くるみの世界

金でやっていく世の中や、あいさつが正しいとされていることは間違っているということを主張したいです。

脱あいさつ あいさつは正しくない15

2022年10月22日 | 脱あいさつ

目次

第1章から第9章へのリンク
第10章から第12章へのリンク
第13章から第20章へのリンク
第21章から第23章へのリンク
第24章へのリンク
第25章から第28章へのリンク
第29章から第37章へのリンク
第38章から第47章へのリンク
第48章から第52章へのリンク
第53章から第56章へのリンク
第57章から第59章へのリンク
第60章から第67章へのリンク
第68章から第75章へのリンク
第76章から第77章へのリンク
82.嫌われないための防嫌対策
83.人間は人のことを分かっていないところがある
84.自分が正しいと信じていることを一方的に押し付けているのは自転車の防犯登録もあいさつも同じだ
85.あいさつと不審者
86.スケープゴート
第87章から第93章へのリンク
第94章から第99章へのリンク

 

82.嫌われないための防嫌対策

 

言いたいことを具体的に詳しく、はっきり言えば、言いたいことを分かってもらえる場合もある。
無言だったり、言葉で言っていても逆の言い方をしたり、遠回しに言ったり、詳しく言わないと何が言いたいのか分かってもらいにくかったりするし、詳しく言っても言いたいことが分かってもらえない場合もある。
詳しく具体的に言わない理由は人によって違うだろうが、遠まわしに言ったり、はっきり言わないことが大人な態度であるとか、
相手や周りの人から嫌われたくないからという理由ではっきり詳しいことを言わない人もいるだろう。
同じことを言い表すのに色んな言い方をしたりするが、
言った人には意味が分かっていても、聞いた人や読んだ人が、言った人が何を言いたいのか分からなければ言っていない無言と同じようなものだ。

嫌がらせをしている人の目的が、嫌がらせをする人が相手に嫌な思いをしてほしい場合と、相手のせいで不快になったと思っていて、その不快さを発散させるために嫌がらせしている人もいるだろう。
嫌がらせされている人はたくさんいるだろうが、嫌がらせされていること自体に気づいていない人もたくさんいると思う。
嫌がらせをしている人が、嫌がらせをされている人に自分がやった嫌がらせや、嫌がらせしている理由を気づいてほしいと思っていても、
嫌がらせをされている人が気づいていないなら何のために嫌がらせをしているのかということになる。ただの自己満足だ。

嫌がらせをされている人は大体、嫌がらせをしている人から嫌われていたり、見下されていたりするだろう。
多くの人は大勢の人から嫌われたくないだろうし、嫌がらせなどされたくないだろうから、嫌われないようにしようとしているところがあるだろう。
自分が嫌なことは人にはしないようにしているとか、他人に自分が嫌なことはしないようにと言っている人がいるが、こういう人たちは自分と他の人をほとんど同じ人間だとは思っていないだろうに、自分が嫌なことをしなければ人は嫌がっていないという信仰を持っていてバカなところがあるのだ。

同じ共通点があったとしても、全てが同じ人間などいないだろう。だから、他人のことは分からないところがたくさんあるのだ。
他人のことが分からないところがあるから、他人が何を嫌がるのかも分からなかったりする。
かといって、誰かが何かを嫌がっているのを分かっていても、人が嫌がることをやってもいい場合があるなどと思っているところもあるだろう。
生きていく中で、大勢から嫌われないようにするために、大勢と同じことをして仲間だと思われようとするところとか、大勢が悪だと思っていることをやらないようにして、自分の本音や本心にウソをつきながら生きて、嫌われないようにしている人がたくさんいるだろう。
あいさつをする理由も嫌われないためにしている人もいるだろうけど。

この嫌われないようにすることを、寒さを防ぐための防寒対策や刑法違反などのことをされないために監視カメラをつけたりなどすることを防犯対策などと言ったりするが、これに似た言い方をすれば「防嫌対策(ぼうけんたいさく)」や「嫌われないための対策」とか「嫌われないようにするための対策」とか「嫌われることを防ぐための対策」とも言い表せる。

あいさつをする人の理由の一部や、それ以外の多くのことも防嫌対策だろう。
嫌われたくなかったり、好かれるためにする態度を媚売りとか、胡麻すりなどとも言う。
嫌われて不満を言われたり、嫌がらせをされないために防嫌対策という理由であいさつしていても、あいさつを社会のルールや常識、マナー、コミニケーションなどと言う人はたくさんいるだろうが、あいさつしている人の心理、動機、目的に全く関心がないか、ほとんど関心もなかったり、
あいさつしている理由の具体的なことが分かっていないのに、分かったようなことを言っている人もいるのだ。

あいさつする理由を「あいさつは嫌われたくないからやった」とか「大勢と同じことをしないことで変な人とか思われてバカにされたくないからやった」などと本心は言わない人が多いだろうから、人が一部の人にだけあいさつしている理由はあまり分からないだろう。
大勢がやっていることを社会のルール、マナー、モラル、常識などと言い表す人が多くても、あいさつをやっている目的、心理などについては言っていないのだ。
年金は世代間の支え合いとか、給料を貰うようなことをするのは社会参加や社会貢献などと言い表して綺麗事を言う人がいるが、
やっている人たちの心理とか信仰心については言っていないし、あまり分かってもいないだろうし、分かる気もなかったりするだろう。

嫌われないためにというのも、内面で嫌われているだけや、一回だけ不満を言われる程度ならよくても、しつこく不満を言われたり、
嫌われた後に嫌がらせされることを嫌がる人の方が多そうだ。
防嫌対策とか、嫌われないための対策という言い方よりは「嫌がらせされたくない対策」とか「嫌がらせ防止対策」と言った方がいいだろう。

人に不満を持って嫌うのは自分の思い道りにならなったからだろう。
自分の思い道りにならないことの不満に大勢が共感して同じことを感じていると許されて、普通の感覚とか常識的など思われるだろうが、
大勢が嫌がらないことを嫌がると、変人や心が狭いなどと言われて、悪く言いわれやすい。

人が何に不満を持つのかは人によって違うので、自分や自分の周りにいるごく一部の人が嫌がらないようなことを嫌がる人もいるのだ。
大勢が嫌がっていて、それを口に出したり、書く人が多いことは知られやすいが、ごく一部が嫌がっていることや少数の人が嫌がることの場合は、
知られにくいだろう。
大勢から嫌われている人で多くの人が知っているのは、政治家や逮捕されているような人だろう。これ以外の人も色々なことで嫌われているのだ。
あいさつで言えば、初めにあいさつをしないことに不満を持ったり、本人の目の前で悪態ついたり、はっきりと「あいさつもしねーよー」とか
言う人がいるのだ。こういう人は例外中の例外だろう。
あいさつを返されないことに不満を持ったりして、おかしいとか思う人はたくさんいそうだが、あいさつ返さない本人の目の前で悪態ついたり、身体暴力やったり、嫌がらせする人や不満を言う人はあまりいないだろうし、これも例外的な少数派だろう。
防嫌対策や嫌がらせ防止対策は、相手が嫌がることをしなければいいわけだが、同じことをしても、ある人が嫌がらなくても別の人が嫌がったりするのだ。
何をやろうがやらなかろうが、誰かは不満を持つということになる。だから人間関係は難しいのだ。

人間は自分が一番可愛いのだ。自分よりも大切な人がいると言う人がいるが、自分より大切な人がいるからこの人のために死ねるなど思うのは、
自分が大切だから自分の思い道りにしたいということだろう。つまり、自分が一番大切なんだよ。
大切な人が嫌がることした人に嫌がらせしに行くのを、自分より大切な人のためにと言えばかっこが付くのだろうが、自分が大切な人が嫌がっていることで自分が不快だから、嫌がらせに行くのも、自分が嫌な気持ちになりたくないのに嫌な気持ちになったことを嫌がられた人のせいにしていて、
結局は自分が一番大切なんだよ。
人のためにという言葉と自分のためにという言葉は同義語とも言える。
人に喜んでほしいからという理由で何かをやると人のためにというが、自分がそれをやりたいからやっているのだから自分のためとも言える。

人から不満を言われたり、攻撃されたりしている人に、「人のことを考えていない」とか「人のことを分かっていない」などというようなことを
いう人がいるが、それはあからさまに人から不満や攻撃されていない人も同じで、多くの人はほとんどの人のことは考えていないだろうし、
人のことなどほとんど分からないだろう。
人のことを考えたら人が嫌がることはしないかのように思っているような人がいるが、同じ人間ではないのだから、人のことを考えても、ほとんど人のことなど分からないだろう。
あいさつを初めにする人の多くはあいさつを返されたいからあいさつをしてくるだろうが、あいさつ返されないことに「あいさつ返されたいからあいさつしたの分かってるんだろう。何であいさつ返さなかったんだ?」と不満や疑問を持ち、自分に合わせて従わなかったと不満を持つ人がいるが、こういう人もあいさつ返さなかった人の体の状態や、信仰心や気持ちなど知らないだろうし、知る気もない人が多いだろう。
結局、自分が可愛いので自分を擁護して、相手のことを考えはしないような勝手で我がままなことを思っているのだ。

日本以外のアメリカだかどこかの国で、小学生か中学生ぐらいの生徒と先生が性的両思いでセックスして、それがその国の法では違法で先生が逮捕されていたような記憶があるのだが、セックスした2人はお互い性的両思いでセックスしていても、他の誰かがそれをおかしいと思ったり、
逮捕する法律があって、その法律を適用すれば逮捕される場合もあるのだ。

逮捕されることではなくても、私がいとこの子どもにあいさつ返しをしなかったことに、いとこが私の近くで不満を言ったが、私にあいさつした子ども自体が不満を持っていたのか?
あいさつ返されなかった子ども本人がどう思うかではなくて、自分が子どもにあいさつ返してほしいのに
返されないことで不満を持ち、すぐに不満を言う。
人間は自分が可愛いので、自分の思い道りにならないと不満を持つところがある。

 

83.人間は人のことを分かっていないところがある

 

今までに誰かにプレゼント(贈り物)とか、食べ物などを渡された人の中には、本当は渡された物を迷惑したり、嫌がっていたり、いらないと思っているのに、色んな理由から形だけ受け取って貰った人もたくさんいるだろう。
あげた人の中には、相手が受け取ったから嫌がっていないと思う人もいるだろう。
貰われたから嫌がられていないと思った人の中には、またあげようと思う人もいるだろうが、相手は要らないと思っている場合もあるのだ。

あいさつ信者たちは、あまりにも数少ない人にあいさつをしてきて、あいさつした相手の全員か、ほとんどの人に言葉であいさつを返されたから
他の人もみんな言葉であいさつを返すと勝手に自信を持って信じた人がたくさんいるだろう。
そして、この人達はヘレンケラーを知っている人が多いだろうが、初対面の人にあいさつしたら、みんながあいさつを言葉で返すと
信じているバカで頭が悪いところがあり、鈍いところもあるのだ。
根本的に人のことを同じ人間だと思っていないだろうから、人には一部同じところがあると適当に思い込み、自分が正しいところがあると信じているのだ。
本当はあいさつ返しを正しいと信じていない人が、嫌われたくないからなどの理由で渋々あいさつするから、あいさつ返された方が、
「またこの人にあいさつをしよう。今あいさつを返したから、今後も自分があいさつするたびに毎回あいさつを返してくる」などと思って勘違いしたり、「あいさつ返されたのは自分が嫌われていないからだ」「自分の思い道理になってうれしい」などと無意識、意識的に思ったりするのだろう。

人間は全てが自分の思い道りにならなくても、一部は自分の思い道りになることがあると信じているところがある人が多いと思う。
その一つがあいさつで、あいさつを初めにしてあげたら、絶対に100%言葉であいさつを返されると勝手に信じ込んで、ごく一部の人に
初めにあいさつしたら、あいさつした相手全員が言葉であいさつを返すと「ほら私が信じていることが正しいこともある。
あいさつしたら、みんなが言葉であいさつ返すんだよ。」とか「言葉であいさつを返されたいと思っている自分の気持ちが相手に通じたから、
相手は言葉であいさつ返したんだ」「ああ、やっぱり自分が正しい」などと自分が思いたいように都合のいいことを思うのだろう。
人間は自分に都合のいい捉え方をするところがあるのだ。

あいさつをすることを心のふれあいと言う人がいるのだが、あいさつを返させたいと心で思ってあいさつしたら、自分の思い道りにあいさつを返されたことを、自分の気持ちが通じて、心が通じたからあいさつされたと思って心のふれあいと言っていそうだが、みんながあいさつ信者ではないので、あいさつしていても形だけ渋々あいさつしている人もいるのだが、
あいさつ返した人や、初めにあいさつした人がどういう理由であいさつしたのかの心理、理由を分かっていなくても、心のふれあいだと思いたい人は思うのだ。言葉の定義は人によって違うので同じ言葉をどういう定義、意味付けで使っているのかは人によって違うからだ。こんにちはとかのあいさつも同じ言葉とはいえ同じ意味で使っているわけがないのだ。

人が嫌がることをしても多くのことは許されたり、嫌がった方が間違っているとか、おかしいと思われる場合がある。
例外あれど、プレゼントや食べ物などをあげて、物を渡された相手が嫌がっていても、あげた方が悪くは思われないどころか、褒められる場合もあるのだ。
仲間ではない人に気を使ったとか、コミニケーション能力が高いとか、協調性があるなどと良く思われる場合がある。
自分が嬉しいことや、正しいと信じていることをやった人には、やられた人やそれ以外の誰かが迷惑していたりして嫌がっていても
悪く言われない場合があるのだ。
あいさつも、あいさつ返ししろという押し付けを嫌がっていたり、あいさつを返すことを正しいと信じていない人の方が白眼視されたり、
見下されたり、バカにされて、少数派が悪く言われやすいところがある。
いい加減で適当なところなど誰にでもあるだろうが、
例外あれど、そんないい加減で適当なところがある人が普通の人、一般人、堅気の人間、いい人、まとも、正しい人などと良く言われたりする場合もある。

私が中学生の時のある日、姉が家に帰ってきた時に私が姉に「お帰り」と言わないことに対して不満を直接言われたことがある。
それを言われたことに対して、私は自分が間違っているとは思っていないし、悪いとは思っていない。
姉が親や私が返ってきた時にお帰りと言っていた記憶はないが、
私の知らない所で家族にお帰りと言っていることがあったとしても、いつも言っているわけではないだろう。
この私の姉のお帰りと言われたいのに言われないことの不満とあいさつも同じだ。
他人にある言葉を言わせたいのに、自分の思い道りのをことをしないことに勝手に不満を持ち、自分の思い道りのことをしない方が間違っていておかしいと思っているのだ。

日本人を良く言いたがる人が謙虚、控えめ、つつましやか、辛抱強いなどと大げさなことを言うが、そうではないところなどたくさんある。
自分の信じていることには合わせてほしいのに、自分は他人に合わせないところがあるのだ。
日本人には我がまま、自己中心的、支配的、独裁的なところがあるのだ。
自分が信じていることが間違っていても根拠なく正しいと信じ、同じことを信じていない人を見下したり、嫌ったり、気味悪がったり、不思議がるのだ。
やくざや極道、暴力団と言われている大勢から悪く思われている人たちでも不満を持たないであろうことに不満を持って悪態ついたり、
警察を呼べば逮捕されるような嫌がらせをしていても、暴力団ややくざと呼ばれるわけでもない。
やくざ、極道、暴力団と言われている人を怖がっている人がいたり、悪い人間だと思っている人もいるだろうが、やくざや極道、暴力団と言われていない人のことも悪人や犯罪者などと呼んだり、あいさつをしなかった一部の人をダメ人間などと言う人もいるのだ。
やくざのこともダメ人間で劣っている人のように思っている人がいても、やくざと言われている人以外の人にもダメ人間などと言ったりして見下していて同じように言っているのだ。
やくざと言われている人や刑法違反をしていて犯罪者と言われている人などは、札付きの悪という扱いをされていたり、
悪者という言葉のレッテルを張っている人が多いだろうが、
一方で、ほとんどの人は悪い人ではないと言いたいのだろうが、言葉とは言葉遊びであり、どうにでも使えるものなので、誰でも悪人だとも言えるし、悪人なんていないとも言えるのだ。
人や人間以外の生物が嫌がることをしていたり、誰かが悪だと思うことをやっていることを悪や罪と定義づければ、
誰でも悪人であり、犯罪者であり、罪を犯しているとも言える。
人から嫌がられていたり、バカにされているところがあったり、誰かが人間としてしてはいけないと思うことをしている点では、
やくざと言われている人も、普通の人と言われている人も逮捕されるようなことをしている人も同じなのだ。

人によっては、自分も悪いことをしているけれど、それはかわいい悪さで、大したことなどしていないなどと思っていたりして、
自分よりも劣っている格下がいると上から目線になっていて特権階級意識を持っていたりする普通の人や常識人と呼ばれている人がいる。
人を見下したり、上に見たりして人に上下を付けているのは白人だけではない。人を見下すことを悪だと定義づけるなら、みんな悪人だ。
例外はあれど、少数派を悪者扱いすることで、それ以外のほとんどの人は逆に善人であると決めつけ、多数派が正しいと根拠や裏付けもなく適当、いい加減な信仰持っている人達が普通の人や一般人や堅気の人間などと呼ばれて良く言われているのだ。

江戸時代にキリスト教信者が権力者から迫害されて殺されたが、ほとんどの人は権力者側のやったキリスト教信者を殺すことを正しいとは思わないだろう。
ある時代にまかり通っていたことが正しい正義だからまかり通っていたわけではないのだ。
大勢がやっていたり、大勢が感じていることだから正しいということにはならない。
大勢がやっていることを正しいと信じている人がたくさんいるが、一方で例外もあって、大勢が学校に行っているし、子どもの多くも学校に行くことが普通で当たり前で正しいと思っている人もたくさんいるだろうが、
子どもたちも学校の授業を嫌っていたり、「なんで勉強しないとだめなのか?」と疑問を持っている人もいたり、
給料貰うような仕事に行っている人の多くは本当は働きたくないけど金がないとやっていけないから嫌々働いている人もたくさんいたり、
税金や年金を払っているけど本当は払うことを正しいとは思っていないのに嫌々払っていたりなど、大勢がやっていることに疑問を持っていたり、おかしいと思っていたり、間違っていると思っている場合もあるわけだ。
あいさつも同じだ。みんながあいさつ返すことを正しいとは思っていない。あいさつ非信者もいる。

政治家に不満を言う人がいるが、政治家以外の国民も同じようなものなのだ。
政治家が金に汚いとか、国民のことを考えていないとか、ウソをつくと言って不満を言ったりするが、国民もそんな人達なのだ。
全く同じではないから分かりにくくても、似たり寄ったりであり、五十歩百歩、目くそ鼻くそだ。
政治家への不満は、自分の身の回りの人が不満を言っていたり、テレビや新聞などのメディアで政治家に対する不満を言う人がいて、
政治家に不満を持っている人がいることが分かりやすいが、
国民の多くは他人から不満を持たれていても、影で不満を言われていて不満を言われている本人は不満を持たれていることに気づいていなかったり、
本人の目の前で遠回しに不満を言っても、本人や周りの人は遠まわしに不満を言われていることに気づいていなかったりするから、
自分たちが不満を持たれていることに気づいていない場合も多いだろう。

 

84.自分が正しいと信じていることを一方的に押し付けているのは自転車の防犯登録もあいさつも同じだ

 

自転車を買う時に店側から防犯登録をするように言われるが、みんなが防犯登録をしたいなどとは思っていない。
自転車の防犯登録は法律で義務付けられているなどと警察のホームページに書いていたが、その警察自体が法律のすべてなど守っているわけがないのだ。
みんなが自転車の防犯登録の法律を正しいとは信じていない。
信じていない人に防犯登録料を払うように強制している警察側も店側も合法の犯罪をやっているのだ。
店などの値段を付けて何かを売る商売自体が合法の犯罪で合法で詐欺、泥棒をしているだけだ。

警察側や店側が自転車を購入した人に一方的に防犯登録料600円ぐらいを払うように言っているが、払うことをみんなが正しいとは信じていないのに払わなければいけないようにしているのは、
あいさつしたら、あいさつを返せという信仰を持っている人と同じなのだ。
一方的に自分の信仰を押し付けているのだが、
あいさつの場合は、多くの人は社会のルールや常識、コミニケーションなどと言って正当化したり、美化させていて、防犯登録の場合は法律で義務付けられているなどと言い、義務や法律などという言葉で正当化させているのだ。

日本は独裁国家と言う人はあまりいないだろうが、防犯登録を見てもわかるが、権力者側が決めたことに従えと一方的に押し付けてきている独裁国家だ。
あいさつも、あいさつをされた側が満足して喜んでいたとしても、あいさつした方がごく一部の人に一方的にあいさつをして、あいさつされた人が嫌がっていなかったら一方的という言い方をしないのだろうが、
一方的にあいさつをしたら、あいさつされた方がたまたま喜んだりして満足しただけとも言える。
あいさつ信者も一方的で自分のあいさつ信仰が正しいと信じきり、独裁的なところがあるのだが、あいさつ信者が多いので綺麗事で美化されやすい。

自転車の防犯登録に少数の人が不満を言っていたら、権力者側の警察が知っても防犯登録を辞めないだろうが、大勢の人が不満を言ったら辞める可能性はあるだろう。
人が嫌がることをした一部の人は刑法違反で逮捕されるが、ほとんどのことは誰かが嫌がっていても逮捕されないが、防犯登録料を取ることに加担している警察や店側は防犯登録料を払うことを正しいとは信じていない人から金を取っていても逮捕されることはない。ただの差別だ。

防犯登録は義務と言っているが、義務という名目の宗教や教義とも言える。
宗教の押し売りはダメだけど、法律や義務という言葉で言い表しているものの押し売りはしてもいいと言いたいのだろう。
キリスト教や創価学会の人が自分たちが新しい教会や、宗教の建物を建てるのに金が要るから信者ではない人も金を出せと言ってきても払う必要はないと大勢の人は思うだろうが、税金や年金などの権力者側が決めた決まりは守らなければいけない場合があるとして、強制で押し付けることを許しているのだ。法律という宗教の押し売りだ。

誰かの自転車が盗まれた時に防犯登録をしておけば、自転車の持ち主に自転車が返ってくる場合があるから、防犯登録を義務などと勝手に決まりを決めているのだろう。自転車盗難と言われているのは刑法違反だから犯罪という言葉で言っているが、誰かが嫌がることをしていることや、誰かが嫌がっていて正しいという根拠もないようなことを犯罪と言うと定義付けるならば、
防犯登録料を払えというのも犯罪だ。刑法違反ではないから警察呼んでも捕まりはしないし、牢屋には入れられないけど。
防犯登録料を払えというのは合法の犯罪行為だ。
警察も合法をいいことにやりたい放題なところがあるのだ。そして、その警察のやっていることが自分達に都合がいい場合は、
警察が合法でやっていることも違法でやっていることも、多くの人は許しているのだろう。
職務に忠実で真面目などと警察を良く言う人がいるが、警察が法律の全てを守っているわけがない。
刑法を適用して誰かを逮捕していても、その刑法の全てを警察が正しいと信じているわけがない。
正しいと信じてもいない決まりを適用して人のことを逮捕するようなことをしていて、おかしいことをしているのだ。

法律の一部を正しいと信じて守っていたり、正しいとは信じていないのに法律の一部を色んな理由で守っている人が、
自分が守っている一部の法律や、法律以外の決まりを守らない人に対して不満や疑問を持っているが、こういう人たちも法律や法律以外の決まりのほとんどを守ってはいないのだが、自分と同じことをしないことに不満や疑問を持つが、
自分が守らなくてもいいと信じている決まりなどを、他の人から押し付けられることは嫌がり、我がまま勝手なのだ。

 

85.あいさつと不審者

 

ネットで不審者情報と書かれたものをいくつか見たのだが、
他の人なら不審者という言葉で言い表さないことを不審者という言葉で言い表している。
車から中年の人が「遊びに行こう」と声をかけていたということを不審者と言い表していて、その紙には不審者に注意などと書かれているのだ。

言葉の定義、意味付けが違い、言葉が通じていない。不審者という言葉の定義が違う。
遊びに行こうと言っているのは、ナンパという言葉で言い表す人もいるだろうが、おかしいとか、気味が悪いと思えば不審者と呼ぶ人もいるから、遊びに行こうと言った人を不審者と呼ぶ人もいるのだろう。

多くの人の不審者という言葉の定義は、誰かの外見や言動を気味悪がったり、悪いことをしているとか、悪いことをしそうとか、見下している人のことを不審者と定義づけている人が多いと思う。

同じことをしているのに、おかしいとか、気持ちが悪いとか思うと不審者と呼ぶ人がいても、他の人が同じことしたら不審者とは呼ばない勝手なことを思っているだけだろう。
子どもや年金暮らしや身体障害者や、主婦などが給料や印税という形で金を貰っていなことは許して、おかしいとは思わなくても、それ以外の人が給料や印税という形で金を貰っていなことには不満を持ち、見下したり、
不審な目で見たりしている人がいる。

ネットの別の不審者情報について、相模原北警察署からのメールマガジンに書かれていたのを読んだら、夜に自転車で帰宅途中の女が自転車に乗った男に後を付けられる事案が発生したと書かれていて、
その文章の初めに「犯罪情報」などと書かれていた。
以前、数年前の日中に、私が近所の住宅街で自転車に乗っていたら、数メートルぐらい前に制服を着た高校生の女が自転車に乗っていて、
その高校生が後ろの私を見た後に、自転車を早く漕ぎ出したことがあった。
その後、その高校生は再度、後ろを振り返って私を見たような気がするがはっきり覚えていない。
この女子高生は、断定か半信半疑で私が自分の後をつけてきていると思っていたんじゃないかと思うのだが、私は女子高生をつけているのではなくて、女子高生が向かっている方向に用があるから、その方向に向かっていただけのことだ。他の人もこういうことを思われている人がいるだろう。
日本人は子どもの時から鈍くて人のことや物事の正しいことが分からないところがあるのだ。

不審者という言葉をみんな自分に都合のいいように利用して勝手に定義付けて使っているだろうが、言葉とはどうにでも使える。不審者というのは、よくわからない人で謎だと思う人のことを不審だと定義付けるならば、
みんな不審者であるとも言える。ごく一部の人には住所や電話番号などの個人情報を教えても、他の人には教えない。
それ以外の色んなことも多くの人に隠して秘密にしていて不審だとも言える。
地球の一部である畑や田んぼなどの一部を自分達一部のものであると占領するようなことをしていても、多くの人から不審者とは言われにくいだろうが、不審なことしている不審者とも言えるのだ。

同じことをしても自分や仲間や、気持ち悪がってない人がやると不審や不審者とは言わないのに、他の人が同じことをやると不審者と言っているのを差別とも言わないのだ。
日本人が排他的な村社会と言われているのも、こういうところがあるからだろう。

警察が盗難自転車かどうかを調べるために人を止めたり、
職質と言われているようなことをしているのも、職務に忠実とか、仕事や職業と言えばかっこが付くだろうが、これらのことをやられた人の中には嫌がっている人もいるし、嫌がっていなかったとしても、警察のやっているこれらのことは、おかしいことをしている不審者とも言えることだ。
人が嫌がることをしていることを犯罪と言い表すなら、職質や盗難自転車かどうかを調べるために人を止めることも犯罪であり、
それをやっている警察も犯罪者ということになる。
ほとんどの人が誰かが嫌がることをしても逮捕にはならないけど、一部の人は逮捕されるような差別していることを、差別犯や差別犯罪者とも言える。

警察のもいい例だが、不審者と言う人も不審者と言うことだ。他人の姿は自分の姿だ。
他人が嫌がっていることして税金から給料という形で金を貰っても逮捕されるわけでもなし、不審者、変質者と言われるわけでもない。
警察の一部はおかしいことしているけど、ほとんどの警察はまともであると信じている人もいるんだろうが、警察という組織、集団自体がおかしいとも言えるが、警察も警察以外もほとんどの人まともないい人だと信じている人がたくさんいるのだろう。
見抜けている人が、警察のことを国営の暴力団、やくざで、一般に暴力団と言われている人との違いは、国営か私営の違いだと言っている人がいたが、
良い得ているが、ほとんどの人は一部の警察を悪くは言っても、ほとんどの警察のことを悪くは思っていないだろう。
人を逮捕したり、牢屋にいれることが正しい根拠などどこにもないが、大勢がやってもいいことだと信じているから、逮捕する法律はまかり通らす場合が多いのだろう。

私は以前、家の中で独り言を言っていた。その独り言の内容はあいさつのことなどの不満、悪口で、特定の個人や大勢がやっていることの一部について独り言を言っているのだが、その声が家の外に漏れている時があるみたいで、隣人の小野という男の老人に嫌われている。
私の家の隣で大声で他の人に私の悪口を言っている。独り言に不満を言っている小野が自分も私が独り言を言っていない時に、
「何をごにょごにょ独り言言よーんじゃ」と何度か言っているのを聞いたことがあったり、鳥がキーキー大声で鳴いている時に小野が「うるせーんじゃ」
と大声で言っていたことがあった。
自分も音の面では私の独り言よりも大きい音を出していて、草刈り機などの音出していたり、私への嫌がらせだと思っているが、小野の家の母屋から離れた所に以前、職場に使っていた建物があり、その建物の壁を外から、
金づちか金づちみたいなものでカンカンと大きな音を出して叩いてたり、クワの刃の部分を上に向けて、金づちか金づちみたいなもので大きい音出して叩いていたりした。
そんな小野が数年前に私が家のリビングにいた時に、リビングの外から小野の声で「不審者がいると犬吠える」という声が聞こえたのだが、
不審者と言ったのは私のことを言ったのだと思っている。
その当時うちには犬がいたのだが、うんこをする前とか、それ以外の時にもワンワン吠えることがよくあったので、
犬はおかしい奴を見抜けるから、私の家から犬の吠え声がするのは、独り言を言っているおかしい奴がいるから犬が吠えていると言いたいのを
「不審者」という言葉で表したんだろうが、小野がやっていることも誰かがおかしいと思うことをやっているので、
小野も不審者ということになる。不審者と言う人が不審者だ。
小野は外で猫を飼っているが、猫を外飼いしていることを嫌がっていたり、迷惑している人もいるが小野はそれを知らなさそうだ。

人が嫌がることは人によって違うのだ。人が喜ぶことも人によって違う。
多くの人はそれを頭では分かっているのだろうが、実際、現実に人がいろんな言動を取っているのを見て、自分と同じことをしていないかったり、
自分が正しいと信じていることをやらないとおかしいと思う場合もあるのだ。

数年前に、近所のお大師堂の前を私の母親と通りすがった時に、お大師堂に60代ぐらいの男の人が上半身はノースリーブの白い下着を着て座っていて、
お大師堂から離れた所で、私の母親が同町内のじいさんにお大師堂にいた年配の人のことを言ったら、じいさんが同町内でネズミ捕りをしている警察の所のお大師堂の所にいた人のこと言ったらしいが、ほとんどの人なら警察には言わないだろう。私はその人を怪しいとも不審とも思わなかったけど。
同じ外見の人を見ても、気味悪がったりして警戒する人もいれば、気味悪がらない人もいるのだ。
気味悪がっても、みんながその人を不審者とは呼ばないし、警察に連絡したりはしないだろう。

あいさつについても、おかしいと思われるのは、あいさつを返さなかった方か、あいさつされて会釈だけした方が不審がられて、おかしい人や、
異常な人と思われやすいだろうが、あいさつしたらあいさつ返すことが正しいと信じているあいさつ信者が間違っていることを信じている不審な人とも言えるのだ。
何で一部の人にだけあいさつをさせたがっているのかを隠していて不審だ。
あいさつ返さなかった方が不審な不審者という感じだろうが、バカと言う人がバカと同じで、あいさつ返さないことを不審だと思う人も、
あいさつ返すことが正しいと信じている自分の信仰を同じことを信じていない人に押し付けている不審者とも言える。

相手のことを全然知らないか、よく知りもしないのに断定か半信半疑で人のことを決めつけて、自分の感じたことに自信を持っているようなところが
日本人にはあるのだろう。自分の一部は知ってほしいけど、別のことは知ってほしくない。
自分のことは知ってほしいところがあっても、相手のことは全く知ろうとしないか、ほとんど知ろうとはしないところが、人間には誰にでもあると思う。
あいさつ信者があいさつ非信者のことや、あいさつ信者の中にも知らない人にあいさつしなくてもいいという信仰を持っている人がいることを知らずに、一方的に自分の信じていることを押し付けているのも、相手のあいさつについての信仰を知らなかったり、知る気もないのだ。

 

 

86.スケープゴート

 

子ども全員か、ほとんどの子どもはいい人(善人)だと信じている人がいる。
子どもはいい人だから悪いこと、おかしいことをしないと信じている人がいるが、こういう人の中には子どもが悪いこと、おかしいことをしていると思ったら、その原因、理由は大人のせいだという理由をつける人がいるのだ。
自分が感じて信じていることが正しいと思っていて、それが外れていたとしても、自分の感じたことが正しいと思う場合には、自分が感じていることが正しいと思えるような理由をつけるのだ。

子どもをいい人だと思いたい人が子どもが悪いこと、おかしいことをしていると思った場合に、「大人がおかしいから子どもがおかしいことをする」と言う人もいるし、「親の躾がなっていない」とか「大人が教えていないから」「大人の心を吸った」「大人の真似をした」と思う人もいるのだ。
もし、大人が同じことをしたら本人が悪いとか、変人や悪人などと言って悪く言うことも、子どもがやれば悪く言わずに、大人のせいにするのだ。
大人のせいにしているのもをおかしいとも言える。
子どもは大人の真似をしていると言っている人がいるが、子どもはほとんどの大人の真似などしているわけがないし、大人の色んなことを馬鹿にしたり、見下している子どももいるのに、大人のせいにばかりしているのもおかしいのだ。
大人も、自分より年上の大人の影響を受けているところもあれば、年下の影響を受けているところもあれば、色んなことの影響を受けているだろう。
今、子どもの人も20才過ぎて年齢が大人になれば、年齢が子どもの人がおかしいとか悪いと思うことをしたら、大人のせいだと言われだすのだろう。

好きな人や、いい人だと思う人や自分のことを悪く言わないために、特定の一部の人を悪者に仕立てたり、問題視してスケープゴートにしているのだ。
人間は自分の感じたこと、信じていることが正しいと根拠や裏付けもなく信じているところがあるので、子どもをいい人だと思いたい人は、悪いことをしていると思っても、それを子どものせいにはしないのだ。
子どものことでは大人をスケープゴートにする人も多いだろう。
逆に、初対面で出会った人の雰囲気などを見て悪人だと思ったら、その後、その悪人だと思った人が悪いと思うことをしたら、自分が初対面の時に感じたことは正しかった、自分が感じたことが正しいと自信を持つ人もいるだろう。自分が感じたことが正しいと信じているところがあるのだ。

国民が不満を持っていることの一部は政治家のせいであると信じている人がいる。
こういう人は、政治家に不満を持ったり、言ったり、あからさまな攻撃をしたりするが、政治家の方に問題があるとは思っていない人からすれば、なんで政治家のせいにするのか理解できないだろう。
信じていることが真逆だったり、違うことを信じているので同じことに対して同じことを思わないのだ。

あいさつにおいても、あいさつをしたら返すのが正しいとか、あの人が初めにあいさつしてこなければいけないと信じている人は、
根拠なくても自分が正しいと信じこんでいるので、あいさつしてほしいのにあいさつしない方がおかしいと思い、あいさつしない方をスケープゴートに使う人もいるのだ。
日本人のことを謙虚、控えめ、つつましやかなどと言っていて大げさなことを言っているが、あいさつやあいさつ以外で、そうではないところがたくさんある。

 



コメントを投稿