言葉で言い表して自己満足しているのだろう。
言葉で誰かに思ったことを言ったり、書いても、気に入らないことを言ったらコミニケーションや交流などとは言わないのに、
気に入ることや、正しいと思うことを言ったらコミニケーションや交流などと言うのだ。
バカバカしい言葉であり、言葉遊びしていて、自己満足で言葉を使っているのだ。
他人に喋りかけたり、あいさつしたりしてる理由や目的が、
「あの人、周りの人に相手にされていなくてかわいそうだから、形だけ喋りかけたり、あいさつしてあげた」という理由で人に声かけても、コミニケーションや交流などという言葉で言い表して変な、いい加減なことをしているのだ。
喋りかけた本人は良いことしてコミニケーション取ってあげたと思っていても、かわいそうだからという理由で形だけ喋りかけられた人が、そういう理由で喋りかけてこられたことを良く思っていなくて、
形だけ喋りかけてくるなら、喋りかて来てほしくないと思ったり、それをコミニケーションとは呼ばない人もいるだろう。
同じことに対して同じ言葉では言い表していないし、同じことを思ってはいない。
関わる気もない人に、かわいそうだからという理由で喋りかけたり、あいさつする人を良く言う人は「いい人」「優しい人」などと
高評価して褒めるだろうが、喋りかけられた本人が「私と関わる気もないのに形だけ喋りかけたり、あいさつしてこられてもうれしくもない」
と思っている場合があってもコミニケーションや交流などという言葉で言い表したりするのだ。
具体的にはっきりと誰かに声をかけて喋りかけた動機、理由、目的を言えば分かるものを、はっきり具体的に言わないから分からないのだ。
あいさつされて嬉しい人が、そのあいさつをコミニケーションと言い表していても、あいさつした相手が嫌々あいさつしていてもコミニケーションという言葉で言い表していて、自分や相手の心理については触れていなかったり、あいさつしている人があいさつについて何を思っているのかに興味、関心がない人が多いのだろうけど。
まるで、バナナもリンゴもみかんもパイナップルのことも果物やフルーツや食べ物という言葉で言い表しているのと同じようなものだ。
同じ目的や動機で喋りかけたり、あいさつしているわけでもないのにコミニケーションや交流などと言う人もいて、自分が信じていることや、
大勢がやっていることを美化して、綺麗事言っているのだ。
交流やコミニケーションや交友関係などと言えば、多くの人は悪い意味には使わないだろうが、「嫌々交流している」「嫌々コミニケーションしている」などと言ったらカッコが付かないだろう。
誰かと関わっている本当の理由、本音、本心を、関わっている相手や大勢の前では言わない場合が多かったり、
影で本音を言っている人が多いのだろうけど。
61.あいさつの押し売りと需要と供給
あいさつを商売やビジネスのように言えば、商売で家に訪れて商品やサービスを売りに来ることを訪問販売とか、飛び込み営業などと言うが
商売で来る人は商品やサービスを買われなくても、びっくりしたり、おかしいとは思いにくいだろう。
なぜかというと、断られる可能性があるということを初めから分かっているからだ。
あいさつの場合はこの逆で、あいさつ信者の多くは初めにあいさつをしたら、絶対に100%オウム返しであいさつを返されると信じているので、
自分の思い道理にならなくて、あいさつをオウム返しで返されないとびっくりしたり、おかしいと思ったりして不満や疑問を持つのだ。
商売の商品やサービスをあいさつに置き換えれば分かりやすいだろうが、
あいさつを売っているのは、あいさつ返しを返されたいからあいさつを売っているのに、あいさつを返されなかったから、おかしいと思っているのも一方的なあいさつの押し売りをしているのだ。
あいさつ信者はあいさつを売ってやったら、絶対に買えと言っているようなものだ。
商売なら買った場合は金を払えということだが、あいさつはあいさつを返すことが正しいと信じていないあいさつ非信者にも、絶対にあいさつ返しをしないといけないと信じているあいさつ信者がたくさんいるのだ。
需要はニーズとも言われるが、あいさつ信者の多くは全ての人はあいさつを初めにされたら、あいさつを返したいという需要、ニーズを持っていると信じているのだろう。
でも、実際の人間にはあいさつ非信者もいるし、知らない人にはあいさつしなくてもいいという信仰を持っているあいさつ信者の人もいるわけで、
みんながあいさつをしてほしいとか、あいさつを返したいなどとは思っていないので、みんながあいさつに対する需要、ニーズなど持っていない。
一部の人からのあいさつには需要があっても、他の人からのあいさつに対しての需要はない人もいる。
あいさつを返されたいから初めにあいさつして、あいさつを初めに供給しても、あいさつを供給された人の中にはあいさつしてほしいとか、あいさつ返しをしたいという需要、ニーズがない場合もあり、あいさつされることを求めていない人もいるのだから、あいさつを初めにしている人が一方的に
あいさつ返しを求めて勝手にあいさつを返せと押し付けているだけなのだ。
これが商売なら、ひつこく買ってくれと言ったり、何度も訪問販売していると、嫌がっている人に押し付けてはいけないと思われやすいだろう。
あいさつみたいに大勢がやっていることは正しいことだと信じられやすく、許されやすいのだ。
あいさつとは、需要がない人に対してもあいさつを供給して、あいさつを与えて供給したから、あいさつ返ししてほしいと見返りを求めて、あいさつの押し売り、あいさつ返せの押し売り、あいさつ返しが正しい信仰に合わせろの押し売りをしているのだが、あいさつ返しが正しいと信じている人の中には、押し売りとは言わずに、常識や社会のルール、コミニケーションなどといい綺麗事を言い、良く言う人もいるのだ。
自分に合わせてほしいと、自分の信仰や欲求を人に押し付けても、自分が信じていることや、信じていなくても大勢がやっていることは許されやすい。
62.悪徳レフェリーの国民
人間は自分が信じたいようにしか信じない、自分が思いたいようにしか思わない。
多くの人は、ほとんどの人はいい人で悪人ではなく、一部の人は悪人でいい人ではないと信じていそうだ。
いい人だと思っている人と悪人だと思っている人が同じことをしても同じことを思わないことを例え話で言えば、駅前で誰かが物を落として、落とした物をいい人だと思う人が拾って落とした人に渡せば、
いい人だからいいことをやったのだと思っても、
悪人だと思う人が同じことをやれば、偽善者や偽善行為などと言ったり、いい人の心を吸ったとか、いい人の真似をしただけで形だけやったとか、悪人だと思う人が人の役に立ちたいと思ってやっていても、
いい人の影響で人の役に立ちたいと思ったのだ、という理由をつける人もいるだろう。
誰かが心身苦しんでいても、悪人だと思う人が苦しんでいると自業自得、しっぺ返し、因果応報、自分に原因があるとか、本人だけに問題があるなどという理由をつけても、いい人だと思う人が苦しんでいると、他人のお荷物背負わされたとか、親や先祖の因果を背負っているとか、運が悪いとか、人のせいだとか、本人以外の人や人間以外の運などのせいにするのだ。
別の言い方で言えば、いい人だと思う人には問題がないのに苦しんで嫌な思いをするのはだめだけど、悪人だと思っている人や、劣っていると思っている人が嫌な思いをしたり、苦しむのはおかしいとは思わない人もいるだろう。
善や悪は主観的な捉え方だし、全も悪もないとも言えるが、
多くの人は刑法違反した人を悪いことしているとか、罪があるというだろうが、誰かが嫌がることをやっていたり、不正で正しくないことをやっていることを悪と定義付けるならば、誰でも悪いことをやっている悪人とも言えるし、誰でも罪を犯しているとも言えるのだ。
それなのに、ごく一部の人のことだけを悪いことをしている悪人だとか、犯罪者や加害者などと悪評価して悪く言っているのはえこひいき差別をしているのだ。
だから、そんな差別をしている人たちのことを悪徳レフェリーだとか、悪徳裁判官とか、悪徳国民とか、悪徳庶民とも言える。犯罪者や罪人、悪人と言われていないだけで、誰かが嫌がることしていたり、正しくもない不正をやって間違ったことをしていても大勢と同じことをしていると許されやすかったり、大勢が正しいと信じていることは悪とは言われにくい。
逮捕されるようなことであろうと、そうではなかろうと、大勢が悪いと思っていることが悪と信じている人もいるだろうが、大勢が嫌がっていなくても、自分が嫌なことをやった人を死んでほしがったり、見下していたり、悪人だと思っている人もいるのだ。
相手の立場に立ち、相手の靴の中に入り込むなどという言葉があるが、
言葉とは同じ言葉を同じ意味では使っていない場合があるわけだから、この言葉もどうにでも使えるのだ。
相手の気持ちや信仰心や体調などが分からなくても、相手のことを考えてあげたから、相手の立場に立ち、相手の靴の中に入り込んだという意味でこの言葉を使う人もいるだろう。
自分以外の人と好き嫌いや、信仰などが同じで、相手に共感できて相手の立場に立つことが出来るという意味でこの言葉を使うことも出来るだろうが、
人間は全てが同じではないのだから、相手の立場には立てないところがあるし、相手の靴の中には入り込めないとも言える。
人の気持ちや信仰心や体調などが分かっていなくても、勝手に人の気持ちなどを決めつけたり、自分が感じたことが正しいと信じる自由はあるだろうが、それは思い込みや自己満足で、実際は人のことを分かっていなくても相手の立場に立ったと言えばカッコが付くのだ。
自分がおかしいと思う、ある同じことをやった複数の人がいた時に、その中のほとんどの人は、変なおかしい人の真似をして、おかしいことをやったけど、その中の一部の人は変なおかしい人だから、おかしいことをやったと理由をつける人もいるのだ。
人間のほとんどは普通の人で変ではないけど、一部の人は普通ではなくて変な人だから変でおかしいことをやり、普通だと思う人が変でおかしいことをやったと思う場合は、変な人の影響で真似をして変なことをやったと理由を付けて、自分が思いたいように思うのだろう。
言葉には周波数や言霊があるなどと言う人がいるが、同じ言葉を同じ意味付けや定義で使っていない場合があるわけだが、言霊や周波数などと言っていればカッコが付くところがあったり、聞こえがいいところがあるのだろう。
言葉には言霊がこもっていて、その言葉に込められた言霊や周波数によっていい気持ちにもなるし、嫌な気持ちにもなると思う人もいるのだろうが、それは間違いだ。
同じ人が書いた文章を読んでも、同じ人が言った言葉を聞いてもみんなが同じことを思うわけではないし、同じことを感じるわけではないからだ。
あいさつも同じことで、こんにちはという同じ言葉自体に意味付けや定義があるわけではなくて、こんにちはという言葉を色んな人が違う目的、理由で勝手に使っているだけなのだ。
言葉には言霊という気持ち、思いがこもっていると言えばカッコが付くところがあっても、ある言葉を言った人が、その言葉にどういう意味を込めているのかを分かっていなくても、自分が誰かの言った言葉で嫌な気持ちになったら、相手の言葉に込めた言霊で嫌な気持ちになったと思う人がいたり、
誰かが言った言葉でいい気持ちになったのは、相手が言葉に込めた言葉でいい気持ちになったと思い込む人もいるだろうが、これも間違いだ。
同じ言葉を読んだり、聞いてもみんなが同じことなど思わないからだ。
同じことを言ったのが仲間や好きな人だったら嫌な気持ちにならないのに、他の人から言われたら嫌な気持ちになる場合があるのは、
相手が言った言葉で嫌な気持ちになったわけではなく、
自分が人のことをえこひいき差別をしているから同じことを言っても、誰が言うかによって不快にもなれば、不快にならない場合もあるのだ。
政治家の森さんが、女が喋ることについて発言したことで、一部の人が森さんの言い分に不満を言っているが、ほとんどの人は森さんの言ったことを知っても、不満など持たないだろう。
人が言った言葉には言霊という想いや気持ちがこもっているから、その言葉を見聞したらみんなが同じことを思うというわけではないから、
森さんが女が長く喋ると言うようなことを言ったことに、
外国の女が森さんに対して「女は簡潔に喋ることが出来る」というようなことを言っていたのだが、ほとんどの人は森さんの発言を女がいつでも長く喋って、短く喋ることをしないという意味で言ったとは思わないだろうが、そうは思わない人もいるのだろう。
つまり、同じ言葉を見聞してもみんなが同じことを思うわけではないのだ。
森さんの言ったことに不満がある人は、森さんが女が簡潔に短く喋るところがあると思っているならば、それを具体的に言うべきだとか、例外もあると言えと思う人もいるのだろうが、自分達も言葉を使う時にいつも具体的な詳しい説明をしているわけではないだろう。
森さんの発言に差別発言と言っている人もいるが、森さんが言ったことと同じことを自分の仲間や子どもなどが言っても、
はたして同じことを思ったのかが怪しい。
森さんが政治家だから、政治家を見下したりバカにしている人が政治家の言ったことだからとケチつけて悪く言っているならば、
政治家に対する悪い意味での差別ということになるし、
仲間でもないし、好きでもない人が言ったから許せない、気に入らないと思っていてもただの差別だということになる。
あいさつでも同じで、あいさつしないことに不満を持つ人は、あいさつしてほしいのにしなかった人が好きではない人や、
嫌いな人だから不満を持って許さないところがあるのと同じだろう。
スーパーの店内に「かごを持って帰らないでください」というような文章が書かれたものが壁に貼ってあったのを見たことがある。
店の人がかごを持って帰る人がいて困って迷惑していて、かごを持って帰る人にかごを持って帰らないでくれと言っているのだろう。
推測だが、私が昔スーパーを利用していた時には、全てのかごには取手が付いていたと思うのだが、今、私が行っている複数のスーパーでは、清算を終えた商品を入れるかごには取手が付いていないのだが、
かごに取手を付けていないのは、かごを持って帰られたら困るから、持って帰りにくいように取手をつけていないのではないかと思っている。
ほとんどの人はスーパーのかごを持って帰ることはないだろうが、一部の人は持って帰るのだろう。
かごを持って帰っている人の中には、自分では持って帰っているつもりはないけど間違って持って帰っている人と、
自分がかごを持って帰っていることの自覚があって意図的に持って帰っている人がいるだろうが、意図的に持って帰っている人の中には「かごを持って帰らないでくれと言われていないから分からないじゃないか、
持って帰られたくないなら初めから言ってほしい」などと思う人もいそうだが、言われなくてもかごは客が持って帰る物ではないと思っている人は
「そんなこと言われなくても分かるだろう」と思う人もいるだろう。
人間と言われている生物がみんな同じことを思うわけではないのだ。
刑法違反をした人を逮捕するために、刑法を適用してまかり通らせている人や逮捕されている人を悪く言っている人が、自分はほとんど法律を知らないし、知る気もなかったり、知っている法律を守らなかったり、
自分も刑法違反のことしているけど自首するわけでもなく、
刑法を適用しなくてもいい場合があるなどと自分に都合がいいように法律を利用していたりして、みんな都合のいいように法律を利用しているのだ。
誰でも悪徳レフェリーなところがあり、自分に都合のいい捉え方をしているところがあるのだろう。
63.みんな毒人間、毒生物とも言える
毒親という言葉がある。他の言葉と同じように、この言葉もみんなが同じ定義や意味付けで使っているわけはないだろうが、
言葉というのは同じ言葉でも、どうにでも使うことが出来るのだから、毒親という言葉もどうにでも使えるのだ。
この言葉を使う人の多くは、親にはおかしい親やひどい親と、まともな親がいて、おかしい親のことを毒親という言葉で表したいのだろうが、
親はみんな毒親とも言えるし、毒親などいないとも言えるのだ。
ある子どもが嫌がる言動を取ったその子どもの親のことを、子どもの気持ちが分からずに、子どもの情操教育にも良くない言動を取ったダメな親で、この親は子どもにとって毒親であると言った人がいたとしても、
親がやった同じ言動を嫌がった子どもの兄弟や、別の人なら同じ言動を嫌がらなかったりする。
子どもが嫌がることをしたから毒親であり、誰かがひどいと思うことをした親だから毒親と言った人がいても、他の人なら同じ言動を嫌がらないのだ。同じ言動で嫌がる人がいても、同じ理由で嫌がったということにはならない。
自分がひどい言動をしていると思う親のことを毒親などと言い表しても、
自分達ほとんどの人が人間や人間以外の生物が嫌がることをしたりしていても、毒人間だとか犯罪や罪や悪などとは言わないのだ。
大勢から好かれてる人や、大勢の役に立った人には親の子どもに対する対応が正しかったとか、素晴らしかったから、親の躾がなっていたから
大勢の役に立つ人になって好かれたのだと思う人もいるみたいだが、これは間違いだ。
同じ言動に対して人によって思うことが違うのに、子どもが親の言動をあまり嫌がらなかった場合は親が素晴らしい人で、良い教育をしたのではなくて、たまたま親の言動をあまり嫌がらなかったと言うだけのことだろう。
親とその子どもの好き嫌いが似ていたり、信じていることが同じことが多かったりなどしていたら、親に対して不満を持ちにくいだろう。
子どもが親のある言動に不満を持っても、他の人なら同じ言動を嫌がりはしなくて不満など持たない。
それはあいさつでも同じことで、初めにあいさつしないことに不満を持つ人がいるが、こんな人たちは例外の人で、
ほとんどの人は初めにあいさつしない人に不満など持たないだろう。あいさつ返さない人に対して、みんなが見下してダメ人間だとは思わないし、
嫌がらせや身体暴力などをするわけではない。
みんな自分が思いたいようにしか思わないのだ。子どのことをやたら親に結び付けて、親のせいだとか、親のおかげだとか
親と関連付けたがる人は、そう思いたいからそう思うだけのことだ。
嫌がった方が問題視されて間違っているとされる場合と、嫌がられている方が問題視される場合があるが、誰かが毒親と呼んでいる親の場合は、毒親と呼ばれて問題視されている親の方に問題があるとしているのだろう。
その親のある言動を多くの人がおかしいとか、ひどいと思ったら、毒親と言われている人だけが問題視されやすいのだろうが、おかしいと思う言動をやった人がその言動をやったことに他の人は何も関係ないと思う人は、おかしいと思う言動を取った人だけを問題視するが、
本人だけに問題があるとは思わない人ならば本人だけを悪くは言わないし、毒親など言わないだろう。
子どもを好きな人や善人だと思っている人の中には、子どもが悪いことをしていると思うと、親のせいにしたり、大人のせいにして、
子どもには問題がないけど大人に問題があるとしたり、大人を悪者に仕立てるのだ。
特に親が問題視されて悪く言われるところがあり、子どもがおかしいことをしたとか、悪いことをしたと思うと「家庭環境に問題がある」とか「どういう教育されているんですか」とか「躾がなっていない」などと親が問題視されやすいが、子どもも親の言うことを聞かなかったり、親に反発したりするのに、親が悪く言われやすいところがある。親だけを問題視して悪く言いたい人はそう思うだけのことだ。
例外あれど、好きな人や自分のことは悪いと思うことをやった時などに本人のせいにはしにくく、本人は問題視されにくいが、
悪人だと思っている人や嫌いな人、見下している人や、どうでもいい人のことは本人が問題視されやすいのだ。
多くの人間が信じているであろうことに、嫌われている人や見下されている人は、この人たちに問題があると信じていて、
嫌っている方は問題視しない場合が多いと思う。
あいさつでも、あいさつ返さなかった方や、初めにあいさつさせたいのに初めにあいさつしなかった方に不満を持つのも、あいさつさせたいのにしなかった方を嫌い、この嫌われた方を問題視して悪者扱いしている場合が多いだろうが、嫌った方は問題視されにくいのだ。
あいさつは例外除いて、好きではない人や嫌いなだけの人などにやる場合が多いだろうから、そんな相手が自分の思い道りにあいさつしないと不満を持って、嫌うのだろう。
あいさつされたいのにされなかった人は、相手のせいで自分が嫌な気持ちになったと思う人もいるだろうが、あいさつしなかった相手の近くで、あいさつされなかったことに対する不満などを言ったり、嫌がらせしたりすることで、それをやられた人や、それ以外の人が嫌な気持ちになって不快になったり、あいさつ非信者などがあいさつをしてほしいという
態度を取られて嫌がっていても、自分たちのことは悪くは言わないだろうが、人が嫌がることをしていることを「毒」という言葉で言い表すのなら、あいさつ非信者はあいさつしたくもないのに
あいさつ求められていて嫌がっているのだから、あいさつを嫌がっている人にあいさつを求めているのは毒な行動とも言えるし、
あいさつしなかった相手に悪態ついたりして、不満を言ったり、嫌がらせしていることで、それをやられた人やそれ以外の人が
不快になったりしているなら、この行動も毒だとも言えるし、これらをやっている人のことを毒人間や毒生物とも言えるのだ。
あいさつ信者もあいさつしろという態度や、あいさつしないことで悪態をついたりしていることで誰かが嫌がっている毒生物、毒人間だが、あいさつ返さなかったり、初めにあいさつして欲しいのにしなかった人の態度であいさつ信者が嫌がっているあいさつ非信者も毒生物、毒人間だとも言える。
どちらも人が嫌がることをしている点では同じなのだ。
簡単に言えば、誰かが嫌ががっていることを毒と呼び、それをやっている人を毒人間や毒生物と言うのならば、みんな毒人間であり、毒生物である。
だから、ごく一部の親を悪く言って問題視したい時に、その親を毒親だと悪評価、酷評するような呼び方して上から目線になって、自分達はまともな良い親であるかのように優越したり、親ではない人でも自分はおかしい人ではないとか、人が嫌がることなどしていないと思っている人も、自分も誰かから嫌がられていたり、迷惑されていたりしても気づいていなかったり、
気づいていても嫌がっている方が間違っていておかしいと思っている人もいるのだ。
誰でも人から嫌がられていたり、人として間違っていることをしていると思われていても、ほとんど気づいていない場合も多いだろうが、
その嫌がられていることの一部を一例で書くが、大勢の人が金でやっていく世の中を正しいと信じている金信者だろうが、この金社会を辞めようとせずに、金でやっていく世の中をまかり通らせていることで、大勢の人が金でやっていく世の中で迷惑して苦しんでいる。
でも、少数派の泥棒と言われている値段ついているものに金を払わない人や、税金や年金払わない人や無職、ニートなどと呼ばれている人が悪者扱いされたり、見下されて問題視されたり、間違っている人扱いされて逮捕されたりなどして迫害される。
金でやっていく世の中は「不正な毒社会」とか「キチガイ毒社会」とか「不公平、不平等な毒社会」などとも言えるだろう。
「香害」という言葉で言い表されているが、洗濯物から漂う洗剤の匂いで体調が悪くなる人がいるが、それを知らない人もたくさんいるのだろう。
人の中には自分が嫌ではないことは他の人も嫌がっていないと思う人もいるみたいだが、それが間違いで、人はみんなが同じではないのだから、同じことに対してみんなが同じことなど思っていない場合があるのを知らなかったり、分かっていないところがあるのだ。
洗剤の匂いだけではなくて、他の匂いもそうだが、色んな匂いで嫌がられているのだ。
人間は自分可愛さがあるから、他の人がほとんど嫌がっていなくても、自分が嫌なことは受け付けないので、その嫌な特徴を持っている人を嫌ったりする。
以前、私が歯医者で下の歯を一本差し歯にする時に、その歯医者で働いていた中年の女が私の体臭を嫌っていたみたいだ。その歯医者に3回目ぐらいに行った時に、その女が待合室に座っている私に気づいて無表情でじっーと私を見た後、横の部屋に入り、何かを喋った後、大声で「くっさー」と言ったのだが、以前に歯の治療する時に、よだれかけみたいなのを付ける時に、
私の背後から付けたのがこの女の人なのだが、私に近づいた時に私を臭いと思い、以前から私を臭いと思って嫌っていたのだろう。
私も誰かから見たら香害があるということだ。車やタクシー、バイクなどに乗っている人も同じで、排気ガスの匂いが臭いと嫌がっている人もいるわけだ。
自分が嫌がっていなくても、音に対しても不満を持たれていたりする。
すごい大きい音は多くの人が嫌がりやすいだろうが、大きい音ではなくても嫌がられていたりする場合がある。
嫌いな人が出している音だから嫌がる場合もあるだろう。
人が嫌がっていることの一例を書いたが、人が嫌がっていることなどもっとたくさんあるが、そのほとんどをみんな知らないだろう。
知ったところで、あれは嫌がっている方がおかしいとか、これは嫌がられている方がおかしいなどと思い、みんなが同じことに対して同じことなど思わないだろう。
同じことをしても、誰かは嫌がるが、他の人は嫌がらない場合もあるので、誰かが嫌がっていることを毒と言ったり、その嫌がっていることを
やっている人を毒人間、毒生物と呼ぶとすれば、嫌がっている人から見たら嫌がられている人は毒人間、毒生物でも、嫌がっていない人から見たら、
毒人間、毒生物ではないと言うことになる。
簡単に言えば、嫌がっている人を悪人とか、性格悪いとか、嫌いと言っても、嫌がっていない人から見たら、同じ人間のことを
嫌いではないし、悪人や性格悪いなどとは言わないのだ。
我が身が可愛いから、人間は自分の思い道理にならなくて嫌な気持ちになったり、不利益だと思うことがあると不満を持った相手のせいに
して、相手を問題視して悪く言う場合があるが、
問題視して悪く言う時によく使われる言葉が「悪、悪人、性格悪い、常識なってない、躾がなってない、おかしい、ひどい」などと言い、
刑法違反なら「罪、犯罪」などという言い方して、気に入らない人や嫌いな人を問題視するが、これを遠まわしに毒という言葉で言えば、
ひどいとか、おかしいと思うことをしている親に毒親などという言葉で言い表して悪評価するのだろう。
人間と呼ばれている生物は自分中心に物事や人を捉えているということになる。
何で同じ人間の外見を見たり、同じ音楽を聴いたり、同じことに対して違うことを思うのかは、みんなが同じ人間ではないから好き嫌いや、何を差別しているのかが違ったり、信じていることが違うので同じ対象に対して同じことなど思わないということだ。
64.あいさつと家の鍵を閉めること
今、私が住んでいる母親の実家に独身の母親の兄も一緒に住んでいる。
叔父と私の母親は空き巣や強盗と呼ばれている人が家に入ってくるかもしれないと警戒しているのだが、警戒しているわりには緩くていい加減なのだ。
住んでいる家は2階建てで、庭には横に移動させて閉める鉄の門があって、この門にはダイヤル式のカギを掛けるようにしてある。
私は門にカギを掛けなくてもいいと思っている。
門にカギを掛けていないと叔父が不満を言って閉めとけと言ったりなどする。
今日この文章を書いている2021年11月15日の月曜日の夜に母親から「昨日カギが閉めてなくて叔父さん怒ってた」というようなことを言われた。
家の一階の玄関を夜に叔父が閉めている時もあれば、閉めていない時もある。
玄関の隣の部屋のガラスの引き戸は今まで寝ている時や出かける時に開けたままにしている時もあるのに、その部屋にカギが掛かっているのかを叔父は
見に行ったりはしていないと思う。一階のトイレ、脱衣所、台所の窓には檻みたいな面格子(めんごうし)が付いていなくて、
これらの場所の窓はカギを閉めている時と閉めていない時があるのだ。
叔父は空き巣などを警戒している割には私が庭の門を横に移動させて閉めた後に、門の鍵を閉めていないことに不満を持つが、
家の一階の複数の窓にカギを掛けていない時もあるのに、カギが閉まっているのかどうかチェックしようとはしない緩くて、いい加減なところがある。
門に鍵を閉めていたら空き巣は入ってきにくいと勝手に信じたいだけだろう。もし入ろうと思えば庭の門は163cmぐらいの身長の私よりも
低いのだから、門を乗り越えてくることも簡単に出来るだろう。
私がゴミ捨てに行くゴミ捨て場には、ゴミ当番がカギを開け閉めする決まりがあるが、なんで閉めるようにしているのか知らないが、
ゴミ捨て場の中のバケツやほうきなどを取られないようにしていたとしても、ゴミの日は開けているのだから、何のために閉めているのだろうか?
叔父は以前に、家に誰かが入ってきて火をつけられたり、毒を盛られることを心配しているというようなことを言っていたのだが、
毒を盛られると心配している人などほとんどいないだろう。
叔父が毒を盛られるという心配をしているのは、武将などが敵対している人から毒を盛られるということを本などで読んで、
毒を盛られるという心配をしてそうだ。色んな人がいるのだ。
空き巣や強盗と言われている人がいるのを知っていても、みんなが警戒などしないだろう。
空き巣や強盗、万引きなど泥棒と言われている人を見下したり、警戒したりしている人も、自分達も泥棒なのだ。本来値段が付いていないものに値段を付けたり、何もないところに税金や年金を取るという決まりを作ったりなどして、合法の泥棒行為をしていたり、それを許して許可している人がたくさんいるのだ。
2022年の2月ごろに私の住んでいる母親の実家の引き戸の玄関のドアを新しく変えた。
2022年の3月の後半に同じ家に住んでいる叔父から、玄関の鍵のことについて喋ってきた。
話の内容は玄関の鍵を外から閉めた時に鍵を外に隠すようにしているから、どこに隠すかを私に言おうとしていた。
私が鍵を隠す場所には行かずに、合鍵にしたらいいというようなことを言った。
新しい玄関のドアにした時に、玄関の鍵は複数付いてきている可能性が高いと私は思っていた。
叔父が私の言ったことに不満を言った。一字一句全部覚えていないが、統一しないとダメなんだからというようなことを言っていたり、
誰かが入ってきたらダメだからというようなことを言っていたり、私の母親は外のどこかに隠すことを求めたのに、私がそれとは別のこと言っていることにも不満を言っていた。
同じ家に住んでいる全員が外から玄関の鍵を閉めた時に外のどこかに鍵を隠すことをしなければいけないと決めて、
その決まりを守らせたいことを統一などという言い方で言い表していたが、悪く言えば命令、支配的、独裁的、指図とも言えることだ。
叔父が深夜にトイレに行った時に、水を流していないことに私の母親が水を流すように言ったことには、トイレの近くに私や母親が寝ているから起こさないために水を流していないかのようなことを言っていたらしいが、
別の時間帯にはすごい大きな音で部屋のドアを閉めている時もあった。
叔父は深夜のトイレに起きてきた時や朝方にトイレや洗面所の電気をつけたままにしている時があり、その明かりが眩しくて寝れないと私の母親が言っていた。
深夜にトイレの水を流さないことで音の面で人に気を使っていても、人のことなどほとんど分かるわけないのだから、明かりで不満を持たれていることには気づいていないので自己満足しているだけだ。
あいさつも同じことだ。あいさつしてほしい相手や、全ての人があいさつについて何を信じているのかを分かってもいないのに、
分かっていると信じていたり、あいさつされたのは嫌われていないと思うのも、あいさつは正しいと信じるのも自己満足しているだけだ。
65.女神と六人のあいさつ信者
イソップ童話に金の斧と言う話がある。この話を書いた人が何を言いたいのか分からないが、この話の女神が出てくるところとかの一部を真似して、あいさつについての話を作った。題名は女神と六人のあいさつ信者。
ある時に六人の人が飲食店で食事をしていた。この六人は自分たちはウソをつかない正直者だと思っている、あいさつ信者だった。
そこに突然、女神が表れて、この六人に「あなたたちはあいさつをしていますか?」と聞いてきた。
ある者は「当たり前じゃないですか。あいさつしてますよ。」と言い、別の者は「毎日してます」と答えた。
女神は六人に「あなたたちは何であいさつをしているのですか?」と聞いてきた。
ある者は「あいさつは社会のルール。やらない人もいるけど
ほとんどの人はやってるよ。」と言い、別の者は「あいさつはコミニケーションのツールなんだよ。」と言い、「人間のルールだからやっているよ」という者や「常識です」という者もいた。
女神はさらに質問してきて「あなた達は誰にでもあいさつしているのですか?」と質問してきた。
六人は「誰にでもあいさつはしていないよ。ほとんどの人にあいさつはしていない。」と答えた。
女神は「あなた達は先ほど、あいさつをしていると答えたり、コミニケーションや社会のルール、人間のルールであいさつしていると答えたのに
何でほとんどの人にあいさつしていないのですか?」と聞いてきた。
六人のうちの一人が、「あんた、ひねくれててバカだな。あいさつのルールというのはな、あいさつされたら、あいさつ返しをするということをしなければいけないということなんだ。
どちらともがあいさつをしていないのならばあいさつしないことは間違っていないんだ。
あいさつされたのに、あいさつを返さないのは間違っているんだよ。
あいさつ返しさえ出来ていれば誰にでも絶対にあいさつする必要はないんだ。」と言った。
女神が「あなた達は、自分達はウソをつかなくて正直だと思っているのですよね。
あいさつをされたら、あいさつ返しをしなければいけないけれど、
どちらもあいさつしていないのならばあいさつしなくてもいいと勝手に決めつけたのですよね。
それをウソだとは言わないのですね。適当な決まりを決めつけて、
それをコミニケーションや社会のルールなどと言っているのですね。
あなた達は、あいさつについてウソを付いています。
あなた達ははウソを付くときもあれば、ウソを付かないときもあり、
あいさつを返すことが正しいと信じているだけで、あいさつを返すことが正しいという根拠はないのに勝手に正しいと信じているのです。」と言った。
66.テレビ局とスポンサー企業とあいさつ信者
テレビ局に金を出しているスポンサーには企業などがいる。
だからテレビ局側の人はスポンサーに都合の悪いことは言えないのだ。
例えば、肉を扱っている会社がスポンサーをやっているのに、
肉は食べてはいけないという番組など作らないだろう。
製薬会社がスポンサーをやっている番組で薬は体に良くないとか、
薬をあまり飲んではいけないとか、ほとんどの病気は薬を辞めたら治るなどという番組は作らないだろう。
牛乳を扱っている会社がスポンサーで、牛乳は人間が飲むものではないという番組など作らないだろう。
テレビ局で働いている人達もスポンサーの金でやっていっているのに、スポンサーに都合の悪いことを言って、
スポンサーから嫌われたら、今後もスポンサーをやってくれなくて金を出してもらえなくなるとか、
スポンサーに不満を言われても困るからスポンサーに都合の悪いことは言えないだろう。
あいさつも同じで、オウム返しであいさつ返しをさせるためにあいさつを初めにしてきた人は
相手を仲間扱いしていなかったり、大切だと思っていない場合が多いだろうから、そう思われている人たちが
オウム返しであいさつを返してあげないと不満や疑問を持ち、白眼視してきたり、奇異な目で見てきたり、
不満を言ってきたり、嫌がらせをしてきたり、身体暴力振るう人もいるが、
ほとんどの人はそんなことやられたくないだろうから、初めにあいさつしてきた人に合わせて、
あいさつ返す人の方が多いだろう。
相手に都合の悪いことをしたら、自分が不利益になるから相手に合わせているところがあるのは、
あいさつ非信者も、テレビ局とスポンサーのことも似ているところがあるのだ。
67.自分の気持ちや信仰心に正直で自分の気持ちにウソを付かなかった人の方が嫌われたり、悪く言われる場合と良く言われる場合がある
あいさつを正しいと信じていない人などがあいさつをしたいと思わないから、自分の気持ちや、信仰心に正直にあいさつをしなかったら、
初めにあいさつしなかったとか、あいさつ返さなかったとか、会釈だけしてきたと不満を持たれたり、不満を言われたり、嫌われたり、見下されたり、嫌がらせをされたりして損をするが、
関わる気もない人や嫌いなだけの人や、どうでもいい人に形だけあいさつをする人の方が褒められて高評価されるところがある。
どうでもいいと思っている人や、関わる気もない人に対して自分の気持ちにウソを付いてあいさつをした人の方が良く言われやすいところがあり得をするところがある。
江戸時代のキリスト教の信者も正直に自分のキリスト教の信仰を言った人の方が殺されたのだ。
他人の心理とはあまり触れ合う気もなく、他人の心理をあまり知る気もない人が、形だけ自己満足で他人に表面的に働きかけて、
あいさつをした人の方が良く言われやすい。
自分の気持ちに正直なことを高評価する時は純粋、ピュアなどと言い、低評価する場合はわがまま、勝手、変わっているなどと言う。
全くか、ほとんど知らない人に形だけのあいさつをして、相手のあいさつ返しを求めている人の方が正しい人にされていて無茶苦茶なのだ。
人の心理や信仰心を知るのではなくて、大勢と同じことを表面的にだけやり、大勢がやっていることを人間としてしなければいけないと思っているような人がいるのだ。
大勢と同じことをやっている人の多くは、大勢と同じことを感じているから、大勢と同じことをやったと思っている人もいるのだろう。
人間は自分が思いたいようにしか思わないし、本当のことを知ろうとはあまりしない人が多いのだろう。
人や世の中のことを勝手に決めつける自由はあるが、自分が内面で思ったことが何でも正しい、本当のことだということにはならない。
普段身の周りにいる、ごく一部の人にだけあいさつなどをして、喋りかけて、いつも自分の思い道りの反応が返ってきたり、
一部の人が同じ反応をしたら、他の人もみんな同じ反応を返すのだと無意識、意識的に思い、大体いつも周りにいる人が同じような態度しかとっていないと、それに慣れて、いつも同じ反応が返ってくると勘違いしている人もいるのだ。
自分が長年住んでいる地域に、自分が生きている時に災害がないと、自分の住んでいる地域には災害が来ないと思っている人もいるが、
いつもと同じようなことしか起きないと無意識や意識的に思っている人もいるのだ。
自分の思い道りにならないから、びっくりしたり、不思議がったり、不満を持ったりする。
表面的なものしか見ていない場合が多くて、相手の内面の心理が分からない場合が多いのだろうが、相手の心理や信仰心に全くか、ほとんど興味、関心がない場合が多いのだろう。
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