目次
第1章から第9章へのリンク
第10章から第12章へのリンク
第13章から第20章へのリンク
第21章から第23章へのリンク
第24章へのリンク
25.同じ人間ではないので同じことを信じていない
26.私が小学生時の時にやった嫌がらせについて人が思うことは同じことを思わないだろう
27.例外あれど、嫌がらせを辞めさせる方法
28.いじめという言葉の定義、意味付けとあいさつ
第29章から第37章へのリンク
第38章から第47章へのリンク
第48章から第52章へのリンク
第53章から第56章へのリンク
第57章から第59章へのリンク
第60章から第67章へのリンク
第68章から第75章へのリンク
第76章から第81章へのリンク
第82章から第86章へのリンク
第87章から第93章へのリンク
第94章から第99章へのリンク
25.同じ人間ではないので同じことを信じていない
「礼や礼儀が大事です」と思ったり言ったりしている人もいるが、言葉は人によって定義、意味付けが違うのだ。
例えば、あいさつをしたらあいさつ返したり、近所や職場の人にはあいさつをしなければいけないと勝手に信じている人が
たくさんいるだろうが、この信じていることを礼や礼儀と言った場合、
「あいさつしてほしいのにあいさつしなかったからあの人は礼がなっていない」と不満を持ち、相手が間違っていると思う人がいるだろうが、
それならば、あいさつしなかった人の信じていることには合わせなかったり、相手が何を信じているのかを知らなければ、知る気もなかったりする人もいるのだ。
「あいさつしてほしいのにあいさつしなかったから、あの人は礼がなっていない」と思っていることを具体的に言えば、
「自分が正しいのに自分の思い道りの態度や言動を取らなかったことが気に入らない」とか「あいさつしてほしいのにしなかったのが好きな人や子どもなら許す」という決まり(ルール)を勝手に信じている人は
差別、えこひいきしているのだ。
「自分を好きではないから人のことも好きではない」とか
「相手に敬意があるのは自分にも敬意がある」など言っている人がいるがおかしい言い分だ。
例えば、逮捕された人を警察が逮捕して牢屋に入れたり、逮捕することを警察以外の人も正しいと信じている人がいるのは、
逮捕されるようなことをした人を人として間違っていることをしていると思ったり、見下して格下に見ていたり、バカにしていたり、
そもそも悪い意味で人間扱いしていなくて、人間以下や人間の底辺として下に見ているから逮捕したり、逮捕することを許したりしているだろうに、自分を好きではなかったり、自分を敬っていないから
人のことを見下したり、嫌ったかのように間違ったことを言うのだろう。
同じ刑法違反してるのに、子どもや自分や仲間などがやれば許したりして、逮捕させるために警察を呼ばなかったりするのに、
他の人が同じことをしたら逮捕していることを差別やえこひいきや偏見だと言わない人もいるだろう。
多くの人は自分の外見や言動で好きではないところがあっても、我が身は可愛いだろうに、自分を好きではないから、人のことも好きではないと言うのは間違っている。
ほとんどの人やほとんどの生物を好きではなくても、一部の人や、人以外の生物を好きなところがあるだろうに、
誰かを好きではない理由を自分を好きではないからというのはおかしいのだ。
美人やかわいい子を好きな人が多い理由を自分を好きだからとはほとんどの人は思わないだろう。
人を泥棒と言うのは自分のことも泥棒だと思っていると思う人はほとんどいないだろう。人間は自分が思いたいようにしか思わない。
あいさつでも同じで、あいさつに対する信仰は人によって違い、知らない人にあいさつしなくてもいいという信仰を持っている人もいれば、
あいさつ非信者もいるのだ。
自分にあいさつ返さないのが子どもや両思いの人や家族、親戚なら許すのに、それ以外の人ならば許さずに嫌うのを、
自分を嫌いなところがあるからあいさつ返さない一部の人を嫌ったとでも言いたいのだろうか?違うだろう。
ただの差別、えこひいきをしているだけだ。
同じことをしても、仲間や好きな人ならば喜んだり、褒めても、他の人が同じことをしても喜ばなかったりするのは、
人を同じ人間だと思っていないし、同じ関係性だとは思っていないからだ。
白人だから許すけど黒人だったら許さないと白人が言えば悪く言われやすいが、白人の一部が黒人を見下していたり、嫌っていることを、白人が自分のことを好きではないから黒人を嫌ったと思う人はほとんどいないだろうけど。
「人の言い分を聞かないのは自分に自信がないから」と言っている人がいるが、人の言うことを聞かない理由のほとんどは、そういう理由ではないだろう。
逆に自分の感じたことに根拠もない自信を持っているから、自分が正しいと信じている言動を取らない人に不満を持ち、相手の言い分を聞き入れずに、
否定してきたり、死んでほしがったりする。
日本人が宗教と言われているもののほとんどを信じないのも、宗教と言われているものをよく知らなくても正しいことではないと思ったり、宗教の教義の一部を知っても、それを正しいとは信じていなくて、自分が感じたことに自信を持っているから宗教と言われているものを信じないのだろう。
自分に自信があるかないかと、どちらかに分けたがっている人がいるが、自分の感じていることや、やっていることに自信があるところと、
自信がないところの両方があるだろう。
あいさつを正しいと信じている多くのあいさつ信者が、正しい根拠がなくてもあいさつを初めにされたら、言葉であいさつ返しをすることが正しいことで、しなければいけないと勝手に信じているのは、自分に自信がないのではなくて、あいさつ返しは正しいと根拠なく信じていて自分に自信があるのだ。
自分が感じたことに根拠もない自信を持っているところがたくさんあるだろうに、自分の感じたことや、やっていることに自信がないところだけ持ち出して、自分に自信がないなどと言う人もいるのだ。大勢がやっているから安心してやっているところがあり、自分はそれをやってもいいと自信を持っている。
年金、税金払わなかったり、値段ついてるものに金を払わなかったりした人を、見下したり、悪者扱いしたりしてるのも、
根拠のない自信もっているところがあり、金でやっていく世の中が正しいとか、逮捕は正しいと勝手に信じているから、刑法を利用して逮捕することや、税金Gメンの差し押さえを許している人がたくさんいる。
日本人は親に否定されてきて自分に自信がないと言っている人がいるが、それを間違いのウソだ。
日本人は根拠もないのに自分の感じていることに自信を持っているところがあり、自分の信じていること、感じていることと同じことをしない人を
見下したり、攻撃したり、逮捕したり、自分の言いなりにさせようとするところがある。
星座占いや西洋占星術でしし座という星座の性格は人の言うことを聞かないと言っている人がいる。
団塊の世代ぐらいの人はしし座という星座に冥王星がある時に生まれた世代の人達なのだが、西洋占星術をやっているある人が「団塊の世代の人は人の話を聞いてない」という感じのことを言っていた。
ネットで読んだのだが、同じようなことを駅員の人も言っていて、
「団塊の世代は人の言うことを聞かない。なんで人の言うことを聞かないのだろうか?」という感じのことを言っていた。
「人の話を聞かない」という言葉を同じ意味では使っていないだろうが、
この言葉の意味を人の話は聞くけれど、その言い分が自分と同じことを信じていない場合や、自分に都合の悪いことは採用はせず、
自分の信じていることや、自分のやりたいことの方をまかり通らすという意味で使っているのか、人が喋っている話自体を聞いていないという意味なのか、何かをやれと言った人の前では言うこと聞いてる演技をして、本人がいない所では言われたことをやっていないという意味なのか、
どういう意味で「人の話を聞かない」と言っているのか?
人の言うことを聞かないと言う意味をここでは、人が決めた決まりを守らないところがあったり、人に言われたことに言うことを聞かないところがあることを人の言うことを聞かないと言うとすれば、
人の言うことを聞かない所など、大体誰にでもあるだろうが、
しし座に星がない人でも人の言うことを聞かないところはあるだろう。
私はしし座に星はないが、人が決めた決まり(ルール)に従わないところはあるし、他の人も同じだろう。
でも例外で「言うこと聞かないと殺すぞ」とか「いうこと聞かないと暴力振るうぞ」「言うこと聞かないと逮捕するぞ」
「言うこと聞かないと税金メンが差し押さえするぞ」「言うこと聞かないと罰金取るぞ」などとと言われたら、そんなことされたくないから、表向きは嫌々、相手の言い分を聞き入れる人もたくさんいるだろう。
だから、本当は払いたくないのに年金や税金や値段がついているものに金を払う人が多いのだろうけど。
私の母方のおばあちゃんはしし座に4つの星があるのだが、
このおばあちゃんのことを私の母親が同年代の近所の人に「言うこと聞かない」というようなこと言ったら「人の言うこと聞いてたら長生きできない」という感じのことを言ったらしい。
誰かは私のおばあちゃんが人の言うことを聞かない理由をしし座だからという理由をつけるのだろうが、しし座に星がなくても人の言うことを聞かない所はあるから、人の言うこと聞かない理由にはならない。
人間は自分が信じたいものしか信じない。自分が思いたいようにしか思わないのだ。
自分の思い道りの言動取ったり、自分が正しいと信じている言動や見た目の人に好印象を持って、高評価して、その人の親のことまで褒めて「躾がなっている」などと良く言い、気に入らない言動や見た目の人には「躾がなっていない」などと言って、本人や本人の親のことも悪く言ったりして悪評価する。
あの人が自分が正しいと思うことをしなかったり、自分の望む言動を取らない理由は、親が教えていないからなどと決めつけて信じている人がいる。
つまり、自分が正しいと信じ込んでいるので、自分と同じことを信じていない人を問題視して、自分が正しいと思う言動を取らない人に不満を持ち、
変えてやりたいと思っているのだろう。
自分が正しいと信じていないことを信じている人をバカにしたり、下に見たりして不満を持つと、その人のことを「頑固、意固地、勝手、自分勝手、わがまま、親に甘やかされたから、自己中心的、エゴ、」などと言い悪評価したりするが、自分と同じことを信じている人や、自分と同じことをしている人は高評価されやすく、「いい人、常識がなっている、躾がなっている、人格者、性格いい、普通の感覚持っている人」などと言われて褒められる。
自分がやっていることや感じていることのすべてが正しいと信じていなくても、自分が感じていることや、やっていることのほとんどが正しいと信じている人はたくさんいるのだろうけど。
「空気読め」など言っている人たちがいるが、はっきり具体的に言わずに空気という言葉を使い、自分達が言いたいことをはっきり言わなくても分かってくれて当たり前だとでも思っていそうだ。
空気読めという意味は大勢と同じことをすることが例外除いて正しいのだから、大勢と同じことをしろという意味で使ってたり、
両思いではない人や、上の立場の人には合わせて従えとでも言いたいのだろう。大勢や相手に合わせろと思っている人が自分はほとんどの人に合わせないのだ。
「空気を読んでも従わない」と言ってる人がいるが、その意味は、人の言っている話は聞いても、自分が同じことを信じていなかったり、やりたくなかったら、相手の言い分は採用せずに自分の思い道理にしたらよく、従わなくてもいいとでも言いたそうだが、それをした場合に、逮捕されたり、裁判起こされたり、罰金取られたり、暴力を振るわれたり、見下されたりする場合もある。
物事というのは、都合のいいところを持ち出して、高評価して良く言うことが多いだろうし、それをやったのが多数派だったらなおのこと良く言って高評価するだろう。
ネットで他人の書いていることを読んでいると、今後は魂の時代だとか、自分の魂に従うようになるなどと言ってる人もいるが、
自分の望んでいる通りにやりたいようにやれと言っている人が、「でも警察に捕まるようなことはするな」という感じのことを言っていて矛盾したことを言っている。
自分のやりたいようにやってもいいけど、でもやりたいようにやったらダメなところがあるとも言っている。
ほとんどの人もこういうこと思っているのだろうけど。
以前、同じ家に住んでいる叔父に、私の母が犬の調子が悪いから動物病院に連れて行けるかと聞いたら、なんで今言うのかという感じのこと言っていたと思う。
その後、叔父が「物事よう考えなおえんで」と言い、母が「分かってる」と言ったら、叔父が「分かっとらへんわ、分かってたらそんなこと言えない」や「犬のことより、人間のことの方が大事なんだ」というような感じのことを言っていた。
以前、叔父が「犬は畜生」という感じのこと言っていたから、
人間より犬は下だと信じているんだろう。叔父はたまに囲碁とかで出かけてたりするから、その日も囲碁かなにかで出かけようとしていたのに、
突然、犬を病院に連れて行けるかと言われて不満を持ったのだろう。
他に用事があって、それを優先させたいなら断ることも出来るのに、断りはしないけど不満を言っている。
自分が予定していたことがあるのに「犬のことより、人間のことの方が大事なんだ」と思っているのに、下に見ている犬を優先させて病院に連れていくことに不満を言いながら、病院に連れて行った。
犬を下に見ていて、嫌々であっても、誰かなら病院に連れて行ったのは優しいとか言ってよく言うのだろう。
他の人にもこういう人はたくさんいるだろう。他人の決めた決まりを守らなくてもいいのに、色んな理由で一部の決まりを守り、
同じことをしない人に不満を持ったり、見下したり、バカにしたりする。
親が自分の子どものことよりも自分のことを優先させたいと思っている場合もあるだろうが、子どもの面倒を見ることなどに不満を持ったり、言ったりしながら嫌々、子どもの面倒を見ている場合もある。
あいさつ信者について「犬のことより、人間のことの方が大事なんだ」という言い方に似せた言い方をするならば、
「他人のことよりも、自分のことの方が大事」
「相手のことよりも、自分のことの方が大事」という感じだ。
相手の信仰心よりも自分の信仰心の方が大事で大切だと思っているあいさつ信者の方が多そうなので、自分があいさつしてほしいと望んでいる人にあいさつしてほしいのに、自分の信仰や欲求をまかり通らせたいのに、
あいさつされなくて気に入らない、相手が自分のことをよく考えていないから許せないなどと思っている感じだな。
別のことで言えば「例外あれど、少数派より多数派が大事で大切、だから少数派は多数派に合わせろ」「権力者以外より、権力者の信仰や判断が大事だから、権力者の決めたことに従って合わせろ」
「人の心や他人の信仰より、自分が信じている決まり(ルール)の方が大事で大切だから自分が信じている決まりを守れ」という感じだ。
これをはっきり具体的に言わずに、「常識、マナー、モラル、社会のルール、人間のルール」などという短い言葉で言い表しているんだろうけど。
日本人はあまり人のことを分かっていないと思うが、花の育て方について書いてた人が、根腐れしたりするようなことになるのは、
土が乾いていないうちに水をやっているから根腐れするという感じのこと書いていたと思う。
要は、その植物のことを全く知らないか、よく知らないのに水は毎日やらなければいけないと勝手に信じて、水をやるからその植物がダメになるのだ。
人間や犬猫でも同じで、人や犬猫は毎日食べないと栄養が取れないから、毎日食べなければいけないと信じ込んでいる人もいる。
誰かが日本人の多くは食べすぎだと言っているが、毎日食べないといけないと信じている人もいる。
「食べているから栄養は取れている」という人がいるが、そうでもないようで、食べ物を食べていても栄養を吸収できてない場合もあるみたいだが、
食べてるから栄養を取れていると信じてる人もいるのだろう。
相手にとって良くないことをやっていても、良かれと思ってやったとか、人のためだったと言うと、それを良く思う人はたくさんいるだろうから許されやすいし、いい人、やさしい、思いやりなどと言って褒められたりしやすいだろう。
正しくもないことを正しいと信じて、大勢と同じことを信じている人や、やっている人が人間として正しいとされるところがあり、大勢と同じことをしない人に大勢と同じことをさせようとしているところがある人もたくさんいる。
大勢と同じことをしない人を「ズレてる」などと言う人がいるが、誰でもズレてといるとも言えるのだ。
大勢が信じていることや、やっていることを正しいと信じて、それが正しくなくて間違っていても正しいと信じているなら、
「正しいことからズレている」とも言える。
金でやっていく世の中、社会が正しくもないことを大勢の人が正しいと信じている、正しいことからズレている金でやっていく世の中、社会であり、
法律も金を払わない人を差し押さえや逮捕などをする決まりを作っていて、法はズレてる法であり、それ以外でも正しいことでもない決まりをたくさん作っていて、ズレてるルール(決まり)だ。
26.私が小学生時の時にやった嫌がらせについて人が思うことは同じことを思わないだろう
私が大阪の小学校に行っていた小学3年生の時に、同級生の田中という女の上履きの靴を隠したことがある。
この人との関係性は同じマンションに住んでいて、3年の時はクラスも同じで、一緒に連るんでいる時もあったり、
一緒に学校に行っている時もあったり、この人の家に遊びに行ったこともあるような関係だった。
この人に対して私は嫌いなところがあり、この人に嫌な思いをさせようとしてやったわけではないが、小学3年生のある日、学校の私たちのクラスの廊下にある靴箱にある田中の上履きの靴を学校の階段の踊り場の壁と
壁の間の所にいれて隠したことがある。
私がやったこの行動をみんなが同じ言葉で言い表さないだろう。
嫌がらせという言葉の定義は人によって違い、同じ人がその時々でこの言葉を違う意味で使ったりもするだろう。
人を嫌な思いをさせようとしてやった場合も嫌がらせという言葉で言い表す場合と、私の場合の様に相手に嫌な思いをさせようとしてやっていなくても嫌がらせという言葉で言い表す人もいるだろう。
私のやった行動をいじめという言葉で言い表す人もいるだろう。
相手に嫌な思いをさせようとしていないのならば、嫌がらせと言わない人もいるだろう。
どちらかを被害者か加害者に分けたがる人もたくさんいるだろう。
加害者という言葉で言い表されている人が嫌がることはやってもいいけど、被害者と言われている人が嫌がることはやってはいけないと思っている人もいるだろう。
誰かが嫌がることをしていることを相手を嫌な思いにさせようと思ってやっていようと、そうではなかろうと、いじめや嫌がらせという言葉で呼ぶと定義づけるならば、誰でもいじめっ子であり、誰でもいじめられっ子だということになる。
誰でもいじめをしているということになる。でも、ほとんどの人はこういう定義、意味づけで、いじめという言葉を使ってはいないだろう。
動物を食べることをひどいと思っていて嫌がっている人や、人間は動物を食べるようにはできていないと言っている人がいる。
動物を食べることに対して、人としてやってはいけない不正をやっていると思っている人や、嫌がっている人のことを被害者とはほとんどの人は呼ばないだろう。
動物を食べている人の多くは、それを間違っているとか不正だとか、ひどいとは思っていないだろうし、多くの肉食者は自分たちが
多くの人は、動物を食べることを、食べられるために殺された動物に対してや、動物を食べることを嫌がっている人に対する加害行為をしているとか、
加害者という言葉で言い表わすこともないだろうし、自分達を加害者とは呼ばないだろうし、食べるために殺されている動物を被害者や、いじめられているとも言わないだろう。
でも善人だと思う人にボロクソな言動を取ったりすれば、その言動をいじめや嫌がらせと言う場合もあったり、刑法違反なら犯罪などと言う場合があるだろう。
いじめや加害行為や加害者や被害者という言葉を同じ意味では使っていないのだ。
田中の上履きの靴を隠した後の同じ3年生の時のある日、図書室で本を読む授業の時に、私は下履きの靴を履いて図書室に行き、図書室の靴箱に私の下履きの靴を入れて図書室の中に入った。
授業が終わり靴を履こうと思ったら、私の靴がなかった。
靴がなかったので、そのまま図書室の外の所にいたら、次に図書室を使うのが4年生で、そのクラスの先生が私に話しかけてきて、自分の靴がないということを言ったと思う。
その後、分かったのが、そのクラスの4年生の男が私の靴を隠していたみたいだ。
私がいたクラスは担任の女の先生と生徒が、それぞれ交換日記をしていた。
私は靴のことは書いていなかったが、先生の方が靴のことを話題に出していた。
先生が書いていたことは一字一句覚えていないが、私の方を悪く言うようなことは書いていなかった。
私の靴が隠される前に、私が他の人の靴を隠しているのを知っていたら先生も違うことを思っただろう。
私が靴を隠したことを知らなくて、私の靴が隠されたことを知った人が、
靴を隠された方の私に原因や問題があると思う人もいるだろう。
私の靴が隠された話だけを聞けば、多くの人は隠した方の4年生の人に問題があり、悪いと思うだろう。
私が同級生の靴を隠した後に、私の靴が隠されていることを知ったら、
多くの人は私を問題視して悪く思うだろうが、私から靴を隠された方にも問題があると思う人もいるだろう。
何もしていなかったら何もされないと言ったりする人がいるが、
自分がいい気持ちになることでも、嫌な気持ちになることでも、自分に原因や問題があると信じている人は、他人のせいにしているのはおかしいと思うだろうが、多くの人は自分が悪人だと思う人が誰かからボロクソな言動を取られたら、やられた本人に問題や原因があるとして、
やられた方を諸悪の根源だと思い、悪人だと思う人がやった悪いと思う行為をやられた人には問題や原因はないと思うだろう。
私の靴の場合、私を諸悪の根源に仕立てたい人は私を問題視して、初めに靴を隠したから、後から靴を隠されたと思い、
何かをやられているのはやられた方に問題があると思うだろう。やられた方にも、やった方にも問題があると思いたい人は、
田中の方にも問題があると思うだろう。
例えば、前世から私たちが仲が悪くて、前世で田中がやったことが原因で私が靴を隠すという結果をやったという感じだ。
前世についても信じている人と信じていない人がいるし、因果応報も信じている人と信じていない人がいる。
因果応報を信じている人でも自分に都合にいい捉え方をしているだけだろう。
子どもを悪く言いたくない人は大人に問題があると思ったり、大人の心を吸ったなどと思う人もいるだろう。
誰かの信仰には、人の言動で嫌な思いをすると、例外あれど嫌がられた人の方に問題や原因があるとか、諸悪の根源だと思い、
嫌がった人が100%被害者で問題がなくて、嫌がられた方に100%の問題があると思う人もいる。
逮捕されている人の方が100%問題があり、逮捕された人からやられたことで被害者と言われている人には問題がないと信じている人もいる。
私が靴を隠したことについても、私のことについて全くか、ほとんど知らない人の多くは田中の方には問題がなくて、私の方に問題があると思う人が多いと思う。
なんにせよ、ごく一部分だけを知り、人や物事を分かったように決めつけているのが人間と言われている生物だ。
私が岡山から幼稚園前ぐらいに大阪に引っ越してきた後、幼稚園のフジ組の時にキティーちゃんの絵が描いてあった私の体操服だか、何かが入っていたものを同級生に隠されたり、同級生の女に片腕を雑巾を絞るみたいに絞られたりとかしていたのだが、
それをやっていた女がフジ組の前のクラスの時、私が他の女をいじめていたから、こういうことをやっているというようなことを言っていたような気がする。
その女がいじめという言葉を使ったかどうかははっきり覚えていない。
日本人がある戦争をやったのはアジアの人が白人に支配されていて、それを救うためにやったというような感じのことを言っていた人がいたり、
侵略戦争はダメだけど、防衛戦争はやってもいいと言っている人がいるのと同じようなものだろう。
自分達が誰かを攻撃する理由は、攻撃する前に攻撃される相手が、自分か自分がいい人だと思う人にひどいことをやったから攻撃したのだと思っている人もたくさんいるだろう。
誰かから言葉や身体暴力や戦争で攻撃されているのは、攻撃された方に問題や原因があって、攻撃した方は正義でやったから、おかしくないし、
間違ったことはしていないと思っている人もいるだろう。
誰かが「人を攻撃する人は自分が先に攻撃されたと思っている」と短く簡潔に言い表している人がいたが、例外あれど、誰かを攻撃する人は自分には問題や原因がなくて、攻撃された方に問題や原因があると信じている場合が多いと思う。
攻撃している理由について、攻撃している相手に一切説明しないか、片言や遠まわしな言い方をして説明しても詳しいことは言わない人もいるだろう。
人間には自分が何を正しいと信じているのかとか、何を間違っていると信じているのかについて全く言葉で言わないか、ほとんど言わない人が多いと思う。
親が自分の子どもが言うことを聞かない時などに身体暴力をやった時に「お母さん言うこと聞かないから叩いたんだぞ」というような感じのことを言う人もいるみたいだが、これも同じようなものだ。叩かれて身体暴力をやられた方に問題や原因があり、間違っていて、自分の方が正しい正義だと思っているのだ。
私が岡山の母親の実家に引っ越してきた20代後半の時の2010年よりは前の時のことだったと思うが、私の姉が自分が作った布小物やアクセサリーをどこかに売りに行こうとしていて、岡山県の美観地区の店舗以外の所で物を売っている人がいて、そこで売ってもいいのかということを私か私の兄弟が言ったのか忘れたが、母方の叔母に言ったら、叔母が美観地区で売っていいのか警察に聞いたら、売っていいと言ったらしい。警察が言っていることが何でも正しいわけではないが、その後、私と私の姉が美観地区に姉の作った物を売りに行った。
美観地区の倉敷川の横の所では何人かの人が観光客が歩いている道の所で物を売っている。私は何度も美観地区に言ったことがあるが、倉敷川沿いで
人が物を売っていた。
大原美術館の近くの橋のところ倉敷川の横の所で持ってきた姉の作った物を置いている時に、すぐ隣で物を売っていた50代ぐらいの男の人が
私たちが物を売ろうとしていることに不満を言ってきた。一字一句言ったことは覚えていないが、ここで物を売るなと言いたいのだ。
その後、他の場所にいた仲間の男が何人か私たちの近くにやってきて不満を言っていた。一字一句はっきり覚えていないが、
大原美術館前で絵を描いている人は昔からここで書いているというような感じのことを言っていたり、自分は売れない時でもここでやってきたというような感じのことを言っていた気がする。
「テキヤ呼べ、テキヤ」というようなことも言っていた。穏やかそうな雰囲気の仲間の男らしき人が「そういうことだから」と言っていた。
この人たちは、倉敷川沿いで物を売ることを以前からやっていて、店舗は持っておらず、倉敷川沿いで物を売ってもいいのは自分達だけがやってもいいと信じているのに、仲間だと思っていない私たちが自分達の縄張りに入ってきて、自分達と同じように物を売ろうとしていることが気に入らないのだろう。
この人たちも排他的だが、金でやっていく世の中を正しいと信じている人も排他的で、ほとんどの人を仲間だと思っていないから、
金でやっていく世の中をまかり通らせ、値段ついているものに金を払わない人を逮捕することを正当化したり、見下しているのだ。
倉敷川沿いで物を売っている人が私たちを排除しようとしたことを、ひどいとか思って悪評価する人も、誰かや何かを排除して受け入れないところがあるだろうから同じことだが、誰のことを排除しているのか、何を排除しているのかが違うだけだ。
金でやっていく世の中を助け合いだの、社会への貢献だとか言って綺麗事を言い、良い感じの理由を付けている人もいたり、
引きこもりと言われている人を嫌がり不満を持つ人もいるが、外に出て合法で物を売ることをしていても、
私たちが不満を言われたように嫌がられて追い出そうとする場合もあるわけだ。
合法であれ、違法であれ、外に出ていようが、長期間家の中にいようが、逆のことをしていても不満を持たれるのだ。
他の人があそこで物を売ってもいいと言っても他の人は嫌がるのだ。
あることには刑法違反や法律違反だからやってはいけないと思い、別のことには刑法違反でも法律違反でもやってもいいと信じていて、
自分に都合がいいように法律を利用している人がたくさんいるのだ。
以前にネットで美観地区の倉敷川沿いで物を売っている人について排除しろと書いている人がいた。
多くの人は、そこで売っていてもいいと思うだろうし、排除する必要はないと思うのだろう。
この人たちを排除する必要がないと思った人も、倉敷川沿いで物を売っている人の一部の人が私たちを追い出して排除しようとしていたことを知ったら、倉敷川沿いで物を売っている人に悪印象を持ったりして思うことも変わるだろう。
部分だけを知って自分が感じたことが正しいと思っても、別のことを知ったら同じことに対して思うことも変わるのだ。
私は今まで、学校に行っている時も職場にいる時も、家族や親戚からも、近所の人からも色んな形で、嫌悪感を持った態度、言動を取られてきたが、
こういう態度を取られてきたのも、誰かは前世の行いが悪かったんだろうとか、過去の行いが悪かったんだとか、因果応報、しっぺ返し、自業自得と思う人もいれば、嫌った方やバカにしてきた方に問題があると思う人もいれば、どちらにも問題があると思う人もいるだろう。
みんなが同じことなど思わないのだ。
27.例外あれど、嫌がらせを辞めさせる方法
まず、私がここで言う嫌がらせの定義、意味付けは、嫌いな人などに嫌な気持ちになってほしいから、嫌いな人の物を壊したり、音で嫌な思いをさせようとしたり、身体暴力をやったりすることなどと、相手に嫌な思いをさせようとはしていなくても、相手のことで自分が嫌な思いをしている気持ちを発散させるために相手の物を壊したりなどすることとする。
多くの人は、これからも生きて行こうとする時に大勢の人から嫌われたり、尊敬する人や好きな人から嫌われたいとは思わないだろう。
嫌がらせの多くは警察を呼べば捕まることだろうから、
警察に逮捕されようが逮捕されなかろうが、自分の家や職場などに警察が来て、それを近所の人など周りの人に見られて変んな目で見られたくないとか、恥であるとか思うだろうから警察に来られることは嫌がる人が多いだろう。
ということは、これらのことをすれば、嫌がらせを辞める人は多いと思う。
誰かがやっている嫌がらせを辞めさせるには大勢にその嫌がらせのことを知ってもらい、大勢が嫌がらせのことを知っていることを嫌がらせしている人に知ってもらえば嫌がらせをやめる人は多いだろうと思われる。
テレビや雑誌で取り上げるとか、大勢の人が嫌がらせしている本人の所に行って嫌がらせを辞めるように言うなどすればいいのだ。
別の方法は、嫌がらせをしている人が怖がっている人に嫌がらせを辞めるように言ってもらう。
やくざや暴走族を怖がっている人なら、こういう人が言えば辞める場合もあるだろう。
嫌がらせをされている人の家族や友人など親しい人にやくざや暴走族の人がいる人だったら、やくざや暴走族を怖がっている人は嫌がらせを辞める場合もあるだろう。
嫌がらせをされている人は、嫌がらせしている人から嫌われたり、格下だと見下されている場合が多いだろう。
嫌がらせしている人が尊敬している人や好きな人から嫌がらせを辞めるように言われた場合も言うことを聞く場合はあるだろう。
下に見ている人の言い分は聞きにくいが上に見ている人や仲間の言い分は聞き入れる場合がある人も多いだろうからだ。
嫌がらせされている場所に目立つ監視カメラを付けることで威嚇することで嫌がらせをしなくなる場合もあるだろう。
ダミーカメラというものがあるが、このカメラは偽物のカメラで価格も本物より安いが、見た目は本物のカメラか偽物のカメラかは分からないから、
本物だと思われたら、嫌がらせしている人の行動が映像に残っていて映像を
警察に出されたら逮捕される場合もあるので、逮捕が嫌な人は監視カメラがあるところではやらない人が多いと思う。
逆に嫌がらせをしている証拠映像を撮りたくて、嫌がらせしている人に警戒されないためには目立つカメラではなくて、小型カメラとか一見カメラに見えないようなカメラや赤いランプが付かないカメラの方が良いということだ。
嫌がらせは本人や他の人が見ていない時にする人が多いだろうが、その理由は嫌がらせをしているところを見られたら、
警察呼ばれたり、嫌がらせされている人や他の人から不満を言われたり、嫌われるのが嫌だったりするから影からコソコソしている場合が多いと思う。
あいさつも例外あれど、家族や友達など仲間にあいさつする人はあまりいないだろうし、身の周りにいるほとんどの知らない人にはあいさつはせずに、
ごく一部の人にだけあいさつをすることを求めているのも、人間を同じ人間とも思っていないし、同じ関係性だと思っていないからだ。
上に見ている人の言い分は聞きやすくても、下に見ている人の言い分は聞きにくいのも人を同じ人間だと思っていないからだ。
嫌がらせをされている人は、されている人だけが嫌がらせのことを知っていて、他の人は知らなかったり、
嫌がらせをされている人の家族とか、その人と仲のいい人ぐらいしか知らなかったりして、多くの人が嫌がらせのことを知らないのだ。
その多くの人が嫌がらせのことを知ったら、同じ人間ではないので同じ嫌がらせに対しても賛否両論だろう。
より多くの人が嫌がらせされている人のことを知ったならば、その中の一部の人は嫌がらせしている人の方を助けたいと思ったら、
金とかも取らずに間に入ってくれたり、解決するまで親身になってくれる人は絶対に出てくるはずだ。
インターネットに「人を攻撃する人は自分が先に相手から攻撃されたと思っている」ということを書いている人がいた。
人が誰かに不満を持ったり、不満を言ったり、逮捕したり、裁判起こしたり、嫌がらせしたり、死んでほしがったりするようなことのほとんどは、
この人が言っていることで理由が付くと思っている。
攻撃という言葉の部分を不満や裁判を起こす、逮捕するなどの言葉でもいい表せるだろう。
つまり、裁判を起こす人や、逮捕させたがる人や、誰かに不満を言う人や不満を持っている人や、気に入らないから身体暴力を振るうことをする人などは、例外あれど、相手のせいで自分が先に嫌な気持ちにさせられて被害を被っている被害者、犠牲者だと思っているからだろう。
嫌がらせをしている人の中には、自分から嫌がられて攻撃された人は因果応報でやられたと思っている人もいるだろう。
自分が感じたことが正しいところがあると信じていて、
自分が不快なのは相手のせいなのだから、相手に不満を言ったり、逮捕したり、裁判起こしたり、身体暴力をやってもいいと思っているのだろう。
あいさつでも同じで、あいさつを初めにしない人や、あいさつを返さない人に不満を持って、ダメ人間などと言ったり、見下したり、嫌うのは
あいさつしてほしいのに、好きでもない人や大切ではない人があいさつしないことに不満を持ち、嫌な気持ちになったのはあいさつしなかった人のせいであると思っているのだろう。
あいさつしてほしいのにしない人を嫌い、悪態ついたり、身体暴力を振るったり、不満を言う人はあいさつしなかった人のせいで
自分が初めに嫌な気持ちにさせられ、被害を受けている被害者で、あいさつしなかった方が加害者のひどい人であると思っているのだろう。
自分が信じていることが正しいのに、自分が正しいと思うことをしなかったから許さないと不快になり、
自分の信じている根拠もない正義をまかり通らせるために、気に入らない人を見下したり、嫌がらせしたり、身体暴力を振るったり、不満を言ってきたり、不満を持ったり、裁判起こしたりなどするようなところが人間と言われている生物にはあるのだ。
28.いじめという言葉の定義、意味付けとあいさつ
ほとんどの人は分かっているだろうが、いじめという言葉の定義、意味付けはほとんど通じているわけがないのだ。
同じ定義、意味付けでいじめという言葉を使っていないのだ。
私の経験だが、私が中学の時に大阪に住んでいて、夏休みなどの学校が長い休みの時は岡山県の母親の実家に泊まりに行っていた。
中学二年の時の学校が長い休みの時も私は母親の実家に泊まりに行っていた。
その母親の実家には関東地方で働いていた母の兄(叔父)も帰って来ていて、私が一階のブラウン管テレビがある部屋にいた時に、その部屋に来た叔父が「いじめられてるのか?」と私に言ってきたのだ。
私は何も答えなかったが、おそらく私の母親が別の部屋で叔父に私が学校でいじめられているというようなことを言ったのだろう。
中学2年の時の学校の私の三者面談の時に、担任の女の先生が言っていたことで、一字一句覚えていないが、他のクラスの子と一緒にいる時に笑っていてよかったと思った、というような感じのことを言っていたような気がする。
私は仲がいいわけではない、休み時間につるんでいるわけではない同じクラスの人と一緒に弁当を食べたり、一緒にいる時もあったが、隣のクラスの人と休み時間に一緒にいたりもしていた。
その隣のクラスの人と一緒にいた時に、たまたま私が笑っていたのを担任が見たのと、自分のクラスにいる時には笑っているところを見ないからということで、三者面談の時に私の親に笑っていてよかったというようなことを言ったのではないかと思う。
それを聞いた私の母親が、同じクラスに一緒につるんでいる人が全くいないか、あまりいないと思い、その理由はいじめられているからだと思ったのか、自分は問題のある子どもを持っていて大変なんだという話でも作りたかったのか、私のいない所で私がいじめられていると叔父に言っていたのだと思う。
もう一つは、私が大阪に住んでいた20代前半の時に、夜に道を歩きながら、ガラケーで叔母と喋っていた時に、
右側の方から男の声で「モリヤ」と言う声が聞こえてきた。
私の名前は「守谷(モリタニ)」というのだが、私が中学3年の時の国語の先生が授業中に私の名前をモリヤと間違えて呼んで、私がモリタニと言っても、
別の日にまたモリヤと呼ぶことが何回かあった。
ある日、学校の中庭に私が他の人と一緒にいた時に、私の後ろの方から、男の大きい声で「モリヤ」と言う声が聞こえたので、振り返ると、
一学年下のガラの悪そうで強気そうな男と、その人の仲間みたいな人がいた。モリヤと呼んだであろうガラが悪そうな子は私が振り向いた時に私の方を見ていなかった。
その後、また後ろの方から「聞こえてるんだろ」というような声が聞こえた。
私と同じクラスにヤンキータイプみたいな女がいて、その子とこのガラが悪そうな年下の男が知り合いで、私がモリヤと言われているということを
この男に話したのではないかと推測している。
20代前半の時に、道を歩いていた時にモリヤと言ったのは、中学の時に私にモリヤと言った子と同じ人物ではないかと思ったので、
叔母にそのことを話していたら、叔母が「あんたいじめられとったん?」と聞いてきたのだ。
叔母のいじめの定義が分からないのだが、人からバカにされたり、見下されていることをいじめだというのなら、
モリヤとか、聞こえてるんだろ、と言っているのはバカにしている感じだから、いじめだとも言えるわけだが、
そんなことをいじめとは言わないという定義ならば、いじめとは言わないとも言えるのだ。
バカにしていることをいじめと定義すれば、今まで叔母が私に対して言ってきたことにも私のことをバカにするようなことは言っているので、
叔母も私をいじめているということになるし、
多くの人は家族や親戚以外の人からあからさまにバカにされたり、遠回しにバカにされるようなことを言われたりしているだろうから、
多くの人は家族や親戚からいじめられているとも言える。
でも、多くの人は家族や親戚からバカにされたり、身体暴力やられてもいじめとは言わないだろう。
同じ理由で同じことをしても、家族や親戚、恋人、友人だと悪く言われにくかったりする。
下らない言葉遊びして、同じことや同じようなことをやっているのに言葉の言い方を変えているのだろう。
「あの子いじめられている子なんだよ。」とか「あの人、人からバカにされたり、嫌われているんだよ」と誰かのことをバカにして、
自分や自分の家族や友達や多くの人は嫌われていないし、バカにされていないと信じ込んでいる人もいるだろう。
でも、バカにされていない人などいないと思うけど。
いじめという言葉の定義が人によって違うのだから、いじめはあってないものとも言える。
誰かが嫌がっていることをいじめと定義づけ、意味づければ、みんないじめているし、
みんないじめられているとも言えるのだ。みんないじめっ子でみんないじめられっ子であるとも言える。
あいさつを知らない人などにしてやって、オウム返しであいさつ返されたいのに、自分の言いなりにならないことに不満や疑問を持ち、
あいさつ返さなかった人のせいで嫌な思いをさせられたんだと思う人も、自分も人が嫌がることをしているのだ。
私が叔母からいじめられてたんと聞かれたことに対しても、叔母のいじめの定義が何なのかが分からないので何とも言えないだろう。
逮捕された人のことを悪く言ったり、犯罪者と呼んだり、牢屋にいれたり、警察が逮捕した人に身体暴力をしても、
ほとんどの人はそれをいじめという言葉で言い表しはしないだろう。
劣っていると思っている人にボロクソな言動を取っても悪くは言われにくい。
人間は言葉の定義が通じていない所があるのに自己満足で言葉を使っているところがあるのだ。
返事を求めて人に喋りかけた時に、相手が返事をしないと無視されたなどと言い、無視のことをいじめと言う人もいる。
あいさつでも、あいさつ返しをさせたくて、返事を求めたのにあいさつ返さないと、
無視されたという人もいるが、みんなが無視という言葉であいさつ返しをしない人を言い表しはしない。
いじめという言葉や中傷、誹謗中傷という言葉を使う人の多くは多分、この言葉の定義をいい人に対してひどいことをしている
という定義で無意識、意識的に使っている人もいるだろう。
悪人だと思う人や、見下している人に返事をしないのはひどいことだとは思わなくても、
善人だと思う人に同じことをしたらひどいことだと思う人もいるだろう。
ひどいことをしているというのを、はっきり言わないい言い方で、いじめや中傷、誹謗中傷という言葉で言い表している人もいるだろう。
無視(むし)という言葉の同音異義に、虫(むし)や、蒸し(むし)などがあるが、
文字で「むし」と書いただけだったり、喋っただけでは何のことを言っているのか分からないだろう。
一般に同音異義と言われているものとは違うが、無視(むし)という言葉も定義、意味付けが人によって違うのだから、
同じ無視(むし)という言葉でも同じ意味で使ってはいないのだ。同じ無視という言葉を同じ意味で使っていないのなら、
これも同音異義と同じであるとも言えるのだ。
あいさつ返されないことを無視という言葉で言い表したAさんとBさんがいて、
Aさんは無視した相手をひどいと思っても、Bさんはあいさつ返さなかった方をひどいとは思っていないようなもので、
みんなが同じことなど思っていないのだ。
ある本を読んでいたら「人は無視されることを嫌がります」と言うようなことが書かれていたが、
そもそも無視という言葉の定義、意味付け自体が違うのだ。
多分、無視されることを嫌がりますと本に書いている人が言いたいことは、人は自分の思い道りにならないことを嫌がるということの別の言い方だろう。
人間は自分が可愛いから、自分の思い道理にならないことを嫌がるが、他人のことは無視しまくって生きているのだ。
でも、色んなことを無視して生きていることにさえ気づいていないのだろう。
自分の全てを自己開示している人などいるわけないが、人間は自分の一部分は知ってほしいけど、他のことは知られたくないと思っているのだ。
だからプライべ―トの侵害や、性は秘め事などと言ったりするのだ。
オウム返しであいさつを返されたいと思っているのに、無反応だと無視されたとか、存在否定されたと思って不満を持つのは、
自分のあいさつ返しが正しい信仰に合わせて従ってほしいと望んでいるから、
あいさつを返されないと無視されたと言うのだ。
あいさつ返されないことで無視されたなどと不満を持っている人は、あいさつ返さなかった人に自分の住んでいる場所などの個人情報は知られたくないと思っていたり、
自分のほとんどのことについても知られなくてもいい、無視してもいいと思っているだろうが、はっきり言わないのだろう。
あいさつ返さなかった人の、あいさつに対する信仰心や、その時の気分や体調も無視していて知ろうともせずに、
あいさつ返さなかった人の全てか、ほとんどに興味、関心もない人もいるのだ。無視したと言っている人も無視しているのに、
自分に甘いところがあるのだ。
気に入らない人に悪態ついたりすることをいじめと言ったりもするが、
自分が気に入らない人に悪態ついてもいじめとは言わない人も多いだろう。
我が身が可愛いい人間の中には、自分が気に入らない特徴を持っていたり、気に入らないことをした人がいて、
嫌な気持ちになって、迷惑して不利益をこうむったと思うと、その原因を気に入らない人、嫌な人のせいにする人もたくさんいるのだ。
自分の思い道りにならないことを嫌がるのが人間と言われている生物だ。
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