くるみの世界

金でやっていく世の中や、あいさつが正しいとされていることは間違っているということを主張したいです。

脱あいさつ あいさつは正しくない16

2022年10月23日 | 脱あいさつ

目次

第1章から第9章へのリンク
第10章から第12章へのリンク
第13章から第20章へのリンク
第21章から第23章へのリンク
第24章へのリンク
第25章から第28章へのリンク
第29章から第37章へのリンク
第38章から第47章へのリンク
第48章から第52章へのリンク
第53章から第56章へのリンク
第57章から第59章へのリンク
第60章から第67章へのリンク
第68章から第75章へのリンク
第76章から第81章へのリンク
第82章から第86章へのリンク
87.宗教の勧誘お断りは許されても、あいさつ返しお断りは許されない
88.あいさつ信者には、あいさつの押し売りという言葉を知らない人がたくさんいそう
89.出る杭は打たれるのではなくて、気に入らない杭を打っている
90.あいさつとYouTubeなどの広告ブロック
91.あいさつと恋愛も似ているところがある
92.切羽詰まらないとやらない うまくいかなくなった時に考え出したり、変えようとする
93.制限を手放したらうまくいく場合と、うまくいかない場合がある
第94章から第99章へのリンク

87.宗教の勧誘お断りは許されても、あいさつ返しお断りは許されない

 

一般に宗教と言われているキリスト教、イスラム教、エホバの証人、創価学会などの勧誘は断ってもいいし、家のインターホンの近くなどに宗教の勧誘お断りと書かれたものを張っておいたりしても多くの人はおかしいとは思わないだろうが、あいさつ返しをしない人にはおかしいと思う人が多いだろう。

あいさつ返しをしないことは、あいさつ返しを断っているとも言えるわけだが、自分が正しいと信じていたり、絶対に100%あいさつ返されると思っているのに、あいさつ返されないと違和感や不満や疑問を持ったりして、
白眼視してきたり、不満を言ってきたり、嫌がらせしてきたりする人もいるのだ。

あいさつは宗教と言われていないだけで、宗教とも言えるが、
宗教と呼んでいないものの場合は、押し付けてもいい場合と、押し付けてはいけない場合があると多くの人は信じているだろうが、あいさつの場合は、大勢の人が無意識や意識的にあいさつ返しをしろとか、あいさつをしろと、あいさつ信仰を押し付けてもいいと信じているのだろう。

大切ではない人や、どうでもいい人や、嫌いなだけの人などの軽視している人が自分の思い道りの態度を取らずにあいさつしてほしいのに
あいさつしないと不満や疑問を持ち、本人のいない所で不満を言ったり、書いたり、本人の目の前で直接的や、遠回しに不満を言ってきたりして悪態ついてきたり、影で嫌がらせしたり、身体暴力を振るう人もいるのだから、カルト宗教とも言える。
あいさつ返すまで、しつこく執拗にあいさつを初めにしてきたり、初めにあいさつしないことに不満を持ち、本人の前で悪態ついてきたり、
不満を言ったりして異様だが、あいさつ信者は自分が正しいと信じているので、あいさつしてほしいのにあいさつしなかった方が悪いとか、
おかしいと思っているのだろう。これが一般に宗教と言われているキリスト教などだった場合は、宗教の押し売りはダメだと言われるものが、
宗教と言われていなくて、大勢が正しいと信じているあいさつの場合は、あいさつの押し売りを多くの人は許している。
あいさつを初めにしてあげたから、言葉であいさつ返しをしろという押し売りは大勢から許されやすい。
初めにあいさつをされた人は、絶対に言葉であいさつ返しをしなければいけないと信じているあいさつ信者は、みんながあいさつ返しが正しい信仰を持っていると勘違いしていて、間違ったことを信じている。
宗教と言われている所の信者の人が宗教の勧誘をしつこくやったり、誰かがおかしいと思うことをやったら、カルト宗教と言われて、
悪評価されて悪く言われるが、あいさつは宗教とは言われていないし、大勢があいさつを正しいと信じているあいさつ信者なので
あいさつを返せと無言の圧力で自分の信仰を押し付けても、多くの人からおかしいとか変だとか思われないし、カルト宗教とは言われないのだ。
あいさつを返さなかったとか、初めにしなかったということでダメ人間などと言ったり、人として格下の人間であると見下す人もいるのだから異様だ。
あいさつが正しいとか、あいさつを初めにされたら、言葉であいさつ返しをすることが正しいと信じていることが間違いであり、
正しくもない不正なことにあいさつ信者は気づいていない。

あいさつ信者にも軽度のあいさつ信者と、重度のあいさつ信者がいる。
あいさつされたいのにあいさつされなかったことに不満を持つ人や、不満を言ってくる人や、嫌がらせしてきたり、身体暴力振るったり、しつこくあいさつしてくる人は重度のあいさつ信者とか、重症のあいさつ信者とか、重篤あいさつ信者とも言える。

あいさつ非信者や、あいさつ信者でも誰にでもあいさつしてきてほしいとは望んでいなくて、あの人からあいさつされたくはないと思っている人もいるだろう。
「あんたのあいさつ要らない」と思っていても、それを言葉で相手に言っても、絶対あいさつ返されることが正しいと信じている人は白眼視してきたり、見下してきたり、攻撃してくる人もいるだろう。かといって、あいさつを初めにしてきた人に無反応な態度を取っても、
白眼視されたり、バカにされたり、攻撃してくる人もいるのだから
同じだろう。最低限会釈しても、会釈を受け付ける人ならいいが、会釈しても白眼視してくる人はいるし、言葉でオウム返しであいさつしないことに不満を持つ人もいるのだ。
どれをやっても同じだとも言える。大勢がやっていることが安心してあいさつしたり、正しい根拠はなくても、あいさつは正しいから正しいからあいさつを返せと信じて、一部の人にだけあいさつ返しを求めて、あいさつを初めにする人がたくさんいるのだろう。

 

 

88.あいさつ信者には、あいさつの押し売りという言葉を知らない人がたくさんいそう

あいさつの押し売りという言葉がある。あいさつをしろと言っていることを嫌がっている人がいるということだ。
あいさつを初めにしろとか、あいさつを返せということを嫌がっている人がいたり、あいさつを正しいとは信じていない人がいたり、あいさつ返しを正しいとは信じていないあいさつ非信者もいるわけだが、
あいさつ信者の多くはあいさつの押し売りという言葉を知らない人がたくさんいると思う。
もし、あいさつの押し売りという言葉を知っていて、あいさつを嫌がっている人や正しいと思っていない人がいることを知っているのならば、
誰にもあいさつしないか、知らない人や、大切ではない人にはあいさつしなくなる人の方が多くなりそうだが、あいさつ信者は一部の人に対して初めにあいさつしろとか、あいさつ返しを求めて初めにあいさつをしてくるのだから、あいさつを正しいと信じていない人や、知らない人にあいさつしなくてもいいと信じている人のことを知らないところがある無知でバカで鈍いところがあるのだ。

あいさつ信者は、ほとんどの人のことを知らないし、知る気もない人が多いだろうが、勝手にあいさつが正しいとか、あいさつ返しが正しいと信じていて、自分が感じていることに強い自信を持っている自信過剰なところがあるのだ。
自分の気持ちや信仰心は知ってほしいところがあっても、相手のことを知ろうとはしないところがあるのだ。

私が以前、働いていたスーパーで、一か月後ぐらいに私が辞めることになっていた時に、あることで私がそれより早く無理やり辞めようとした時に、店長から言われた不満に「他の人の迷惑になる」というようなことを言われたが、私が辞めることで他の人が代わりにやらないといけなくなるから迷惑で困るという意味だろうが、金でやっていく世の中に加担して商売をしていることでも、金でやっていく世の中でたくさんの人が迷惑して苦しんでいるが、金でやっていく世の中で金がないとやっていけなくて、多くの人が金社会で苦しんでいても、自分達は関係がないと思っている人が多いだろう。
自分達が誰かから迷惑がられたり、嫌がられていることに気づいていない人もいるだろうし、気づいていても、嫌がった方に問題があると思っている場合もあるだろう。

あいさつでも、あいさつを返されないことで、自分の思い道理の態度を取らないことが迷惑だと思っているあいさつ信者もたくさんいるだろうが、
あいさつを初めにしろとか、あいさつ返せという態度を取られて嫌がって迷惑している人もいることに、あいさつ信者の多くは気づいていないくて鈍いところがあるのだ。
もし、あいさつ信者があいさつを嫌がっている人や、あいさつを正しいと信じていない人がいるということを知ったら、ほとんどのあいさつ信者は知らない人や関わる気もない人などにあいさつをやらなくなる人が多いだろう。
例外あれど、あいさつを返させたいからあいさつした相手のことを大切でもなくて、どうでもいいと思っている人に形だけあいさつしている場合が多いだろうから、堂々と関わる気もない人などにあいさつしなくなるだろう。

職場や部活であいさつをしている人は、職場や部活であいさつすることは当たり前で常識だという人もいるだろうが、私が働いていた複数の職場では例外を除いて、ほとんどの人は私にあいさつしてこなかったし、私がいた部活ではあいさつはしている人はいなかったと思う。
人類の中で3万人や50万人ぐらいがやっていることでも、常識や社会のルールなどと言う場合もあるだろうし、数億人や数十億人がやっていることを常識や社会のルールなどという場合もあるだろうし、ごく少数だけが信じていることや、自分だけが信じていることでも常識という場合もあるだろう。同じ言葉を違う意味で使っているのだ。
あいさつを常識と言う人もいるだろうが、みんなが正しいと信じていない。

人間は誰でも自分に都合のいい捉え方をしているところがあるだろうが、
自分が正しいと主張したい時には、一人でも自分と同じことを信じていたり、自分と同じことをやっている人がいると、自分が正しいと根拠もなく信じたり、安心したりする人もたくさんいるだろう。
自分の信じていることを否定してきたり、自分と同じことをしていない人がいることを知っていても、自分が正しいと信じたい人は、正しいという根拠や裏付けがなくても自分が正しいと信じるのだ。

昔、日本のどこかの地域で、その地域に住んでいる男が女の家に行ってセックスをするということをやっていたみたいで、セックスをされたある女の人が警察に通報し、セックスした男の人は逮捕されたみたいだ。
私はYouTubeの動画でこれを知ったのだが、日本のある地域では、相手の同意がないのにセックスすることがまかり通っていたのだろう。
それを誰かが言って、多くの人に広まらないと多くの人に知られることもないだろう。
その逮捕された男の人のことは、多くの人なら女の人が嫌がっていて同意がないのにセックスするのはダメだと思うだろうが、その地域の人の中には逮捕された男の人の方を擁護している人もいたみたいだ。
自分達も今まで同じことをやってきて、おかしいことだとは思っていないのだろう。人は同じ人間ではないので同じことは思わないのだ。

あいさつでは、あいさつ信者は自分達のあいさつ返しが正しい信仰は間違っていなくて、人間としてすべきことだと信じているだろうが、
これは間違いでウソであり、あいさつ返しが正しい根拠などどこにもないが、あいさつ信者の方が多いので、あいさつ返せの信仰はまかり通りやすく、あいさつ信者はあいさつ非信者がいることや、知らない人にあいさつしなくてもいいという信仰の人がいることを知らない人が多いから、
オウム返しのあいさつ返しを求める人がたくさんいるのだ。
あいさつを正しいと信じている人が暴走して、あいさつしろと押し付けていても、みんながあいさつを正しいとは信じていないということを
子どもの時から多くの人は知らずに生きてきて、子どもの時から鈍くて鈍感なところがあるのだ。

言ったことが大勢の人に知られやすいのは新聞、雑誌、テレビのメディアやマスコミと言われているものや、ブログやSNSやYouTubeなどの一部も
大勢から視聴されたり、読まれたりしている人達もいる。でも、ほとんどの人はSNSやYouTubeなどで思っていることを言ったりしても、
誰も見聞しないか、ほとんどの人から見聞されない場合も多いだろう。もし大勢に広まっても、広まるまでに時間がかかるだろう。

ヘミングウェイという作家の人が今スペインで有名な祭りのことを本で取り上げなかったら、スペインのその祭りも有名にはならなっただろうというようなことを書いている人がいた。
誰かが何かの話題を取り上げて、なおかつ、それが大勢の人に知られなければ、知らない人からしたら、ないのと同じことなのだ。
誰かが言っていることを知っても信じる人もいれば、信じない人もいるが、今まで自分が知らなかったことを言っている人がいるということを知ることは出来る。

昔、あなたの知らない世界というテレビ番組があったが、世の中や人間のことは誰でも知らないことだらけだし、多くの人はほとんどのことを知る気もなく興味、関心がないだろうが、誰でも多かれ少なかれ知ったかぶって知っているつもりになっていることはあるだろう。
その一つがあいさつで、多くの人が何で一部の人にだけあいさつしているのかの心理はよく分かっていないだろうし、分かる気もない人もいるのだ。
表面的で機械的なあいさつをしているだけで、相手の心理は分かっていない場合が多いだろう。

 

 

89.出る杭は打たれるのではなくて、気に入らない杭を打っている

 

「出る杭は打たれるなど」と言うが、例外あれど、自分が正しいと信じていることや、自分に都合のいいことや、自分が好きなことしている人に対しては出る杭は打たないのだ。
同じことをしても、好きな人がやるのは許すけど、他の人ならば許さないなどのえこひいき差別をするのだ。
例外あれど、職場や会社などで下の立場の人や、年下や、人として格下に見ている人が思っていることを言ったり、口出しすると不満を持ったり、腹を立てるのに、同じことを自分や年上や、職場で立場が上の人がやったり、
人として上に見ている人がやると許して、出る杭であっても打たないのだ。

出る杭を打つのが日本人ならば、日本人は何もできないということになるし、何もやっていないということになる。
それならば、給料を貰う仕事などできないし、金でやっていく世の中をやっているのもおかしいということになるのだ。
歌手が新曲を出したり、ライブやったりなども出来ないだろう。
好きな人や、役に立っている人や、嫌いであっても大勢から好かれていることや、大勢の役に役に立っているものは許されやすいので、歌手みたいに大勢から好かれていて、役に立っている人が新曲を出しても、それを止めることはしないのだろう。

ブスだと思う人の顔を嫌う人や、体臭やたばこや香水などの何かの匂いを嫌ったり、不満を言ったりする人に、出る杭を打っているとは言わないが、誰かの言動でやってもいいと思うことや、悪いことや不正ではないと思うことをやっている人を否定したり、止めたりなどすると出る杭は打たれるなどと言う人もいるが、悪だとか、不正だと思っていることや、大勢が嫌がっていることを止めたり、否定しても出る杭は打たれるとは言わないだろう。
誰かの信じていることや、やっていることや、やろうとしていることを否定したり、止めたりしている点では同じことなのだ。
出る杭は打たれるという言葉に隠している意味は、例外あれど、気に入らないことを否定したい、止めてやりたい、と思っているのだろう。
例外は、自分は気に入らないけれど、大勢から気に入られて、好かれていたり、役に立っていることの場合は不満を言ったり、止めることで
自分が嫌われたり、大勢から不満を言われることを避けたかったり、自分は嫌だけど、大勢の役に立っているのなら許してやるということだろう。

人間は逆のことを信じているところがあるので、誰かが自分の信じていることをまかり通らすと、同じことを信じていない人は不満を持ったり、相手の決めた決まりを守らなかったりすることになるのだ。
権力者がいい例で、権力者やその権力者を支持する人は、権力者が決めたことに従って合わせてほしいのだが、みんなが同じことを正しいとは信じていないので、権力者の決めたことに従わなかったりするのだ。

権力者を支持する人や権力者は自分の思い道理にしたいのに、それができないから不満を持ち、自分達が正しいのに、なんで自分と同じことを信じていないのか、自分が望むことをやらないのか理解できないところがあるのだ。
こういう人達のことを悪く言う言い方では支配的、独裁的、独裁者、支配者、勝手、我がまま、自己中心的などと言われるだろう。

「人を攻撃する人は自分が先に相手から攻撃されたと思っている」と言っている人がいたが、ほとんどの攻撃はこういう理由だろう。
権力者とかの、いかにも支配的で自分の言うことを聞いてほしいような人は
自分に従わない人に対して「自分の思い道りにしたいのに、なんで言うこと聞かないんだ?理解できない、嫌な気持ちにさせられた」などと思い、気に入らなくて、自分の言うこと聞かない人を攻撃したりする場合もあるのだろう。
本人は先に自分が相手から被害を被って、嫌な思いさせられたなどと思っていたりする場合があるのだ。

日本人は小さい頃から、出る杭は打たれるとか、控えめにとか、出しゃばらないようにという教育をされてきていると言ってる人がいるのは、
自分や自分が尊敬している人など上に見ている人に対して、上に見ている人よりも立場が下だと思っている人が出しゃばらずに、
しゃしゃり出てきたりせずに控えて、上の言うことに合わせて従ってほしいと思っている人もいて、それをしない人には出る杭を打ってやるということだろうが、自分達が正しいと思うことや、やってもいいと思っていることには、出しゃばってもいいし、控えなくてもいいし、出る杭は打たないということだ。
全てのことに対して控えろとか、出しゃばるなという意味では言っていないのだ。

例えば、学校の先生が生徒にスカートを短くするなとか、髪を染めるなと言っていても、多くの人はそれをやってもいいと思っているだろう。信じていることが違うので、同じことに対して同じことを思っていないのだ。

自分の子どもに言うことを聞かせるためや、親が間違っていると思う言動を子どもがやったことに対して、子どもに軽い暴力を振るったり、子どもの言動を否定することに誰かが共感した場合は、「厳しい親御さんで、躾がなっている」と褒めても、別の人なら「あれは親の方が間違っていて、やってもいいことなのに止めているのはおかしい」とか思ったりするだろう。

例外あれど、学校や家などで年下の子供に、親や先生が正しいと信じていることを守らせたり、自分たちに都合のいい言動を取らせようとしていて、
やれと言ったことだけやればいいのだから、自分たちが言っていることを鵜呑みにして信じてほしいと思っているところがあり、それに逆らったり、言うことを聞かなかったりする人には不満を言ったり、身体暴力振るったりするのだろう。

出る杭を打っているのではなくて、気にいらない杭を打っているだけだ。
はっきり言っていないから分かりにくいのだ。
格下に見ている人や嫌いな人がやると止める場合があっても、他の人が同じことをしても止めなかったりするのだ。
羨ましがられたり、妬まれたりしないために止めてくる場合もあるだろう。
何かを持っていたり、そういうことをやっていたら、他の人から羨ましがられたり、妬まれるから、それを持っていることを言ったらダメだとか、
あれをやったと言ったらダメだと言う場合もあるだろう。
人のやっていることを止める理由は同じ理由で止めているわけではない。
あいさつも同じで、あいさつをしてほしいのにあいさつをしないから相手を嫌っていたり、不満を持つ理由が、あいさつを返さないという大勢と同じことをしないから叩いている人もいるだろうが、あいさつを返さないことに不満を言う人の全てがその理由で不満を持っているわけではなく、
大切ではない人やどうでもいい人や嫌いなだけの人などがあいさつしてほしいのにしないから嫌ったりして叩いたりしてきていて、
大勢と同じことをしないで、あいさつを返さないという出る杭だから叩いているわけではなくて、えこひいき差別しているのだ。

 

 

90.あいさつとYouTubeなどの広告ブロック

 

インターネットをやっていると広告が出てくる。この広告に対して思っていることも人によって違うだろう。
写真と文字だけの広告ならよくても、YouTubeを視聴している時に1回や2回以上動画の広告が入ると嫌がったり、うっとうしがったりする人もいるだろう。
嫌がっている人の中には、無料でYouTubeを視聴できるのだから広告は仕方がないと思っている人もいれば、YouTube利用者の誰かが広告を嫌がっているなら広告を出すなと思う人もいるだろうし、動画視聴の時に1回か2回ぐらいの広告ならいいけど、それ以上の広告が視聴中に入るのを嫌がる人もいるだろう。
YouTubeやテレビ番組などは、これらの会社に金を出している会社の金でやっていっているので、金を出している会社の広告を出さないわけにもいかないのだろう。
利用者は自分の都合のいいようにYouTubeなどを利用したいのに、自分が気に入らないことがあると利用者のことを考えていない、
分かっていないと思う人もいるだろう。
パソコンやスマホなどでYouTubeなどの広告が出ないようにするアプリがあり、それを使っている人もいる。
そういうアプリがあることを知らない人もいるだろう。

あいさつも似ていて、みんながあいさつを正しいと信じているわけではなく、あいさつ非信者もいれば、あいさつ信者の中には知らない人にはあいさつしなくてもいいという信仰を持っている人もいて、みんながあいさつや、あいさつを返すことを正しいとは信じていないので、初めにあいさつしてきた人をうっとうしがったり、嫌がっている人がいても、
あいさつ信者の多くはあいさつ非信者がいることを知らないだろう。
YouTubeなどの広告の場合は、広告が出ないようにするアプリがあることを知っていて使っている人は広告なしでYouTubeなどを使って、
わずらわしい、うっとうしい、見たくないと思っている広告を見なくてもいいだろうが、あいさつの場合はそうはいかない。あいさつを返さないと不満を言ってきたり、嫌がらせしてきたり、身体暴力を振るう人もいるのだ。
あいさつを誰にもしないことは簡単にできるが、あいさつを初めにしてきた人にあいさつ返さないと、何されるか分からない恐怖がある人もいるだろうし、不満を言われたり、嫌われるのも面倒だったり、嫌だから、あいさつ非信者は嫌でもあいさつする人の方が多いだろう。

YouTubeの広告に対して誰かが「なんども同じ広告を閲覧していると、
広告された商品とYouTuberに対して良くない印象を持つことも多いかもしれません」と書いている人がいたが、みんなが広告の商品やYouTuberに対して悪い印象を持つわけではないだろうが、あいさつでもあいさつ返さなかった人や、初めにあいさつしなかった人に不満を持ったり、嫌う人がいるわけだが、みんなが不満を持つわけでもなければ嫌うわけではない。同じことに対して同じことを思っていないのだ。
YouTubeなどの広告に対して、うざい、有害、迷惑と言う人がいたり、嫌がっている人がいても、多くの人はその広告を出している会社に常識なってない、非常識とか、ダメ人間とは言わないだろうが、あいさつも広告も初めに誰かに働きかけている点では同じだが、あいさつの場合はあいさつ信者が多いので、あいさつを返さない人をおかしいとか、非常識、常識なっていない、ダメ人間などと見下したり、嫌ったりするあいさつ信者もいるわけだ。
あいさつ信者の中には、人や物事を自分の言いなりにさせたいことをコミニケーションや社会のルールなどと言い、自分が勝手に信じこんでいる
あいさつ信仰を正当化させて、同じことを信じていない人を見下したり嫌うが、自分が間違った信仰を持っているとは思わないのだ。

 

91.あいさつと恋愛も似ているところがある

 

恋愛という言葉の定義、意味付けは人によって違うが、
多くの人の恋愛の定義は性的両思いだったり、性的両思いでセックスをしたり、性的両思いでセックス以外のことでも一緒に行動している人達のことを
恋愛と定義づけている人が多いと思う。
誰かの外見や言動などを見て性的に好きになった理由について、なんであの人に性的好意を持ったのかを聞かれても、
性的好意を持った人自体が何で性的好意を持ったのか分かっていないだろう。

男が美人やかわいいと思う顔の人に性的好意を持った時に、
性的に好きになった理由を、あの子がかわいいから好きになったという男もいるだろうが、なんで顔がかわいいから性的に好きになったのかの理由は分からないはずだし、なんでその人の顔をかわいいという言葉で言い表したのかも自分では分からないだろう。

誰かからこういう顔をかわいいとう言葉で言い表せなどと言われなくても、勝手にある顔を見てかわいいという言葉でいい表すのだ。
あいさつもそれと同じで、多くの人はあいさつを初めにしたら、みんながオウム返しであいさつを返してくると信じている人がたくさんいるだろうが、
なんであいさつを初めにしたら、あいさつされた人が全員オウム返しであいさつをすると勝手に信じ込んでいるのかは自分でも分からないだろうし、
なんで一部の人にだけあいさつをしてほしいのかの理由も自分では分かっていない人もいるだろう。

一人の人にだけ初めにあいさつさせたがっていたり、ごく少数の人にだけ初めにあいさつをさせたがっている人がいるが、なんで一人だけとか、一部の人にだけ初めにあいさつをさせたいのかを、初めにあいさつさせたがっている人に聞いても自分でも理由は分からない人もいるだろう。
自分でも理由が分かっていない点では、あいさつも恋や恋愛と同じなのだ。
恋愛やあいさつだけではなくて他のことでも同じことだ。
色んなことに不満を持っていても、なんで不満を持ったのかの理由を自分では分かっていない場合が多々あるだろう。

 

 

92.切羽詰まらないとやらない うまくいかなくなった時に考え出したり、変えようとする

 

私は母親の実家の2階建ての家に住んでいて、台所のシンクから流した水などは外の汚水桝(おすいます)に流れる。
家の裏の土の所に数か所マンホールの小さい蓋があったのは知っていたが、中を見たことはなかったのだが、数個あるマンホールのうちの一つを開けたことがある。
開けた理由はそのマンホールから水が溢れ出していたからだ。
マンホールのふたを開けたら、汚水桝の中に白いものがたくさんあった。
ネットで調べているとこの白いのは油の塊で、オイルボールとも呼ばれているらしい。
白いものは固くて、匂いも臭かった。それを取って燃えるゴミに捨てた。

その後、何回か汚水桝の白い物を取った。ある日、台所のシンクの排水の所から水が流れずにシンクに水が溢れてきたことがあった。その水が溢れる前から台所の水の流れが遅くなっていることに私は気づいていたが、
水が流れないわけでもないし、流れが遅くなっても流れているので汚水桝が詰まり気味なのだなと思ったけど、汚水桝を掃除しには行かなくて、シンクに水が溢れてきた時に汚水桝を掃除しに行った。
他の人も、こういう風に切羽詰まった時ではないと対処しないこともたくさんあるだろう。

その後、2021年の5月ぐらいの時に台所の水を流すとゴボゴボという音が突然しだした。
お皿などの洗い物はほとんど私がやるのだが、台所のシンクで洗い物などして水を流すとゴボゴボという
音が何回もして、水の流れが遅くなったので、また汚水桝に白い汚れが溜まっているのだろうと思って汚水桝を掃除しに行ったら
白い塊があり、それを取り出した後に、またシンクで水を流しても、まだゴボゴボという音が鳴るので、汚水桝の問題ではないと思った。
その後、ネットで調べているとシンクしたの蛇腹ホースにつまりがある場合があるらしく、排水溝のつまりを取る洗剤を数回使ったが、ゴボゴボ音はなくならなかったので、蛇腹ホースを取ってホースの内部を見たら、ホースの内側にネチャッとしたものが付いていてホース内部が狭くなっていた。
割りばしの先に使い古しの歯ブラシをテープで巻いて付けてネチャッとしたものを取り、その後、水を流したらゴボゴボという音はしなくなった。

私と同じように、シンクの水の流れが悪くなると、つまりを取る洗剤を使っても効果がない人が業者の人に高圧洗浄などをして、
排水溝のつまりを取ってもらう人もいるようだ。排水溝のつまりがひどくない時には排水溝のつまりを取る洗剤も効果はあっても全てのつまりに効果があるわけではないのだろう。台所の油汚れに重曹やセスキ炭酸ソーダが効果があっても、頑固な油汚れには効き目などないのと同じだろう。

自分がやろうとしていることがうまくいかなかったり、いつも同じようにできていることがいつも道りにできなくなった時に、
上手くいかなくなった原因を調べたり、うまくいくように対処しようとしたりするのが人間だろうが、好きなことや、快楽で自分が気持ちよくなることには積極的に変化を起こす人は多くても、どうでもいいことや対処するのが面倒だと思うことなどには、切羽詰まった時に変化を起こそうとする人の方が多いだろう。好きでもないことに対処するのも嫌だけど、対処しないといつも道りに出来ないことなどは、排水溝や汚水桝のつまりなどのように、水の流れが悪くなったり、完全に水が流れなくなった時など、何かがおかしくなっているとか、これからもっとおかしくなりそうだと思った時に切羽詰まった時に対処して変化を起こそうとする。
あいさつでも長年、自分がごく一部の人にあいさつしてきたことを否定されたり、止められたことがない人の方が多いだろうし、
初めにあいさつをしたら、言葉であいさつ返しをされて、無反応や会釈をされた人などほとんどいないくて、初めにあいさつされたら、言葉であいさつ返すことが正しいと信じていることに疑問を持つこともなく、
あいさつを自分にした人の本当の心理について考えることもなく生きてきても、自分の思い道りにならずに、初めにあいさつしたのに、あいさつ返させたい人が無反応だったり、会釈をした時に違和感を感じ、疑問や不満を持ち、相手の心理について考えだしたりするのだ。
嫌いだからあいさつ返さなかったんだと思い、不満を持ったりして、相手の気持ちや信仰心が分かっていなくても、自分が感じたことが正しいと信じたりする。

上手く言っている時には、それが間違っているとは思いにくく、うまくいかなくなった時に、うまくいかない原因について考えだす。
あいさつ信者の中にはあいさつのことで、自分の信仰道りにあいさつを返されても自分が正しいと信じ、あいさつをオウム返しで返されなくて自分の思い道りにならなかった時にも自分に問題はなく、相手がおかしい、間違っていると思い、根拠のない自信を持っているところがあるのだ。

 

 

 

93.制限を手放したらうまくいく場合と、うまくいかない場合がある

「制限を手放せばうまくいく」というようなことを言っている人がいたのだが、他人が信じている決まり(ルール)は言い方を変えれば、決まりという制限だ。
例えば、「値段がついているものに金を払え」とか、
「あいさつをされたら、あいさつ返しをしなければいけない」
「ほとんどの人は給料や印税という形で金を貰うようなことをしなければいけない」と信じている人は自分が正しいと信じていることをしない人に不満を持ったり、嫌がらせをしたり、刑法違反なら逮捕してくるのだ。

みんな、ほとんどの決まりを守っているわけがないが、一部の決まりは守り、自分が守っている決まりを色んな理由から他の人にも押し付けてくる場合がある。
人に対して、自分が正しいと思っている決まりという制限を絶対に守れせたがるところがあったり、自分が守らなくてもいいと許している決まりという制限を守らないことは許すのだ。
「私が守らなくていいと信じていることは守らなくてもいいよ。私が正しいんだよ」と思っていたり、言いたいのだろうが、それを別の言い方で、常識、社会のルール、当たり前、マナー、モラルなどという言葉で言うのだろう。

「制限を手放せ」と言っている人が本を書いて売っているのだが、この本を書いている人は、本に金を払ってもらえなかったら、生活費など色んなことに金を払えなくなるから金は払ってもらわないとやっていけないだろうから、値段ついているものに金を払わなければいけないという制限の決まりには従ってほしいだろうけど。
制限を手放したらうまくいかない場合もあるということだ。

あいさつのことでも、あいさつをしないことは簡単だが、あいさつ信者が「あいさつを初めにされたらオウム返しで返せ」とか
「オウム返しで返さなくても、最低限会釈をしなければいけない」とか「あの子は自分や私の家族に初めにあいさつをしなければいけない」という
正しくもない決まりという制限を勝手に作ったり、信じていて、他人を自分の言いなりにさせようとしている。
あいさつ信者の人が正しいと信じているあいさつ信仰という制限に合わせて従ってあげないと、嫌がらせされたり、身体暴力をやられたり、あいさつ返すまでしつこくあいさつしてきたり、本人のいる近くで不満を言ってきたり、悪態ついてきたり、攻撃してくる場合もあるのだから、そういう面では簡単ではないとも言える。

制限を手放せばうまくいく場合もあるだろうが、自分が正しいと信じていなくて、他の人が正しいと信じている決まりという制限に合わせて従わないと、攻撃されたり、逮捕されたりなどする場合もあるのだから、制限を手放してもうまくいかない場合もあるだろう。
あいさつ非信者や、あいさつ信者であっても知らない人にあいさつしなくてもいいと信じている人が誰かがあいさつしてきてあいさつ返さないと、自分が正しいと信じているあいさつ信者から、どんな態度を取られて何をされるか分からないから、相手に合わせてあげて、あいさつを返す人の方が多いだろうけど。
あいさつ返されたあいさつ信者は、自分の信じているあいさつ返しが正しい信仰は間違っていないんだと自信を深め、
あいさつ返した人の心理、精神を分かっていなくても、分かっていると勘違いして生きているのだろう。



 



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