目次
第1章から9章へのリンク
第10章から第12章へのリンク
第13章から第20章へのリンク
第21章から第23章へのリンク
第24章へのリンク
第25章から28章へのリンク
第29章から37章へのリンク
第38章から47章へのリンク
第48章から52章へのリンク
第53章から56章へのリンク
第57章から59章へのリンク
第60章から67章へのリンク
68.本当は怖いあいさつ
69.あいさつと中学生の職業体験
70.あいさつと叔父
71.我が身が可愛い、自分が可愛い人間たち
72.あいさつとバイク関連のこと
73.監視カメラ設置とあいさつ
74.人間は自分が思いたいようにしか思わない
75.自己満足するという気持ち あいさつして自己満足する人
第76章から第81章へのリンク
第82章から第86章へのリンク
第87章から第93章へのリンク
第94章から第99章へのリンク
68.本当は怖いあいさつ
ある植物の本を読んでいたら、この本に書かれていたことに、ある子どもがバラについて、痛いトゲを付けていてかわいそうだと言ったという。
バラについて子どもも大人もほとんどの人はそんなことは思わないだろう。
子どもの一人が感じたことや、やったことを子どもだからそういう風に感じたり、やったりしたんだと思う人がいるが、子どもは同じ人間ではないので同じことに対してみんなが同じことなど思うわけない。
更にこの本に書かれていたことに、子どもがこの本の著者に、バラには何でトゲがあるのかと質問したことに、大人がそっけない答えをすると植物に対して好意を持っている子どもの心を傷つけたりすることになる、というようなことを書いていたのだが、これも子どもは同じ人間ではないので、この著者がそっけないと思うことを言っても、子ども全員が同じことなど思うわけがないし、嫌な気持ちになって傷つくわけではないだろう。
この著者はバラにトゲがある理由に、バラがきれいだから腹を立てた人が恨んで付けたのかもしれない、というようなことを子どもに言っているのだが、綺麗事を言っているだけだろう。
まるで、子どもが大人に「赤ちゃんはどうやってできるのか?」とか「なんで妊娠したのか?」という質問に「コウノトリが赤ちゃんを連れてきた」とか「コウノトリが赤ちゃんを運んできた」などと言っているようなものだ。
コウノトリが赤ちゃんを運んできたというのは綺麗事のウソだが、こういう綺麗事の言い分を好む人もいるのだ。
グリム童話を原作のまま出すと都合が悪い人がいるから、グリム童話は話を変えているみたいだ。
ヘンゼルとグレーテルの母親は実の母親ではないという話になっているが、元の話は実の母親だったみたいだが、実の母親が子どもを捨てているというのを子どもや大人が読んだら気に入らなくて不快になる人がいるから、
一部の人に都合が悪いところは話を変えたり、削除したりしているのだろう。
このグリム童話を知っている人はたくさんいても、原作を知っている人はどれだけいるのだろうか?
グリム童話が子ども向けに出されていて、かわいい絵と一緒に書かれているという表面的なところだけ見ているだけで、
原作を子どもや大人の多くが知らなくても、話が変えられているグリム童話の方を知っていて、大勢と同じことを知っているのだと満足している人もいるだろう。
原作と違う話になっているグリム童話を読んでもみんなが同じことなど思うわけがないし、原作を読んでもみんなが同じことを思うわけないし、
親が子どもにグリム童話を読ませたい理由も違うだろう。
あいさつも綺麗事だとも言える。社会のルールやコミニケーションなどと言って綺麗事を言っている人もいるが、あいさつについて、人間としてしなければいけない正しいことで、正しい根拠がなくても正しいことだと信じている人がたくさんいるだろう。
あいさつを初めにしたら、みんなオウム返しであいさつを返したいと信じていると間違ったことを信じている人がたくさんいるだろうし、
あいさつされたのは自分が嫌われていないからだと信じている人もいるだろうが、みんながあいさつ信者ではないし、
みんなが初めにあいさつされてオウム返しを返したりはしない。
あいさつを初めにしなかったり、オウム返しをせずに無反応だったり、言葉であいさつ返しをせずに会釈をした人に疑問や不満を持っている人もいて、
無反応だった人に悪態ついてきたり、見下したり、嫌ったり、嫌がらせするような人もいて、あいさつの現実や実態はおどろおどろしくて残酷なところがあるが、あいさつをしない人を見下したり、攻撃してくるような人がいることを知らない人や、あいさつが自分に都合のいい利点がある人はあいさつや、あいさつする人のことを高評価して良く言う人もいるだろう。
あいさつしない人を嫌ったり、見下したり、攻撃してきたり、許さないようなことを、「本当は怖いあいさつ」とも言えるし、あいさつしない人を見下したり、許さない人のことを、「本当は怖いあいさつをする人」とか、「本当は怖い一部の人にだけあいさつさせたい人の隠された本音」とか
「本当は怖い一部の人があいさつをしないことを許さない冷酷な悪魔さを持ったあいさつ信者」などとも言える。
グリム童話の原作は子どもに知ってほしいと思わない大人もいるだろうが、話を変えてたり、一部都合の悪いところを削除することで子ども向けにしているように、あいさつは正しことでもないし、あいさつ返しが正しいというのは間違っているのに、あいさつは人類みんなが、あいさつ初めにされたらオウム返しをしなければいけないと信じていて、あいさつは知らない人、大切ではない人、どうでもいい人とも関わることが出来る素晴らしい方法、道具(ツール)であると勝手に信じ込んで決めつけている人もいるのだ。
私が20代の時、イズミヤの総菜で働いていた時に、女の中年の同僚が、ニュースで誰かが刑法違反のことをして捕まったことに対して、
その捕まった人の年齢を持ち出して「○〇才の人は怖いねんで」というようなことを言ったのだ。
ある年齢の人が刑法違反の何かをやったから、その人と同じ年齢の人のことも怖い人だなどと思う人もいるのだ。
あいさつでも一部の人にだけ初めにあいさつしてきて、百発百中でオウム返しされたから、他の人もみんなオウム返しであいさつすると決めつけて
間違ったことを信じている人もいたり、あいさつ返しをされなくて、無反応や会釈をされても、正しい根拠がなくても、あいさつ返しはオウム返しが正しいと信じる人もいるのだ。
69.あいさつと中学生の職業体験
私の行っていた中学では職業体験はなかったが、職業体験というのをやっている中学校がある。
私が図書館に行った時に中学生の子が棚に本を戻す作業をやっているのを見たことがあったり、マルナカというスーパーマーケットで体操服を着た中学生が品出しをしていたのも見たことがある。
地元のケーブルテレビだったと思うが、ラーメン店でラーメンを出している中学生も見た。
職業体験について「働くことの厳しさと喜びを知る」というようなことを言っている人がいたが、まず、働く、仕事という言葉の定義が人によって違うのだ。
多くの人の仕事や働くという言葉の定義は、給料や印税という形で金を貰うことをしているのを仕事や働くと言っている場合が多いだろう。
何かをやっているといなら呼吸をしていることも何かをしているし、寝ることも寝るということをしていて何かはしているのだ。
職業体験は職場から中学生は給料という形で金を貰っていないだろうが、
それを仕事をした、働いたというのだろう。
誰かの役に立っていることを仕事と定義付けるなら、存在しているだけで誰でも誰かから好かれているだろうから、みんな仕事をしていることになるが、給料や印税という形で金を貰っていないだけだ。
中学生の職業体験で金を貰っていないのに仕事や働くなどと言っているのに、他のほとんどのことでは、給料や印税という形で金を貰っていない人のことは仕事をしている、働いているという言葉で言い表さないような差別をしている。
無職やニートと言われてる人が、家の家事、掃除、洗濯、ゴミ出しや畑作業をやったり、ユーチューバーではない人が、動画撮影をしてユーチューブに動画をアップロードしたり、ブログやSNSに文章や写真、動画を出しても仕事や働いているという人はあまりいないだろう。
大勢が給料という形で金を貰っていて、それを正しいと信じていて、金でやっていく世の中を正しいと信じているから、例外除いて給料や印税という形で金を貰っている人の方が正しくて、素晴らしいと信じている人もいるのだ。
世の中も人間も矛盾だらけなのだ。児童労働はダメだと言っているのに、職業体験を仕事や働いていると言って許していたり、ドラマや映画に出ている子役や、子どもの歌手が給料という形で金を貰うことは許しているのだ。
高校生は年齢は子どもだが、バイトをすることは許されているが、
小さい子どもが例外あれど給料を貰うようなことをすることは許さなくても、高校生が子どもとは言えども、もう大きい子どもだから給料という形で金を貰うバイトをすることは許すのだろう。
職業体験をやった中学生が同じ職場に行っているわけではないし、同じ職場に行って、同じ作業をして、周りにいる人が同じでも、
みんなが同じことを思うわけがないのだ。同じ人間の外見を見て嫌う人もいれば、嫌わない人もいるし、同じ人がやった同じ言動を嫌う人もいれば、嫌わない人もいる。
人は同じ人間ではないのだから、同じ経験をしても同じことなど思わない。
給料を貰うような仕事をしている人が同じ理由や目的で給料を貰う仕事に行っているわけではない。
多くの人が給料を貰うような仕事をしている理由は、金がないとやっていけない死活問題だから、金を貰うために給料を貰う仕事に行っている場合が多いだろう。
好きなことや、やりたいことで給料や印税という形で金を貰っている人もいるのだ。
スーパーの品出しをした中学生の中には、その作業を簡単だと思った人もいるだろうし、学校で授業を受けるよりは、給料貰うような仕事をやって金を貰って、その金で自分が欲しい物を買ったり、家族の家計の足しにする方がいいと思う人もいるだろう。
働く厳しさと喜びを知ると言っている人は、給料を貰う仕事をしている人がみんな同じことを感じているかのように言いたいのだろうが、
職場で心身が苦しいと思っても、苦しい、つらい理由は違うだろう。
同僚の体臭や、同僚が机の引き出しを閉める音が大きくて不快になる人もいるのだ。不快で苦しい、つらいと思っていても、不満の内容が違いすぎる。
職場で同じ態度を取ったり、同じ失敗をしても、好きな人や仲のいい人ならば不満を持たなかったり、大目に見たりしてえこひいき差別をしているのだ。
中学生が職業体験中に失敗しても、不満言われたり、怒られる場合はあまりないだろうが、同じ失敗をしたのが、他の人ならば怒られたり、不満を言われるのだ。職業体験に行ったから、給料を貰う仕事をしている人の気持ちが分かるかのように言っているのはウソだ。
金を貰いに給料を貰うような仕事に行っている人や、好きなことや、やりたいことで給料や印税という形で金を貰っている人と、
学校の先生から職業体験に行けと言われて行っている中学生が同じなわけがなくて、働く厳しさと喜びを知るなどと言っているのはバカげている。
中学生などの子どもの多くは、生活費や欲しい物や、行きたいところに行く金を親や祖父母などに出してもらっている人が多いだろうが、
20才以上60才未満ぐらいで学生や主婦(夫)や身体障害でもない人が同じように家族などから金を出してもらっていたら、見下されたり、
不正の正しくないことをやっている人だと思って叩いてくる人もいるが、子どもならば悪くは思われにくいという差別がある。
金でやっていく世の中が正しいと大人も子どもも多くの人が信じているので、金でやっていく世の中を辞めようとはせずに、
子どもも、例外除いて高校生ぐらいから給料を貰うことをしてもいいということにして、人によっては若いうちから給料を貰っている人の方が
しっかりしている人などと高評価するのだ。
あいさつも同じことで、あの人達があいさつしないのは許すけど、この人たちがあいさつしないのは許さないという差別がある。
あいさつは正しくもないことで、あいさつを初めにされてもオウム返しであいさつを返す必要などないのに、学校のあいさつ運動で
あいさつは正しいことで、あいさつを初めにされたらオウム返しであいさつ返しすることが正しいと間違ったことを押し付けているのだ。
70.あいさつと叔父
私は20代半ばから母親の実家に引っ越してきて、この文章を書いている2022年の今は私の母親と独身の叔父と
同じ家に住んでいる。
数年前から、うちの畑に叔父がみかんなどの柑橘類の苗木を植えていて、苗木も大きくなっていて、数年前から、叔父は畑で取れたみかんを近所の一部の人にあげだした。
苗木を植えだした理由も、近所の人にみかんを配っている理由を私は知らない。
みかんを貰った人の一部は何か持ってきていて、ほとんどの人は食べ物を持ってきていたり、花を持ってきた人もいた。
叔父は何かを持ってきた人に対して、何かを持ってきた理由を人によって違う理由を付けていて、80代ぐらいのおばあさんが何かを返して来た理由叔父はについて叔父は、古い人間だからというようなことを言っていたり、
他の人が持ってきたことには「律儀だ」と言っていたりして、違うことを言っている。
何も持ってこない人には「関わりたくねーんだぞ、関わりたくねーんだぞ」と2回同じことを言っていた。
自分が思いたいように思っているのだ。何かを貰って何も持ってこない人のことを自分と関わりたくないからだと思う叔父みたいな人もいれば、
他の人ならそんなことは思わないだろう。
あいさつでも、オウム返しであいさつ返させたいのに、無反応や会釈をした人に疑問や不満を持つ人がいるが、自分の思い道りにさせたくて人を支配したいところがあるのに、自分の思い道りの反応しないことに違和感を感じたりして不満を持つ支配的、独裁的なところがあるのをコミニケーションや社会のルールと綺麗事を言って美化させている人もいる。
人に物をあげることや、何かを貰ったら返すということに対しても、コミニケーションや社会のルールなどと言って分かったようなこと言ったり、
綺麗事を言い美化させる人もいるだろう。
あいさつしたり、人に何かをあげたり、何かを貰って返している理由や目的、動機は人によって違うのに、心理について全くか、ほとんど興味がない人が多そうだ。自分に都合のいい理由を付けて美化したい人もいるのだ。
土産物を返す文化がなくなってほしいと言っている人もいるように、何かを貰って何かを返すことをみんなが正しいとは信じていないし、
みんなが何かを返したいなどとは思っていない。
例外除いて、人に何かをあげて、それを貰った人は何かを返さなくてはいけないと信じている人が多いだろうから、返さなかったら、あげた本人か、それ以外の人に不満や疑問を持たれやすいだろう。
かといって、例外除いて誰かがあげると言ったものを断っても、あげた本人やそれ以外の人から不満や疑問を持たれやすいだろう。
例外は町中などで知らない人が物をあげると言ってきたら断ってもいいとか、知っている人でも、やたら高価なものをあげると言ってきたら断ってもいいと思う人もいるだろうし、動物性の食べ物を食べない人が動物性の食べ物を貰うことを断ってもいいなどだ。
何を断ってよくて、何を断ったらダメなのかは人によって信じていることが違うのだ。
自分が正しいと信じているところが人間にはあるから、自分の信じていることがまかり通らないと疑問や不満を持ったり違和感を感じるのだ。
何かをあげると言われて貰って、何かを返さなくても、あげると言ったものを断っても、不満や疑問を持たれる場合もあるのだから人間関係は面倒なところがある。
大勢がやっていることを社会のルールやコミニケーションなどと言って、分かったようなことをいい知ったかぶっている人もいるのだ。
例外除いて、世の中は初めにやった者勝ちなところがあるので、初めにあいさつしてきた人や、初めに何かの物をあげた人の方が例外あれど、
肩を持たれたり、優先されて、初めに働きかけた人の信仰や欲求を断った人の方がおかしい人だとか、失礼な人などと思われる場合もあるのだ。
誰かにやられた言動が自分の役に立っていたり、人間として正しいことだと思う場合は一方的とは言われにくく、相手が嫌がった場合は一方的と言われやすいが、あいさつを初めにしてくることや、誰かにものをあげることは例外あれど多くの人がやってもいいことだと信じているがゆえに、一方的だとは言われにくいのだ。
叔父がみかんを一部の人にあげだす以前に、叔父より年輩の近所のおじいさんがブドウをうちの家に持ってきたことがあって、
それについて叔父は「○○ちゃん、なんかほしいんだぞ」と言っていた。こんなことを思っている叔父が、その後みかんを近所の人に
あげているのはどういう理由であげているのだろうか?
2021年ぐらいに、うちの畑の空いている所に、叔父は新しいみかんの苗木を2つ植えていたのだが、もっとたくさんの人にみかんをあげようとしているのだろうか?
近所に手作りの食べ物を何度も持ってくる人(この後の文章ではAさんと呼ぶ)がいて、叔父が家で私の母親にその人に会った時に喋ったことについて話していて、「おいしいって言っておいた、おいしくないのに」というようなことを言っていたり、聞き間違いかもしれないけど、別の日にAさんが食べ物を持ってきていることについて叔父が「きちがっている」と言ったように聞こえたのだが、私の聞き間違いかもしれないが、聞き間違いでなければ、何度も食べ物を持ってくることをおかしい、キチガイという言い方をせずに、きちがっていると言っている可能性もある。
別の時にAさんが作ったケーキが一つ一つ袋に入っているもの数個を私の母親がAさんから貰った。
台所の流しの前に叔父が食べる食べ物を置くおぼんがあるのだが、そのおぼんの上に母親がAさんから貰った袋に入っている数個のケーキを置いていた。
そのケーキがなくなっていたので、母親が叔父に聞いたら、「自分のおぼんにケーキがおいてあるから自分に食えということだと思って、
欲しくもないのに食べた」というようなことを言っていた。何かを食べる目的は味覚を満たすためだったり、栄養を取るためだったりなど、
食べる目的は同じではないが、叔父がAさんから貰ったケーキを食べたのは欲しくもないのに食べているのだ。
別の日に、Aさんが持ってきた食べ物が台所にあった時に、叔父が「これ誰が持ってきたんだ。またあのもんか。迷惑なんだよ。」と言った。
こういう感じで誰かから何かを貰ってもみんなが喜んでいるわけでもないし、みんなが貰いたいとは思っていないが、人に何かをあげたり、何かを貰うとコミニケーションなどと言う人もいるだろうが、適当な言葉で片づけているだけで、あげた人や貰った人の心理についてはあまり言及はされないのだ。
叔父は人が持ってきたものにケチは付けているけど、自分は人にみかんをあげていることを、貰った人が迷惑していると思っているのだろうか?
たくさんあげたら失礼になるというようなことを叔父が言っていた時があった気がするが、たくさんもらわなくても、貰ったものを嫌がったり、迷惑している場合もある。
叔父にしろ、叔父以外の人も自分が思いたいようにしか思わないのだ。
何かをしている人自体が、そのやっていることの全てか一部をバカにしていたり、見下していたり、悪いことだと思っていたりなどする場合があるのだ。
あいさつをしている人にはあいさつ非信者もいて、嫌々、正しいとは信じていないのにあいさつしていたり、あいさつ信者でも関わりたくない人や、それ以外の人に渋々あいさつしている場合もあるだろう。
自分の働いている会社や店の商品やサービスをバカにしていたり、自社商品やサービスを買ったことも使ったこともなかったり、
医療に携わっている医者の中には、医療の九割は要らないとか、断薬のすすめなどと言っていたりする人もいるのだ。
何かをやっているからそれが好きだということにはならない。学校や、給料を貰う仕事に行っている人が、学校や職場の人間関係で嫌な思いをしていないということにもならないし、学校や仕事を嫌っていないということにはならない。
多くの人は、給料を貰う仕事をしている人は、金がないとやっていけない世の中だから、給料という金を貰うために行っている人が多いと思っているだろう。
あいさつも、みんながやりたくてやっているわけではないし、みんながあいさつ信者ではないのだ。
叔父が誰かにみかんをあげていても、他の人が何かを持ってきたことにはケチ付けているように、あいさつはしないとダメと信じている人も、全ての人からのあいさつを望んでいるわけではないし、
町中や観光地や空港や駅などで知らない人があいさつしてきたらおかしいとか、変わっているなどと思う人もいるだろうが、例外で
好きな子どもがあいさつしてきたら嬉しがったり、高評価する人もいるだろうが、自分独自の勝手なあいさつの決まりを作って、
人を高評価したり、悪評価したりして独自の裁きをしているのだ。
71.我が身が可愛い、自分が可愛い人間たち
例外はあれど、人間は自分が良い気持ちでいたいとか、嫌な気持ちや不快にはなりたくないと思っているだろうが、
現実は生きていると嫌な気持ちになることがあるわけだ。
根本的に人間は我が身可愛さ、自分可愛さがあるから、自分を悪者にはしたくなかったり、自分を問題視しにくかったりするだろう。
嫌な気持ちになった時に自分が嫌だと思う特徴を持っている対象や、自分が嫌だと思うことをした対象を問題視しやすいのだ。
我が身が可愛いので他人のせいにしやすいのだ。
同じことをしてもあの人ならば許し、この人なら許さないというところは多くの人にあるだろう。仲間のことは許しやすく、仲間ではない人のことは許さない場合があるのだ。
子どもが許されやすいのは大勢の大人が子どもの見た目や雰囲気などで自分の役に立っているから、子どものことは許しやすいのだろう。
家族や友達、恋人も自分の役に立っている場合が多いから許したり、大目に見やすいのだろう。
同じことをしたのが仲間ではない人ならば許さないという冷酷さや差別心を持っているのだ。
人間のことを、同じ人間なんだからと言うような人がいるが、全てが同じ人間など要るわけないし、みんな人のことを根本的に同じ人間だとは思っていないだろう。
嫌な気持ちになったのは嫌がられている方に問題や原因があると無意識、意識的に思って信じている人がたくさんいるのだろう。
逆に嫌がられている方は問題はなくて、嫌がっている方に問題があると多くの人が思っているのが白人の黒人差別、人種差別だ。
肌の色で人を嫌ったり見下したりするのは、ひどいことで間違っていると多くの人は思うのだろうが、それ以外の多くのことは、嫌われている方に問題や原因があると思っている場合もある。
「人が嫌がることをやってはダメ」とか「人が嫌がっていることは今すぐやめさせなければいけない」と言っている人がいるが、
こういう人は大勢が嫌がっていないのならば、一人や少数の人が嫌がっていることはやってもいいとか、例外として一人や少数の人が自分や自分の仲間の場合だとやったらダメだと思っている場合もありそうだ。
動物を食べていることを嫌がっている人がいるのを知っている人はたくさんいるだろうが、多くの人は動物を食べるのを辞めなければいけないとは思わないだろう。
生まれながらの特徴を誰かが嫌がっていることは差別と言うけど、生まれながらの特徴ではないことを嫌がっているのは差別ではなくて区別だというようなことを言っている人がいたが、誰かのことを嫌って嫌がっている点では同じことだ。
例外あれど、大勢と同じことをしない人は見下されたり、悪く言われやすかったり、奇異な目で見られたりするが、
これを生き方差別とか、信仰差別とか、感性差別とか、少数派差別や、自分と同じことを信じていない人差別などと言う人はあまりいないだろう。
72.あいさつとバイク関連のこと
バイクの一発試験のことを調べていた時に、あるブログに行きついて読んでいると、このブログを書いている人が、一発試験を受けに行った時に、一発試験を受けに来た他の人のことを、曲がる時や乗車時に左右確認をしていないとか、一時停止の標識を無視したりなどをしていることに、
なんでこんなに勉強してきていないんだと思ったみたいで、その原因が日本は法律が義務教育に入っていないから、道路交通法のことは、赤では渡らないという知識しか入っていないからであるというようなことを言っている人がいた。
赤信号では渡ってはいけない、止まれの意味だと知っていても、原則道理に守っていない人の方が多いだろうし、赤信号で止まる理由も、車などが来ている時に事故に合わないためにとか、警察に捕まりたくないからなどの理由の人が多いだろうが、赤信号で止まっているから、赤信号で止まれという決まりを正しいと信じていることにはならない。
誰かにあいさつしたから、他の誰にでもあいさつしているわけではないし、あいさつを知ったから、みんながあいさつを正しと信じているわけではないのと同じことだ。
法律を学校で教えないから、一発試験の時に道交法を守っていないなどと思う人がいても、それは間違っている。
法律の一部を知っていても、赤信号の決まりの様に原則道理に守らなかったり、他の知っている法律でも全く守らなかったりもするだろうし、
法律もそれ以外の決まりもほとんど正しいとは信じていなくて守っていないだろう。
法律をあまり知らないから、一発試験の時に一時停止の標識で止まっていなかったと思う人がいても、教習所などで道交法を知っても、その道交法の全てを守りはしないだろう。ほとんどの決まりなど正しいとは信じていないのだから。
教習所で学科や技能を学んで知っても、免許が取れた後に教習所で習ったことの全てを守っているわけではないのだ。
免許を取るために、道交法を正しいと信じていない人も形だけ道交法を守るような演技しているだけで、目的の免許を取れたら、正しいとは信じていない決まりは、全くかほとんど守っていないのだ。
だから、車やバイクの乗り方も自己流にやっているだけで勝手なことやっているだけだ。
例えば、教習所で教えてもらう車の乗り方は、エンジンをかける前にシートベルトをしなければいけなかったり、バックミラーで後方の確認をすることになっているが、免許が取れた人の多くは普段バックミラーで後方の確認をしない人も多いと思うし、エンジンをかけて車を運転している時にシートベルトを締めている人もいるのだ。
私が教習所に行っていた時にペダルを踏む時には、床から足をはなして踏めと教えられたが、教習所内で男の先生が運転している時にたまたま先生の足を見たら、床にかかとを付けたまま、アクセルとブレーキのペダルを踏んでいた。
車のことを書いているあるWebサイトを読んでいたら、女にはカカトを床から離してブレーキペダルを踏む人が多く、その理由は教習所でそういう風に教えられていることを守っているからだというようなことを書いていた。
何でカカトを床から離してブレーキペダルを踏めと教えているのかについては教えないのだろう。
あいさつも同じで、なんで一部の人にだけあいさつをさせたいのかについては多くの人は言わないのだ。
法律を学校で教えないから法律を守らないと言っているが、法律の一部を知って一部の法律を守っているのは、その法律を正しいと信じて守っている場合と、正しいと信じていないけど、刑法違反で逮捕されたくなかったり、税金Gメンに差し押さえされたくなかったり、誰かから不満を言われたくないからなどの理由や、見栄や体裁などで形だけ一部の法律を守っているだけなのだ。
それに、子どもの時から法律というものがあることを知っているくせに、それを全くか、ほとんど知ろうとしていない人がたくさんいるのだ。
自分に都合のいい法律だけ引っ張り出してきて、その法律を正しいと信じていようが、信じていなかろうが都合よく利用しているだけだ。
法律を学校で先生が教えても、ほとんどの法律など信じるわけがないのだ。
ごく一部の法律や法律以外の決まりを守っている人を真面目な人などと言っている人がいるが、その人たちはほとんどの決まりなど守らないのだ。
ある親が、子どもって親の言うことを聞きませんよね、と言っていたが、多くの子どもは親の言うことを聞かない所と聞くところの両方があるだろうし、親の言うことを全部聞いている人がいるのなら、よほど性質などが似ているか、親の言うことを聞かないことで身体暴力やられたり、
言うこと聞くまでしつこく言ってくるから形だけ言うことを聞いたふりして親に合わせているのだろう。
イスラム教では豚を食べてはいけないと言っていたり、動物を食べていることを嫌がっている人がいることを知っていても、豚や動物は食べてもいいと日本人や日本人以外の多くの人は信じているだろう。
学校で習わなくても、自分が興味のあることなら調べるだろうが、自分が知らないたくさんの法律の全部か、ほとんどを調べようとしないのは、
法律自体に興味もないし、法律をよく知らなくても正しいとは信じていないから調べないのだろう。
もし法律が正しいと信じているのならば調べるだろう。学校で教えてもらっていないから法律を守っていないというわけではない。
学校の授業で習うことなど世の中の一部のことしか習わないし、学校に行っても人間や世の中のほとんどのことなど分かるわけがないのだ。
警察がネズミ捕りをしている場所を知っている人の中には、その場所では道路交通をきっちり守ることをしていても、警察がいない所では同じ道路交通を守ってはいなくて、人によって態度変えているだけだし、
守った道路交通法を正しいと信じているから守ったのではなくて、警察に捕まるのが嫌だから守っているだけで、形だけ守り、決まりを守るという演技しているだけだ。
先生や親がいる所では、この人たちの言うことを聞いていても、いなところで言うことを聞いていない人などたくさんいるだろう。
言うことを聞いているのは、形だけの演技であり、内面では先生や親の信じていることや欲求をバカにしていたり、見下している場合もあるのだ。
ユーチューブでバイクの動画を出している人が、ビッグスクーターのデメリットと言っていることに、バイクとすら認識されていないと言っていた。
私がユーチューブで電動バイクについて調べてた時に、誰かが原付2種のバイクで道を走行している動画を出していて、その人が乗っていた原付2種の電動バイクのことを、「バイクではない。家電」というようなことを言っていた。
電動バイクは静音のようなので、エンジンバイクのような大きい音はしないから、今までエンジンバイクに乗ってきた人で、バイクを運転する時は大きい音が出て当たり前だと思っていると、電動バイクの方が静音だから違和感があるのだろう。
バイクという言葉の定義、意味付けが人によって違うので、電動バイクをバイクではないという人もいれば、ビッグスクーターをバイクという言葉では言い表さない人もいるのだ。
仮面ライダーが載っているような、またがるようなバイクをバイクだと呼びたい人もいるのだろう。
バイクのスクーターで椅子に座っているような乗り方をしている見た目をバカにしている人もいたし、50cc原付について、「車の流れに乗れていなくて、迷惑だから乗るな」というようなことを書いている人もいた。
50ccの原付はおすすめできないというようなことをユーチューブで言っている人もいた。
バイクに乗っている人のユーチューブを見ていたら、バイクや車の免許を取る時に教習所に行ったら、ニュートラルや1速、2速などのことを知らないのに、教官は知っていることを前提に授業をやっていたと言っていた。
あいさつでも、あいさつ信者は初めにあいさつしたら、あいさつされた人はオウム返しであいさつ返すことが正しいと勝手に信じ込んでいるから、無反応や会釈をおかしいと思う人が多いのだろう。
自分のあいさつ信仰がおかしいのではなくて、自分が正しいと信じていることをやらなかった人の方をおかしいと思うのだ。
そもそも、あいさつを信仰や宗教という言葉で言っている人などほとんどいないだろうが。
中国では電動バイクにの売るのに免許も自賠責保険もいらないらしく日本とは真逆の決まりなのだ。
法律も国によって違うし、信じていることも人によって違うので、言葉の定義も、それ以外の色んなことでも色々違うのだ。
ある電動バイクに乗っている人が先進的な乗り物に乗っている優越感があると言っている人がいたが、同じバイクに乗っていたり、電動バイクに乗っている人みんなが優越しているわけがないが、同じ乗り物に乗っていても同じことなど思っていないのだ。
あいさつにおいても、あいさつを初めにしなかったり、オウム返しであいさつをしなかった人に不満を持ち、見下したり、ダメ人間だと言ったり、嫌ったり、不満を言ってくる人がいるが、みんなが同じことなど思っていないのだ。
73.監視カメラ設置とあいさつ
誰かが家の外に監視カメラを付けていることに対して、プライバシーを侵害するということで誰かから訴えられて、
監視カメラの撤去が認められている場合があるらしいのだが、
言葉の定義しかり、それ以外のことでも一体どういう基準、信仰を持っているのだろうか意味が分からないのは、あいさつと同じでもある。
監視カメラで有名なのは商売をやっている人が店内に分かりやすい大きなカメラを付けていて、その多くは本物のカメラだろう。
客の行動が映像で記録されていたり、野外の場合は、交番の外の所や観光地や駅や堤防など公共やそれ以外の場所の色んなところが撮影されているのに、一部の人がカメラを付けていることを許されずに裁判起こされる人もいるのだ。
自分の住んでいる近所で誰かが監視カメラを付けていることでプライバシーの侵害であるからカメラので撮影するなとか、損害賠償請求をしている人がいるが、損害賠償請求していること自体が不正でもあるのだ。
誰かが嫌がることをしたから嫌がられている人が裁判を起こされた場合などに、金を出せと言っているのもおかしいのだ。
ごく一部の人にだけあいさつさせたいのにあいさつされなくて不快だからと損害賠償払えと言っているようなものだ。
大勢がやっていることや、大勢が許していることや正しいと信じていることは多くの人から許されやすい。
公共の場所が写っているからダメであるというのなら、他のカメラも公共の場所は写っているのに、他の人が付けているカメラは許されて、別の人が付けているカメラは許されないという、えこひいき差別をしている。
裁判官が決めつけた判決が正しいということにはならない。
プライバシーの侵害だというのなら誰でも、それをやっているとも言えるけど。
カメラではなくても、直接人のことを見ていることも、カメラで見ていることも同じようなものだろう。
直接人から見られることで色んな理由で不快になっている人がいても、誰かのことを見るなとはあまり思われないだろう。
あいさつが正しいとか、金でやっていく世の中が正しいとか、裁判官の判決に従えなどと、自分や多数派の信仰を無言や、言葉で押し付けたり、第三者に言わせたりして、自分の信仰心を押し付けていることも相手のプライバシーの侵害とも言えるけど。
バカという人がバカなのだ。プライバシーを侵害されていると思っている人も他人のプライバシーを侵害しているのだ。
他人の信仰心を侵害しているとも言える。
店などで分かりやすい監視カメラで自分の行動を見られていることには不満を持たなかったりして許していたり、嫌であっても許容範囲内の人が多いだろうが、自分の住んでいる近所でカメラを付けられていることを許さない人もいるのだ。
カメラで撮影されている人の承諾もなく監視カメラで撮影しているのはダメだというのなら、店などの監視カメラの場合、撮影されている人の承諾など得ていないだろう。一人でも嫌がる人がいるからやってはいけないというのなら誰も何もできない。カメラでの撮影で言えば、観光地や、町中などで撮影して、その映像を自分だけが見るか、同僚や同級生などに住んでる場所や生年月日などの個人情報を聞いても、プライバシーの侵害とは言われない。
大勢が嫌がらないことや、嫌がっていても許容範囲内のことは許されやすいが、大勢が嫌がることは許されにくい。
人の個人情報や、それ以外のことを聞いてきても、大勢が聞くことや、大勢や自分がおかしいと思っていないことの場合は、
常識やマナー、モラル、コミニケーションなどと言って正当化されやすいし、人間の正しさなどとされたりする。
74.人間は自分が思いたいようにしか思わない
お金が入ってくると言っていたら、言葉は言霊だから金が入ってくるということを言う人がいるが、
その言葉を内面で思ったり、言ったりして金がすぐに入ってきたら、言葉で言っていたから金が入ってきたんだと都合よく思う人もいるのだろう。
8か月後や一年後や、10年後に給料や宝くじなどで金が入って来ても、言葉で金が入ってくると思っていたから金が入ってきたと思いたい人は
言葉に込めた言霊のおかげなんだと都合よく思う人もいるだろうが、私は信じていない。
多くの大人は給料という形か、年金という形で金が入ってきているだろうが、いつもと同じ給料額でも、
いつもの給料額より100円や3000円多く給料を貰ったり、給料以外の形で100円入って来ても1万円入って来ても、10万円入って来ても
金が入ってくると言葉で思っていたり、言っていたから金が入ってきたと思いたい人はそう思うのだ。
信じる者は救われるなどと言ったりするが、自分が思いたいようにしか思わないし、信じたいようにしか信じない
金が入ってきてほしいと言葉で思ったり、言っている人に一度に100円入って来ても、18万円入って来ても、100万円や4億円が入って来ても、
金が入ってきてほしいと言葉で思ったり、言っていたから金が入ってきたのだと言いたいなら、なんで入ってくる金の額に違いがあるのかについては言わないのだ。
ある人が宝くじで一億円が当たった人のことを、宝くじを買うという行動をしたから宝くじが当たったというようなことを言っていたのがウソだろう。
宝くじを買ったことがある人はたくさんいるだろうが、みんなが当選などしていないし、
当選した人も別の時に宝くじを買った時には当選はしていないのに、宝くじを買うという行動をとったから当選したと言っているのは間違っている。
私も過去に何度か宝くじを買ったことがあるが、一度だけ1万数千円が当たったことがあるが、
私が宝くじに当たった理由を宝くじを買うという行動に出たから当たったのだという理由を誰かが付けたとしても、
宝くじが当たっていない場合についてはどういう理由をつけるのだろうか?
「金が入ってこないと言っていると入ってこないので、そういう言葉は使わない方がいい。」と言っている人がいるが、
一方で他の人が言っていることに、金が入ってきてほしいと思っているのに金が入ってこないのは、心の中で金がないから金がほしいと思っている人の
金がないからと思っていることが現実化されたから金が入ってこないのだと言っていたりするのだ。
望む額の金が入ってこないことについてある人は、「金が入ってこない」などと言っているから金が入ってこないと理由を付け、
他の人は「金がないから金が欲しい」と思ったり、言っている人の金がないからという言葉の部分が現実になって金が入ってこないと理由を付けるのだ。
思っていることが現実になるとか、言葉にしたことが現実になると言うのなら、
「今、金がないから金が欲しい」と思っている人に金が入ってこなかった場合には、金がないからと思っていることが現実化されたのだと
理由をつけても、一方で金が欲しいとか、金が入ってくると思ったり、言っているのに金が入って来ていないのはおかしいのだが、
思っていることは何でも現実化するんだと信じたい人などは、金が入ってきてほしいと思っていて金が入ってきたら、
思ったことが現実になったのだと自分に都合のいい捉え方をするのだろう。
ある占いをしている人のブログを読んでいたら、その占い師は思っていることが現実になるというようなことを以前に言っていたようで、
誰かがこの占い師に思っていることが現実にならないと言ったことに対して占い師は、
魂で決めてきたこと以外は現実にはならないという感じのことを書いていた。
思ったことが現実になると信じている人の多くは、思ったことの一部は現実になるけど、現実にならない場合もあると信じているのだろうが、
現実にならない場合があると思っている方は言わないのだろう。
そりゃそうだろう、思ったことは現実になるというのを別の言い方で言えば、願望が叶う、願いが叶う、夢が叶うなどと言ったりするが、
これらのことを売りにして本などを出したりして金を貰っている人は、思ったことが現実になる場合と現実にならない場合があるなどと本や本の帯などに書けば売り上げは減るだろうから本音が言えないのだろう。
例えば、「精神レベルが高い人は願いが叶いやすいけど、精神レベルが低い人は願いが叶いにくいです」とか
「生まれてくる前に魂で決めてきたことは現実になるけど、魂で決めてきていないことは現実にはなりません」とか
「思ったことは現実になる場合と、現実にならない場合があります」などと本の表紙や帯や本の宣伝文に書けば、
これらのことを書かないのより売り上げは減るだろう。
人は自分の思い道りに生きたいだろうが、現実は何でも自分の思い道りにはならないから、引き寄せの法則とか、願望が叶うという
ことが書かれているブログや本などを読みたいと思う人もいるだろうから、この類の本はある程度は売れるのだろうし、
スピリチュアルの人が人気があるところがあるのだろう。
自分が思いたいようにしか思わないのはあいさつも同じで、あまりにも数少ない人にだけあいさつしてきて、
オウム返しを求めて初めにあいさつして、あいさつされた相手全員がオウム返しであいさつ返しをしてきたら、
他の人もみんなあいさつ返しをするんだと勝手に信じる人もたくさんいるのだろう。
自分が大切なので自分の思い道りの態度を取らずにあいさつを返さなかった人を嫌ったり、見下したり、白眼視したり、嫌がらせしてくるのも、
正しい根拠や裏付けがなくても自分が正しいのだと思いたいのに、自分が正しいと信じていることをやらなかった人を間違っている人だと思い嫌ったりする。
金でやっていく世の中が正しいという信仰を持つ金信者の人の中には、「お金がすべてじゃないけど、金は入ってきてほしいよね。
金が入ってくると思っていれば入ってくる。金が入ってこないと思っていれば入ってこない」などという信仰を持つ人もいる。
金がないとやっていけないから、どうやったら金が入ってくるのかに意識を持っていっているだけで、金でやっていく世の中自体が不正で間違っていることに金信者の人たちは気づいていない。
多くの人は成功例を真似したり、大勢のやっていることを真似するのだ。
例えば、金がないとやっていけないこの世の中で、金がたくさん入ってきている金持ちと言われている人たちが
何をやって金が入っているのかとか、普段どんな言動を取っているのかとかを知ったら、その人たちのやっていることの真似をすること
で自分や他の人にも金が入って来る可能性があると信じる人もいる。
あいさつも同じで、大勢がやっていることが例外あれど正しいから大勢に合わせて従えという信仰心だ。
人としての正しさは例外除いて、大勢と同じことをすることと信じている人がたくさんいるのだ。
コロナウイルスはマスクを付けていたら口や鼻から入ってこないと信じている人もたくさんいるのだろうが、
マスクの種類によってはコロナがマスクを通り、感染防止にはならないと言っているような人や、
どんなマスクを付けていても感染防止にはならないと信じている人もいるだろう。
コロナ関連のことで色んな人が言っていることもバラバラで真逆のことを言っていて、コロナ関連のことについてもみんなが同じことなど信じていない。
マスクを付けて呼吸ができるのはマスクから酸素、空気が通過して入ってきているということだが、酸素、空気はマスクを通過してもコロナウイルスなどのウイルスはマスクを通過しないと信じる人は信じるのだろう。
あいさつにおいても、あいさつされたから嫌われていないとか、みんながあいさつを正しいと信じているとか、自分が信じたいように信じ、思いたいように思う。
外見や喋り方や体臭や生き方や信仰心が違うところがあることは百も承知である一方で、人はみんな一部のことでは同じところがあると信じているような人もたくさんいるだろう。
その一つがあいさつで、違うところがあるけれど、あいさつにおいては、みんながあいさつを返すと信じていたり、
みんながあいさつを返さなければいけないと信じていたりする人もいるのだ。
自分に都合のいい捉え方をして、自分に都合のいい信仰を持っているところがあるのだ。
みんながあいさつを返すことを正しいと信じていないし、ヘレンケラーみたいな人もいるし、誰でもいつでも喋りたいわけではないだろう。
75.自己満足するという気持ち あいさつして自己満足する人
あいさつは関わる気もない人や、嫌いなだけの人や、どうでもいい人、大切ではない人にする場合が多いだろうが、そういう人に形だけあいさつして、必要最低限な関りなどという言葉で言い表す人もいるだろうが、
大切でもない、どうでもいい人を、あいさつという言葉で相手にしてあげた自分や自分の好きな人や、あいさつしている人を高評価して良く言ったり、間違ったことはしていないと根拠もなく自己満足をしている
あいさつ信者の人。
自分がどうでもいい人や大切ではない人を相手にしてやったから、あいさつを返してほしいと自分の気持ちは大切でも、
相手の気持ちは分かっていなかったり分かる気もない人が高評価されて、褒められたりして得をするところがある。多数派が得をしやすいところもある。
家族や誰かから金やプレゼントを貰ったことを「気持ち」という言葉で言い表す人がいる。
物や金ではなくて、その物や金を渡した理由は相手を好きだったり、役に立っているところがあるから感謝の気持ちを込めて金や物をあげたんだよ」などという気持ちや想いがこもっているんだと言いたいのだろう。
お互いが両思いの場合は、この言い方はカッコ付くのだろうが、
片方だけが相手のことを好きなだけだったりなどなら、あまりカッコも付かないだろう。
あいさつを例にすると、片方が相手のこと好きで初めにあいさつをして、あなたのことが好きだよという気持ちを込めてあいさつして、
その気持ちが相手に伝わっていても相手は嬉しいとも思っていないかったり、あいさつを初めにした人の自己満足で相手のことを好きだと思ってあいさつしてあげたんだと本人は満足していても、あいさつされた方はめんどくさく、、嫌々あいさつしている場合もあるようなものだ。
関わる気もない人に、あいさつ返しを求めて形だけ初めにあいさつしている人が自分のその気持ちを知ってあいさつしてほしいと望んでいて、
相手が初めにあいさつしてきた人の気持ちを知っていても、知らなくても、あいさつをされても嬉しいとも思っていなかったり、嫌がっている人もいる。
目に見えない思いがこもっていると自分の気持ちは大切でも、相手のことにはほとんどか、全く興味や関心がなくても、
気持ちが大切とでも言えば綺麗事としては美化できるだろう。
誰かと一緒に行動をすることやプレゼントや金を渡すのも両思いならば良く言いやすいが、片思いとかならバカにされたり、良く言われなかったりもする。
あいさつは、大切ではない人にする場合が多いものだろうから、どうでもいい人とあいさつという形だけで関わってあげたあいさつできる人は素晴らしいと、自分や自分と同じことをする人を褒め称えて、同じことをしていないあいさつ返しをしない人を問題視して、あいさつを初めにした人をを正当化する人もいる。
あいさつ信者には、あいさつ返されたいという自分の気持ちは知ってほしくても、あいさつをした理由がどうでもいい人や、嫌いなだけの人や、関わる気もない人や、見下しているだけの人に仕方なくやった、渋々やった、めんどくさくやった、バカにしてやったなどという本心や
本音の気持ちは知られたくない、バレてほしくない人もいるだろう。
あいさつは自己満足でやっている場合もあると言えるが、みんながあいさつを正しいとか、あいさつ返しが正しいと信じていれば、
みんな同じことを思っているのだから、自己満足ではないと思う人もいるんだろうけど。
あいさつをやれと言っていたり、あいさつ返しを求めて初めにあいさつしてきたり、初めにあいさつしないことに悪態をつく人を嫌がっている人もいるのだから。
他人の本音とはあまり関わらずに、自分は相手と一部のことで関わり、触れ合っていいるのだと自己満足しているところは誰にでもあるだろうけど。
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