くるみの世界

金でやっていく世の中や、あいさつが正しいとされていることは間違っているということを主張したいです。

脱あいさつ あいさつは正しくない12

2022年10月21日 | 脱あいさつ

目次
第1章から第9章へのリンク
第10章から第12章へのリンク
第13章から第20章へのリンク
第21章から第23章へのリンク
第24章へのリンク
第25章から28章へのリンク
第29章から37章へのリンク
第38章から47章へのリンク
第48章から52章へのリンク
第53章から56章へのリンク
第57章から59章へのリンク
60.コミニケーションという言葉の定義
61.あいさつの押し売りと需要と供給
62.悪徳レフェリーの国民
63.みんな毒人間、毒生物とも言える
64.あいさつと家の鍵を閉めること
65.女神と六人のあいさつ信者
66.テレビ局とスポンサー企業とあいさつ信者
67.自分の気持ちや信仰心に正直で自分の気持ちにウソを付かなかった人の方が嫌われたり、悪く言われる場合と良く言われる場合がある
第68章から第75章へのリンク
第76章から第81章へのリンク
第82章から第86章へのリンク
第87章から第93章へのリンク
第94章から第99章へのリンク

 

60.コミニケーションという言葉の定義

 

コミニケーションという言葉があるが、この同じ言葉の定義、意味づけは人によって違うので、言葉が通じていないのだ。

ブログやSNSなどインターネットの世界に、文章や写真や音楽や作品を写真や動画などで出して、それを他人が見ることを、交流やコミニケーションと言う人もいるだろうし、作品とかを見て、その作品を見た人に自分の思ったことを言うことをコミニケーションと言う人もいるだろうし、
作品を見た人が作品を作った人に言葉で思ったことを言って、それに対して作品を作った人が言葉で返答することをコミニケーションや交流と言う人もいるだろう。
コミニケーションや交流という言葉を同じ意味で使っていないのだ。
「コミニケーション出来ていない」「コミニケーション能力低い」などと不満を持ち、はっきり具体的に言葉の定義を言わずに
自分の思い道りにならなかったことに対する不満を言ったり、思っている。
「コミニケーション出来ていない」「コミニケーション能力低い」という言葉に隠している意味は、「私が正しいのに、私が正しいと信じていることが出来ていない」「私が正しいのに、あの人は正しいことを分かる能力が低い」などと不満を持っているのだろうが、言いたいことの詳細をはっきり言わずにコミニケーションなどという言葉で言い表して自己満足しているのだろう。

言葉で誰かに思ったことを言ったり、書いても、気に入らないことを言ったらコミニケーションや交流などとは言わないのに、
気に入ることや、正しいと思うことを言ったらコミニケーションや交流などと言うのだ。
バカバカしい言葉であり、言葉遊びしていて、自己満足で言葉を使っているのだ。

他人に喋りかけたり、あいさつしたりしてる理由や目的が、
「あの人、周りの人に相手にされていなくてかわいそうだから、形だけ喋りかけたり、あいさつしてあげた」という理由で人に声かけても、コミニケーションや交流などという言葉で言い表して変な、いい加減なことをしているのだ。
喋りかけた本人は良いことしてコミニケーション取ってあげたと思っていても、かわいそうだからという理由で形だけ喋りかけられた人が、そういう理由で喋りかけてこられたことを良く思っていなくて、
形だけ喋りかけてくるなら、喋りかて来てほしくないと思ったり、それをコミニケーションとは呼ばない人もいるだろう。
同じことに対して同じ言葉では言い表していないし、同じことを思ってはいない。

関わる気もない人に、かわいそうだからという理由で喋りかけたり、あいさつする人を良く言う人は「いい人」「優しい人」などと
高評価して褒めるだろうが、喋りかけられた本人が「私と関わる気もないのに形だけ喋りかけたり、あいさつしてこられてもうれしくもない」
と思っている場合があってもコミニケーションや交流などという言葉で言い表したりするのだ。
具体的にはっきりと誰かに声をかけて喋りかけた動機、理由、目的を言えば分かるものを、はっきり具体的に言わないから分からないのだ。
あいさつされて嬉しい人が、そのあいさつをコミニケーションと言い表していても、あいさつした相手が嫌々あいさつしていてもコミニケーションという言葉で言い表していて、自分や相手の心理については触れていなかったり、あいさつしている人があいさつについて何を思っているのかに興味、関心がない人が多いのだろうけど。
まるで、バナナもリンゴもみかんもパイナップルのことも果物やフルーツや食べ物という言葉で言い表しているのと同じようなものだ。
同じ目的や動機で喋りかけたり、あいさつしているわけでもないのにコミニケーションや交流などと言う人もいて、自分が信じていることや、
大勢がやっていることを美化して、綺麗事言っているのだ。

交流やコミニケーションや交友関係などと言えば、多くの人は悪い意味には使わないだろうが、「嫌々交流している」「嫌々コミニケーションしている」などと言ったらカッコが付かないだろう。
誰かと関わっている本当の理由、本音、本心を、関わっている相手や大勢の前では言わない場合が多かったり、
影で本音を言っている人が多いのだろうけど。

 

 

 

61.あいさつの押し売りと需要と供給

 

あいさつを商売やビジネスのように言えば、商売で家に訪れて商品やサービスを売りに来ることを訪問販売とか、飛び込み営業などと言うが
商売で来る人は商品やサービスを買われなくても、びっくりしたり、おかしいとは思いにくいだろう。
なぜかというと、断られる可能性があるということを初めから分かっているからだ。
あいさつの場合はこの逆で、あいさつ信者の多くは初めにあいさつをしたら、絶対に100%オウム返しであいさつを返されると信じているので、
自分の思い道理にならなくて、あいさつをオウム返しで返されないとびっくりしたり、おかしいと思ったりして不満や疑問を持つのだ。

商売の商品やサービスをあいさつに置き換えれば分かりやすいだろうが、
あいさつを売っているのは、あいさつ返しを返されたいからあいさつを売っているのに、あいさつを返されなかったから、おかしいと思っているのも一方的なあいさつの押し売りをしているのだ。
あいさつ信者はあいさつを売ってやったら、絶対に買えと言っているようなものだ。
商売なら買った場合は金を払えということだが、あいさつはあいさつを返すことが正しいと信じていないあいさつ非信者にも、絶対にあいさつ返しをしないといけないと信じているあいさつ信者がたくさんいるのだ。

需要はニーズとも言われるが、あいさつ信者の多くは全ての人はあいさつを初めにされたら、あいさつを返したいという需要、ニーズを持っていると信じているのだろう。
でも、実際の人間にはあいさつ非信者もいるし、知らない人にはあいさつしなくてもいいという信仰を持っているあいさつ信者の人もいるわけで、
みんながあいさつをしてほしいとか、あいさつを返したいなどとは思っていないので、みんながあいさつに対する需要、ニーズなど持っていない。
一部の人からのあいさつには需要があっても、他の人からのあいさつに対しての需要はない人もいる。
あいさつを返されたいから初めにあいさつして、あいさつを初めに供給しても、あいさつを供給された人の中にはあいさつしてほしいとか、あいさつ返しをしたいという需要、ニーズがない場合もあり、あいさつされることを求めていない人もいるのだから、あいさつを初めにしている人が一方的に
あいさつ返しを求めて勝手にあいさつを返せと押し付けているだけなのだ。
これが商売なら、ひつこく買ってくれと言ったり、何度も訪問販売していると、嫌がっている人に押し付けてはいけないと思われやすいだろう。

あいさつみたいに大勢がやっていることは正しいことだと信じられやすく、許されやすいのだ。
あいさつとは、需要がない人に対してもあいさつを供給して、あいさつを与えて供給したから、あいさつ返ししてほしいと見返りを求めて、あいさつの押し売り、あいさつ返せの押し売り、あいさつ返しが正しい信仰に合わせろの押し売りをしているのだが、あいさつ返しが正しいと信じている人の中には、押し売りとは言わずに、常識や社会のルール、コミニケーションなどといい綺麗事を言い、良く言う人もいるのだ。
自分に合わせてほしいと、自分の信仰や欲求を人に押し付けても、自分が信じていることや、信じていなくても大勢がやっていることは許されやすい。

 

62.悪徳レフェリーの国民

 


人間は自分が信じたいようにしか信じない、自分が思いたいようにしか思わない。
多くの人は、ほとんどの人はいい人で悪人ではなく、一部の人は悪人でいい人ではないと信じていそうだ。
いい人だと思っている人と悪人だと思っている人が同じことをしても同じことを思わないことを例え話で言えば、駅前で誰かが物を落として、落とした物をいい人だと思う人が拾って落とした人に渡せば、
いい人だからいいことをやったのだと思っても、
悪人だと思う人が同じことをやれば、偽善者や偽善行為などと言ったり、いい人の心を吸ったとか、いい人の真似をしただけで形だけやったとか、悪人だと思う人が人の役に立ちたいと思ってやっていても、
いい人の影響で人の役に立ちたいと思ったのだ、という理由をつける人もいるだろう。

誰かが心身苦しんでいても、悪人だと思う人が苦しんでいると自業自得、しっぺ返し、因果応報、自分に原因があるとか、本人だけに問題があるなどという理由をつけても、いい人だと思う人が苦しんでいると、他人のお荷物背負わされたとか、親や先祖の因果を背負っているとか、運が悪いとか、人のせいだとか、本人以外の人や人間以外の運などのせいにするのだ。

別の言い方で言えば、いい人だと思う人には問題がないのに苦しんで嫌な思いをするのはだめだけど、悪人だと思っている人や、劣っていると思っている人が嫌な思いをしたり、苦しむのはおかしいとは思わない人もいるだろう。

善や悪は主観的な捉え方だし、全も悪もないとも言えるが、
多くの人は刑法違反した人を悪いことしているとか、罪があるというだろうが、誰かが嫌がることをやっていたり、不正で正しくないことをやっていることを悪と定義付けるならば、誰でも悪いことをやっている悪人とも言えるし、誰でも罪を犯しているとも言えるのだ。
それなのに、ごく一部の人のことだけを悪いことをしている悪人だとか、犯罪者や加害者などと悪評価して悪く言っているのはえこひいき差別をしているのだ。
だから、そんな差別をしている人たちのことを悪徳レフェリーだとか、悪徳裁判官とか、悪徳国民とか、悪徳庶民とも言える。犯罪者や罪人、悪人と言われていないだけで、誰かが嫌がることしていたり、正しくもない不正をやって間違ったことをしていても大勢と同じことをしていると許されやすかったり、大勢が正しいと信じていることは悪とは言われにくい。
逮捕されるようなことであろうと、そうではなかろうと、大勢が悪いと思っていることが悪と信じている人もいるだろうが、大勢が嫌がっていなくても、自分が嫌なことをやった人を死んでほしがったり、見下していたり、悪人だと思っている人もいるのだ。

相手の立場に立ち、相手の靴の中に入り込むなどという言葉があるが、
言葉とは同じ言葉を同じ意味では使っていない場合があるわけだから、この言葉もどうにでも使えるのだ。
相手の気持ちや信仰心や体調などが分からなくても、相手のことを考えてあげたから、相手の立場に立ち、相手の靴の中に入り込んだという意味でこの言葉を使う人もいるだろう。
自分以外の人と好き嫌いや、信仰などが同じで、相手に共感できて相手の立場に立つことが出来るという意味でこの言葉を使うことも出来るだろうが、
人間は全てが同じではないのだから、相手の立場には立てないところがあるし、相手の靴の中には入り込めないとも言える。
人の気持ちや信仰心や体調などが分かっていなくても、勝手に人の気持ちなどを決めつけたり、自分が感じたことが正しいと信じる自由はあるだろうが、それは思い込みや自己満足で、実際は人のことを分かっていなくても相手の立場に立ったと言えばカッコが付くのだ。

自分がおかしいと思う、ある同じことをやった複数の人がいた時に、その中のほとんどの人は、変なおかしい人の真似をして、おかしいことをやったけど、その中の一部の人は変なおかしい人だから、おかしいことをやったと理由をつける人もいるのだ。
人間のほとんどは普通の人で変ではないけど、一部の人は普通ではなくて変な人だから変でおかしいことをやり、普通だと思う人が変でおかしいことをやったと思う場合は、変な人の影響で真似をして変なことをやったと理由を付けて、自分が思いたいように思うのだろう。

言葉には周波数や言霊があるなどと言う人がいるが、同じ言葉を同じ意味付けや定義で使っていない場合があるわけだが、言霊や周波数などと言っていればカッコが付くところがあったり、聞こえがいいところがあるのだろう。

言葉には言霊がこもっていて、その言葉に込められた言霊や周波数によっていい気持ちにもなるし、嫌な気持ちにもなると思う人もいるのだろうが、それは間違いだ。
同じ人が書いた文章を読んでも、同じ人が言った言葉を聞いてもみんなが同じことを思うわけではないし、同じことを感じるわけではないからだ。
あいさつも同じことで、こんにちはという同じ言葉自体に意味付けや定義があるわけではなくて、こんにちはという言葉を色んな人が違う目的、理由で勝手に使っているだけなのだ。

言葉には言霊という気持ち、思いがこもっていると言えばカッコが付くところがあっても、ある言葉を言った人が、その言葉にどういう意味を込めているのかを分かっていなくても、自分が誰かの言った言葉で嫌な気持ちになったら、相手の言葉に込めた言霊で嫌な気持ちになったと思う人がいたり、
誰かが言った言葉でいい気持ちになったのは、相手が言葉に込めた言葉でいい気持ちになったと思い込む人もいるだろうが、これも間違いだ。
同じ言葉を読んだり、聞いてもみんなが同じことなど思わないからだ。
同じことを言ったのが仲間や好きな人だったら嫌な気持ちにならないのに、他の人から言われたら嫌な気持ちになる場合があるのは、
相手が言った言葉で嫌な気持ちになったわけではなく、
自分が人のことをえこひいき差別をしているから同じことを言っても、誰が言うかによって不快にもなれば、不快にならない場合もあるのだ。

政治家の森さんが、女が喋ることについて発言したことで、一部の人が森さんの言い分に不満を言っているが、ほとんどの人は森さんの言ったことを知っても、不満など持たないだろう。
人が言った言葉には言霊という想いや気持ちがこもっているから、その言葉を見聞したらみんなが同じことを思うというわけではないから、
森さんが女が長く喋ると言うようなことを言ったことに、
外国の女が森さんに対して「女は簡潔に喋ることが出来る」というようなことを言っていたのだが、ほとんどの人は森さんの発言を女がいつでも長く喋って、短く喋ることをしないという意味で言ったとは思わないだろうが、そうは思わない人もいるのだろう。
つまり、同じ言葉を見聞してもみんなが同じことを思うわけではないのだ。

森さんの言ったことに不満がある人は、森さんが女が簡潔に短く喋るところがあると思っているならば、それを具体的に言うべきだとか、例外もあると言えと思う人もいるのだろうが、自分達も言葉を使う時にいつも具体的な詳しい説明をしているわけではないだろう。
森さんの発言に差別発言と言っている人もいるが、森さんが言ったことと同じことを自分の仲間や子どもなどが言っても、
はたして同じことを思ったのかが怪しい。
森さんが政治家だから、政治家を見下したりバカにしている人が政治家の言ったことだからとケチつけて悪く言っているならば、
政治家に対する悪い意味での差別ということになるし、
仲間でもないし、好きでもない人が言ったから許せない、気に入らないと思っていてもただの差別だということになる。
あいさつでも同じで、あいさつしないことに不満を持つ人は、あいさつしてほしいのにしなかった人が好きではない人や、
嫌いな人だから不満を持って許さないところがあるのと同じだろう。

スーパーの店内に「かごを持って帰らないでください」というような文章が書かれたものが壁に貼ってあったのを見たことがある。
店の人がかごを持って帰る人がいて困って迷惑していて、かごを持って帰る人にかごを持って帰らないでくれと言っているのだろう。
推測だが、私が昔スーパーを利用していた時には、全てのかごには取手が付いていたと思うのだが、今、私が行っている複数のスーパーでは、清算を終えた商品を入れるかごには取手が付いていないのだが、
かごに取手を付けていないのは、かごを持って帰られたら困るから、持って帰りにくいように取手をつけていないのではないかと思っている。
ほとんどの人はスーパーのかごを持って帰ることはないだろうが、一部の人は持って帰るのだろう。
かごを持って帰っている人の中には、自分では持って帰っているつもりはないけど間違って持って帰っている人と、
自分がかごを持って帰っていることの自覚があって意図的に持って帰っている人がいるだろうが、意図的に持って帰っている人の中には「かごを持って帰らないでくれと言われていないから分からないじゃないか、
持って帰られたくないなら初めから言ってほしい」などと思う人もいそうだが、言われなくてもかごは客が持って帰る物ではないと思っている人は
「そんなこと言われなくても分かるだろう」と思う人もいるだろう。
人間と言われている生物がみんな同じことを思うわけではないのだ。

刑法違反をした人を逮捕するために、刑法を適用してまかり通らせている人や逮捕されている人を悪く言っている人が、自分はほとんど法律を知らないし、知る気もなかったり、知っている法律を守らなかったり、
自分も刑法違反のことしているけど自首するわけでもなく、
刑法を適用しなくてもいい場合があるなどと自分に都合がいいように法律を利用していたりして、みんな都合のいいように法律を利用しているのだ。
誰でも悪徳レフェリーなところがあり、自分に都合のいい捉え方をしているところがあるのだろう。

 

63.みんな毒人間、毒生物とも言える

 

毒親という言葉がある。他の言葉と同じように、この言葉もみんなが同じ定義や意味付けで使っているわけはないだろうが、
言葉というのは同じ言葉でも、どうにでも使うことが出来るのだから、毒親という言葉もどうにでも使えるのだ。
この言葉を使う人の多くは、親にはおかしい親やひどい親と、まともな親がいて、おかしい親のことを毒親という言葉で表したいのだろうが、
親はみんな毒親とも言えるし、毒親などいないとも言えるのだ。
ある子どもが嫌がる言動を取ったその子どもの親のことを、子どもの気持ちが分からずに、子どもの情操教育にも良くない言動を取ったダメな親で、この親は子どもにとって毒親であると言った人がいたとしても、
親がやった同じ言動を嫌がった子どもの兄弟や、別の人なら同じ言動を嫌がらなかったりする。
子どもが嫌がることをしたから毒親であり、誰かがひどいと思うことをした親だから毒親と言った人がいても、他の人なら同じ言動を嫌がらないのだ。同じ言動で嫌がる人がいても、同じ理由で嫌がったということにはならない。
自分がひどい言動をしていると思う親のことを毒親などと言い表しても、
自分達ほとんどの人が人間や人間以外の生物が嫌がることをしたりしていても、毒人間だとか犯罪や罪や悪などとは言わないのだ。

大勢から好かれてる人や、大勢の役に立った人には親の子どもに対する対応が正しかったとか、素晴らしかったから、親の躾がなっていたから
大勢の役に立つ人になって好かれたのだと思う人もいるみたいだが、これは間違いだ。
同じ言動に対して人によって思うことが違うのに、子どもが親の言動をあまり嫌がらなかった場合は親が素晴らしい人で、良い教育をしたのではなくて、たまたま親の言動をあまり嫌がらなかったと言うだけのことだろう。
親とその子どもの好き嫌いが似ていたり、信じていることが同じことが多かったりなどしていたら、親に対して不満を持ちにくいだろう。
子どもが親のある言動に不満を持っても、他の人なら同じ言動を嫌がりはしなくて不満など持たない。
それはあいさつでも同じことで、初めにあいさつしないことに不満を持つ人がいるが、こんな人たちは例外の人で、
ほとんどの人は初めにあいさつしない人に不満など持たないだろう。あいさつ返さない人に対して、みんなが見下してダメ人間だとは思わないし、
嫌がらせや身体暴力などをするわけではない。

みんな自分が思いたいようにしか思わないのだ。子どのことをやたら親に結び付けて、親のせいだとか、親のおかげだとか
親と関連付けたがる人は、そう思いたいからそう思うだけのことだ。
嫌がった方が問題視されて間違っているとされる場合と、嫌がられている方が問題視される場合があるが、誰かが毒親と呼んでいる親の場合は、毒親と呼ばれて問題視されている親の方に問題があるとしているのだろう。
その親のある言動を多くの人がおかしいとか、ひどいと思ったら、毒親と言われている人だけが問題視されやすいのだろうが、おかしいと思う言動をやった人がその言動をやったことに他の人は何も関係ないと思う人は、おかしいと思う言動を取った人だけを問題視するが、
本人だけに問題があるとは思わない人ならば本人だけを悪くは言わないし、毒親など言わないだろう。
子どもを好きな人や善人だと思っている人の中には、子どもが悪いことをしていると思うと、親のせいにしたり、大人のせいにして、
子どもには問題がないけど大人に問題があるとしたり、大人を悪者に仕立てるのだ。
特に親が問題視されて悪く言われるところがあり、子どもがおかしいことをしたとか、悪いことをしたと思うと「家庭環境に問題がある」とか「どういう教育されているんですか」とか「躾がなっていない」などと親が問題視されやすいが、子どもも親の言うことを聞かなかったり、親に反発したりするのに、親が悪く言われやすいところがある。親だけを問題視して悪く言いたい人はそう思うだけのことだ。
例外あれど、好きな人や自分のことは悪いと思うことをやった時などに本人のせいにはしにくく、本人は問題視されにくいが、
悪人だと思っている人や嫌いな人、見下している人や、どうでもいい人のことは本人が問題視されやすいのだ。

多くの人間が信じているであろうことに、嫌われている人や見下されている人は、この人たちに問題があると信じていて、
嫌っている方は問題視しない場合が多いと思う。
あいさつでも、あいさつ返さなかった方や、初めにあいさつさせたいのに初めにあいさつしなかった方に不満を持つのも、あいさつさせたいのにしなかった方を嫌い、この嫌われた方を問題視して悪者扱いしている場合が多いだろうが、嫌った方は問題視されにくいのだ。
あいさつは例外除いて、好きではない人や嫌いなだけの人などにやる場合が多いだろうから、そんな相手が自分の思い道りにあいさつしないと不満を持って、嫌うのだろう。

あいさつされたいのにされなかった人は、相手のせいで自分が嫌な気持ちになったと思う人もいるだろうが、あいさつしなかった相手の近くで、あいさつされなかったことに対する不満などを言ったり、嫌がらせしたりすることで、それをやられた人や、それ以外の人が嫌な気持ちになって不快になったり、あいさつ非信者などがあいさつをしてほしいという
態度を取られて嫌がっていても、自分たちのことは悪くは言わないだろうが、人が嫌がることをしていることを「毒」という言葉で言い表すのなら、あいさつ非信者はあいさつしたくもないのに
あいさつ求められていて嫌がっているのだから、あいさつを嫌がっている人にあいさつを求めているのは毒な行動とも言えるし、
あいさつしなかった相手に悪態ついたりして、不満を言ったり、嫌がらせしていることで、それをやられた人やそれ以外の人が
不快になったりしているなら、この行動も毒だとも言えるし、これらをやっている人のことを毒人間や毒生物とも言えるのだ。
あいさつ信者もあいさつしろという態度や、あいさつしないことで悪態をついたりしていることで誰かが嫌がっている毒生物、毒人間だが、あいさつ返さなかったり、初めにあいさつして欲しいのにしなかった人の態度であいさつ信者が嫌がっているあいさつ非信者も毒生物、毒人間だとも言える。
どちらも人が嫌がることをしている点では同じなのだ。
簡単に言えば、誰かが嫌ががっていることを毒と呼び、それをやっている人を毒人間や毒生物と言うのならば、みんな毒人間であり、毒生物である。
だから、ごく一部の親を悪く言って問題視したい時に、その親を毒親だと悪評価、酷評するような呼び方して上から目線になって、自分達はまともな良い親であるかのように優越したり、親ではない人でも自分はおかしい人ではないとか、人が嫌がることなどしていないと思っている人も、自分も誰かから嫌がられていたり、迷惑されていたりしても気づいていなかったり、
気づいていても嫌がっている方が間違っていておかしいと思っている人もいるのだ。

誰でも人から嫌がられていたり、人として間違っていることをしていると思われていても、ほとんど気づいていない場合も多いだろうが、
その嫌がられていることの一部を一例で書くが、大勢の人が金でやっていく世の中を正しいと信じている金信者だろうが、この金社会を辞めようとせずに、金でやっていく世の中をまかり通らせていることで、大勢の人が金でやっていく世の中で迷惑して苦しんでいる。
でも、少数派の泥棒と言われている値段ついているものに金を払わない人や、税金や年金払わない人や無職、ニートなどと呼ばれている人が悪者扱いされたり、見下されて問題視されたり、間違っている人扱いされて逮捕されたりなどして迫害される。
金でやっていく世の中は「不正な毒社会」とか「キチガイ毒社会」とか「不公平、不平等な毒社会」などとも言えるだろう。

「香害」という言葉で言い表されているが、洗濯物から漂う洗剤の匂いで体調が悪くなる人がいるが、それを知らない人もたくさんいるのだろう。
人の中には自分が嫌ではないことは他の人も嫌がっていないと思う人もいるみたいだが、それが間違いで、人はみんなが同じではないのだから、同じことに対してみんなが同じことなど思っていない場合があるのを知らなかったり、分かっていないところがあるのだ。
洗剤の匂いだけではなくて、他の匂いもそうだが、色んな匂いで嫌がられているのだ。
人間は自分可愛さがあるから、他の人がほとんど嫌がっていなくても、自分が嫌なことは受け付けないので、その嫌な特徴を持っている人を嫌ったりする。
以前、私が歯医者で下の歯を一本差し歯にする時に、その歯医者で働いていた中年の女が私の体臭を嫌っていたみたいだ。その歯医者に3回目ぐらいに行った時に、その女が待合室に座っている私に気づいて無表情でじっーと私を見た後、横の部屋に入り、何かを喋った後、大声で「くっさー」と言ったのだが、以前に歯の治療する時に、よだれかけみたいなのを付ける時に、
私の背後から付けたのがこの女の人なのだが、私に近づいた時に私を臭いと思い、以前から私を臭いと思って嫌っていたのだろう。
私も誰かから見たら香害があるということだ。車やタクシー、バイクなどに乗っている人も同じで、排気ガスの匂いが臭いと嫌がっている人もいるわけだ。

自分が嫌がっていなくても、音に対しても不満を持たれていたりする。
すごい大きい音は多くの人が嫌がりやすいだろうが、大きい音ではなくても嫌がられていたりする場合がある。
嫌いな人が出している音だから嫌がる場合もあるだろう。
人が嫌がっていることの一例を書いたが、人が嫌がっていることなどもっとたくさんあるが、そのほとんどをみんな知らないだろう。
知ったところで、あれは嫌がっている方がおかしいとか、これは嫌がられている方がおかしいなどと思い、みんなが同じことに対して同じことなど思わないだろう。
同じことをしても、誰かは嫌がるが、他の人は嫌がらない場合もあるので、誰かが嫌がっていることを毒と言ったり、その嫌がっていることを
やっている人を毒人間、毒生物と呼ぶとすれば、嫌がっている人から見たら嫌がられている人は毒人間、毒生物でも、嫌がっていない人から見たら、
毒人間、毒生物ではないと言うことになる。
簡単に言えば、嫌がっている人を悪人とか、性格悪いとか、嫌いと言っても、嫌がっていない人から見たら、同じ人間のことを
嫌いではないし、悪人や性格悪いなどとは言わないのだ。

我が身が可愛いから、人間は自分の思い道理にならなくて嫌な気持ちになったり、不利益だと思うことがあると不満を持った相手のせいに
して、相手を問題視して悪く言う場合があるが、
問題視して悪く言う時によく使われる言葉が「悪、悪人、性格悪い、常識なってない、躾がなってない、おかしい、ひどい」などと言い、
刑法違反なら「罪、犯罪」などという言い方して、気に入らない人や嫌いな人を問題視するが、これを遠まわしに毒という言葉で言えば、
ひどいとか、おかしいと思うことをしている親に毒親などという言葉で言い表して悪評価するのだろう。
人間と呼ばれている生物は自分中心に物事や人を捉えているということになる。
何で同じ人間の外見を見たり、同じ音楽を聴いたり、同じことに対して違うことを思うのかは、みんなが同じ人間ではないから好き嫌いや、何を差別しているのかが違ったり、信じていることが違うので同じ対象に対して同じことなど思わないということだ。

 

64.あいさつと家の鍵を閉めること

 

今、私が住んでいる母親の実家に独身の母親の兄も一緒に住んでいる。
叔父と私の母親は空き巣や強盗と呼ばれている人が家に入ってくるかもしれないと警戒しているのだが、警戒しているわりには緩くていい加減なのだ。
住んでいる家は2階建てで、庭には横に移動させて閉める鉄の門があって、この門にはダイヤル式のカギを掛けるようにしてある。
私は門にカギを掛けなくてもいいと思っている。
門にカギを掛けていないと叔父が不満を言って閉めとけと言ったりなどする。
今日この文章を書いている2021年11月15日の月曜日の夜に母親から「昨日カギが閉めてなくて叔父さん怒ってた」というようなことを言われた。
家の一階の玄関を夜に叔父が閉めている時もあれば、閉めていない時もある。
玄関の隣の部屋のガラスの引き戸は今まで寝ている時や出かける時に開けたままにしている時もあるのに、その部屋にカギが掛かっているのかを叔父は
見に行ったりはしていないと思う。一階のトイレ、脱衣所、台所の窓には檻みたいな面格子(めんごうし)が付いていなくて、
これらの場所の窓はカギを閉めている時と閉めていない時があるのだ。
叔父は空き巣などを警戒している割には私が庭の門を横に移動させて閉めた後に、門の鍵を閉めていないことに不満を持つが、

家の一階の複数の窓にカギを掛けていない時もあるのに、カギが閉まっているのかどうかチェックしようとはしない緩くて、いい加減なところがある。
門に鍵を閉めていたら空き巣は入ってきにくいと勝手に信じたいだけだろう。もし入ろうと思えば庭の門は163cmぐらいの身長の私よりも
低いのだから、門を乗り越えてくることも簡単に出来るだろう。

私がゴミ捨てに行くゴミ捨て場には、ゴミ当番がカギを開け閉めする決まりがあるが、なんで閉めるようにしているのか知らないが、
ゴミ捨て場の中のバケツやほうきなどを取られないようにしていたとしても、ゴミの日は開けているのだから、何のために閉めているのだろうか?
叔父は以前に、家に誰かが入ってきて火をつけられたり、毒を盛られることを心配しているというようなことを言っていたのだが、
毒を盛られると心配している人などほとんどいないだろう。
叔父が毒を盛られるという心配をしているのは、武将などが敵対している人から毒を盛られるということを本などで読んで、
毒を盛られるという心配をしてそうだ。色んな人がいるのだ。

空き巣や強盗と言われている人がいるのを知っていても、みんなが警戒などしないだろう。
空き巣や強盗、万引きなど泥棒と言われている人を見下したり、警戒したりしている人も、自分達も泥棒なのだ。本来値段が付いていないものに値段を付けたり、何もないところに税金や年金を取るという決まりを作ったりなどして、合法の泥棒行為をしていたり、それを許して許可している人がたくさんいるのだ。

2022年の2月ごろに私の住んでいる母親の実家の引き戸の玄関のドアを新しく変えた。
2022年の3月の後半に同じ家に住んでいる叔父から、玄関の鍵のことについて喋ってきた。
話の内容は玄関の鍵を外から閉めた時に鍵を外に隠すようにしているから、どこに隠すかを私に言おうとしていた。
私が鍵を隠す場所には行かずに、合鍵にしたらいいというようなことを言った。
新しい玄関のドアにした時に、玄関の鍵は複数付いてきている可能性が高いと私は思っていた。
叔父が私の言ったことに不満を言った。一字一句全部覚えていないが、統一しないとダメなんだからというようなことを言っていたり、
誰かが入ってきたらダメだからというようなことを言っていたり、私の母親は外のどこかに隠すことを求めたのに、私がそれとは別のこと言っていることにも不満を言っていた。
同じ家に住んでいる全員が外から玄関の鍵を閉めた時に外のどこかに鍵を隠すことをしなければいけないと決めて、
その決まりを守らせたいことを統一などという言い方で言い表していたが、悪く言えば命令、支配的、独裁的、指図とも言えることだ。

叔父が深夜にトイレに行った時に、水を流していないことに私の母親が水を流すように言ったことには、トイレの近くに私や母親が寝ているから起こさないために水を流していないかのようなことを言っていたらしいが、
別の時間帯にはすごい大きな音で部屋のドアを閉めている時もあった。
叔父は深夜のトイレに起きてきた時や朝方にトイレや洗面所の電気をつけたままにしている時があり、その明かりが眩しくて寝れないと私の母親が言っていた。
深夜にトイレの水を流さないことで音の面で人に気を使っていても、人のことなどほとんど分かるわけないのだから、明かりで不満を持たれていることには気づいていないので自己満足しているだけだ。

あいさつも同じことだ。あいさつしてほしい相手や、全ての人があいさつについて何を信じているのかを分かってもいないのに、
分かっていると信じていたり、あいさつされたのは嫌われていないと思うのも、あいさつは正しいと信じるのも自己満足しているだけだ。

 

65.女神と六人のあいさつ信者

 

 イソップ童話に金の斧と言う話がある。この話を書いた人が何を言いたいのか分からないが、この話の女神が出てくるところとかの一部を真似して、あいさつについての話を作った。題名は女神と六人のあいさつ信者。

ある時に六人の人が飲食店で食事をしていた。この六人は自分たちはウソをつかない正直者だと思っている、あいさつ信者だった。
そこに突然、女神が表れて、この六人に「あなたたちはあいさつをしていますか?」と聞いてきた。
ある者は「当たり前じゃないですか。あいさつしてますよ。」と言い、別の者は「毎日してます」と答えた。

女神は六人に「あなたたちは何であいさつをしているのですか?」と聞いてきた。
ある者は「あいさつは社会のルール。やらない人もいるけど
ほとんどの人はやってるよ。」と言い、別の者は「あいさつはコミニケーションのツールなんだよ。」と言い、「人間のルールだからやっているよ」という者や「常識です」という者もいた。

女神はさらに質問してきて「あなた達は誰にでもあいさつしているのですか?」と質問してきた。
六人は「誰にでもあいさつはしていないよ。ほとんどの人にあいさつはしていない。」と答えた。
女神は「あなた達は先ほど、あいさつをしていると答えたり、コミニケーションや社会のルール、人間のルールであいさつしていると答えたのに
何でほとんどの人にあいさつしていないのですか?」と聞いてきた。

六人のうちの一人が、「あんた、ひねくれててバカだな。あいさつのルールというのはな、あいさつされたら、あいさつ返しをするということをしなければいけないということなんだ。
どちらともがあいさつをしていないのならばあいさつしないことは間違っていないんだ。
あいさつされたのに、あいさつを返さないのは間違っているんだよ。
あいさつ返しさえ出来ていれば誰にでも絶対にあいさつする必要はないんだ。」と言った。
女神が「あなた達は、自分達はウソをつかなくて正直だと思っているのですよね。
あいさつをされたら、あいさつ返しをしなければいけないけれど、
どちらもあいさつしていないのならばあいさつしなくてもいいと勝手に決めつけたのですよね。
それをウソだとは言わないのですね。適当な決まりを決めつけて、
それをコミニケーションや社会のルールなどと言っているのですね。
あなた達は、あいさつについてウソを付いています。
あなた達ははウソを付くときもあれば、ウソを付かないときもあり、
あいさつを返すことが正しいと信じているだけで、あいさつを返すことが正しいという根拠はないのに勝手に正しいと信じているのです。」と言った。

 

66.テレビ局とスポンサー企業とあいさつ信者

 


テレビ局に金を出しているスポンサーには企業などがいる。
だからテレビ局側の人はスポンサーに都合の悪いことは言えないのだ。
例えば、肉を扱っている会社がスポンサーをやっているのに、
肉は食べてはいけないという番組など作らないだろう。
製薬会社がスポンサーをやっている番組で薬は体に良くないとか、
薬をあまり飲んではいけないとか、ほとんどの病気は薬を辞めたら治るなどという番組は作らないだろう。
牛乳を扱っている会社がスポンサーで、牛乳は人間が飲むものではないという番組など作らないだろう。

テレビ局で働いている人達もスポンサーの金でやっていっているのに、スポンサーに都合の悪いことを言って、
スポンサーから嫌われたら、今後もスポンサーをやってくれなくて金を出してもらえなくなるとか、
スポンサーに不満を言われても困るからスポンサーに都合の悪いことは言えないだろう。

あいさつも同じで、オウム返しであいさつ返しをさせるためにあいさつを初めにしてきた人は
相手を仲間扱いしていなかったり、大切だと思っていない場合が多いだろうから、そう思われている人たちが
オウム返しであいさつを返してあげないと不満や疑問を持ち、白眼視してきたり、奇異な目で見てきたり、
不満を言ってきたり、嫌がらせをしてきたり、身体暴力振るう人もいるが、
ほとんどの人はそんなことやられたくないだろうから、初めにあいさつしてきた人に合わせて、
あいさつ返す人の方が多いだろう。
相手に都合の悪いことをしたら、自分が不利益になるから相手に合わせているところがあるのは、
あいさつ非信者も、テレビ局とスポンサーのことも似ているところがあるのだ。

 

 

67.自分の気持ちや信仰心に正直で自分の気持ちにウソを付かなかった人の方が嫌われたり、悪く言われる場合と良く言われる場合がある

 

あいさつを正しいと信じていない人などがあいさつをしたいと思わないから、自分の気持ちや、信仰心に正直にあいさつをしなかったら、
初めにあいさつしなかったとか、あいさつ返さなかったとか、会釈だけしてきたと不満を持たれたり、不満を言われたり、嫌われたり、見下されたり、嫌がらせをされたりして損をするが、
関わる気もない人や嫌いなだけの人や、どうでもいい人に形だけあいさつをする人の方が褒められて高評価されるところがある。
どうでもいいと思っている人や、関わる気もない人に対して自分の気持ちにウソを付いてあいさつをした人の方が良く言われやすいところがあり得をするところがある。

江戸時代のキリスト教の信者も正直に自分のキリスト教の信仰を言った人の方が殺されたのだ。
他人の心理とはあまり触れ合う気もなく、他人の心理をあまり知る気もない人が、形だけ自己満足で他人に表面的に働きかけて、
あいさつをした人の方が良く言われやすい。

自分の気持ちに正直なことを高評価する時は純粋、ピュアなどと言い、低評価する場合はわがまま、勝手、変わっているなどと言う。
全くか、ほとんど知らない人に形だけのあいさつをして、相手のあいさつ返しを求めている人の方が正しい人にされていて無茶苦茶なのだ。
人の心理や信仰心を知るのではなくて、大勢と同じことを表面的にだけやり、大勢がやっていることを人間としてしなければいけないと思っているような人がいるのだ。
大勢と同じことをやっている人の多くは、大勢と同じことを感じているから、大勢と同じことをやったと思っている人もいるのだろう。
人間は自分が思いたいようにしか思わないし、本当のことを知ろうとはあまりしない人が多いのだろう。

人や世の中のことを勝手に決めつける自由はあるが、自分が内面で思ったことが何でも正しい、本当のことだということにはならない。
普段身の周りにいる、ごく一部の人にだけあいさつなどをして、喋りかけて、いつも自分の思い道りの反応が返ってきたり、
一部の人が同じ反応をしたら、他の人もみんな同じ反応を返すのだと無意識、意識的に思い、大体いつも周りにいる人が同じような態度しかとっていないと、それに慣れて、いつも同じ反応が返ってくると勘違いしている人もいるのだ。
自分が長年住んでいる地域に、自分が生きている時に災害がないと、自分の住んでいる地域には災害が来ないと思っている人もいるが、
いつもと同じようなことしか起きないと無意識や意識的に思っている人もいるのだ。
自分の思い道りにならないから、びっくりしたり、不思議がったり、不満を持ったりする。
表面的なものしか見ていない場合が多くて、相手の内面の心理が分からない場合が多いのだろうが、相手の心理や信仰心に全くか、ほとんど興味、関心がない場合が多いのだろう。

 


脱あいさつ あいさつは正しくない11

2022年10月20日 | 脱あいさつ

 

57.他人の姿は自分の姿な私の近所に住んでいる人達とあいさつ


私の家の隣の小野という隣人の老人の男が私をものすごい嫌っている。
以前、私は家の誰もいない部屋で独り言を言っていた。
その独り言の内容は色々だが、あいさつや金でやっていく世の中がおかしいというようなことも言っていて、あいさつや金でやっていく世の中が正しいと思っている大勢の人が加担していることに対する不満なども言っている。
この独り言が家の外に漏れていて、隣人の小野が私のことを嫌っているのだ。

ある日、私の家の隣の職場の方から小野の声で「うるせーんじゃ」という声が聞こえてきたことがある。
その時、私は独り言は言っていないが、私の家の隣の職場の人に小野が私が独り言を言っていることに対する不満を言っていたと思っている。
うるせーんじゃと言っている小野の声の方が私が独り言を言っている声より大きい声を出しているが、自分には甘いのだろう。

別の時には小野の家の庭の方から、私の叔母の同級生のエイちゃんと呼ばれている人と小野が喋っている声が聞こえてきて、言っている内容の全部を覚えていないが、小野が「それ以上でもそれ以外でもない」と言った後に、
えいちゃんと小野が大きい声でハハハハハと笑っていた。
その言っていたことは、私の悪口を小野が言っていたと思っている。それ以上でもそれ以外でもないと言った前の言葉は聞こえなかったが、
私のことについての悪口を言っていて、「あいつは独り言を言っている頭おかしい奴だ」とか「独り言を言っている気持ち悪い奴だ」というような感じのことを言い、その後に、それ以上でもそれ以外でもないと言ったことに2人が大声で笑ったのだろうと思っている。

数年前の夏に、小野の家から数メートル離れた所に、小野が以前に職場に使っていたトタンの建物があって、その建物の壁を外側から金づちか、何かを使って大きい音を出して何回も叩いていたり、クワの刃の部分を上に向けて大きい音を出して叩いていた。
これらの音は私の独り言に対する、小野の嫌がらせではないかと思っている。
なんにせよ、小野は外でこういう大きな音を出している自分のことは許しているのだろう。
小野は私の独り言の音の大きさが大きいからうるさいと思っているのではないのだ。
大きい音でうるさいなら花火の音や救急車の音や、音楽のライブなどの音
などはすごいい大きい音を出しているのだ。これらの音はうるさいとさえ思わなかったり、うるさくても許容範囲内の人が多いだろう。
ある時は私が独り言を言っていない時に「何をごにょごにょ独り言言よーんじゃ」と大声で言った後に、何かの大きな音が鳴ったのだが、
その音は多分、何かを蹴って出た音ではないかと思っている。

小野が出している音では、夏場に草刈り機を使って大きな音を立てていたり、自分も独り言を言っていたり、誰かと喋っていたりなどして、
私の独り言の声よりも大きい音を出しているが、自分が嫌だと思う音ではないものは許すのだろう。
誰でも自分に甘いところはあるだろうが、この小野もそうで、自分が可愛いから独り言の声が聞こえてくることには嫌な気持ちになって不快にり、
嫌な思いをしたことを私のせいにしたいのだろう。
自分が出している大きな音や喋り声で、私以外の人もうるさいと思っている人もいるだろうけど。
「うるせーんじゃ」と言っている小野自体が、私の独り言よりも大きな音を出していて、うるさい音を出しているのだ。
独り言を気味悪がる人はたくさんいるだろうが、独り言がうるさいという言い方よりは、独り言を言っていることを気持ち悪がって嫌がっている
ことをうるさいと言っているだけで、自分や他の人が出している音は、私の独り言よりも大きい音を出していても、ほとんど嫌がっていなかったり、
許容範囲内だろうから、独り言の声の音を嫌がっているのではないのだ。

同じ家に住んでいる叔父も私の独り言を嫌がっていて、私が部屋で独り言を言っていたのが聞こえてたみたいで、以前「精神病院へ行けー」と私に言っていたが、音の面では叔父が家のドアを凄い大きい音で閉める音を
近所の人が嫌がって音の嫌がらせ、仕返しをしてきているが、叔父は嫌がられていることに気づいていないし、別のことで叔父は「仕事で出している音に文句言われる筋合いねー」というようなことを言っていた。
自分が感じたことが大切なんだろう。自分が独り言の声の音で不快になったのには、独り言を言っている私のせいにしても、他人が嫌がっていることは他人事なところがあるということだろう。人間は自分が一番かわいいのだ。

小野が以前に私の家の隣で「はよしねー」と2回言っているように聞こえたことがある。
岡山弁で、はよしねーとは早く死ねと言っているのだろう。早く死ねと言っている相手は私のことを言っていると思っている。
小野が私が独り言を言っていることで凄い嫌っていて、私に死んでほしいと思っているのだと思っている。
自分が嫌な気持ちになった理由を多くの人は嫌がられている人のせいにしたがり、被害者を気取る人も多いだろうが、この人もそういう人だろう。
私の家の隣のエイちゃんの仕事の音は単調な機械の大きな音が外に響いているが、私はこの音をうるさいと思ったことはあるし、
他の人も思っている人はいるだろうが、お互い様とか、爆音ではないから仕方ないとか思っている人もいると思う。

小野の子どもの家族らしき人が数年前の夏の夜8時代ぐらいに外で何かを作っていて、単調な大きい音を何度も出していたが、小野は夜にこの音を出していてもうるさいとは思っていなさそうだ。
黒人と言う理由で見下したり嫌う人もいるし、嫌わない人もいるように、人が嫌がることは人によって違い、自分が嫌だと思わない音は許すのだろう。

以前、私が畑の出入り口付近にいた時に、小野が通りすがって、無言で大きく頭を下げてきたが、私の家の隣で大声で私の悪口を言っていたりして、私のことをあからさまに、すごい嫌っているが、形だけ頭を下げることをしてきた。
小野の奥さんが数年前に、私の家の近くで「なんで働いとらへんの」というようなことを言っていたのだが、それは、私や私の兄弟のことを言っていそうだ。
平日の日中に家から私たちの声がするので、給料という形で金を貰うようなことをしていないと断定して、本人がいるかもしれない所で大きな声で言ったのだと思っている。

エイちゃんは小野から何度も私の独り言の悪口、不満を聞いているだろうが、2021年に、私の家の隣で小野の奥さんに大きい声で「独り言大丈夫」と言っていて、私の独り言を問題視しているみたいだ。
えいちゃんが以前、近所のおばあさんがエイちゃんの家の近くの家のポストを開けて見ていたことに対して、一字一句覚えていないが、開けたらダメだか、見たらダメというようなことを言っていたのだが、人の姿は自分の姿なのだ。
人のことをおかしいとか、これはやったらダメと思っている人も他の人から同じことを思われていたりするのだ。
動物は食べてはいけないとか、影で悪口を言うのはダメだなどと思っている人もいるわけだ。
エイちゃんは小野が私の悪口を言っているのを知っているだろうが、その悪口をダメだとは思っていなさそうだし、小野が私の悪口を言っていることや、外で猫を飼っていることは、やったらダメだと言ったことがあるのだろうか?
推測だけど、エイちゃんは外で猫を飼っていることをおかしいとは思っていなさそうだ。
外で猫を飼うことをおかしいと思っていたり、猫の糞尿に迷惑している人がいるが、それをやったらダメだと思っていない人はおかしいとは思わないのだ。同じことに対しても同じことは思っていないのだ。

私の母親づてに聞いたのだが、私の住んでいる近所に住んでいるおばあさんが、誰かの家で何かを取ったと言われていて、真偽は分からないが大勢が泥棒と呼んでいることをしたらしく、そのおばあさんが別のおばあさんの近くにいた時に、「何か物はなくなってないか」というようなことを言ったらしい。
物を取ったと言われているおばあさんのことを見下してバカにしているのだろう。
泥棒と言われている人を見下して蔑んでいる人はたくさんいるだろうが、
刑法違反のことをしていなくても、人や人間以外の動物が嫌がることなど誰でもしているし、外で飼っている猫の糞や尿に迷惑して嫌がっている人もいる。
泥棒と言われている近所のおばあさんや刑法違反している人とそれ以外の人の違いは、人が嫌がることや、誰かが悪いとか、ひどいと思っていることをしていても、刑法違反か刑法違反ではないかの違いだけで、
誰かが嫌がっていたり、迷惑していることをしている点では同じだ。
ほとんどの人は誰かをバカにして見下すこと外に出して言ったりしていて、刑法の侮辱罪を犯していても、この法律が適用されることなどほとんどない。
自分達は刑法違反などしていないと思っている人もたくさんいるのだろう。

自分や好きな人や多数派には甘い人が多く、頭が悪くてバカなところは誰にでもあることだろう。
以前、私が家にいる時に「入っちゃいけん」という小野の声が聞こえてきたのだが、猫によその家に入ったらダメということを言っているのだろうが、
うちの家の庭とかに猫は入ってきているが、小野は気づいていなさそうだ。
うちの家の庭とかに臭いうんこが何回もあったのだが、小野のところの外飼の猫のうんこではないかと思っている。
誰でも自分の不快な迷惑は意識しやすいが、他人の不快さはほとんど分からないだろうし、分かっても自分がひどいと思うことではなかったり、
嫌いな人や、どうでもいい人などが嫌がっていても他人事であり、どうでもいいことだろう。

数年前に私が家のリビングにいた時に、外から「不審者がいると犬が吠える」と小野の声が聞こえてきたことがある。
その当時うちの家にはダックスフンドの犬が一匹いて、ウンチをする前などににワンワン吠えていた。
小野が私が独り言を言っていることを見下して嫌っているのを不審者という言葉で言い表し、私のことを悪く言っていたと思っている。

知っている人のことも、知らない人のことも人のことなどほとんど分からなくて不審だが、多くの人はほとんどの人のことは不審者とは呼ばずに
気味悪がっていたり、悪者扱いしている人などの一部の人のことだけを不審者と呼ぶ人が多いだろうが、みんな不審者とも言えるのだ。
小野は自分のことを不審者とは呼んでいないだろうが、小野も不審者だとも言えるのだ。
小野にしろ、それ以外の人達も、自分が地球の一部に住みついていて、自分の個人情報をほとんどの人には言わずに隠していて、
人の悪口を言ったりなどして生きていることを、ほとんどの人に言う気もないだろうし、普段何をやって、何をして生きているのかを隠して生きている不審だとも言えるのだ。だからみんな不審者だとも言える。
みんな言葉を自分に都合よく使っているのだ。それはあいさつにおいても同じことだ。

以前、私が家にいて独り言を言っていない時に、外で鳥がキーキー鳴いてたら、外から小野が大声で「うるせーんじゃー」と言っていた。
小野は鳥にうるさいと言ったと私は思っているが、私の独り言だけではなくて鳥にもうるさいと言っているのだ。
小野が「男か女か分からんのがテレビに出ているのが気に入らん」と言っているのを聞いたこともある。
鳥に大声でうるさいと言っているのを他の人が知ったら、あの人頭おかしいとか、心狭いとか思う人もいるだろうが、小野が私をおかしい奴、異常だと思っているのは間違いないだろうが、自分も誰かがおかしいと思うことをしているのだ。
金でやっていく世の中に加担していることで、大勢の人が迷惑しているし、
年金を取るのも合法の不正だし、みんなが年金払いたいなどとは思っていないが、合法をいいことに老人たちは年金を貰い、人が嫌がることや、迷惑することをやっているのだ。
あの人のせいで迷惑していると思っている人も、自分も人や人間以外の生き物が嫌がることをしていて、他人の姿は自分の姿だ。
人間の中には黒人という理由で見下して、嫌う人もいるし、誰かの顔をブスと思い嫌がる人もいる。何を嫌がるかは人によって違うのだ。
小野が私の独り言を嫌がっていても、みんなが嫌がるわけではないだろう。
独り言を嫌がっていても、少し気味悪がる程度の人もいれば、小野みたいにすごい嫌がって嫌悪したり、嫌がらせをしてくる人もいるのだ。

2021年の5月のある日、私の意識に「腐心者(ふしんしゃ)」という言葉が突然出てきた。
心が腐っているというような言葉にどういう意味でも付けれるが、自分が人や人以外の生き物が嫌がることをしても許したり、悪く言わないのに、
自分が嫌がることをした人のことは許さなかったり、好きな人や仲間がやったら許すのに、それ以外の人なら許さないとか、刑法違反した人の一部のことは悪く言って叩くのに、刑法違反していても悪いと思わない場合は悪く言わないような差別している人は腐心者とも言える。
言葉は言葉遊びなのでどうにでも使えるものだ。
不審者と腐心者は同音異義だが、不審者という言葉の定義、意味付け自体が人によって違うから、不審者という言葉も同音異義だとも言える。

小野は自分の思っている私に対する悪口などを私の家の隣で大声で言っていたりして私に悪感情を持っているので、これは小野がやったのではないかと私が思っていることをここで書くことにする。
数年前に私の隣の職場のところの大きな窓の2か所が割れていた。この職場はエイちゃんが働いている所で、エイちゃんは以前はこの職場の隣の家に住んでいたが、今は近所の別の場所に家を建てて住んでいる。
小野は外で猫を飼っていて、小野の家の母屋から少し離れた所にある建物の外にエサを置いてあり、猫が来ていたのを私も見たことがある。
数年前にエイちゃんのお母さんが大きい声で「猫にエサやっちゃダメだ」と外で言っていたのだが、小野に対して言ったのだと思う。
窓が割れていたのは、小野が猫にエサをやったらダメと言われたことに不満を持ってやったのではないかと私は思っている。
私のこの推測が外れていても別に悪いとは思わない。私のこの推測が外れていようが、当たっていようが小野はいかにもガラが悪い人物だ。
ひどいと思うことをしていることをガラが悪いと言うならば誰でもガラが悪いとも言える。
例えば牛、豚、鶏などの動物を食べるのはひどい、かわいそうと思う人もいるが、多くの人はこれらの動物を食べることをひどいとは思っていないだろうが。

2021年の5月のある日曜日の夕方に私の住んでいる家の裏のところに私がいた時に、エイちゃんの声がして、何か喋っていたが初めの方は内容が聞こえなかったが、その後、「巻き込まれる」という声が聞こえた気がした。巻き込まれるの前に独り言と言っているようにも聞こえたが、
この時に聞こえた内容は私の聞き間違えの可能性もあるが、もし「独り言に巻き込まれる」ということを言っていたとするなら、エイちゃんは小野が私の独り言のせいで迷惑しているんだということを話題に出していた可能性もある。
生きていて誰かを巻き込んでいない人などいない。
あいさつを返させたいがために初めにあいさつをするのも、あいさつ返させたい相手を自分の信仰や欲求に巻き込んでいるとも言えるが、一般には巻き込みなどとは言われずに、常識や社会のルールなどと言って良い感じの言葉で言い表す人が多いだろう。
正しいと信じていることを他の人にやらせようとすることは巻き込みとは言われにくいのだ。
この人達は自分達やそれ以外の人などが出している車の走行音、車のドアを閉める音、誰かと喋っている声、エイちゃんの職場の音、近所で家を建てる音、雨の音、猫の声など、自分達は私の独り言よりも大きい音を出していても、ほとんどの音に不満はなくて問題視はしていないか、不満はあっても許容範囲内だろうに、私の独り言には不満を言ったり、見下したり、問題視していて差別をしているのだ。
差別していない人などいないが、この人達も差別者の意地悪ジジイ、意地悪老人だ。

私は以前は午前5時代や6時代には起きていないことが多かったのだが、2021年の時にはこの時間帯に起きていることが多くて、午前5時か、6時代に私の家の近くから車のドアを閉める音が連続して2回や3回聞こえて、それから数分経った時に、また連続して2回か3回ぐらい車のドアを閉める音が聞こえることが何度もあった。別の人が同じ時間帯に違う車に乗った時にドアを閉めているのではなくて、同じ人が連続してドアを閉めているような感じがしたのだが、初めに音がして、数分経って聞こえた連続してドアを閉める音も同じ人がやっているような気がした。
小野のところ以外の近所の人が、うちの家から聞こえる大きい音を出してドアを閉めることに不満を持っていて、音の嫌がらせをしてきているので、
朝の車のドアの音も、うちの家から出るドアの音に不満を持っている近所に住んでいる老人の別の所に住んでいる息子が
朝にドアを閉める嫌がらせをやっている可能性があると思っていたのだが、
2021年の5月ぐらいの午前6時前ぐらいに私の家の近くから車のドアを閉める音が何回も聞こえた後に私は庭に出て、音が聞こえた方を見たら軽自動車が小野の家の方から出てきた後、小野の家の方か、駐車場の方から乗用車が出てきたのだが、うちの家のドアを閉める音に不満を持っている人の車の色ではなかったので、その人が車のドアを閉めているのではないかもしれないと思った。

2021年6月6日に、朝に何回も車のドアを閉める音を出しているのは小野の息子かもしれないと思ったのだ。
その理由は、この日の朝7時代に車のドアを閉める音が、いつもよりもたくさん短時間の間に同じ方向から聞こえてきた。
その後、数時間後の午前中に私の家の近くから車のドアを閉める音が一回聞こえて、少ししてまた同じ方向から車のドアを閉める音がした。
私は母屋から離れている2階建ての建物の2階に行き、窓から小野の家の方を見たら、家の隣に乗用車が置いてあって、その車の運転席側に30代ぐらいの細身の男が一人いた。
この男が上の服を脱いで車の運転席のハンドルの上に服を置いた後にドアを閉めたりして、私が2階から見ている短時間の間に3回ぐらい運転席側の
ドアを閉めたのだ。ドアを連続して閉めたのではなくて、一回閉めた後に、次にドアを閉めるまでに少し時間が経ってから閉めていた。
この日の朝7時代に車のドアを何回も閉める音を出していたのも、この人ではないのかと思った。
小野の家の母屋から少し離れた所の建物に誰か住んでいるみたいで、小野の家の隣においてある車のドアを閉めていた人がそこに住んでいるのではないかと思っている。
私はこの人を小野の息子だと思っていて、小野から私の独り言のことを聞いていて、親が嫌がるようなことしているのが気に入らないと思い、
音の嫌がらせを私にするために車のドアを何回も閉めていると思っている。
この小野の家のすぐ隣においてある車から私の独り言よりも大きいドアを閉める音が短時間の間に何回もしても小野は不満を全く持っていないのか、
うるさいと思っていても許容範囲内なのだろうか?小野はドアを閉めている本人がいる所や、いない所で「何をバンバン、ドア閉めているんじゃ」とは言わないのだろうか?
私のことには、わざわざ家の中から出てきて、今まで何回か大声出して独り言で「何をごにょごにょ独り言言よーんじゃ」と言っていても、
他のほとんどの音に対しては不満を言ったりなどしていないのに、気に入らなくて受け付けないものには外で大声でケチをつけている。
2021年の1月に私の家の近くで、朝の6時代ぐらいに車のクラクションを数回立て続けに鳴らす音が聞こえたのだが、クラクションを間違って鳴らしていたのなら、数回もクラクションの音は聞こえないだろうから、
意図的にクラクションを鳴らしているとしか思えないが、このクラクションを鳴らしている人と、朝に連続2、3回車のドアを閉めているのは同じ人がやっていて、それは小野の子どもだと思っている。

2021年半ば頃の夕方ぐらいに、私の住んでいる家で、私の母親がスマホで大きい声で喋っていた時に、近距離の小野の家の方から大きい音で家のドアを閉める音が一回聞こえた。車のドアを閉める音ではないと思った。
私はその時間帯に家にいることが多いが、普段はドアを閉める音など聞こえない。
小野の息子が私の母親の喋る声を聞いて独り言だと思ったのか、独り言だと思っていなくても、自分の親が嫌っている人が住んでいる家から
声が聞こえてきて不快になり、不快になっているのを喋っている私の母親のせいだとでも思って、不快さを発散させるためか、
音で嫌な思いをさせるために一回ドアを閉めた可能性もあると思っている。

音で自分や家族が嫌がっているから、自分も嫌な音を出している人に音の嫌がらせをしてやろうと、車のドアを閉めるなどの大きい音で嫌がらせをすることで、その嫌がらせの音が家族や、嫌いではない他の人にも聞こえていることを分かっていて、音の嫌がらせをしているバカ低俗なことをしているのだ。独り言を言っている私が悪気があって独り言を言っているとは思っていなくても、自分が出している嫌がらせの音で独り言を言っている私に嫌がってほしいと思っているなら、嫌ではない近所の他の人や自分の家族にも嫌がらせの音が聞こえているなら、自分も同じようなことをしているようなものだ。
ネットで知ったのだが、近所の人の門を閉める音に手紙で音をどうにかしてほしいと言おうとしている人や、直接本人にドアを閉める音がうるさいと不満を言っている人がいるが、具体的に言葉で言っているのは分かりやすい。音が気に入らないからと、音で嫌がらせしてきて、はっきり言葉で言わない形でしつこい嫌がらせをしてくる人もいるのだ。

2021年の5月ぐらいの時に、私が家にいるときに、近所のイノウエというバアさんの声で「ほとんど毎日独り言を言っている」というような声が聞こえたのだが、隣人の小野かエイちゃんなどが直接か電話などで私の独り言のことをこの人に言ったのかもしれないと思った。
その後の2021年5月に私が家にいる時に、イノウエのバアさんの声で「ほったらかしにされている」というような声が聞こえた気がしたが、
聞き間違いではないならば、独り言をほとんど毎日言っていて、小野が嫌がっているのに独り言をほったらかしにされていているという意味で言っている可能性があると思った。
誰でも自分がやっていることは、ほったらかしにされていて、泳がされていて、野放しにされているところばかりだ。
褒められて高評価されているのも、一部の人が褒めていて、一部の人の利益になるようなことをしているだけで、他の誰かは嫌がっていて迷惑していたり、不正だと思っている場合もあるが、誰かが嫌がっていたり、正しくもない不正でも泳がされていて、ほったらかしにされているのだ。
このばあさんと、ばあさんの夫は私が初めにあいさつをしないことに悪態ついているが、それを誰かから否定されたり、不満を言われてはいないだろうから、その悪態をついていることに対して、ほったらかしにされていて泳がされているのだ。
私が独り言を言っているのは事実だが、家で言っている独り言のほとんどは外に聞こえているとは思わない。
小野はエイちゃんとかに、私がほとんどの独り言を言っているとウソを言っている可能性があると思っている。
私はほとんど毎日独り言など言っていないし、家で言っている独り言のほとんどは外には聞こえているとは思わないし、小野は私が言っていた独り言のほとんどなど聞いていないのに、事実に尾ひれを付けてウソを付き、自分が独り言のせいで迷惑して、苦しんでいると他の人に言っているんだろう。自分達も今まで生きてくる中で誰かが嫌がることをして生きてきているだろうけど、それに全く気付いていないのだろうか?

あいさつ信者は、あいさつが正しいことではないのに一度もあいさつについて否定的なことを言っている人の言い分を見聞したことがない人が多いだろうから、あいさつは正しいという信仰が泳がされていて、野放しにされて、放置されて、ほったらかしにされているのだ。
間違っていると思うことをやっていると思う人に対しては、本人を直接止めたり、影で不満を言い悪口を言ったりするが、自分が間違っているとは思わないことに対しては、止めたりはせずに、ほったらかしにするのだ。
誰かに対して、ほったらかしにされていて放置されていて、おかしいと思う人は自分も色んなことをほったらかしにされて泳がされているのだ。

団塊世代の老人について、団塊世代は人の言うことを聞かないとか、団塊世代にはオレ様が多いとか、団塊世代は頭おかしいと言っている人もいる。一方で団塊世代は頭いいと言っている人もいた。
団塊世代についてみんなが同じことを思っているわけではないが、
小野やエイちゃんと呼ばれている人や私の叔父や叔母などは団塊世代ぐらいの人だが、自分たちが人からどう思われているのかは長年生きてきてもあまり分かっていないだろう。

ほとんどの人は金でやっていく世の中が正しいと信じている金信者だろうが、金でやっていく世の中など不正であり、金でやっていく世の中で大勢が迷惑して苦しんでいる。
でも、自分たちほとんどの人は金社会で苦しんでいる人がいても関係ないと思っている人が多いだろう。
金でやっていく世の中をやったらダメとか、あいさつ返しをしろと押し付けたらダメとかはほとんどの人は思わないだろう。

あいさつでも同じことで、自分の思い道りにならないから不満や疑問を持ったり、気持ち悪がったりする。
自分が正しいと信じているところがあるのに、自分が正しいと思っている通りにならないから気に入らないのだ。
例外除いて逮捕されるようなことをやっていなかったり、自分がひどいと思うことをやっていないから、自分はおかしい人間ではないと思っている人がたくさんいるのだろうけど。

 

58.人が嫌がることをしている点ではあいさつ信者もレイプ、強姦、痴漢、痴女と同じだ

 

ある日、私の母親が夜に炊飯器にご飯が全くなかったのか、少ししかなかったのか、ごはんを炊き忘れていたということを喋っていて、
「気づいた時にやっておかないと」というようなことを言ったのだが、
私の母親だけではなく、他の人も以前に何かを思った時にすぐにそれをやっておけばよかったと思ったことがある人もいるだろうが、
思ったことをすぐやったり、言うことで周りの人から高評価されて褒められる場合もあるだろうが、逆に低評価される場合もあったり、
低評価する人と高評価する人の両方がいたりもするだろう。
周りの人以外の人の評価も含めると、同じことに対して人類全員が同じことを思うことはないだろう。

誰でも視野が狭いところがあり、全体性や総体性がなく、一部のことしか知らないのに人や物事に評価を下すのだ。
自分が正しいと信じていることがある人の多くは、自分と同じことを信じている人の言い分を持ち出して、いかに自分が正しいかを言うだろう。
より多くの人が自分と同じことを信じていると安心したり、自分たちの方が正しいと思うのだろう。
それが本当に正しいことならいいが、正しくもない間違っていることを正しい真実だとまかり通らせている場合がたくさんあるだろう。

人が嫌がることをやっているのは同じことなのに、多くの人はほとんどのことでは人が嫌がることをしても許したり、大したことではないと片付けるだろう。
嫌がられた方が悪くて問題があるとされる場合と、嫌がった方が問題があるとされる場合や、どちらにも問題があるとされる場合と、どちらにも問題がないとされる場合がある。
刑法違反は警察を呼ばれた場合、本人や他の人が逮捕をおかしいと思ったり、悪いと思っていなくても警察が強制で逮捕して牢屋にいれる。
ほとんどの法律や法律以外の決まりは守らなくても許されやすいし、不満を持たれたり、悪いと思われても逮捕されるようなことはないのだ。
だからみんな野放しにされていて、泳がされているところがあるのだ。強制で逮捕されるわけでもないし、大勢がやっていることはまかり通りやすいから、自分達がやっていることで誰かが嫌がっていて迷惑していても、ほとんどの人は逮捕などされないし犯罪者とも言われずに差別しているのだ。
同じことをやっても、自分や好きな人などがやれば迷惑だとは思わないか、大目に見て許すことも、他の人が同じことをしたら迷惑だと思い許さないような差別をしている場合もあるのだ。

人の体に触ったり、セックスしたりするのを片方が嫌がって警察を呼ぶと刑法違反で逮捕されて犯罪者などと言われる場合がある。
例外あれど、他人のお尻や性器や胸を触って、触られた方が嫌がったら警察を呼ばれたり、痴漢や痴女、変態、変質者などと言われたりする場合がある。
例外は結婚相手や交際相手が同じことしてきた場合は触られた方が嫌がっても痴漢、痴女と言われにくいだろうし、警察も呼ばれにくいだろう。
セックスをして相手が嫌がっていたらレイプや強姦などと言われたりするが、セックスをしたのがお互いが性的両思いなら警察も呼ばれないし、愛の確認だとか、恋愛とか、気の交流やコミニケーションなどと言われて良い感じに言われるのだ。
例外あれど、性的両思いでセックスしたり、キスしたり、抱きしめたり、手をつないだりすることをやれば素晴らしいものと高評価されたりする。
例外は結婚している人や交際している人が、結婚相手や交際相手以外の人とセックスしたり、キスしたりすることを良く思わない人もいる。

初めに嫌がった方が悪く言われる場合があるが、あいさつは違うところがあるのだ。
初めにあいさつをしてきた人にあいさつ返すことを嫌がっていると、例外あれど、嫌がった方が異常者のおかしい奴にされやすいだろう。
何でかというと答えは簡単で、大勢があいさつ信者であいさつ返すことが正しいと信じているからだ。
だから自分が正しいと信じていることをしない方が間違っていておかしいと不満を持ったり、気味悪がるから、あいさつ返さない方がおかしい人や異常者扱いされるのだ。
あいさつ非信者もいるし、あいさつ信者でも知らない人にはあいさつしなくてもいいというあいさつルールを信仰している人もいるわけだが、
あいさつにおいては、誰かがあいさつを嫌がっていても、相手が嫌がることをやった方は悪くは言われにくいのだ。
大勢と同じことをしておけば何とかなると、関わる気もない人や大切でもない人や軽視している人や好きでもな人や両思いでない人にあいさつする人が多いだろうが、あいさつを返されない人の方が不快な気持ちにさせられた被害者と思っている人もいるのだ。

あいさつもレイプや強姦、痴漢、痴女と同じようなところがあるのだ。
みんながあいさつしたいとは思っていないし、一部の人にはあいさつを初めにしたいとか、あいさつ返したいと思っている人も、誰にでもあいさつしたいとか、誰にでもあいさつ返したいなどとは思っていないのだ。
あいさつはコミニケーションのツールだと言う人がいるが、誰かが人に喋って、喋りかけられた相手が返答することや、人の体を触ることをコミニケーションと言うのならば、警察の職務質問や取り調べや、手錠をかけたり、腰縄をつけたり、不満を言い合うのも、レイプや痴漢もコミニケーションということになる。
適当な言葉の定義で大勢がやっていることや、自分がやっていることを美化して良く言いたいから、あいさつをコミニケーションなどと言う人がいるのだろう。自分が正しいと信じていることや、大勢がやっていることを美化して、綺麗事を言いたい人だったり、嫌がらせであいさつしている人がいるのを知らなかったり、あいさつを嫌がっている人がいるのを知らない人に、
あいさつを褒める人が多いと思う。
嫌々あいさつしたり、相手と関わりたいと思っていなくても、あいさつを正しいと信じていない人があいさつしても、コミニケーションなどといい、まるでみんなが同じ理由であいさつしているかのようにも思えるような言い方をするのだ。
あいさつを初めにする人は例外あれど、好きではない人や、嫌いなだけの人や、関わる気もない人や、どうでもいい人や、両思いではない人に
あいさつする場合が多いだろうが、そんな相手に気を使わせてあいさつ返ししてもらおうとしていることを、人間の正しさだと信じている人がいるのだ。

あいさつやあいさつ以外のことで人が嫌がることをしている点ではレイプや強姦、痴漢、痴女と言われている人と同じなのだ。
あいさつをするのを嫌がっているのにあいさつさせたがるのは、あいさつレイプ、あいさつ強姦、あいさつ痴漢、あいさつ痴女とも言える。
レイプや強姦、痴漢、痴女をしたと言われている人は、刑法違反で警察に逮捕されるようなことだから犯罪や犯罪者などとも呼ばれるが、
ほとんどのことは誰かが嫌がることをしても、刑法違反ではないから罪や犯罪とは言われにくいのだ。

他人の気持ちが分からないところがあり、人が嫌がることをしている点では同じなのに、大勢が正しいと信じていることや、大勢がしなければいけないと信じているあいさつなどのことは、誰かがあいさつ返しをすることを嫌がっていたり、あいさつを正しいと信じていなくても、
あいさつ返さない方が悪く言われたり、おかしい人間にされやすい。
レイプや痴漢と言われているものでは嫌がられている方が悪く言われるのに、オウム返しであいさつ返しさせるためにあいさつを初めにしてきた方に、あいさつされた人があいさつ返ししなかったり、会釈だけしたら、白眼視されたりして変な目で見られて、不満を持たれたり、
身体暴力をやってきたりして攻撃してくるのは、自分のあいさつ返しが正しい信仰がまかり通らないことで不満を持ち、
不満を持った理由をあいさつ返ししなかったり、会釈だけした人のせいにして自分が信じていることの方が正しいのだと自分のことを正当化させたいのだろう。
人が嫌がっているのにあいさつを求めることをあいさつレイプ、あいさつ強姦、あいさつ痴漢、あいさつ痴女と言ったが、内面レイプや、心レイプ、ハートレイプや、内面強姦や、心強姦や、内面痴漢や、内面痴女とも言えるし、信仰レイプとも言える。
自分が断定的や半信半疑に信じていることを人に押し付けることを常識や当たり前、躾、マナー、社会のルールなどと呼べば綺麗事にできて美化できるが、みんなが同じことなど信じていないのだ。
人が嫌がることを暴力と定義づければ、あいさつを嫌がっている人がいるし、みんながあいさつを正しいとは信じていないのだから、
あいさつは暴力やバイオレンスとも言える。常識という名の暴力とも言えるし、大勢が信じていることが正しいという多数派の暴力とも言える。

あいさつ信者は、あいさつ返しはしないといけないという信仰をあいさつ非信者にも押し付けているが、綺麗事や美化をする場合は、社会のルールやコミニケーション、常識やマナーなどと良く言って美化して、
大勢が信じていることや大勢がやっていることを良く言いたい人もいるのだろう。
あいさつ返されなかった方が被害者で、あいさつ返さなかった方がひどい加害者に仕立てている人もいるのだ。
あいさつは例外あれど、大勢と同じことをしない少数派(マイノリティー)が悪者、加害者にされやすいといういい例だろう。
自分や自分の仲間や善人と思っている人からあいさつされたら嬉しいだろ、光栄だろとでも言いたいのだろうか?

一般にレイプや痴漢などと言われていることについては、多くの人がひどいことだとか、性的両思いでもないのに性的なことはやったらだめだと思っているから悪く言われるが、あいさつを初めにしている人を悪く言う人や、あいさつを嫌がる人があまりいないであろう理由は、
人はみんなあいさつされたら、あいさつを返しをしたいと信じていると勝手に間違ったことを信じている人が多いのだろうし、あいさつを初めにされて嫌がっている人がいたり、あいさつ返しを正しいと信じていない人がいることを知らないのだ。
誰でも世の中のことも人間のことも知らないことだらけなのに、あまりそのことに気づいていない人もたくさんいるのだろう。
誰でも鈍いところや頭の悪いバカなところがあるのだ。
あいさつに対する信仰が真逆で、あいさつは正しいと信じている人と信じていない人がいて、同じことを信じていないのに、あいさつされたらみんながあいさつ返しをしなければいけないと信じているあいさつ信者は、あいさつ非信者や知らない人にあいさつしなくてもいいと信じているあいさつ信者の方の信仰を知らないのに、みんな自分と同じことを信じていると勘違いしているのだ。

同じことを信じていないことを信仰の両思いではないと言うとすれば、あいさつ返さない人に不満を持つ人や、初めにあいさつしないことに不満を持つ人は、一方的な片思いをしているとも言えるのだ。
あいさつにおいては信仰の両思いだと思っていて、自分と同じことをあいさつにおいては信じていると思っているから、絶対あいさつ返されると自信を持って知らない人や、仲良くもない知っている人にあいさつする人が多いのだろう。人間はみんなあいさつ返すのだという間違った信仰を持ち、自分の心が大切で、相手のことを分かっていないし、全く大切でもないか、ほとんど大切でもない人にあいさつしている場合が多いだろうけど。
もし、自分より相手が大切ならば、あいさつ返さなかったとか、初めにあいさつしなかったことで不満など持たない人の方が多いだろう。

今まで性的両思いだった恋人2人がいて、男が女の胸を揉んだら女から嫌がられて、その後も男がキスしようとしたら嫌がられたら、男の方が自分は今までは性的に受け入れられていて、女の方も性的なことで喜んでいたけど、
もう女の方は自分に性的な好意は持っていなくて、性的両思いではなくなったんだと気づいたようなものだろう。

何かについての経験があるという人も、一度か数回やっただけで、そんなにたくさんやったことはなかったり、同じことに対する経験がたくさんあるという人も、その経験を同じ人ばかりにやっているわけではないので、経験豊富というように言われている人が、その経験したことについて、必ずしも良く知っているとは言えないのだ。あいさつでいえば、
60代の人があいさつを子どもの時からやっていて、あいさつ歴は60年以上で、あいさつ経験が豊富だと言ったとしても、
実際はほとんどの人にはあいさつしてはいなくて、いつも大体決まった同じ人にばかりにあいさつしていて、たまに知らない人にあいさつしたことがあるだけで、ほとんどの人にあいさつしたこともないのだ。あいさつの経験が豊富な人ではなくて、あいさつ経験が少ない人とも言える。
自分が今まで数少なすぎる人にあいさつしてきたら、自分からあいさつされた人全員がオウム返しであいさつ返してきたから、
他の人もみんなオウム返しであいさつ返すと思った人もたくさんいるのだろう。
今まで1000回のあいさつをした人がいても、あいさつした人数は12人や25人や9人や42人にしかしたことがないようなものだ。
1000回のあいさつをしたから、1000人にあいさつしたということにはならない。
1000回のセックスをしたから、1000人とセックスしたということにはならない。

 

59.あおり挨拶

 

あおり運転と言われているものがあるが、前を走っている車の運転を遅いと思って不満を持った人や、信号が橙色で前の車が止まっている時にクラクションを何度も鳴らしたりしているのをあおり運転などと言うが、
あいさつもそれ以外のことも煽りなどたくさんあるのだが、「煽り(あおり)」という言葉で言い表していないだけなのだ。
親や先生などが子どもに、自分が正しいと信じていることや、正しいと信じてもいないのに親の見栄や体裁のためにあれをやれとか、これはやるなと言うと、しつけや教育、育てる、教えるなどという言葉で言われたりする場合が多いだろうが、言われた方の子どもは正しいと信じていないことを押しつけられたと思っている人もたくさんいるだろう。
自分が正しいと信じていることを人にやれと言うことを煽っているとは多くの人は言わない。
言葉の言い方として、何かをやれとか、やるなと言うことを煽りという人はあまりいないのだが、煽りとも言えるのだ。

間違っていることを言っていると思っても煽りとは言われにくい。
ごく一部のこととか、あおり運転といわれていることには、煽りという言葉を使うのだ。
あいさつも煽りと言えるが、学校で子どもにあいさつをしろと言うことを押し進めて、あいさつ返しをさせようとすることを、あいさつ運動と言っているのも「あおり挨拶運動」とか「あいさつが正しいことであると煽っている」とか「あいさつ返しをしろと煽る運動」とも言えるのだ。
人を自分の思い道理にさせたいと思っていたり、自分が正しいと信じていることを自分以外の人にも同じことを信じさせたいと思うことを煽りとは言わない人が多いのだ。
あおり運転の場合は、多くの人がそれをやらない方がいいと思っているだろうから、煽っているという言葉はおかしいとは思わない人が多いだろう。

私の家の近所のイノウエ夫婦があいさつを初めにされないことに不満を持っていることを私に直接言葉で言っていなくても、態度や目つきなどで私が初めにあいさつしないことに不満を持っているのは分かるわけだが、
ほとんどの人は、あいさつを初めにしろとは言っていないならば煽ってはいないと思うだろうが、言葉などは言葉遊びであり、自分達も適当に色んな言葉に勝手な定義、意味付けをしてい生きているのだ。
イノウエ夫婦のような感じの態度の人を、「無言の煽り」「静かな煽り」「サイレント煽り」「はっきり言わない煽り」という感じだ。

年金や税金払えとか、値段がついるいているものに金払えというのも煽りとは言われない。
年金や税金を払うことを正しいと信じていない人でも、「年金、税金払えと煽られた」とはほとんどの人は言わないだろう。
煽りなど誰でもやっているのだ。何を煽っているのか、どういう煽り方をしているのかが違うだけだ。
結局は目くそ鼻くそ、五十歩百歩で、まったく同じではないけれど似たようなものなのだ。
あいさつを初めにしてほしいとか、あいさつ返せと言葉で言っていようが、言っていなかろうが、一部の人にだけあいさつをさせたいと
多くの人が思っていることは同じだ。
あいさつしてほしい人が、自分にあいさつさせたい人があいさつしなかったことで不満を直接言っていても、内面で不満を持っているだけでも、
本人がいない所で他の人に不満を言っていても、言葉以外で悪態ついたり、いかにも不満持っているような
態度を取っているのも、不満の表し方が違うだけであいさつしないことに対して不満を持っているのは同じなのだ。

私が20代の時に、イズミヤの総菜で働いていたのだが、キョウさんと呼ばれている中年の女の人がいて、この人のいくつかの私に対する言動は、私のことをバカにして見下しているとしか思えない言動を取ってきていたが、
ある時、私の右側にキョウさんがいて、キョウさんが私に何か仕事のことを言った時に、私が無言で何も喋らなかったら、「返事せなあかんでー」と言っていたのだが、誰かだったら、返事をすることは人としてしなければいけないことと思うのだろうが、返事しないとダメだと返事しなかった人に不満を持った人は、誰に対しても、どんなことを喋られても返事しなければいけないなどと信じているわけがないのだ。
あいさつで言えば、誰にでもあいさつしてほしいと思っていなかったり、あいさつ返さなかったのが嫌いな人や、好きではない人ならば
許さなくても、好きな人や仲間ならば許したりするようなもので、
喋ったことに返事をしないことに不満を持つのも、以前から相手に不満を持っていて相手を見下していたり、仲間だと思っていない人だったり、
嫌いなだけの人だったりするから、返事をしなことに不満を持つ場合の方が多そうだ。
キョウさんが私に「返事せなあかんでー」と言ったのは私のことをバカにしていたり、格下に見ていて、仲間だと思っていないから
上から目線で言ってきたと思っている。この人を良く言いたい人は躾や教育とか、人間としての正しさを教えるために言ったと思うのだろうけど。
もし同じ状況下で、好きな人やこの人の家族が無言で返事しなくても同じことを言ったのだろうか?

別の日にキョウさんが天皇家の以前の天皇、皇后の娘のサーヤと呼ばれている人が結婚した時のことを話題に出していた。
一字一句はっきり覚えていないが、結婚式のサーヤの服装のことについて「あれ性格やで」とキョウさんが言った後に、
私の親と同い年ぐらいの団塊世代ぐらいのおばさんが、一字一句はっきり覚えていないが、「ああゆう立場の人だから、ごちゃごちゃ言われるやん」というような感じのことを言った後に、キョウさんは無言で黙っていて返事などしていなかった。
他人が喋ったことにキョウさんも他の人も絶対返事をしなければいけないとは思っているわけがないのだ。
天皇家の人のことについて、「ごちゃごちゃ言われるやん」と言った人の言いたいことは、天皇家の人がやることは税金から金を取っているので、
結婚式を派手にしたり、服を派手にしたりして金をたくさん使っているようなことすると、税金を使うことに誰かが不満をごちゃごちゃ言う人が出てくるから金をそんなに使えないだろと言うようなことを言いたかったのかなと思っている。

キョウさんは別の時にも、洗い物をするシンクの水が流れていくところの小さい受け皿に野菜くずとかが溜まったいた時に、
大声の金切り声で「何回言うたら分かるんやー」と私に不満を言ったのだ。私のことを仲間だと思っていなかったり、見下しているから、
以前、受け皿に溜まった物を捨てろと言った簡単なことが出来ていないことも気に入らないと思って怒鳴ったと思っている。
キョウさんは別の日に私に対して「お母さんの手伝いしてなかったみたいやな。」と言ってきたのだが、私のことをバカにしていて嫌味で言ったと思っている。


脱あいさつ あいさつは正しくない10

2022年10月20日 | 脱あいさつ

目次

第1章から第9章へのリンク
第10章から第12章へのリンク
第13章から第20章へのリンク
第21章から第23章へのリンク
第24章へのリンク
第25章から28章へのリンク
第29章から37章へのリンク
第38章から47章へのリンク
第48章から52章へのリンク
53.みんな色んなことを無視しまくっている
54.同じ言葉を同じ意味で使っていない みんな泥棒の差別社会
55.みんな自分の思い道りにしたいところがある独裁者であり、犯罪者でもあるとも言える
56.ゴミ捨て場のことなど みんな犯罪者とも言える
第57章から第59章へのリンク
第60章から第67章へのリンク
第68章から第75章へのリンク
第76章から第81章へのリンク
第82章から第86章へのリンク
第87章から第93章へのリンク
第94章から第99章へのリンク

 

53.みんな色んなことを無視しまくっている

以前ネットで誰かが書いていたことで、一字一句はっきり覚えていないが、
一番冷たいことは無視だというようなことを書いていた人がいる。
まず、無視という言葉の定義自体が人によって違うが、
多くの人の無視の定義は、喋りかけたり、あいさつをして返事をされなくて無反応なことを無視と定義づけている人が多いだろう。
自分の思い道りに返事をせずに無反応なことを気に入らないとか、おかしいと思っていて、一方で、返事をしても自分が気に入らないことを言ったら、不満を持ったり、嫌がらせをしたり、身体暴力をやったり、裁判を起こしたりなどする場合もあるのだ。
つまり、返事をしても、無反応でも自分が気に入らない態度を取れば、何をやっても不満を持つのだ。  

関わる気もない人や、どうでもいい人などに形だけ自己満足であいさつしたり、喋りかけたことをやさしいとか、思いやりとか、常識人とか、いい人などと言い、自分や自分と同じことをしている人を褒め称える人もいるだろうが、形だけの対応をされることを嫌がる人もいる。相手の心理や信仰心を知らないし、知る気もないことを相手のことを無視しているとは言わない人が多いだろう。
自分やほとんどの人を悪くは言いたくない人が多いのだろう。
どうでもいい人や大切ではない人に、形だけ喋りかけて気を使ってあげたなどと思って、自分や好きな人を良く言っても、形だけの対応をされた人が何を思ったのかの心理に全くか、ほとんど興味、関心もない人は相手の心理、信仰心を無視しているとも言えるが、どうでもいい人や大切ではない人に喋りかけてあげたり、あいさつをしてあげたり、アメやお菓子などをあげたから、相手のことを無視していないというのは綺麗事でカッコつけていて、自分達のことを悪く言いたくないのだ。

下らない言葉遊びをしていて、全くか、ほとんど興味、関心がない人に対して形だけの応対をしたり、一部のことにだけ興味があって喋りかけたり、一緒に行動したから、その人のことを無視していないというのだろうが、
その人のほとんどのことについては無視しているとも言える。

一切興味がない人に形だけあいさつし、あいさつ返されたら相手と繋がり、コミニケーションをしたと都合のいいように捉える人もいるのだ。
世の中や人間や人間以外の生物のほとんどに興味、関心がない人の方が多いだろうが、その興味がない対象のことを無視しているとも言える。
例えば、Aさんが作家のBさんのある本に興味を持って読んでも、Bさんが他にも本を書いているのに、Bさんの他の本には興味がないので読む気もなくても、AさんはBさんの本を一冊読んだからBさんを無視していないなどと言うのだろうが、Bさんのほとんどを無視しているとも言えるのだ。

あいさつをする人のことをコミニケーション能力が高いなどと言う人がいて間違ったことを思っているが、あいさつしている人は大切ではない人や、どうでもいい人にあいさつしている場合が多いだろうが、そんな形だけのあいさつをしている人は、あいさつをさせたい人のあいさつに対する信仰心や心理や体調を考慮、配慮などしていない場合が多いだろうから、
「相手の色んなことを無視してあいさつしている」とか「無視している人にあいさつした」とも言える。
でも多くの人は、関わる気もない人や興味がない人や、少しだけしか興味がない人に形だけあいさつしたり、喋りかけたり、アメやお菓子などをあげて働きかけることを無視していないと言いカッコつけて綺麗事を言うだろう。
表面的な形だけの態度を取り、相手の心理や信仰心などは無視している場合が多いだろうが、あいさつしたり、喋りかけると多くの人は無視とは言わないのだ。
無視されたと不満を持っている人も、不満を持っている相手や、それ以外の人や人間以外の生き物や色んなことを無視しまくっているのだが、
気づいていないのだ。誰でも頭が悪くてバカなところがあるのだ。
知らないことが一つでもあることをバカと言うと定義づければ、みんなバカなところなどたくさんある。

一番冷たいのは無視と言っている人は多分、無視をしていない人の方が多いと思ってそうだが、誰でも色んなことを無視しまくっているのだ。
あいさつされたいのにされないことで無視されたと思っている人が、あいさつしなかった人に不満を言ったり、嫌がらせをしたり、身体暴力をやることを、無視が一番ひどいから、不満を言ったり、嫌がらせをしたり、身体暴力をやることは無視よりはひどくないなどと思うのだろうが、
あいさつしなかった人の体調や性格やあいさつについての信仰心を知らずに、知る気もなく、相手を嫌ったり、見下したり、不満を言ったり、攻撃してくるのはあいさつしなかった相手のあいさつの対する信仰心や、体調や色んなことを無視しているのだが、多くの人はこれを無視とは言わないのだろう。
言葉を自分に都合のいいように使っているだけで、
我が身可愛さから、自分のことは無視してほしくないところがあるけど、他の人や色んなことを無視することは許していて自分に甘い。
あいさつされたいのに、あいさつされなくて無視されたと思っている人も、
自分のほとんどのことは知られなくてもいいと思っていて、自分や他人のほとんどのことは知らなくてもよくて、無視されてもいいと思っているくせに、勝手なことを思っているのだ。

誰かが気に入らないから身体暴力をやったり、影で物を壊すなどの嫌がらせをしたり、戦争をやったり、人を悪く言うことよりも、
自分や好きな人が誰かに喋りかけたり、あいさつした時に自分が望む返事をされなかったことの方がひどいことだと思う人もいるだろうが、
今まで自分が一番嫌だったのが、あいさつを返されなかったり、喋りかけて返事をされなかったことだという人は、自分が大切で可愛いから、
他の人が別のことで嫌な思いをしていたり、戦争に行ったりすることよりも、自分が喋りかけたり、あいさつした時に望んでいる返事をしなことの方が、一番冷たくて、ひどいことと思い、自分を基準にした物事の捉え方をしているのだろう。

多くの人は自分や好きな人が戦争に行くことになったら、あいさつ返されないとか、喋りかけたのに返事をされなかったことよりも嫌がったり、苦しむだろうが、自分や好きな人が戦争に行ったことがなかったり、あまり色んなことで苦しんでいない人などは、あいさつを返されなかったとか、
喋りかけて返事をされなかったことで嫌な思いをしたことが
一番ひどくて、冷たいことなどと思う人もいるのは、人間は自分が一番可愛くて、我が身が可愛いから、自分が一番嫌な気持ちになったことが一番ひどいことだと思う人もいるのだろう。

金でやっていく世の中が正しいと信じている金信者が、値段がついているものに金を払わない人を逮捕することを許したり、税金を払わない人に差し押さえすることを許している人も、自分が信じていることが正しいのに、自分が信じていることが無視されていると思っているのだろう。
他の人も自分と同じことを信じなければいけないところがあると思っているのに、それをやらない人は間違っていると思っているのだろう。
自分の信仰心が無視されたと不満を持っているが、そんな人も不満を持った相手や、それ以外の人の信仰心や色んなことをを無視しているのだから同じようなものだ。

 

54.同じ言葉を同じ意味で使っていない みんな泥棒の差別社会

「自分自身の私利私欲ではなく、子どもの様に純粋に生きる」などと言うようなことを言っている人がいたが、下らない言葉遊びや、差別をしているのだ。
子どもが自分のやりたいことをすることは純粋、ピュアと言う人がいるわけだが、自分のやりたいことをやることを、欲と言うとすれば、私欲とも言えるわけだし、自分がやりたいからやることを私利と呼べば、子どもも私利私欲があるということになるし、子ども以外でも誰でも私利私欲があると言えるのだ。

人に喜んでほしいとか、人の利益になりたいからという理由で何かをやった人には、その人のやったことで誰かが嫌がっていても、武器を持って攻撃しに行っても、人のためとか、純粋などと良く言って高評価する人もいるのだ。
人に喜んでほしいとか、人の利益になりたいという理由でやったわけではないことを、誰かが嫌がっていても、嫌がっていなくても私利私欲と言う人もいるだろう。
誰かが嫌がることをしたり、人や人以外の生き物の気持ちが分からなくても、人に良かれと思ってやったとか、人のためにやったと言えば
悪く思われにくい。
人が嫌がることをやっていたり、人の気持ちが分からない点では同じなのに、誰かの利益になりたいという理由でやった人のことは私利私欲とは言い表さず、誰かの利益になりたいと思ってやったわけではないことは私利私欲という言葉で言い表す人がいてバカな言葉の定義を持っているのだ。
「自分のため」と「人のため」という言葉を正反対の意味で使う人が多いだろうが、これらの言葉は同義語とも言えるのだ。
自分のためという理由で何かをやっていると思われている人と、人のためという理由で何かをやっていると思われている人が、どちらとも、自分がやりたいと思っていることをやっているのならば、自分がやりたいことをやっているという点では同じなのだ。
人のためにやったと言われている人は、自分がやったことで人の役に立ってほしいとか、人の利益になってほしいと思ったから人のための人というように言われていても、自分がやりたいことをやっているだけであり、自分のためと言われている人と変わらないのだ。
人のためにやっていると言われている人を褒める人は、人のためにやったと言われている人がやったことで誰かが嫌がっていても、
嫌がっている人がいるというところに全くか、ほとんど関心がない人が多いのだろう。
自分以外の誰かのことを良い意味で思ったことが素晴らしいと思いたい人は、その人たちがやっていることで、誰かが嫌がっていることではなくて、
自分が素晴らしいと思った人を褒めて良く言いたいだけなのだ。
自分以外の誰かのことを良い意味で意識したということを褒めたい人は、
その人たちがやったことで迷惑していたり、嫌がっている人のことを考えていない場合が多いのだろう。

関わる気もない人や、嫌いなだけの人に、あいさつを初めにやって、あいさつ返しをさせたい人をコミニケーション能力が高いとか、素晴らしいという人も同じで、あいさつをされた人が何を感じているのかを分かっていなかったり、相手に興味がない場合が多いのだろう。
自分以外の人にあいさつで働きかけて、あいさつ返せという欲求を持つことを素晴らしいとか、心の成長が出来ているなどと褒めて、
あいさつされた人の心理に関心がない場合が多いのだろうけど。
自分以外の誰かにいい意味で働きかけたと思う人を褒めて高評価して、
自分のことだけしか考えていないと思っている人を見下してバカにして蔑むようなことをしている人は人のことを差別してバカにしているだけだ。

美形を好きな人が、自分のために役に立っているから、この人たちを好きになり褒めて、ブスだと思う人を嫌っている人が自分が嫌な気持ちになる相手だから、嫌ったり見下していることと同じで、自分が素晴らしいと思う人を褒めて、バカにして見下している人のことを嫌って、下に見ているだけだ。
人のためにという理由で行動している人の方が素晴らしくて、人のためにという理由で行動していない人の方が劣った人間だと勝手に信じて、
自分好みの人を褒めているだけだ。
同じことをしたのに、人のためにという理由でやった人の方が、人のためにという理由でやった人よりも素晴らしい上層階級の人間であるかのように上に見る人もいるのだ。
キャバクラなどの水商売の人がいる店に行く男の多くは、美形の女が目当ての人が多いだろうが、女を見れたり、女と喋ったから嬉しいのではなくて、自分が好きな美形の顔の女を見れたり、美形の女と喋れたから嬉しいように、人のための人と思っている人を高評価する人は、人の利益のためにと思って何かをやった人を好んでいるから高評価するのだ。

滅私奉公で社会や仕事のために生きていると思われている人が、実際は他人が決めた決まりをほとんど守らなかったり、自分が信じていることを
他の人にあからさまに押し付けたりしているのだ。
一部の要望は色んな理由で聞き入れても、他の要望は聞き入れないのだ。
例えば、多くの人はあいさつや金でやっていく世の中が正しいと信じている。
「あいさつを初めにしろ」「あいさつしたら返せ」や「値段ついているものに金を払え。
税金、年金や罰金などの金を払え。税金払わないと差し押さえをする。値段ついているものに金を払わないと逮捕したり、罰金を取るぞ。」ということを思っているだろうが、自分が信じていること、感じていることを内面で思っているだけであろうが、本人に直接、自分の信仰や自分の思い道りにならなかったことの不満を言おうが、自分以外の人を利用して警察に逮捕させようとしたり、裁判を起こしたりするのは、自分が正しいと思っていたり、自分の思い道りにしたいのだ。だから私利私欲ではない人がいるとか、滅私奉公の人などと言って良い感じに言い高評価しているのも何かおかしいのだ。

人間の中には「自分の思っていることも言わずに、他の人に合わせてあげた」などと思っている人もいるだろうが、言うことを聞かないと殺すぞなどと脅されているとかなら別として、人の決めた一部の決まりや、一部の他人の要望を守っている多数派の大勢の人を滅私奉公をしているなどと言って、多数派をいい人であるというように美化したい人もいるのだろう。

自分が逮捕されたくないから、値段が正しいと思わなくて不満があっても金を払うことを「自分のやりたいこともせずに、他の人に合わせたんだ」と自分を抑え滅私したと言いたい人もいるのだろうが、金を払わないことも出来るし、買わないことも出来るのに、自分で金を払っているのだから、自分で決めたことで滅私などしていないとも言えるのだ。

「大勢と同じことをするのが例外あれど正しい」と信じている人は多いだろうが、だから、あいさつしたら返さなければいけないとか、金でやっていく世の中が正しいと信じて、あいさつ返さなかったとか、金を払わなかったと不満や疑問を持ち、あいさつされなかった人が嫌な気持ちになるとか、
金を払わないと金を払われなかった店や、税金や年金を払っている人が不満を持って嫌な思いをするから、金は払わなければいけないし、年金や税金は払わなければいけないと思っている人のことを、「人のことを考えている」「人のための人」や「他己愛」や「愛」や「他人への思いやり」「他人へのやさしさ」などと言う人もいるだろうが、言葉というものが、どうにでも使えて自分の思い道りに使えるものなので、自分に都合のいい使い方をするのだろう。
金でやっていく世の中で大勢の人が苦しんでいて、金でやっていく世の中は不正で異常な頭がおかし世の中だが、この金社会をやることで、誰かが嫌がって迷惑していても、自分が金でやっていく世の中を正しいと信じているなら、正しいと信じていない人を見下したり、逮捕することをやってもいいと勝手に信じていることを「自分のため」という言い方をしないのだ。
汚いとか、差別しているとは言わないのだ。
金信者の中には「人のために金でやっていく世の中をやっていて、社会に貢献して、社会参加をして、正しい生き方をしているのだ。私たちの方が正しい」と思っている人もいるだろう。

人のためにとか、滅私奉公とか他己愛とか愛や社会のルールなどの言葉に隠している定義、意味付け、本当の意味、本音、本心を言えば都合が悪いから
はっきり言っていない人もいるだろう。
これらの言葉に隠している意味は、自分以外の一人や一匹や特定の一部の人や、大勢がいい思いをしたり、嫌な気持ちにならないならば、一部の人は死んでもいいとか、逮捕して牢屋にいれたらいいとか、見下したり、悪人や罪人と呼べばいいと思っているのだろう。
悪や罪の定義は人によって違うが、悪や罪の一部の人の定義は例外除いて、大勢と同じことをしないことを悪や罪と定義づけているだろう。

金でやっていく世の中も、あいさつもカルト宗教なのだ。
一般に宗教と呼ばれているイスラム教や創価学会などで、信者だった人がその宗教の信仰しなくなったとか、宗教の決まりを守らないことで、
部屋に閉じ込めたり、縄で体を縛ったり、身体暴力をやったりすると、おかしい宗教という意味などでカルト宗教と呼ばれるだろうが、
金でやっていく世の中が正しいと信じている人も金宗教というカルト宗教の信者なのだ。
何に値段を付けてよくて、何に値段付けたらダメかは、それぞれが勝手に決めていて、金信者たちは金宗教の教祖だとも言える。

刑法違反で逮捕することをやってもいいとしている刑法という法律や、それをまかり通らせている人達のことをカルト宗教の信者や教祖とは言わないし、あいさつしてほしいのにしない人を見下したり、本人の前で悪態ついたり、攻撃してくる人をカルトあいさつ宗教の信者や教祖とは言わずに、
一部の人の信じている宗教だけをカルトなどと言い、差別しているのだ。
金でやっていく世の中なんか異常なカルト社会だ。
このおかしい社会で多くの人が、金でやっていく世の中で金に関することで気に入らないことを他人のせいにして生きているのだ。

税金を払わない人に、「真面目な人が損をする」などと言い、税金払っている人を良く言う人の中には税金を払うことを正しいと信じていないのに
税金を払っていない人に対して羨ましさ、妬み、嫉みで不満を言っている人もいるだろう。
自分が税金を払わないことで税金Gメンに差し押さえをされたくないとか、他人から嫌われたくないなどの理由で、払いたくなくても嫌々払っている人もいるだろう。

この金でやっていく世の中を正しいと信じている人や、給料や印税を貰うようなことをするのが正しいと信じている人などを普通の人や堅気の人間や、一般人、いい人、善人、真面目な人、常識人などと呼んでいる人も多いだろうが、例外あれど、大勢と同じことをしない人を見下してたり、羨ましがったり、牢屋にいれたり、嫌がらせしたりなどすることを「本当は怖い普通の人と呼ばれている人」「本当は怖い堅気の人間と呼ばれている人」「本当は怖い一般人と呼ばれている人」「本当は怖い善人(いい人)と呼ばれている人」「本当は怖い真面目な人と言われている人」「本当は怖い常識人と呼ばれている人」などとも言える。
大勢と同じことをしない人や、自分が正しいと信じていることをしない人を見下したり、牢屋に入れたり、攻撃してきたりする人が
普通の人や堅気の人間や一般人、いい人、善人、真面目な人、常識人などと呼ばれて良く言われて高評価されている。

一般に泥棒の定義や意味付けは、他人の家などから物を取って行った人や、店で売られている値段ついているものに金を払わなかった人や、
スリや詐欺などと呼ばれている刑法違反をした人を泥棒と言いやすいが、みんな泥棒とも言えるのだ。
刑法違反で泥棒と言われていること以外で泥棒と言われているので有名なのが税金泥棒だが、自分が正当に得たと思っている金を税金を取られるのが正しいと信じていない人や、使われたくない所に税金を使われることに税金泥棒と言っているが、正当に得た金などあるわけがなく、本来全ての物に値段はついていないのだから、色んなものやサービスに値段付けて金を客から取り、そこから給料や印税などを貰うことは合法の不正であり、合法詐欺、合法泥棒だ。
商売以外でも、本来、人がやっていることは金に換算できるものではないので、給料を貰っているのも給料泥棒なのだ。
刑法違反ではないので警察呼んでも捕まらないだけだ。
詐欺師と言われている人が刑法違反で捕まるが、本来全ての物に値段はついていなのに値段付けているのも全て詐欺だが、みんなで助け合いをしておらず、金がないとやっていけないのと、大勢がやっていることは正しいという信仰を持っている人が多いから値段付けたり、年金、税金、罰金などを取ることを詐欺とは呼ばない差別をしているのだ。
年金、税金、罰金などを取るのも合法の不正なのだ。大勢が正しいと信じているから金でやっていく世の中はまかり通るのだ。

金でやっていく世の中が正しいから、年金や税金や値段ついているものに金払えとか、給料や印税という形で金を貰うようなことをしなければならないと信じているたくさんの人たちは、自分達と同じことを信じていない人に
不満を持ったり、不満を言ってきたり、見下したり、逮捕したりすることを許している「信仰泥棒」や「信じていること泥棒」とも言えるのだ。
自分と同じ信仰を持っていない人に対して不満を持ち、警察を呼んで逮捕させる人も、逮捕する方の警察も泥棒だが、合法だから捕まらないだけだ。
私は昔、万引きをしたことがあるが、万引きを悪く言うのも、金でやっていく世の中が正しいという信仰を持っている人が値段が付いているものに金を払わないことに不満を持っていたり、子どもが万引きしたら許すような差別をしていたり、この値段は不正だと思っているところがある人もいたり、
値段が付いているものに金を払っていない人に対する妬みや羨ましさがある人もいるだろう。

一般に泥棒と言えば、他人の物を取ったということを言うが、自分が正しいから他の人も自分と同じことをしろと思い、同じことをしない場合に刑法を利用して逮捕しても、「他人の信じていることを盗んだ」とか「他人の信仰を盗んだ」とは言わない。
絶対に正しい根拠がなくても自分が正しいと信じているところがあるのだ。
あいさつも同じで、あいさつ返すのが正しいと信じていたり、初めにあいさつをしろという決まりを勝手に作り、それをはっきり言葉で言うわけでもなく、自分が正しいと信じていることをやらないと不満を持ったり、見下したり、悪態ついたり、攻撃してくることは信仰泥棒とも言えるのだ。

刑法違反した人のことも嫌ったり、見下したりするが、刑法違反ではなくてもあいさつなどのことでも見下したり、嫌っているのだ。
刑法違反や刑法違反以外で誰かを見下したり、嫌っている人に共通するのは、自分が正しいと信じていることをしなかったとか、大勢と同じことをしていないとか、自分に都合の悪いことなど、自分が嫌いな特徴を持っているから不満を持っているのだ。
「私が正しいんですよ」とは言わずに、社会のルールや常識、マナー、モラル、当たり前、正義などという言葉で誤魔化していて、何が言いたいのかをはっきり言わないのだ。

天皇家の人が税金から皇室費という形で金をたくさん取ることは合法なので泥棒とは言われにくいが、税金を取るのも不正であり、天皇家に皇室費を取っていることをみんなが正しいとは信じていないし、良く思わない人がいても合法だと悪く言われにくい。
カルロスゴーンが自分の会社から金をたくさん取っていたら、法律上は違法なので警察に通報されて捕まった。
例外あれど、逮捕されると多くの人が悪印象を持ち、悪く思われやすいが、
逮捕された人を見下したり、悪く思っている人は逮捕されている人に対する悪い意味の差別をしているのだ。
金を得ているということで誰かが不満を持っている点では天皇家の人もカルロスゴーンも、詐欺師と言われている人も、スリと言われている人も、
年金を貰う老人も、生活保護受給者も生活保護不正受給者も商売人も、宝くじが当たった人も、ヒモ生活の人も、給料や印税という形で金を貰っている人も、それ以外のことで金を貰っている人も同じことだ。刑法で違法か合法の違いなだけで、違法ならば逮捕される場合もあるだけで、合法ならば金を貰っていることに不満を持たれていても逮捕にはならないだけだ。
一部の人が金を得ていることが違法なら逮捕して、それ以外ならば逮捕しないというのは差別しているだけだ。
金でやっていく世の中という不正な社会で、平気で堂々とえこひいき差別をしている人たちが普通の人や一般人や善人と呼ばれているのだ。

何かのテレビ番組で、海で生きている野生の一匹のあるイルカについて、一字一句覚えていないが誰かが「人間の世界と同じで、頭がいい人は集団から追い出される。
このイルカも同じで、頭が良くて群れから追い出されたか、
自分から群れを出てきたのだろう」というようなことを言っていたと思う。
人間の世界で頭がいいと思われている人みんなが集団から追い出されるわけではないが、追い出される場合もある。

大勢と同じことをする人のことを頭のいい人、要領のいい人と言われる場合もあるだろうが、金でやっていく世の中が正しいと大勢と同じことを信じる人のことを、正しいことが分かっている頭のいい人だと思う人もいるだろうが、金でやっていく世の中は不正だ。
間違っていることをしていたり、不正をやっている人の方が正しいとされ、その人たちと同じことをしない人の方が間違っていて、不正だと思われる場合もあるのだ。
あいさつが正しいとか、金でやっていく世の中が正しいとか、子どもは学校に行くのが正しいと信じていることも不正で間違っているのだ。
金でやっていく世の中で金を払わないことで逮捕されるのも、金を払わない人を金でやっていく世の中から追い出して排除して牢屋の中に入れて監禁しているのだ。カルト金社会の異常さだ。
イルカのことで誰かが言っていたように、金でやっていく世の中が不正で間違っていると気づいている頭がいい人の方が異常者扱いされたり、
悪者扱いされて排除されて、金でやっていく世の中が正しいと信じている間違ったことを信じいている人の方が良く思われるのだ。金でやっていく世の中が間違っていて不正だと気づいている人の数は少数の一部の人だけだろう。
金でやっていく世の中が間違っていると分かっていて、値段ついているものに金払わなければ逮捕される場合もあるし、税金を払わなければ強制で差し押さえをされる場合もあり、不正な金でやっていく世の中を辞めたくても、
金でやっていく世の中が正しいと信じている金信者がそれを許さないのだ。

過去の歴史に学ばないバカなところがある人類とも言える。
今までも大勢がやってきたことで、大勢の人や少数の人が嫌がっていたり、ひどいと思っているようなことがある。
その一部に乱や戦や戦争があるが、人のためにやったと良く言ったり美化する人がいるが、多くの人はこれらのことを良いことや素晴らしいとは思わないだろう。
あいさつする人は、あいさつをごく一部の人にしかやらないだろうが、あいさつを初めにした人や、あいさつ返しをした人みんなが、あいさつが素晴らしいとは思ってはいないし、常にあいさつで良い気持ちになったりなどしていないだろうし、あいさつを嫌がっている人や正しいと信じていない人もいるのだ。

今も続いている金でやっていくこの世の中で多くの人が苦しんでいるのだ。
大勢が学校に行っているが、学校で凄い嫌な思いしている人もいれば、そこまで嫌なことはなく、なんとなく学校に行っているような人もいるだろうし、学校でほとんどの時間は授業をやっているが、その授業を好きな人はあまりいないだろうし、授業で知ったことを、その後忘れていることがたくさんある人もいるだろうし、何で学校の授業で勉強しないといけないの?と疑問を持っている人もいる。
金でやっていく世の中とか、戦争などで武器を持って攻撃しに行くことなど大勢でやっていることで、多くの人が嫌がっていることもあるのだ。
一人が嫌がっていても逮捕されることもあれば、ほとんどのことでは誰かが嫌がることをしても逮捕にはならないどころか、
嫌がった方が悪く言われる場合もあるし、あいさつでもみんながあいさつを正しいとは信じてはおらず、嫌がっている人もいるのだ。

 

55.みんな自分の思い道りにしたいところがある独裁者であり、犯罪者でもあるとも言える

多くの人は独裁者や独裁的という言葉は、独裁国家と言われている国の一番上の立場の人に使ったり、自分や誰かに何かを指示してきたり、図々しいとか思う人の一部などに独裁者や独裁的などという言葉を使い、
ほとんどの人のことを独裁者や独裁的などとは言わないだろう。
支配者や支配的などという言葉も独裁者という言葉と同じで、独裁国家と言われている国の上の立場の人や、ごく一部の人にだけこの言葉を当てはめているだろうが、誰でも独裁者であり、支配的であるとも言えるのだ。

あいさつを初めにしろとか、あいさつ返しをしろと信じているあいさつ信者も独裁的な独裁者や、支配的な支配者とも言えるのだ。
あいさつしあった2人の両方ともがあいさつ信者だったり、2人ともがあいさつをされたことでいい気持ちになり、利益だった場合は独裁や支配とは言いにくいだろうが、片方があいさつ非信者で嫌がっていたり、あいさつをしたいとか、あいさつを正しいと信じていない人に初めにあいさつしてきて、
あいさつ返しをさせたがったり、初めにあいさつしないことに不満を持っている人は独裁的、支配的とも言えるのだ。

誰かに初めにあいさつして、仲間ではない人や好きではない人などがあいさつ返さないことは許さないと思っているような人が、あいさつしてほしい相手を自分の思い道りにさせたいと思って初めあいさつしてきているのは独裁的な独裁者や、支配的な支配者とも言えるが、こんなことを言っているのは私ぐらいなものだろう。
他の人の独裁者や支配者という言葉の定義や意味付けは、こういう定義ではないだろうからあいさつを初めにさせたかったり、あいさつ返しをさせたい人を独裁者や支配者とは言わないだろうけど。

面白いもので、言葉の言い方を変えると同じことを言っているのに多くの人が良く思う言葉と、悪く思う言葉がある。
独裁者や支配者という言葉は多くの人が悪い意味で使う言葉だろうが、
ほとんどの人はいい人だとか、日本人は控えめな人だと信じている人や、
日本人のほとんどを良く言いたい人はほとんどの日本人に対して独裁者とか支配者とか呼んでほしくはないだろう。

日本人や日本人以外の多くは、独裁国家と言われている国の一番上の立場の一人か、その一番上の立場の人と、その周りにいる人のごく少数が決めたことで、国民の少数か、特に大勢の国民が不満を持って嫌がっていると、
「あの国は独裁国家だ」とか「独裁者が国民のことを考えずに勝手に決めてるのはおかしい」とか「一部の少数の人で決めたことを、その決めたことに賛同していない人に押し付けるのはおかしい」などと思い、
「あの人達は独裁的、支配的だ」とか思うだろうが、
なんで、大勢が決めたことで一人や少数の人が賛同していないことは例外あれど、悪くは言われにくく、独裁者とか支配者とは言われないのか?

例えば、日本は表向きには名目としては民主主義と言っている。
国民が主役で国民の望むことが現実になっているかのようにでも言いたい人もいるのだろうが、実際は何でも国民が望んでいる通りにはいかない。
国民のことや日本の色んなことを決めるのに政治家や知事、市長などを選ぶのに多数決で決めるような変なことをしているのだ。
一部の人の信仰は「大勢で決めたことはみんなで決めたことである」と信じている人もいるだろうが、どう見ても、みんなで決めてなどいないわけだ。

私は大勢で決めたことで正しくもない間違っていることをしていることを「集団独裁」や「大勢独裁」や「多数派独裁」などと呼んでいて、
それをやっている人を「集団独裁者」や「大勢独裁者」や「多数派独裁者」などと呼んでいる。
金でやっていく世の中は正しくもない不正で、本来全てのものに値段などついていないのは分かりきっていることなのに、値段をつけたり、何もないところに給料額を作り出して、給料を払うという合法の不正をやっていたり、
あいさつしたら返せというあいさつ返ししろという正しくもない信仰を押し付けていることは、集団独裁、多数派独裁、大勢独裁とも言える。
だから、日本は独裁国家だ。

一般に、「あれをしろ」とか「これをするな」とか直接誰かに言っていないと、内面で自分が正しいと信じていることをやらないことに不満を持ったり、嫌がらせしても、独裁的とか独裁者とはほとんど言われないだろうが、
本人に直接言ったか、内面で不満を思ったか、影で不満を言ったり、書いたりしたかの違いで、人を自分の思い道りにさせたいと思っている点では、
独裁者と言われている人も、それ以外の人も同じことなのだ。
日本人を控えめや謙虚、つつましやかとか言う人の中には、他人に対して日本人が自分が信じていること、感じていることをやってほしがっていることを直接言ったしてなかったり、思い道りのことをしなかったことに対して不満を持ったことを直接言わずに、影で不満を言ったり、影で嫌がらせをしたり、内面で不満を持っているだけなことを謙虚、控えめ、つつましやかなどと言っていい感じに言う人もいるだろうが、日本人は自分が正しいと信じているところがあり、自分が正しいと信じていないことをやると不満や疑問を持ったりして、相手を自分の思い道りにさせたいと思っているところがあるのに、直接、本人や大勢が見聞できる所で不満を言ったり、
嫌がらせをしたりしているのを知らない場合が多いだろうから独裁的や支配的ではないと思う人が多いのだろう。

あいさつを初めにさせたかったり、あいさつ返しをさせたい人の中には、自分が正しいから相手を自分の思い道りにさせたくて、
あいさつをさせたいのに相手があいさつしないと内面で不満を持ったり、影で不満を言ったり、本人のいる所で悪態ついたり、不満言ったり、殴ったり、嫌がらせをするのも独裁的、支配的なのだ。
多くの人は自分が正しいと思うことを誰かに言ったり、言葉以外の形で誰かに自分が正しいと信じていることなどをやらせようとしても、
独裁や支配とは言わない。正しいと信じていることを他人に押し付けることは悪く言わない人が多いので独裁や支配とは言われにくいし、
この人たちを独裁者や支配者とも言わない。

私は過去に給料を貰うようなことをしていた時期と、給料を貰うようなことをしていなかった時期があるが、近所の一部の老人が、どう見ても私のことを、給料を貰うようなことをしていない奴か、その可能性がある奴だと思われている。
同町内に70代のハルちゃんと呼ばれているじいさんがいて、この人とはほとんど会わないが、数年前に私が庭にいる時に、じいさんが自転車に乗って右から左に通り過ぎて行こうとしている時に無言で私を見ている時の
表情や雰囲気が、どう見ても不満たら気に私を見ていたのだが、私が給料を貰うようなことをしていない奴と思っていて気に入らないから、
言葉では言っていないけど、態度にそれが表れていたんだと思っている。
それから数年後、2021年の土曜日の午後に庭で園芸作業をしていたら気配がしたので、左斜め後ろを見ると、このじいさんが自転車に乗って私がいる庭の前を通っている所だった。その後、この人が「ふーん」と言ったのだが、私が作業をしていたのは土曜日だったが、私のことを給料を貰うことをしていないと断定か、半信半疑で思っていて、給料を貰うようなことをしていないのが間違っていると信じていて、私に遠まわしにその気持ちを知ってほしがっている感じがする。
はっきり言わないことを、やんわりさりげなくなどと、いい感じに言い、控えめなどと褒める人もいるのだろうが、給料や印税という形で金を貰っていない人を見下して、格下に見て、劣っている人間であると蔑んでいる人はたくさんいるだろうが、このじいさんもそういう人だと思う。
近所のイノウエ夫婦なども私に不満を持っていて、私に初めにあいさつさせたいようだが、遠回しに悪態つていたり、不満たら気な態度を取ってい、直接的に不満を私に言葉で言ってくることはないわけだ。
言葉ではっきり言わないのは控えめで大人な態度だと高評価して褒める人もいるのだろうが、はっきり言わずに遠まわしない態度で悪態ついてくるのなら、はっきり言葉で言えばいい。

私の家の隣が職場で、私の叔母の同級生の男の人でエイちゃんと呼ばれている人が働いている。
以前、私が庭にいた時に、職場の方からこの人が歩いて私のいた庭の前に左側から来て、庭の門の前ぐらいまで来た時に、また来た道を戻って行ったことがあったのだが、推測だが私が庭にいるのをたまたま見かけて、ハルちゃんというじいさんと同じで、私が給料貰うようなことをしていない奴か、その可能性がある奴だと思っていて、給料貰うようなことをしていない奴は間違った生き方をしていると思って不満を持っていて、私の様子を監視しに来ているのではないかと思った。
以前に私が家のリビングにいた時に私の母が私の名前を呼んだ直後に、隣の職場の方から男の声で「働いてんのかな?」という声が聞こえたのだが、
この声はエイちゃんの声ではないかと思っているのだが、私の母が私の名前を呼んだ後すぐに働いてんのかなと言っているのと、この言葉の前後に
喋り声が何も聞こえていなかったので、私のことを働いてるのかなと言っているのではないかと思った。

以前、私が平日の午後に庭にいたら「おるんか」と男の声が聞こえたから、声のする方を見たら、イノウエ夫婦が歩いていた。
イノウエのじいいさんがおるんかと言った後にイノウエばあさんが小さい声で何かを言っていた。
このばあさんが普段、他の人と喋っている時は声が大きいのだが、私に聞かれたくないことだから声を小さくして喋ったのではないかと思っている。
その喋っていたであろう内容は「あの子、多分働いていないからこの時間に庭にいるんだよ」とか「あの子、絶対に仕事してないよ」というような感じのことを言っていたのではないかと思っている。
長期的に家にいる人も色んな理由で不満を持たれたり、おかしいと思われているが、家の外に出ていて、いかにも何かの作業をしていても、給料や印税という形で金を貰っていなければ見下してきて不満を持つ人もいるのだ。
給料や印税という形で金を貰っている人も不満を持たれているのだから、何やっても逆のことをやっても不満を持つ人は不満を持つのだ。

ほとんどの人は自分やほとんどの人には罪はない、犯罪者ではないと思っているのだろうが、言葉は言葉遊びなので、自己満足でどうにでも使えるから、悪や罪はない、悪人や罪人はいないとも言えるし、悪人はいるとも言える。
自分か大勢が見下していたり、ひどいと思っていることをやっている人や、人や人間以外の生物が嫌がることをやっている人を悪人や罪人、犯罪者と呼ぶと定義付ければ、みんな悪人だし、みんな犯罪者だ。
はっきりと言葉の定義を言わずに、ごく一部の人だけを格下に見て、悪者や犯罪者などの汚名で呼び、えこひいき差別している。

給料、印税という形で金を貰っていないことを見下してる人がいるが、
人を見下していることを罪や悪と呼ぶと定義付ければ、「見下し罪」や「蔑み罪」や「格下に見ている罪」とも言えるし、そういう人のことを「見下し犯」や「「蔑み犯罪者」や「見下し容疑者」や「蔑み容疑者」や「格下に見ている犯」とも言える。
多くの人は今まで生きてきて、誰からも直接、犯罪者や悪人などとは言われてこなかっただろうし、もし言われても、自分やほとんどの人はいい人だと信じているだろうから、こんなこと言われたら、すぐに中傷などと言い、不満を言うだろう。
自分達は法律のほとんどや、ほとんどの決まりを守らないのに一部の人が決まりを守らないことは刑法違反であれ、刑法違反以外のことでも不満
を持つのだ。こんなことを思っている人を「差別犯罪者」や「えこひいき犯罪者」などと呼ぶわけでもない。

私の近所の人や、それ以外の人でも給料や印税という形で金を貰っていない人を例外あれど、見下している人は根拠はなくても自分が正しいのに
正しいと信じていることをやっていない人は間違っているとか、劣っていると蔑んでいる人がたくさんいるだろうが、自分達の方が金でやっていく世の中が正しいとか、例外除いて、ほとんどの人は給料や印税という形で金を貰うことをしなければいけないと信じているのだ。
日本人は自分に自信がないなどと言っている人がいるが、正しい根拠や裏付けがなくても自分が感じたことが正しいと信じているところがある。
例外除いて、根拠や裏付けもないのに自信満々に金でやっていく世の中や、あいさつ返しはしなければいけないと信じている人が多いのは大勢がやっているからだと信じている人が多いだろうが、これが集団独裁、多数派独裁、大勢独裁なのだ。
人が嫌がることをした一部の人は逮捕されたり、罰金取られたり、独裁者などと言われるが、ほとんどの人はそうは呼ばれない。
「後ろ指を挿される」という言葉があるが、意味が影で悪口を言うなどだが、日本人のことを「陰口民族」と言ってた人がいたが、
本人や大勢が見聞できないところで、人のことを悪く言うことを陰口と呼ぶ人が多いだろうが、多くの人は影で悪口(中傷)をしているだろう。見下している人のことを本人や大勢が見聞できないところで悪く言ったり、
大勢が見聞できる所で匿名で言っているのだ。匿名で悪口言っていたり、少数の人にだけ直接、悪口を言っているので、
ほとんどの人のことを悪口を言っている人だとは思わない人もいるのだろうけど。

 

 

56.ゴミ捨て場のことなど みんな犯罪者とも言える

 

私が住んでいるとこのゴミ捨て場は檻みたいなゴミ捨て場で、
左側にドアがないところが一部あって、そこは乾電池を捨てるための空き缶があり、紙を張るところがある。
以前、めったに捨てに行かないが、乾電池を捨てる時にゴミ捨て場の左側の所に行った時に、紙を張るところにA4ぐらいの大きさの紙に「ペットボトル等不法投棄犯人に告ぐ。関係機関には通報済み。町内会では過去にさかのぼり損害賠償を検討中『廃棄物の処理及び清掃に関する法律第25条第1項14号』に違反することになり(5年以下の懲役・1千万円以下罰金又は併科)」と書かれていたのだが、資源ごみの日にゴミ袋にペットボトルを入れて置いていたり、埋め立てゴミの日に粗大ごみがあったのを見たことはあるが、
多分、町内会の人がゴミ捨て場を管理しているのか、埋め立てゴミの日に捨てられていた粗大ごみを町内会の人が有料で捨てに行っていて、
自分達が金を払っていることを損害と言っていそうな気もするが、捨ててほしくないごみを捨てているのを、「ペットボトルは資源ゴミではありません」とか「○○は埋め立てゴミではありません。粗大ごみで捨ててください」などと分かりやすい場所に紙を張ることはしないのだ。
ゴミ捨て場の左側は普段、ほとんどの人は行かないだろうから、ごみ捨て場のドア外側か、ゴミ捨て場のごみを置く中に紙を張ったほうが見られやすいだろう。
ペットボトル等不法投棄犯という言い方は、法律違反をしていて罰金になるようなことだから犯人という言葉で言い表していそうだが、
それなら、ペットボトル等不法投棄犯と言っている人も、それ以外の人もみんな法律などほとんど知らないし、知る気もないだろうし、
知っている法律でも守っていない法律はあるだろうから同じなのだ。道路交通法をすべて守っている人はいないだろうが、「道路交通法違反犯」とは
ほとんどの人は言わないだろう。みんな自分に都合よく法律を利用しているだけだ。
ペットボトルなどをゴミの日に捨てるものではないものを置いていたとしても、損害賠償を検討していると本当に思って書いていようと、
損害賠償請求など検討していないのに形だけ書いていようと、ほとんどの人ならこういうこと書かなさそうだが、同じ物事が起きてもみんなが同じことなど思わないということだ。あいさつにおいてもおなじことで、
あいさつ返されたいのに返されないことにみんなが不満を持ったり、嫌がらせしたり、あいさつ返さなかった人を見下したり、嫌ったりはしない。

このゴミ捨て場にはゴミ捨て場の鍵を開け閉めする決まりがあるが、私はこの決まりは要らないと思っているのだが、他の人もゴミ捨て場は開けていてもいいと思っている人もいるだろう。
ゴミ捨て場の開け閉めをしろという決まりで嫌がっている人がいることを損害と言うのならば、ゴミ捨て場の決まりを嫌がっている人は、損害を被っているとも言えるのだ。
人に不満を言う人は、自分や自分と同じことで不満を持っている人の不満の言い分だけを持ち出して、いかに自分や自分たちが被害者で
損害を被っているのかを言いやすいが、その不満を言っている人たちに不満を言われた人や、それ以外の人が不満を言っている人に同じことや別のことで不満を持っていたりするものだ。

多くの人は大勢からは嫌われたくないだろうし、大勢が信じていることや、大勢がやっていることを正しいと信じているだろうから、
もし、ゴミ捨て場を開け閉めしなければいけないゴミ当番を大勢が嫌がっていたり、大勢がおかしいと思っていて、そのことをゴミ捨て場を管理している人が知ったらゴミ捨て場を開け閉めする当番をなくす可能性が高いと思う。
メディア、マスコミの影響力は大きいので、テレビのワイドショーや、視聴者が多い時間帯のテレビ番組でゴミ捨て場の開け閉めをする当番を大勢が嫌がっていたり、おかしいと思っていると放送すれば、ゴミ捨て場を管理している人や、町内会の人がそのテレビを見ていたり、誰かからその話を聞いたらゴミ捨て場を開け閉めする決まりをなくす可能性が高いだろう。
あいさつでも同じことで、あいさつを返させたいがために初めにあいさつしてくる人の多くは悪気もないし、悪意がない人が多いだろうけど、
みんながあいさつすることを正しいとは信じていないとか、知らない人にはあいさつしなくてもいいというあいさつの決まり(ルール)を信じている人がいるとか、知らない人と喋ることに抵抗がある人がいることなどを知らない無知だが、みんながあいさつしたいなどとは思っていないことを知ったら、知らない人にあいさつしたり、知っている人に対してもあいさつをする人は減るだろう。

お歳暮や土産物や食べ物を誰かにあげている人も、あげた相手から、ありがとうと言われたとか、いらないと言われていないから嫌がっていない、
迷惑していないと思っている人もいるのだろうが、嫌がっていたりする人もいるのだ。嫌がっている本心を聞いたことがないから分からないのだろう。
もし、何かをあげた相手が嫌がっていたり、迷惑しているのが分かったら、ほとんどの人はあげないだろうが、嫌がっていることに気づいていないからあげるのだ。

私が大阪に住んでいた時にマンションに住んでいたが、そこにはゴミ当番などなくて、いつでもごみは捨てれた。
同じ日本でも、同じではないところはたくさんあって、ゴミ捨て場がいつも開いているところもあれば、閉まっているところもあり、
ゴミ当番があるところもあれば、ないところもあるのだ。

私が大阪にいた時は、回覧板を回すなどなかったが、今住んでいる所では回覧板を回さなければいけないのだが、回覧板を持ってくる相手や、持って行く相手が嫌いな人なら地獄の回覧板回しみたいな人もいるだろう。
回覧板に書いていることも大した内容が書かれているとも思わない。
回覧板ではなくて、メールに回覧板に書かれている内容を送るようにしたらどうかと私は思うが、メールアドレスを持っていない人や、メールアドレスを町内会の人に教えたくない人もいるだろうから、
回覧板を回すことは今後もやったらいいと思う人もいるだろうし、メールアドレスの方がいいと思う人もいるだろう。
回覧板を回すのを嫌がっている人がいることを知らない人もたくさんいるだろうし、回覧板を回すことを嫌がっていることを、回覧板回しの犠牲者や被害者とは、ほとんどの人は言わないだろう。
何かを嫌がっている人がいても、ほとんどのことは被害者や犠牲者とは言われないくて、ほとんどのことでは嫌がっていることを損害という言葉では言い表さないのだ。
人間にしろ、人間以外の生物にしろ、誰かが嫌がっていることをしている人を、罪と言うと定義付ければ、みんな罪人であり、犯罪者だ。
同じことを言い表すのでも、言葉の言い方で印象が変わる。人が嫌がることを罪と呼んだり、それをやっている人を罪人や犯罪者と呼べば印象が悪くなりやすい。
自分のことを棚に上げて、人のことは非難して悪く言いやすい人が多いのだろう。
一部の人だけを犯罪者や罪人などと呼び、自分たちが不正をやっていたり、誰かが嫌がることをやっていることは許したり悪く言わないのを差別や、
えこひいきという言葉で言い表すとすれば、差別罪や、えこひいき罪だ。

ゴミ捨て場の決まりを守っている人をきっちりしていて、真面目などと良く言う人もいるだろうが、ゴミ捨て場の開け閉めする決まりを作っている人も、正しいと信じて守っている人もどちらもバカであるとも言えるのだ。
自分が正しいと信じている決まりを守っている人を褒め称えていても、同じ決まりを正しいと信じていない人からしたら、その決まりや、決まりを守っている人をおかしいとか、バカだと思われている場合もあるのだ。
多くのあいさつ信者は、仲間ではない人や関わる気もない人にあいさつしたことを褒めていても、みんなが同じことなど思っていない。
ほとんどの決まりなど正しくもなかったり、正しいと信じていなくても見栄体裁などの理由で嫌々守っている場合もあるのだ。
正しくもない決まりをバカのルール、アホのルールとも言えるが、その決まりを守っている人を褒めたい時にはルールを守る、きっちりしていて真面目な人と褒めた
りするだろう。ゴミ当番でカギを開け閉めする決まりも、あいさつしたら返せという決まりもバカのルールだ。
この決まりを守っている人の方が、素晴らしい人などと言われて褒められ得をするところがある。
ゴミ当番が、カギを開けるのを忘れていたり、忘れてはいないけど開けなかったら、開けていないゴミ当番が問題視されやすいだろう。
「あなたがゴミ捨て場を開けていなことで他の人がごみを捨てれなくて迷惑する」などと不満を持たれるだろうが、ゴミ捨て場の鍵の開け閉めをする決まりを決めた人や、その決まりを正しいと信じて守っている人や、
不満を持ってはいるけど決まりを守っている人を問題視する人はあまりいないだろうが、正しくもないうえに、誰かがその決まりを嫌がっていても、決まりを守っている方の人や決まりを作った方は悪く言われにくいだろう。
あいさつもそうで、あいさつを初めにやりだした人や、あいさつを一部の人にだけやることを正しいことだと信じてやっている人は悪く言われにくいが、あいさつ返さない人の方が問題視されて悪く言われやすい。少数派の方が叩かれやすいのだ。
正しいことをしていると思っている人に対して、誰かが不満を言ったり、嫌がらせすると、それをされている人が子どもだとか少数派だと弱い者いじめと言われたりするだろうが、自分が正しいと信じていることをやらない人には、例外あれど、その人たちが子どもであれ、少数派であっても弱い者いじめとは言わずに、自分が正しいと思うことをしなかったことで嫌な気持ちになった自分が被害者、犠牲者だと思って正しいと思うことをしなかった人を叩いてくる。人間は自分が一番かわいいのだ。

 


脱あいさつ あいさつは正しくない9

2022年10月19日 | 脱あいさつ

目次
第1章から第9章へのリンク
第10章から第12章へのリンク
第13章から第20章へのリンク
第21章から第23章へのリンク
第24章へのリンク
第25章から28章へのリンク
第29章から37章へのリンク
第38章から47章へのリンク
48.あいさつ信者の心理は白人の黒人差別と同じだ
49.中傷、誹謗中傷という言葉の定義、意味付けとあいさつ
50.日本人もカースト民族
51.自由には責任が伴うという間違った信仰心
52.信仰を縛ることは出来ない
第53章から第56章へのリンク
第57章から第59章へのリンク
第60章から第67章へのリンク
第68章から第75章へのリンク
第76章から第81章へのリンク
第82章から第86章へのリンク
第87章から第93章へのリンク
第94章から第99章へのリンク

 

48.あいさつ信者の心理は白人の黒人差別と同じだ

差別で有名なのは、白人の黒人差別とかの人種差別や、特定の民族に対する差別だが、他の差別はあまり多くの人の話題に出ることはないし、そもそも差別という言葉で言い表されない場合が多いだろう。

一部の人だけがあいさつしないことは許さなかったり、見下したり、おかしいと思うのに、ほとんどの人があいさつしないことは許すようなことをしているあいさつ信者も差別をしているのだ。
あいさつ信者が、ごく一部の人にあいさつをさせたいのにあいさつされないことで勝手に嫌な気持ちになるのを、あいさつしなかった相手のせいにしている人がいるわけだが、大切ではない人にあいさつを求めて、あいさつをされなかったことをあいさつしなかった相手のせいにする冷酷さを持っていても、大勢と同じことをする人を正しい人だとか、良い人だと思う人が多いので悪くは言われにくいが、あいさつしてほしいのにしなかった少数派を白眼視したり、見下して、多数派が正しいと擁護する。

あいさつ返さなかった方が黒人側で、あいさつしてほしい人が白人側みたいなものだ。
ある特定の外見した人や、人の生き方や、信仰を見下して差別しているのは誰でもやっていることだろうが、あいさつ信者は自分のあいさつ信仰が正しいと信じているから、あいさつしてほしいのにしない方を悪者扱いしたり、見下して嫌う。
あいさつを返させるために、ごく一部の人にだけあいさつをする人は、他のあいさつ信者から擁護されるだろうが、
同じことを信じていない方のあいさつ非信者が叩かれる。

あいさつ信者は、あいさつしない人のせいで嫌な気持ちにさせられて、存在を軽視されたなどと、被害者意識を勝手に持っているのだろうが、
これを白人の黒人差別で言えば、「白人が黒人を見ていて嫌な気持ちになったり、見下したり、嫌った理由は嫌われた方の黒人に問題や原因があるんだ。
何もしていなかったら嫌われたりしないんだ」と言っていたら、おかしいとか、間違っていると多くの人は思うだろうが、
他のことでは嫌われた方が問題視される場合がたくさんある。
あいさつがそうで、あいさつを返さなかった方が、おかしい人、間違っている人だと思われやすいだろう。大勢と同じことをしない少数派のあいさつを返さない方が異常者扱いされて変な目で見られる。

あいさつされたいのにされないことで無視されたと思い、自分の思い道りにならなくて嫌な気持ちになったことを相手のせいにして、あいさつしなかった人を見下したり、不満を言ったり、嫌がらせしたりして、
根拠がなくても自分が感じたことが正しいと信じるあいさつ信者の狂気とも言えるし、あいさつ信仰は狂っているとも言える。
あいさつ以外のことでも大勢がやっていることが例外あれど正しいと信じる狂っている信仰が世の中でまかり通りまくっている。

白人の黒人差別の場合、どう見ても白人は黒人を仲間だとは思っていないだろ。
もし仲間だと思っていたら奴隷になどしないはずだ。あいさつでも同じで、そもそも相手を仲間だと思っていたら例外あれど、初めにあいさつなどしないだろうし、例外あれど仲間だとは思っていない大切ではない人だから、あいさつを返させるために初めにあいさつして、大切ではない人があいさつを返さないと不満を持ったり、見下したり、攻撃してくる。でも、あいさつを返さなったのが子どもや仲間とか好きな人ならば許す場合があるのは、ただの差別である。
人を選んで、ごく一部の人にだけあいさつを求めるのに、ほとんどの人にはあいさつは求めずに、ほとんどの人があいさつしてこないことは許すのも差別だ。
あいさつは常識だとか、社会のルールだとか、コミニケーションなどといい、美化して綺麗事を言っていても、あいさつする人の心理の実態が結構ドロドロしていて、冷酷なところもあるのだ。
あいさつしない人を見下したり、嫌ったり、悪態ついたり、攻撃してくる人がいることを知らない人は、都合のいいとこだけ見て、あいさつを良く言うのだろうけど。
人種差別はひどいことだと思う人が多くても、それ以外の差別はあまりひどいことだとは思われにくいのだろう。
動物を食べていることを嫌がっている人がいたり、人間は動物を食べるようにはできていないと言っている人もいるが、
犬猫は食べてはいけないけど牛、豚、ニワトリ、魚、イノシシなどは食べてもいいという信仰を持っている人も差別をしているのだ。

 

49.中傷、誹謗中傷という言葉の定義、意味付けとあいさつ

 

誹謗中傷や中傷という言葉がある。別の言葉で言えば悪口だ。
中傷という言葉の定義、意味付けが通じていなくて、みんなが同じ意味で中傷という言葉を使っていない。
中傷はダメだと言っている人は、言いたいことの詳細を詳しく具体的に言っていなくて、何を問題視しているのかがあまり分からない。私と同じことを思っている人もたくさんいるだろう。
不満を言っている人が具体的なことを言わないので、聞いた人も何を言いたいのか分からない場合が多いだろうが、
不満を持っている人や不満を言っている人自体が自分が何で不満を持っているのかをあまり把握できていない場合もたくさんあるだろう。
つまり、自分のこともあまり分かっていないところがあるのだ。
誰かが人間について「自分のことが一番分からない」と書いていたが、他の人より自分のことを分かっているところはあっても、
一方で分からないところもあるだろうから、この人の言っていることは当たっているところがある。

例え話を書くが、Aさんという人物に対して、10人の人たちがAさんを「Aさんは顔がブスだ。雰囲気とか言動も気持ち悪い。
人間としても劣っていて、他の人よりも格下の人間で嫌いだ。」と思っていて低評価していたとする。
BさんはAさんの前で直接、具体的にその思っていることを言った。
CさんはAさんの前で直接、バカにしたような物の言い方と、
バカにするような表情や目つきで「Aさんはきれいな顔だね。立派な人だね」と思ってもいないことを言い、
Aさんを見下して嫌っている本心を逆の言葉に込めて言った。
DさんはAさんや大勢が見聞できる所ではAさんに思っていることを言わずに、Dさんの家族や友人にだけAさんについて思っている悪口を具体的に言った。
EさんはAさんについて低評価していることを誰にも言わず内面で思っているだけ。
FさんはAさんについて低評価していることを曲にして楽器演奏で表した。
GさんはAさんに対して低評価していることを絵で抽象的に表した。
HさんはインターネットにAさんについて低評価していることをAさんの名前を出さずに具体的に書いていて、
AさんはHさんがネットにそれを書いていることは知らない。
JさんはインターネットにAさんについて低評価していることをAさんの名前は出さずに具体的に書いていて、AさんはネットでJさんが書いたことを読んで、これは絶対に自分のことを言っているに違いないと思った。
KさんはインターネットにAさんについて低評価していることをAさんの名前を出して書いたが、AさんはKさんが書いたことを知らない。
MさんはインターネットにAさんについて低評価していることをAさんの名前を出して書いて、AさんはMさんが書いたことを読んだ。
10人の人達は全員Aさんに対して同じように低評価していて、思っていることは同じだが、その思ったことを外側に表す時の表し方が違い、
Eさんだけは低評価していることを内面で思っているだけだ。

中傷、誹謗中傷はダメだと思っている人が言いたいことで問題視をしているのは、人のことを嫌ったり、見下したり、気持ち悪がっていることなどを問題視しているのか、悪人だと思っている人や政治家、やくざ、反社会勢力などと言われている人や、自分が見下している人や嫌いな人のことを嫌ったり、気持ち悪がることは思ってもいいけど、それ以外の人を嫌ったり、見下したり、気持ち悪がるのは思ってはいけないことだと問題視しているのか、
悪人だと思う人にも、善人だと思う人にも本人が見聞できる所で本人に否定的なことや見下したり、気持ち悪がっていることを言ってはいけないけど、
本人が見聞できないところで言うのはやってもいいと思っているのか、
本人が見聞できる所で本人を嫌ったり、見下したり、気持ち悪がることを書いたとしても、書いた人間の名前や顔などの個人情報の一部を
出しているのならば言ってもいいが、個人情報を出していない人は言ってはいけないと思っているのか、中傷はダメだと言っている意味をはっきり言っていないので何が言いたいのか分からないのだ。

中傷についてツイッターで何人かの人が書いていることを読んだが、人によって真逆のことを言っていたりして、違うことを言っているのだ。
ある人は自分の個人情報を晒すなら言ってもいいと言い、別の人は個人情報を晒していても言ってはダメだと言っている人もいる。
中傷はダメだと言っている人に対して、災害の時に行政の人を公開リンチにしていただろというようなことを言っている人もいれば、
中傷と批判は違うなどと言う人もいて、人によって言っていることが全く違うのだ。

中傷と批判は違うと言っているのも、人に否定的なことを言ったり、バカにして悪口を言ったりするのを、言われた方に問題があると思っている場合は、否定的なことを言ったり、悪口を言ったことを批判と言い、
言った方に問題があり、悪いと言いたい場合は、悪口や否定的な言い分を中傷や誹謗中傷などと言う人もいるのだろう。
否定的なことや、バカにすることを言われた本人がどう思うかではなくて、もし自分が言われたらひどいと思うことはやってはダメとか、
自分が許せないことだから叩いたりする人もいるのだ。

あいさつも同じで、自分の好きな人にあいさつ返してほしいのにあいさつ返さなかったとか、初めにあいさつしてこなかったことに不満を持っている人がいても、自分の好きな人自体はあいさつされなかったことに不満を持っていなくても、好きな人にあいさつしてほしいのに、あいさつしないことを許さない人もいるのだ。
悪口を言われた人自体が嫌がっていなくても、他の人がそれをひどいと思っていたり、悪口を言った人を悪者に仕立てたかったら、
言われた本人が嫌がっていなくても、悪口を言った人の方が悪く言われる場合もあるのだ。
人に否定的なことを言ったり、見下したり、バカにするようなことは昔からあるし、普段から多くの人が言っていることなのに、
メディアが一部の人の悪口を話題に出すと色んな理由で一部の人が取り上げて、騒ぎだすのだ。
例えば、メディアでコロナ渦という言葉を誰かが使い出すと、一部の人もコロナ渦という言葉を使いだすのだ。
中傷、誹謗中傷という言葉より、悪口という言葉の方が分かりやすいと思うが、メディアが中傷や誹謗中傷という言葉を使うから、
それを真似して同じ言葉を使う人もいるだろう。

自分の思い道りにならないことで不満を持ったり、嫌がらせしてきたりすることを悪くいう言葉は、「わがまま、勝手、人のことを考えていない、自分ばかりが正しいと思っている、自己中、自分中心的、図々しい」などの言葉で言うだろうが、あいさつは大勢があいさつ返しを正しいと信じているあいさつ信者で、自分が正しいと信じていて、あいさつを返さない方をおかしいと思っているから、あいさつ信者の人の中には、自分の思い道りにならなかったことに不満を持ったり、不満を言ってきたり、嫌がらせをしたりすることを「わがまま、勝手、人のこと考えていない、自分ばかりが正しいと思っている、自己中、自分中心、図々しい」などとは言わずに、あいさつを返さない方にこれらの言葉で言い表してくる人もいるだろう。

あいさつを初めにする人のほとんどは、何かしらの理由からあいさつ返しをさせたいからやっているだろうが、あいさつを初めにしている人の一部はあいさつ返しを求めて初めにあいさつしているわけではない。
宅配業者が荷物を届けに家などに来た時や、セールスで家などを訪問する仕事の人や、コンビニやスーパーなどの店で店員が客にあいさつした場合は、
あいさつした相手にあいさつ返しをさせたいと思っていない場合が多いだろう。
宅配業者やセールスで家などに来る人は、あいさつを返させたいから家などを訪れているのではないのだ。
宅配業者の人ならば、荷物を受け取ってもらうことを目的に来ているので「こんにちは、宅配便です」と言っても、ほとんどの宅配業者はあいさつ返されたいと望んでいないだろう。
セールスも自分の会社のサービスや商品を売る目的で来ているのだから、こんにちはと言ったとしても、すぐ本題に入るか、世間話でもしてくるだろうから、あいさつ返させたい人はあまりいないだろう。

あいさつではなくても、他人に喋りかけて返事をしなくても、多くの人がおかしいと思わない場合もある。
他人に働きかけて相手が無反応でもおかしいとも思われずに許される場合もあるのだ。
ほとんどのことは断って拒否することが許される。
あいさつ返しをしないというのは、あいさつ返しを断っているわけだが、
あいさつの場合はあいさつ返しを断ることを許さない人がたくさんいるのだ。
自分の信仰の方が正しいと信じていたり、大切ではない人や見下している人にあいさつしてほしいのに、あいさつされないと不満を持つ人もいるのだ。

チラシ配りやポケットティッシュを配る仕事の人が、駅前などで知らない人などに、チラシやポケットティッシュを配っていて、
チラシなどを目の前に差し出された人が受け取らずに無反応で通り過ぎても、多くの人は無視とさえ言わないだろうし、
無視と言ったとしても、やってもいい無視と思うだろう。
スーパーなどで試飲試食の仕事をしている人が、近くを通る人に商品の試飲試食を勧めて、喋りかけられた人が無反応で通り過ぎても、試飲試食をしなくても、ほとんどの人はおかしいとも思わなければ、無視とも言わないだろう。
これら以外の喋りかけやあいさつをする人と、チラシ配りやポケットティッシュを配る仕事の人や試飲試食の仕事の人との違いは、
チラシ配りやポケットティッシュを配る仕事の人や試飲試食の仕事の人の多くは給料という金を貰うために仕事をやっているだろうから、
歩合ではなくて、時給で給料を貰えるならば、チラシやポケットティッシュや試飲試食の食べ物や飲み物を人に受け取ってもらったり、
飲食してもらわなくても金は貰えるので、絶対にチラシやポケットティッシュや試飲試食の食べ物、飲み物を受け取ってもらう必要もなければ、
受け取ってもらおうと働きかけた相手にあいさつをされたいと望んでいないので初めからあいさつもしないのだ。

人に働きかける目的が違うのだ。あいさつを初めにする人の多くは、色んな理由であいさつを返させたいから初めにあいさつをしているのだ。
だからあいさつを返さないと自分の思い道理にならなかったので疑問や不満を持つのだ。
ほとんどのことを断っても許されるのは、そのほとんどのことを断ってもいいと多くの人が許可して許しているからだ。
仕事の面接で不採用にして断ってもいいし、入試で落としてもいいし、遊びやセックスの誘いや、色んな誘いを断ってもいいと多くの人が許して許可しているのだ。

多くの人がしなければいけないと信じていたり、断ってはいけないと信じていることの代表的なものは、あいさつ返しはしなければいけない、値段がついているものには金を払わなければいけない、年金や税金を払わないといけない、ほとんどの大人は給料や印税という形で金を貰うようなことをしなければいけない(大勢が仕事や職業と言っているものをしなければいけない)、子どもは学校に行かなければいけない、などだろう。

白人の黒人差別は有名だが、同民族や同人種の中にも差別はあるのだ。大切ではない人や見下している人や嫌いなだけの人や、ちょっとだけ好きぐらいの人が、自分や好きな人にあいさつを返さなかったり、初めにあいさつしてほしいのにしないことを許さない冷酷さや差別心を
普通の人や一般人と呼ばれている人達が持っているのだ。
あいさつを返さない人をダメ人間と呼ぶ人もいるが、刑法違反した人のこともダメ人間と言ったりして同等に扱っている人もいるのだ。
ダメ人間という人がダメ人間である。あいさつしてほしいのにしなかった人を見下してダメ人間と思った人もダメ人間だとも言える。
給料や印税という形で金を貰うようなことをしていない人(大勢が無職やニートなどと呼んでいる人)を見下したり、嫌ったり、バカにしたり、
死んでほしがってたり、給料を貰うようなことをやってほしいと思っている人がいるが、こういう人たちは、給料や印税という形で金を貰うようなことをしていない人に対して、なんで不満を持ったり、嫌がっていたりしているのかをはっきり言っていないのだ。
給料や印税という形で金を貰うようなことをしていない人は苦しんでいないとか、楽しているとか、何もしていないなどと思っている人もいるみたいだが、何もしていない人などいないだろう。
呼吸していることも何かをやっているし、テレビや映画を見ていても、ネットをやっていることも、家の家事、掃除、洗濯をやっていることも何かをやっているのだから。
給料や印税という形で金を貰うようなことをしていない人を嫌ったり、見下したりする人は、給料や印税という形で金を貰うようなことをしていない人が自分が正しいと信じている生き方をしていないのが気に入らないとか、
楽しているとか、苦しんでいないとか勝手に決めつけて不満を持っているバカな人達だろう。

例え話として、AさんとBさんとCさんとDさんとEさんとFさんとGさんとHさん8人が同じ絵を同じ時間をかけて描いた。
Aさんは以前から肩書をアーティストと名乗っていて、他の多くの人もAさんをアーティストの仕事をしていると思っている。
Aさんは描いた絵を値段をつけて売ったが売れなかった。
BさんはAさんが描いたのと同じ絵をメルカリやラクマやフリマ(フリーマーケット)で値段をつけて売ったら、フリマで売れた。
CさんはAさんが描いたのと同じ絵を値段をつけて売りはせずに誰にも見せなかった。
DさんはAさんが描いたのと同じ絵を値段をつけて売りはせずに、家族や友人に見せたら褒めらて、この絵で癒されたと思った友人もいた。
EさんはAさんが描いたのと同じ絵を値段をつけて売りはせずに親戚にタダで絵をあげた。
FさんはAさんが描いたのと同じ絵をインターネットで無料で公開した。
GさんはAさんが描いたのと同じ絵をユーチューブ(YouTube)に公開した。Gさんはユーチューバーではない。
HさんはAさんが描いたのと同じ絵をユーチューブ(YouTube)に公開した。Hさんはユーチューバー。
8人の人たちが同じ絵を同じ時間をかけて描いたが、多くの人はAさんのことは仕事をしていて、就労していて、働いていて、無職ではないと思うだろう。
8人の中でAさんとBさんの2人が絵に値段をつけて売ったが、Bさんのことを仕事をしている、働いているという人はあまりいないと思う。
同じ絵を描き、それに値段をつけていることは同じでも、多くの人が芸術家やアーティストと呼んでいる人が値段をつけて絵を売れば、
その絵が売れようが売れまいが仕事と言う人が多いだろう。
Hさんはフォロワーの多いユーチューバーで金が入ってきている人だ。

ユーチューバーで金を貰っている人をバカにしている人もいる。自分が何かをやり、ユーチューブで公開して合法でユーチューバーとして金を貰っていても、それを良く思わない人もいれば、仕事や職業とは言わない人もいるだろうが、仕事と呼ぶ人もたくさんいるのだ。
AさんとBさんとHさんは自分が描いた絵を誰かが見たり、その絵を売って買われているのは同じなのに、Aさんが一番多くの人から仕事と言われるだろう。
なぜ絵を描いているのは同じであるのに全く逆のことを思われるのかということだ。
子どもなどの例外は除いて、給料や印税という形で金を貰うことをしないといけないと信じている人は、
その人が何かやっていても、給料や印税という形で金を貰うことをしていなければ不満を持ったり、見下す人もいるのだ。
老人は長年生きてきたから自分は人間や世の中を若者より知っていると思っている人もいるだろうが、昔と今の世の中など色々違うわけだ。インターネットやスマホは老人より若い人の方がたくさん使ってるだろう。
ユーチューバーを老人のどれぐらいの人が知っているのだろうか?若い人の方が知っていそうだ。
今は家で撮影した動画をアップロードして、ユーチューバーで
金を貰う人もいる世の中だ。昔はインターネットもスマホもアプリもなかったのだ。

本人がいない所で「働いてるのかな?」と人のことを言う人がいたり、本人に「働いてるの?」などと聞いてくる人がいる。
こういう人達が本当に聞きたいことの詳細を詳しく言っていないけど、こう言うことを聞いてくる人が言いたいことは、
「給料や印税という形で金を貰うようなことをしているのか?大勢と同じことをしているのか?」と言うことを聞きたいのだろう。
つまり、さっきの8人の例え話にもあるように、何かをしているのは同じであるにも関わらずに、大勢と同じように給料や印税という形で金を貰うようなことをしていない人をバカにしていたり、見下していたり、蔑んでいたり、間違っていると思っている人もいるのだ。
立派だと思う人の場合は子どもみたいに生きて存在しているだけでもいいし、給料や印税という形で金を貰う必要はないと多くの人が思っていそうだ。
素晴らしい作品を作っているとか、素晴らしいものを作っていると思った場合は、それに値段をつけて売ることを認めて、気に入らないものや作品に値段を付けることは許さない人もいるのだ。
立派だと思う人にはたくさんの給料や印税あげてもいいけど、それ以外の人にはそんなにたくさん金をあげてはいけないなどと思っている人もいるだろう。
ただの差別だ。白人だけが差別しているわけではないのだ。差別など誰でもしているのだ。

結局、何かをやっていても、何もやっていないと思っていても、それで金を貰っていようと貰っていなかろうと誰かが不満を持つのだ。
不満を持つ理由の一つは羨ましさ、妬みなのだ。ずるい、せこいと思って羨ましいのだ。
メルカリで売られている何かについて誰かが「まじめに働くのバカバカしくなる」というようなことを言っていたのだが、
自分から見てメルカリで売れている新品や中古品の商品を下らないとか、価値が低いと思うようなものが高額だと思う値段で買われていると、
週5日、一日7時間や、それ以上の時間で給料を貰うようなことをしている人と比較して、せこい、ずるいとか思っていそうだ。
大勢と同じことをする人や、週5日、一日7、8時間やそれ以上の時間、給料を貰うことをしている人の方が真面目であると信じている人もいるのだ。
金でやっていく世の中に加担して、それを正しいと信じていて、大勢と同じことをしない人を真面目ではない人だと思ったり、悪者扱いしている人のことを真面目な人などと呼んでいるのだ。
金でやっていく世の中に加担して、この金社会を勝手に正しいと信じて、他の人がこの金社会で苦しんでいても、それを辞めようとはしなくても真面目な人とか、真面目に働いているなどと言えばカッコが付いて綺麗事にはなる。多数派を良く言いすぎなのだ。

メルカリでビックリマンシール1枚や20枚が数千円や1万円や5万円で売れれば、せこい、ずるいなどと思う人もいるのだろう。
自分が素晴らしい人とか、立派だと思っていない人が自分や立派だと思っている人よりもたくさん金を貰っていると許せなくて不満を持つのだろう。
ビックリマンシールなどを数千円やそれ以上で買いたい人や、金を出しても欲しいと思う人もいるということだ。
誰かにとって要らなくてゴミだと思うものが、他の人にとっては必要なものであったり、素晴らしいものだと思っていたり、宝なのだ。
誰かにとってのゴミが他の人にとっては宝なのだ。

無職やニートと言われている人を見下して蔑んでいたり、間違った生き方をしていると思っている人がいたり、あいさつをしてほしい相手があいさつをしないと見下したり、嫌ったりしても、他の人なら同じことを思っていないのだ。
劣っていると思う人のことをゴミと呼ぶ人がいるが、ほとんどの人はその人のことをゴミとは呼ばないだろう。
自分が価値のないと思っていたり、見下している人について、他の人はその人のことを好きだと思っていたり、大切な存在だと思っているのだ。
働いていない人は死ねと言っている人がいたり、死ねとは思っていなくても、見下したり、間違った生き方をしていると思っている人は多いだろうが、動物を食べている人に対して、こんな人類なくなればいいのにと言っている人もいたり、人間は動物を食べるようにはできていないと言っている人もいるが、働いていないと言われている人を嫌って見下している人も、動物を食べている人は多いだろうが、動物を食べていることで誰かから見下されて嫌がられているのだ。
同じ言葉の定義、意味付け自体が違ったり、同じ人や物などに対して思っていることも真逆だったり、全然違うことを思っているのだ。
誰でも自分中心の捉え方をしているのだ。人間と言われている人が知っていることなどごく一部のことだけで世の中や人間についてほとんど知らないのに、ほとんどのことを知っていると思っている人もいるのだろう。ほとんどのことに対して無知であるということを知らない人もいるのだ。

あいさつは正しくはないが、金でやっていく世の中も正しくはないし、不正であり、本来モノやサービスに値段などついていないが、
みんなで助け合いをしようとしないので、金でやっていく世の中などやって、自分たちが何かをやったりしたことに給料や印税という形で金を貰うことは正しいと勝手に信じているのだろう。
合法であろうと違法であろうと、自分たちが気に入らない金の得かたをしていると不満を言ったりして叩く人もいるのだ。
例えば、親の年金で自分の生活費が払われていたり、自分が欲しいものを買ったり、ヒモ生活と言われている人が女から生活費とか、欲しい物に金をを払ってもらったり、株で金得たりすることは法律上は違法ではなくても、こういう生き方を間違っていると信じている人がいたり、バカにしている人もいるのだ。
自分がやったことに給料や印税という形で金を貰うことが正しい金の得かたであると信じている人がたくさんいるのだ。
大勢と同じように給料や印税という形で金を貰うようなことをしていない人をバカにするようなこと言っても、中傷や誹謗中傷とは言われにくいだろう。
大勢がバカにしていたり、見下していることは正しいことだと思われやすいから許されやすいのだろう。

中傷(悪口)をしていない人はほとんどいないだろう。
日本の法律に侮辱罪、名誉棄損罪というものがある。
内面で人をバカにして侮辱することを思っていたり、本人のいない影で悪口を言ったり、本人のいる所で悪口を言っていても、
ほとんどの人には侮辱罪、名誉棄損罪は適用されない。だからこの法律も差別法だ。
多くの人は誰かや何かをバカにして侮辱しているだろうに、一部の人だけが侮辱罪や名誉棄損罪を適用されるのは不公平だし差別だ。
多くの人はこれらの法律を知っていても、ほとんどの悪口をひどいことや、悪などとは思わないだろう。

誰かが「人を攻撃する人は自分が先に相手から攻撃されたと思っている」と書いていたのだが、誰かに不満を持ったり、本人や本人以外に不満を言ったり、逮捕したり、裁判起こしたり、裁判を起こそうとしたり、嫌がらせしたりなどしている理由のほとんどは、「人を攻撃する人は自分が先に相手から攻撃されたと思っている」ということで理由が付くと思っている。
攻撃という言葉の部分を、人への不満に置き換えれば、例外あれど、人に不満を持っているのは不満を持たれている相手のせいで不満を持ったと思っている場合が多いと思う。

「人を攻撃する人は自分が先に相手から攻撃されたと思っている」というのを言い方変えれば、「人に不満を持つ人は例外あれど、相手のせいで不満を持ち、嫌な気持ちにさせられている。
だから、相手のせいで不満を持ち、不利益をこうむり、迷惑をしているのだから相手に不満を言ったり、嫌がらせしたり、逮捕したり、裁判を起こしてもいい」というようなことを思っているのだろう。
更に別の言い方で言えば、「自分が正しい。正しいという根拠がなくても自分が感じたことが正しい」と思っているのだろう。
自分が正しくて、相手が間違っていると思い不満を言う場合に、無責任とか、責任取れ、など言うのは、自分が正しいから、自分や誰かが迷惑したり、嫌な気持ちなったのは、嫌がった人ではなくて嫌がられた人に原因があるということを認めろと言いたいのだろう。

法律自体が不正だが、みんな自分に都合にいいように法律を利用しているだけなのだ。
ほとんどの法律を知る気もなく、ほとんどの法律を知りもせず、知っている法律の一部は守っているのだ。
中傷、侮辱、名誉棄損など多くの人がやっていることだが、ほとんどの人に侮辱罪や名誉棄損罪は適用はされない差別をしている。
おかしいことを罪というとすれば、差別していない人などいないだろうから、差別していることを差別罪と言うとすれば、みんな差別罪を犯しているとも言えるのだ。
逮捕されたら犯罪者や罪があるとして、一部の人にだけ罪名を付けているが、それ以外の人にも罪はあるとも言えるのだ。
バカと言う人がバカというように、犯罪者と人に言う人も犯罪者だということになる。

あいさつをしてほしいのに、あいさつされなかったことに不満を言う人は、あいさつのことにおいては自分が正しいのに、自分の思い道りにあいさつしなかった人に不満を持ち、相手が悪いとか、相手に原因があると思っている人もいるのだ。
「人を攻撃する人は自分が先に相手から攻撃されたと思っている」をあいさつされなかったことに不満を持っている人のことを当てはめて、言い方を変えれば「あいさつしてほしいのにあいさつしない人に不満を持ったり、攻撃する人は、自分があいさつされないことで嫌な気持ちになったのは、あいさつしなかった人のせいだと思っている」ということだろう。
自分の思い道理りにならないから嫌な気持ちになったのは、自分に問題はなくて、相手に問題があり、相手が悪いと信じているのだ。
日本人の場合、日本人は自分に自信がないという人がいるが大げさな言い分で、正しい根拠や裏付けがないのに自分が正しいと信じているところがあるのだ。

 

50.日本人もカースト民族

 

インドのカーストは多くの日本人はどこかで見聞したことがあって有名だろう。
日本人もカースト民族で縦社会であり、ヒエラルキーや差別はあるが、
日本人には差別はないとか、あまり差別はないと信じている人もいるだろう。
白人の黒人差別やユダヤ人差別などは有名で特定の人種や民族を見下したり、嫌っている。
でも、誰かを見下したり、嫌っている理由は、生まれた時の肌の色とか、民族で嫌っているだけではないことは多くの人は分かっているだろうが、
あまり大勢の見聞できる所では言わないだけだろう。

あいさつでも、初めにあいさつしないとか、あいさつ返さなかったということで嫌ったり、見下す人もいるのだ。
あいさつを初めにしないとか、あいさつを初めにしてオウム返しをしないことに不満を持ったり、あいさつ返しをしないことで見下したり、嫌うのは信仰差別とも言えるだろう。
みんながあいさつを正しいとは信じていないし、知らない人にあいさつしなくてもいいという信仰を持っている人もいるのだ。
例外除いて、大勢と同じことをしない人を下に見ている人もいるが、誰でも大勢と同じことしていないところなどたくさんあるのに、
自分やほとんどの人が大勢と同じことしていないことは許すような差別をしている。

同じことを言い表すのにも、誰かを見下したり、バカにしたり、嫌っていることを差別という言葉で言えば、差別している方がひどいとか、間違っていると思われやすいだろうが、嫌っている、バカにしているという言葉だけで言えば、あまりひどいことのようには思わない場合もあるだろう。
あいさつも、例外除いて、仲間扱いしていない人や、大切ではない人に対してあいさつをする場合が多いだろうから、自分と関係ない人にあいさつして関わってやったなどと思っている人もいるだろう。

あいさつしてほしいのにあいさつしなかったのが、仲間や家族や子どもなら許すのに他の人ならば許さないの人が日本人にいるのも、日本人にも差別心があり、同民族に対しても差別をしているところがあるのだ。
関わる気もない人や、嫌いなだけの人やどうでもいい人にあいさつしたことを高評価して、素晴らしいとか、気遣いや、やさしさ、思いやりなどと言うのも日本人が自分や多数派に甘いところがあるからだろう。
自分の思い道りにならずに、あいさつさせたい人があいさつしなかったことを許さずに嫌ったり、見下したり、嫌がらせしに来たりするような
ことしているあいさつする人を素晴らしい、気遣いや思いやりであいさつしたと高評価すれば美化出来て綺麗事にはできるけど。

金でやっていく世の中が日本でなくならないのも、多くの日本人が金でやっていく世の中を正しいと信じている金信者だからだ。
多くの人が金でやっていく世の中は不正でおかしいと思い、この金社会に加担しなければ、金でやっていく世の中などまかり通るわけがないのだ。
多くの人は例外除いて、大勢がやっていることを常識やマナー、モラル、社会のルール、当たり前などという言葉で言い表しているけど、
大勢がやっていることで不正で間違っていることを同じことを信じていない人に押し付けたり、刑法違反ならば逮捕することをしているのは、
日本人もカースト民族で人を上に見たり、下に見ているところがあり、同じ人間だと思っていなかったり、仲間や家族だと思っていないから、
こういうことをしているところがあるのだ。例えば、同じ刑法違反をしたのに、自分や仲間や子どもならば警察呼ばずに逮捕させようとはしないのに、
他の人ならば逮捕させるために警察を呼んだりするような、えこひいき差別をしている。

金でやっていく世の中を助け合いや社会貢献などと言い、人のためにやっているなどと良く言う人は綺麗事を言っていたり、
金でやっていく世の中で色んな人が色んなことで苦しんでいることを知らない人だったり、金でやっていく世の中で苦しんでいる人がいるのを知っていても大切でもない人や、どうでもいい人や、嫌いなだけの人が苦しんでいても他人事なのでどうでもよかったり、金でやっていく世の中が正しいと信じている金信者だから、金社会を良く言うのだろう。

例外除いて、正しいと信じていなくても権力者や多数派に合わせて従えというような世の中になっているのだ。
正しいと信じていなくても権力者側が税金、年金を払え押し付けていて、多くの国民もそれを正しいと信じている人もいるのだ。
「俺ら以下が俺らに逆らってくる」というようなことを思っている人もたくさんいるだろう。
下は上に合わせて従わなければいけないと言う信仰を持っている人もいるのだ。
今後は、金でやっていく世の中など確実になくなるし、政治家や市長、知事などもいなくなる世の中になるから、これらの上の立場の人が決めたことに従って合わせろと言うことはなくなるだろう。

 

51.自由には責任が伴うという間違った信仰心

 

自由には責任が伴うと言う人がいるが、これはただの信仰であり、みんながそんなことを信じていない。
会社や学校や色んな集団の中で、自分や好きな人や善人だと思っている人に都合の悪いことがあると、その集団の一番上の人や、一番上の立場ではなくても、他の人よりも立場が上の人のせいにする人がいるのだ。
いい人だと思う人や自分や好きな人を悪く言いたくない人の中には、
嫌いな人や見下している人やどうでもいい人のせいにしたりする人もいるのだ。

親や先生や政治家や市長や知事などの上の立場の人などが決めたことを正しいと信じていようが、信じていなかろうが他人の決めた決まりを色んな理由で守ってきたことで、自分の思い道りにできないことを洗脳されたとか、やらされたとか、人生奪われたとか言ったり、思ったりして被害者を気取って上の立場の人をスケープゴートにして人のせいにしているところがあっても、自分が可愛いから、自分のことを問題視して悪く言わないようにしてきていたのが、自分の本心をまかり通らせて生きたら
それも出来なくなるだろう。
私たちは被害者で権力者などにやらされて、図々しい人に言いなりにさせられてきたと思っていれば楽できるところもあるが、
自分の思い道りの言動をたくさんまかり通らせたら、人から嫌われたり、みんなと同じ人間だと思われなくて、変わり者とか言われてバカにされたり、変な目で見られたりするのが嫌な人もたくさんいるだろうから、
自分が正しいと信じていない決まりを嫌々、形だけ守っていた方が都合がいい人もいるだろう。
自分の本当の信仰心や本音、本心を隠すことで、自分が人からバカにされたり、変な目で見られる可能性が低いからだ。
大勢と同じことを思っていないとか、大勢と同じことをしていない人だと思われたくないから、自分の本音や信仰心を隠して
生きてきて、大勢の人から普通の人や一般人とか、いい人などと言われている人もたくさんいるだろう。

自由には責任が伴うという言葉に隠している意味は、
誰かが一番初めにやったことや、誰かが初めに決めた決まりを別の人がその決まりや、誰かが一番初めにやったことを色んな理由で真似して、
真似した人がそれをやったことで嫌な気持ちになったり、真似した人に都合の悪いことになった時に、一番初めにやった人や、
決まりを初めに決めた人のせいにするという信仰だろう。
他人のせいにすると楽だし、我が身可愛さ、自分可愛さがあるから全く自分を悪く言いたくないとか、ほとんど自分を悪く言いたくないとか、
自分を問題視したくないから、他人のせいにしたがることを自由には責任が伴うなどという人もいるのだろう。
一番初めに何かをやったり、初めに決まりを決めた人を問題視して、その人たちのせいにして、その人たちの真似をした人を問題視はせずに、初めに何かをやった人の自由には責任があるけど、その人たちの真似をした人たちが、真似をしたことで嫌な思いをした場合は真似をした方には責任がないという信仰心を持っている人もいるのだろう。

正しいと信じてもいないのに自分に都合がいいことだという理由で他人がやっていることを真似したり、他人が決めた決まりを勝手に守って
都合が悪くなると初めにそれをやった人のせいにして甘えているのだ。
あいさつでは逆で、一部の人にあいさつをしてほしいと求めて、あいさつされないと、あいさつ返しされたくて初めにあいさつした人や、
一番初めにあいさつをやりだした人が問題視されるのではなくて、あいさつしてほしいのにしなかった方が問題視されたり、おかしいと思われたり、攻撃されたりする。

子ども好きな人の中には、子どもが正しいと思うことをしなかった場合、親や先生や大人が教えてないからとか、子どもが間違っていることをしていると思った時に大人が止めなかったからなどと思う人がいるが、
止めても言うことを聞かなかったり、大人や誰かが指示を出しても言うこと聞かなかったりする場合もあるのに、子どもが好きな人の中には子どもを問題視しない代わりに大人のせいにする人もいるのだから、
自由には責任が伴うと言っている人がいるのは間違っているのだ。子どもが自分が感じたことを自由にまかり通らせて何かをやっても、
そのやったことを間違っていて、おかしいと思っても子どものせいにはされずに大人のせいにしている場合もあるのだから。
子どものことに限らずに、誰かがやったことでおかしいと思うことや、気に入らないことがあると上の立場の人や、初めに何かをやった人のせいや、
嫌いな人やどうでもいい人や下に見ている人のせいにされる場合がある。
ほとんどの人をいい人だと信じていて、一部の人を悪人だと信じている人の中には、いい人だと思う人が悪いとか、おかしいと思うことをやったら、悪人だと思う人のせいにしたりする人もいる。
ごく一部の人を悪者にして問題視することで、自分やほとんどの人を悪く言わずに問題視するのは、初めに何かをやった人のせいにして、その人がやったことを取り入れて嫌な思いをした人を問題視しないようにするには、
自由には責任が伴うという言い分は都合がいい。

 

 

 

52.信仰を縛ることは出来ない

 


「今までは窮屈できっちりとした時代だったけど、これからはおおらかで自由になる」などと言っている人がいたのだが、この人の言っていることは間違っている。
今までは窮屈できっちりとした時代だったと言っているが、今までもおおらかで自由なところはたくさんある。
例えば、牢屋の中にいる人は物理的な体が離れた牢屋の外に出て遠く離れた所に行くという自由はないが、内面で思うことの自由はあるとも言えるのだ。警察や裁判官やそれ以外の人がお前が間違っていると言ってきても、
自分は間違っていないと思うことは出来るし、内面で思うことは自由だ。
牢屋の中に入れられたり、柱に縛りつけられたり、手錠をかけられたり、足枷をつけられて、いかにも体の自由を奪われていても、内面の自由まで奪うことは出来ないとも言える。
体の自由を奪われても、自分が何を信じるかの心、精神や信仰の自由を奪うことは出来ないとも言えるのだ。
「牢屋に入れたり、手錠をかけて体の自由は奪っても、心や信仰の自由まで奪えないぞ」という感じだ。
洗脳されたとか言う人がいるが、同じことを信じない人もいるのに、正しいという根拠がない何かを信じたことを洗脳されたと言い、人のせいにしているのだ。
何かを勝手に自由に信じたとも言えるが、それを他人から信じ込まされて窮屈であるかのように思い、自分が被害者だと思っている人もいるのだ。

あいさつで言えば、あいさつを初めにしてあげたから、あいさつを返せという信仰を持っている人が多いだろうが、子どもや好きな人があいさつを返さないことは許したり、好きではない人があいさつ返さなかったら許さない人もいるわけだが、しなければいけないと信じていることを自分や好きな人が守らなかった場合は許すのは、好きな人や自分にはおおらかで、それ以外の人にはおおらかではないのだ。ただの差別だが、関わる気もない人やどうでもいい人などに、あいさつ返しを求めて初めにあいさつしたり、誰かにあいさつを返したことを、きっちりしていると言えばカッコが付くが、
あいさつをする人の心理や、あいさつに対する信仰心は同じではないので、きっちりしている人だからあいさつをしたということにはならない。
ほとんどの人にはあいさつしないのに、ごく一部の人にだけあいさつしているのは自由に勝手にあいさつしているのだ。
誰かからあいさつしろと言われても、あいさつしないことは出来るし、誰にあいさつするかしないかは自分が決めているのだ。

今までも色んなことにおおらかな所はあるし、おおらかではないところもあるし、両方あるのだ。
例えば、人や人間以外の生き物が嫌がることをしていても、
ほとんどのことでは逮捕にはならないが、一部のことでは逮捕になり、ほとんどの人は誰かが嫌がることをしても逮捕にならずに、
泳がされたり、ほったらかしにされていて、おおらかな対処をされているとも言えるが、一部の人は逮捕されたり、裁判起こされたり、
嫌がらせをされたりなどしていて、おおらかな対処などされていない。

万引きしたのが大人でどうでもいい人ならば逮捕させたがっても、子どもや自分や自分の仲間が同じことをしたら警察は呼ばなかったりするようなことをして、えこひいきして差別していたりする人もいるのだ。
誰かが嫌がることをしていても、誰がやったかによっては許して、おおらかな場合があったり、許さなくて、おおらかではない場合もあるのだ。
誰かがやった何かに対して、誰かは悪評価したり、攻撃しに行っても、他の人は悪評価してはいないのだ。
自分に都合の悪いところにはおおらかではなく、どうでもいいことや悪いと思っていないことに対してはおおらかなのだ。

江戸時代は仏教という宗教には禁教令は出されないが、キリスト教には禁教令を出したり、キリスト教以外の宗教でも、宗教の普及活動している人が捕まっているのだ。
江戸時代を平和などという言葉で言い表す人もいるが、おおらかではないところもあり、窮屈なところもあるが、窮屈ではない、おおらかなところもあったのだ。
今の日本の法律では大麻栽培や所持で逮捕になったりするが、江戸時代に大麻取締法などないので逮捕にはならなかっただろうし、オランダではどこかの店で大麻を吸ってもいいらしいが、日本みたいに逮捕にはならない。
江戸時代の権力者は大麻や、それ以外の多くのことにはおおらかでも、キリスト教信者や、それ以外の一部のことにはおおらかではなかった。

真面目で決まりを守っていて、きっちりしていると言われている人や、自分のことをそういう人だと思っている人が、ほとんどの決まりを守らなかったり、守っていても原則どうりに決まりを守らないような人のことを真面目だとか、きっちりしているなどと言われているところがあり、良く言われる場合もあるのだ。
あいさつはしないといけないと信じているあいさつ信者が、ほとんどの人にあいさつしないのに、自分や誰かにあいさつしないことは許さないような、おおらかではないところがあっても、ほとんどの人があいさつしないことに対しては許していて不満など持たないのだから。
同じことをやったのに、あの人のことは許しておおらかでも、この人のことは許さないと思い、おおらかではない。

今までは自由ではなかったかのように言っているが、今までも色んなことに対して自由なところもたくさんある。
私たちは他人のせいで窮屈で自由ではない時代に生きていたなどと被害者を気取っている人もいるのだろう。
親や先生や権力者などに色々な決まり(ルール)を決められて洗脳されて、やらされてきたと勘違いしているところがあるのだ。
自分達が他人の決めた決まりの一部を勝手に正しいと信じて取り入れたり、正しいとも信じていないのに見栄、体裁などで勝手に一部の決まりを守り、
同じことをしない人を逮捕したり、嫌がさせしたり、嫌ったりして、
真面目な人が損をして、図々しい人が得をするなどと言っている人もいたり、自分達と同じことをしない人を妬み、羨ましがっているところがあるのだ。
同じことをやっていない人がいるのを百も承知で勝手に一部の決まりを守っているのに、他人からやらされているという不満を持っていたり、同じことをしない人に不満を持っているのだ。

金でやっていく世の中を勝手に正しいと信じているのに、他人にやらされているとか、自分の金を取られていると被害者意識を持ち、無職やニートと言われている人を勝手に嫌ったり、見下しても、金でやっていく世の中が正しいと信じている人は金でやっていく世の中を辞めようとはしないのだ。
法律にはたくさんの決まりが決めてあるが、そのほとんどを知ろうともせずに、知っている法律でもすべてを守っているわけではないし、守っている法律でも原則道理には守らない場合もあるのに、守っている決まりがあるところだけを持ち出して、きっちりしていると言って高評価したりする。

外国に住んでいる日本人が日本のことを決まりがたくさんある国と言っていて、「ルール オブ ジャパン」というようなことを言っていたが、日本の中に決まりがたくさんあっても、その決まりのほとんどを日本人が守っているわけがない。守っている決まりも原則道理に守っていない場合も多いだろう。
決まりがあることと、その決まりを守っていることは別のことなのに、ごちゃ混ぜにしているバカな人もいるのだ。
日本にある色んな決まりなど知らないことが多いだろうし、日本に法律があるのを知っていても、ほとんどの法律を知ろうとしていない人の方が多いだろうに。
ほとんどの決まりなど守っていないのだから決まりがあるから窮屈だということにはならない。

一部の決まりを守らないことで、逮捕されたり、税金Gメンの差し押さえをされたり、道交法違反で捕まるような強制が入るのは一部のことで、
ほとんどの決まりを守らなくても逮捕などされない。
法律違反以外でも、誰かが勝手に正しいと信じている決まりを守らなかった時に身体暴力をやられたり、嫌がらせをされたりする場合があるが、
ほとんどの場合こんなことはやられないだろう。
誰かが信じている決まりを守らないから不満を言われたり、嫌がらせをされたり、逮捕されたりするようなことがあるのは日本人だけではなくて、
日本人以外でも同じことだ。

遠い昔ならば、日本人も外国人も金でやっていく世の中などなかったし、あいさつも誰もしていなかっただろうから、昔の方がこれらのことにおいては楽で、金のことや、あいさのことでの不快さ、不満などなかったのだ。
日本人は無宗教や無神論者という人もいるが、これはウソで、正しい根拠がなくても日本人は色んなことを信じていて、それを宗教や教義や信仰や信者や教祖という言葉でいい表していないだけだ。

自分が正しいと信じていることをやらない人には間違っていて、おかしいと思うのだろうが、正しいと信じていないのに一部の決まりを守っているのは、バカにされたり、逮捕されたり、見下されたり、嫌われるのが嫌だから形だけ一部の決まりだけ守っていて、同じ決まりを守らない人に不満を持つのは妬みや羨ましさの場合が多いだろう。
自分もやりたくないのに形だけ嫌々やっていることをやっていない人を羨ましがったりして不満を持つのだ。
自分が正しいと信じていることをやらない人に間違っていると思っているから逮捕したり、嫌がらせしたり、不満を言う場合と、大切ではない人、仲間ではない人や見下して格下に見ている人が自分の言うことを聞かないから、逮捕したり、嫌がらせしたり、不満を言う場合があるだろう。
自分の言いなりにならない人を許さないのは、人間は自分が一番可愛いからだ。自分の思い道りにならなくて嫌な気持ちになったのを他人のせいにしやすいのだ。
あいさつでも、もしあいさつをしてほしいのに、あいさつをしなかった人が自分より大切だと思っていたら、不満など持つはずがない。大抵、あいさつしてほしい相手は大切ではない、仲間だと思っていない人にする場合が多いだろうから、そんな大切ではない人があいさつをしてほしいのに自分の言いなりにならずにあいさつしなことは許さない冷酷さがあるのだ。

家庭や職場や近所や国や、それ以外の自分が属している集団で誰かが決めた決まりの全てなど守っているわけがない。
守っている場合も正しいと信じていないのに、逮捕されたくないから、嫌われたくないから、不満言われたくないから形だけ守っている人のことを、
人によってはきっちりしていて真面目などという言葉で言い表すのだろう。
正しいと信じていないのに、誰かにやれと言われたことに対して、従って言うこと聞いたことを高評価する場合には要領がいいなどと言われたりして、
逆に言うことを聞かないことで、不満を言われたり攻撃された人のことを悪く言う場合は要領が悪いとか不器用な人などと言ったりするが、
自分が正しいと信じていない決まりを守っている人を悪く言う言い方に「クソ真面目もどうなん」とか言ったりする人もいる。

 


脱あいさつ あいさつは正しくない8

2022年10月17日 | 脱あいさつ

目次
第1章から第9章へのリンク
第10章から第12章へのリンク
第13章から第20章へのリンク
第21章から第23章へのリンク
第24章へのリンク
第25章から28章へのリンク
第29章から37章へのリンク
38.世にも奇妙なあいさつ
39.ことわざとあいさつ信者の適当さ、いい加減さ
40.自分がやりたいことを勝手にやっている人は問題視されずに、周りの人などの他の人が悪く言われる場合がある
41.あいさつ信者は水戸黄門ならぬ、あいさつ黄門だ
42.あいさつとDVD-RW
43.あいさつ信者という危うきに近寄らずや、触らぬあいさつ信者に祟りなしというわけにはいかない
44.近所の50代ぐらいの女の人のあいさつの謎
45.あいさつと葬式
46.関電と元助役の人の関係に見る他人の姿は自分の姿
47.誰を基準にしているのか?
第48章から第52章へのリンク
第53章から第56章へのリンク
第57章から第59章へのリンク
第60章から第67章へのリンク
第68章から第75章へのリンク
第76章から第81章へのリンク
第82章から第86章へのリンク
第87章から第93章へのリンク
第94章から第99章へのリンク

 

38.世にも奇妙なあいさつ

昔、テレビ番組でタモリという人が出ていた「世にも奇妙な物語」というテレビ番組があったのだが、この番組の題名(タイトル)のような言い方であいさつする人やあいさつのことを言い表せば、
「世にも奇妙なあいさつ」「世にも奇妙で変なあいさつ」「世にも奇妙なあいさつ信者」「世にも奇妙で変なあいさつ信者」「世にも奇妙で変なあいさつする人たち」「世にも奇妙で変な一部の人にだけあいさつする人たち」「世にも奇妙で変な一部の人にだけあいさつさせたい人たち」
「世にも奇妙で変なあいさつ信仰」「世にも奇妙で変なあいさつ宗教の信者たち」「世にも奇妙なあいさつの決まり(ルール)」「世にも奇妙な差別あいさつの決まり(ルール)」という感じだ。  

一部の国民のことを変人や変な人、変わり者などと呼んで他の人と差別化するようなことしている人がいるが、
こういう人はほとんどの人のことは変とは言わないだろう。
言葉というのは人によって同じ言葉でも違う定義、意味付けで使うので、同じ言葉を同じ意味で使わない場合もあるわけだが、
他の大勢と違うところがあることを変と定義づけるとすれば、みんな変なのだ。

大勢と同じことをしているところがあっても、おかしいと思うことをしていたり、間違っていることや不正を正しいと言っていることを変と言うとすれば、あいさつも変だし、あいさつする人も変な人である。

ほとんどの人のことを普通の人などという言葉で片づけたい人もいるだろうが、国民のことを「世にも奇妙で変な国民たち」とも言えるし、「大勢と同じことをする変な人たち」とか「大勢と同じことを正しいと信じる変な人たち」とか「世にも奇妙で変な大勢と同じことをするという演技をする人たち」とも言える。

私は今30代だが、10年以上前の20代半ばの時、大阪に住んでいたある日、新大阪駅に行ってた時にある本を買ったのだ。
私は昔も今もそんなに本は読まないのだが、新大阪駅の売店に売ってあったある本が、たまたま目についた。
題名に魅かれて私はその本を買ったのだ。
その本の題名(タイトル)は「人は見た目が9割」という本だ。
私と同じ理由でこの本を買った人は他にもたくさんいると思う。

本やブログなどでも、人にいかに興味を持ってもらって、手に取ってもらったり、買ってもらったり、読んで持ったり、見てもらうかは
本やブログなどの題名や表紙のデザインが重要だと思う。
もしこの本の題名が「人は見た目が大切」とか「人は中身が大切なのは言うまでもないけど、見た目も大切」とか「見た目にこだわろう」とか
「人は見た目が2割」とか「人は見た目が重要」などの題名だったら買っていなかったと思う。
中身の内容が同じであっても、題名や表紙のデザインで売り上げは変わるだろう。
同じことを言い表すのに言葉のいい方を変えると印象が変わるのだ。
大勢が嫌がる言い方や大勢が好む言い方などがある。

 

 

39.ことわざとあいさつ信者の適当さ、いい加減さ

ことわざに、一犬影に吠ゆれば百犬声に吠ゆ(いっけんかげにほゆればひゃっけんこえにほゆ)というのがあるのだが、
この意味を誰かは「一人の人間がいいかげんなことを言うと多くの人が、それを真実として広めること。」などと言っている。

別のことわざに、一人虚を伝うれば万人実を伝う(いちにんきょをつたうればばんにんじつをつたう)というのがあって、
このことわざの意味を誰かは「一人がウソを言うと、これを聞いた多くの人が、それを真実として言い広める」などと言っているのだが、
あいさつ信者の人もこんな感じだろう。
誰か一部の人がやり始めたあいさつを知り、あいさつ信者は自分に都合のいいようにあいさつを利用して、ごく一部の人にだけあいさつして、
ほとんどの人にあいさつしなくてもいいと勝手な信仰を持っているあいさつ信者達。

正しくもないことや、ウソを正しいと信じることは、特に大勢がやっていると正しいことだと信じこむ人が多いのだ。
誰でもバカで頭が悪いところがある。こういう適当でいい加減なことをしていても、あいさつする人や、
あいさつ信者は真面目な人とか、躾がなっている人とか、あいさつできる人は素晴らしいなどと言われて褒められたりして良く言われるのだ。
あいさつが正しいというウソも、ウソでも多くの人が正しいと信じれば、その多くの人は勝手に正しいと信じるのだ。

あいさつをすることは正しいことではないし、やらなくてもいいが、多くの人はあいさつされたらオウム返しであいさつを返さなければいけないとか、
最低限は会釈を返さなければいけないと信じていたり、一部の人に対して初めにあいさつをしなければいけないと信じている人もいるが、
それが正しい根拠もないし、正しいことでもないのに、自分が勝手に信じているあいさつを一部の人にしなければいけないという決まり(ルール)を他の人にも広めているのだ。

「一人虚を伝うれば万人実を伝う(いちにんきょをつたうればばんにんじつをつたう)」ということわざにあいさつのことを当てはめて言えば、
「誰かがやり始めた正しいという根拠もないし、やらなくてもいいあいさつを、多くの人が正しいことで真実であると言い広めている」だ。
あいさつを一部の人にだけして、あいさつされた人があいさつを返さなければいけないと信じるあいさつ信者の適当さ、いい加減さ。
誰か一人がやっていることを大勢がやると正しいことだと信じられやすい。
一人が発明したもので、大勢がやっていなくても、大勢の役に立つものを発明すればエジソンの様に褒められたりするが、
大勢がやっていないことで大勢が悪いことだと思っていることや大勢が迷惑するようなことをやると不満を持たれやすい。

日本人はきっちりしていて真面目だという人もいるが、それは日本人の一面であり、いい加減で適当なところもたくさんあるのだ。
正しくもないことが正しいこととされていることだらけだが、その正しくもないことを正しいと信じているところは誰にでもあるだろうが。

 

 

40.自分がやりたいことを勝手にやっている人は問題視されずに、周りの人などの他の人が悪く言われる場合がある

 

私が今住んでいる家から少し離れた所に畑がうちの畑があるのだが、
母方のおばあちゃんが畑作業をしていた時期に、私が住んでいる家のリビングに私と叔父がいた時に、叔父が私の目を見ずに大きい声で「わけーもんがやらずに、年寄りがやっとるがな」というようなことを言ったのだが、
意味は私への不満、嫌みだろう。畑作業を私がしていないと不満を言っているのだが、叔父が畑作業を楽しみでやっていたり、他の人に畑作業をやられたくないのなら不満は言わないだろう。
おばあちゃんは野菜などの種をまいたり、それを収穫したりなどしていたが、叔父は野菜のことはやっていないと思う。
叔父が畑に果物の苗木をいくつか植えていて、それに水をやったりしていただけだろう。
おばあちゃんが私に畑作業を手伝ってと言ってきた時には、私は大体手伝っていたが、叔父はそれを知らないのだろう。

叔父はおばあちゃんが、なんで畑作業をしているのかの理由について、その時々で言っていることが違うのだ。
一字一句はっきりと覚えていないが、ある時にはおばあちゃんが畑作業をしていることを「年寄りは人のために、人のためになんだよ」というようなことを言っていた。
「おばあさんが取りたいだろうから残しておいた。」というようなことを叔父が言っていたのだが、はっきりと覚えていないが、
叔父はなすびのことを言っていたと思うのだが、おばあちゃんが野菜の収穫をしたがっているだろうから自分は野菜を取らずに残しておいたと言っているのに、一方では、年寄りは人のためにやっている人だから畑作業をやっているかのように言っていて矛盾したことを言っているのだ。

叔母が数年前に私が住んでいる家の固定電話に電話かけてきて、私がその電話に出た時に叔母がおばあちゃんの畑作業を手伝ってあげてというようなことを言ってきて、それに対して私が手伝っていると言って返答をしたら、
一字一句覚えていないが、叔母は世間体があるからというような感じのことを言っていたと思う。
その電話を切った後、私の母親の携帯に叔母から電話があったみたいで、
おばあちゃんにあまり畑作業やらせるなと言っていたのではないかと思う。
90代ぐらいの年寄りが一人で畑作業をしていたら、近所の人などから変な目で見られる場合があるとでも思っているのだろう。
おばあちゃんが日が暮れて暗くなっても畑作業をしている時があって、
私の母親が、「ふうが悪いから」などとおばあちゃんに言っていた。
私の母親は近所の目などの世間体があるから暗くなるまでやってほしくないと思っていたみたいだ。
はっきり覚えていないが近所の誰かが、うちのおばあちゃんが畑作業をしていることを「家に帰りたくないんだぞ」と言うようなことを言っていたらしい。

おばあちゃんが畑作業をやっていたのは、畑作業をやることを好きでやっているように思えた。
そもそも、体調がすごい悪い人や、畑作業をやりたくない人が、一日に数時間も畑で作業するとは思えない。
手伝ってくれとおばあちゃんに頼まれたから畑に行った時に、私が近くにあったクワをなんとなく持っていたら、数メートル離れた場所にいたおばあちゃんが私の方に来て「あんたにはできない」と言って、
私が持っていたクワを取って、土にクワを入れだした。エンドウマメの支柱を作ることをおばあちゃんから私が頼まれた時も、
私が縦と横の棒を紐で結んだところを、後から紐をほどいていた。結び方が気にいらなかったのか、紐の位置が気に入らなかったのか知らないが、
おばあちゃんは私に畑作業を手伝って欲しくて頼んでも、この畑は自分のもので自分のやり方でやりたいと思っていたような感じがする。

2月か3月ぐらいの時に、ジャガイモをおばあちゃんと植えていて、翌日ぐらいに畑に行った時に、ジャガイモを植えた土の上にワラを置いていたのをおばあちゃんが取っていて、土からジャガイモを取り出していて、
深く植えているから、というようなことを言っていたと思うが、ジャガイモを植え直していたのだが、冬は野菜は畑でやることがあまりないから、ジャガイモの植え方に問題があるかのように理由を付けて、他にやることがないから、ジャガイモを植え直していた可能性があると思っている。
私がおばあちゃんの畑作業を手伝っていないから、おばあちゃんが畑作業をやっているのではなくて、おばあちゃんは自分がやりたくて畑作業をやっているのだ。他の人がおばあちゃんに畑作業をやれなどと言っていなくても
勝手にやっているのに、叔父は私が畑作業をやらないで、年寄りの方が畑作業をやりたくもないのにやっているとおかしいことを思っていて、
いい加減なことを思っている。

畑作業のことで言えば、叔父と同年代ぐらいの男の人が畑作業しているのだが、その男の人は九州出身みたいで、叔父が九州の人は働き者と言っていたり、畑作業をやっていることを褒めていた一方で、
畑作業が趣味であるかのようなことも言っていた。

誰かが畑作業をしているのは、農家の人ならば自分たちが生活していくことなどに金が要るので、金を得るためにやっていたりするだろうが、
農家ではない人は金を貰うためではなく、別の動機や理由でやっているわけだ。
あいさつもこれと同じように、同じ理由であいさつしているわけではないのだ。
あいさつする理由を社会のルールや人間のルールや常識などと言ったり、親の真似をしてあいさつしているなどと思う人は、
あいさつしている人の本当の目的、動機、心理を分全くか、ほとんど分かっていなかったり、分かる気もないのだろう。

あいさつ信者が勝手にあいさつが正しい信仰を持ち、ごく一部の人にだけあいさつを求めて自分の言いなりにならないと
わがまま勝手に不満を持ち、自分が感じたことが正しいと間違ったことを思っているのも、私が畑作業をやっていないかのように勝手に決めつけて、
私にケチ付けている叔父も同じようなものだ。

天皇に色んなものを背をわせて悪い気がする、というようなことを北野武が言っていたのだが、ほとんどの人は同じことを思わないだろう。
天皇家の人は法律や大勢の人から特別扱いされて、他の多くの人とは違って税金からたくさん金を貰えていたりして、
国民が天皇家を背をっているとも言える。国民がやっていないことを天皇がやっていて、大変なんだと言いたい人もいるだろうが、
国民も天皇がやっていない色んなことをやっている。

誰かが何かをやっていると、何かをやっている人の方を高評価して、大変なことをしていて偉いと褒められる場合があり、
こういう人の周りの人や、離れた所にいる人の方が不満を言われたりして悪く言われる場合もあるのだ。
子どもを悪く言いたくない人が、子どものやることや、やらないことで不満があると、子どものせいにはせずに、周りにいる大人や、離れた所にいる大人のせいにしてきて、子どもを問題視せずに大人を問題視しているのも同じことだ。
例外除いて、初めに何かをやった人が高評価されたり、色んな理由でその初めにやり始めた人のやっていることを取り入れている人が
正しいとされのだ。取り入れている人の人数が多ければ多いほど、人間の正しさだと多くの人から勝手に信じられる。
その代表的なものが、あいさつが正しい信仰や、金でやっていく世の中が正しい信仰や、子どもは学校に行くことが正しい信仰だ。

 

 

41.あいさつ信者は水戸黄門ならぬ、あいさつ黄門だ

 

あいさつを初めにしてきた人にオウム返しであいさつを返さなければいけないという信仰は、あいさつを初めにしてきた人の方が正しくて、えらい人で、上の人だから、上の人に合わせて従えと言っているような感じでもある。

水戸黄門というドラマで助さんか、格さんさんが「この印籠が目に入らぬか。こちらにおわすお方をどなたと心得る。
恐れ多くもさきの副将軍水戸光圀公にあらせられるぞ。」と言って、水戸黄門が出てくる。
水戸黄門という上の立場の人はお前たちより上の立場であり、正義なのだから、悪人は水戸黄門に従えよという上から目線だが、
あいさつも同じようなもので、あいさつしたら返すことが正しいと信じている人が正しい正義なのだから、あいさつを初めにした人が素晴らしい人で正しい、えらい人だから、あいさつされた人は
あいさつを返せと言いたい人もいるのだろう。

「この印籠が目に入らぬか。こちらにおわすお方をどなたと心得る。
恐れ多くもさきの副将軍水戸光圀公にあらせられるぞ。」と言っているのに似せて、あいさつのことを言うとすれば、「あいさつをしたのが聞こえなかったのか。あいさつを初めにした方をどなたと心得る。
仲間ではない人や、大切ではない人にあいさつを初めにすることが出来るあいさつ黄門様にあらせられるぞ。」という感じだろう。
例外除いて、知らない人や、仲間ではない人や、大切ではない人などに対して、初めにあいさつした人は素晴らしい、えらい人なのだから、あいさつされたらあいさつ返せよとでも言いたい人もいるだろう。
あいさつを初めにした人の方がえらい人みたいになっているところがあり、
初めにあいさつした人からあいさつされた方が初めにあいさつした人に合わせて従ってあいさつを返せというようになっているのだ。
あいさつ返されたがっている人が正しいから、あいさつされた人は返さなけれいけないという間違った信仰がまかり通っている。
あいさつ信者は、あいさつ黄門とか、あいさつ黄門様とも言える。

 

42.あいさつとDVD-RW

 

私が以前DVD-RWに入れた写真などを見ようと家で使っているパソコンにDVD-RWを入れて、PowerDVDというソフトでDVD-RWを見ようと思ったら、このディスクのDVDには対応していませんという文章が出てきた。
誰かがネットに、以前見れていたDVD-RWがWindows10にしてから、同じDVD-RWを認識しなかったと書いていた。

あいさつでは、あいさつを返さない人を、まともな人間だと認識しない人があいさつ信者の中にはいるのだ。
あいさつを返さない人はダメ人間、人間の底辺、人間として下の人であると思っている人がいるのだ。
自分が正しいと信じていることを好きでもない人や仲間だと思っていない人がやらないと許さなかったり、正しい人間だとは認めないのだ。
あいさつしてあげたら、みんながオウム返しをすると信じている人は、
DVD-RWがどのパソコンでも再生できるとか、どのソフトでも再生できる思っているようなものだ。
以前使っていたソフトで再生できたから、別のソフトでもこのDVDは再生できると思って、再生しようとしたら再生できなくて疑問や不満を持っているようなものだ。
いつもと同じようにすんなりと物事が進んでほしいと思っていて、簡単で楽なことをしたいのに、それが出来ずに不快になって嫌な思いをしている人もいるだろう。

パソコンでDVDを見ようとして再生されなかった場合は、再生されない理由をネットなどで調べて、再生できるように自分が今までやったことがないことをやって、使ったことがないソフトをパソコンにインストールしたりするなどして、今までと違うことを取り入れたりする人もいるだろうが、
あいさつを返させたいのに返されなかったあいさつ信者の中には、自分の信じているあいさつ返しが正しい信仰は間違っていないと信じ切っている信者もいるので、あいさつを返さな人の方を変えようとして、あいさつするまでしつこくあいさつしてきたり、本人のいる近くで不満を言ったり、嫌がらせなどをしてきたりして、自分の方を問題視したり、変えようとはしないのだ。
あいさつ信者のことを、「このディスクのDVDには対応していません」という言葉に似た言い方で言い表すと、「自分と同じ信仰を持っていない人は受け付けない場合があり、同じ信仰を持っていない人の信仰には対応しません。だから、あいさつを初めにしたら、オウム返しであいさつしてほしい。私の信仰に合わせてほしい。」という感じだろう。

 

 

43.あいさつ信者という危うきに近寄らずや、触らぬあいさつ信者に祟りなしというわけにはいかない


君主危うきに近寄らずと言うことわざがあるが、徳のある人や身分の高い人は危険だと思うところには近づかないという意味みたいだが、
少し違う意味でこのことわざを使うと、身分が高くなくても徳がなくても(徳の定義は人によって違うが)、自分が危険だと思うところには近づかないようなした方がいいという意味でも使えるだろう。

私が20代後半であいさつが間違っていて不正だと気づき、初めにあいさつしてきて、あいさつを返されたがっている人を嫌に思うようになったが、
出来るだけ住宅街にいるときは、人がいる所はあまり通らないようにしている場合もあったり、私が住んでいる近所に私が初めにあいさつしないことに遠まわしに悪態をついてきたり、直接的に「あいさつもしねーよー」と言ってくる老人がいたり、私が気を付かって、あいさつしてきた人に無言で頭だけ下げて会釈をした後に、白い目や奇異な目で見てくる人が何人かいたりして私も不快だが、こういう人がいる時間帯はなるべく家の外に出ないようにしたりしている。
あいさつ以外のことでも、目つきや表情や態度で私をあからさまに嫌がっている態度を取ってきた人が犬の散歩などに出る時間帯は、あまり外に出ないようにしている。
相手も私のことを色んな理由で気に入らないと思っていたり、嫌っているから私のことを見たくないだろうし、私も悪態つかれたり、
気味悪そうな目で嫌そうに見られるのは嫌なので、どちらにとっても合わない方がいいだろう。
たまに私は予想を外すときもあるが、以前ほどは近所で外に出た時に人を見かけることはなくなった。

私が初めにあいさつしないことに不満を持っている近所のイノウエのばあさんが2021年の8月ぐらいの時の夜7時すぎで外がまだ明るい時に、
私は数時間前に畑の作業をするために畑に行っていて、自転車で畑から帰っている時に数十メートル前にイノウエのばあさんらしき人が犬と
一緒にいて、私がいる方に向かって歩いているように見えた。私がまっすぐに行けばこの人に近ずくことになる。
この人には近くで会いたくないので、ちょうど道が3つに分かれているところに私がいたので、まっすぐには行かずに右の道に行って
遠回りで家の方に向かったら、ばあさんには会わなかった。
近所の人にあいさつするのが人間の正しさだとか、コミニケーションだと信じている人は、相手が本当にあいさつや会釈をしている理由など分からないのだろう。
あいさつを嫌がっている人がいることに気づいていない鈍い、鈍感なところがあり一方的で支配的なところがあるのだ。
あいさつしたから、あいさつを嫌がっていないということにはならない。
君子危うきに近寄らずみたいに、危険だと思うところには近づかないようにした方がいいとは言っても、現実にはそれは難しいだろう。
家から外に出るときや、ベランダに出ている時など、自分が嫌な気持ちになる人と全て会わないようにするのは難しい。
人間は自分が正しと信じているところがあるので、自分が正しいと思うことをやらなかったら、不満や疑問を持ち、本人の目の前で悪態ついてきたり不満を言ったり、影で不満を言っていても、回りまわって本人の耳に入ったりして、不満を言われていることに不快になったりする場合もあるだろう。
近所でも、それ以外の所でも誰かが嫌がることをしたら嫌がられるし、自分が嫌だと思うことがあれば不快になるので、例外あれど、自分が嫌な気持ちになりたくないから、嫌だと思う人とは会わないようにするか、自分が嫌がることをやっている人の方を職場などから辞めさせようとしたりする。
人間は自分が可愛い、我が身がかわいいから、例外あれど嫌な思いはしたくないのだ。

君子危うきに近寄らずと同じようなことわざに、触らぬ神に祟りなし(さわらぬかみにたたりなし)があるが、意味が危険だと思うことに関わりを持たなければ嫌な思いをしたり、不利益を被らないという意味みたいだが、
人間関係においてはそれは無理だろう。長期間家にいる人でも同居人から不満を言われたりして、自分のやっていることを否定されたりなどするだろうし、人間は同じ人間ではないので、人の好き嫌いや信仰心などは人によって違うから、自分が気に入らない言動を取る人間や、
気に入らない外見や体臭などの人などを嫌ったり、自分が嫌がる言動を辞めさせようとしたり、変えさせようとしたりする。
人間は自分が正しいと信じているところがあるので、自分が正しいと思うことをやらないと疑問や不満を持つ。

触らぬ神に祟りなしという言い方より、触らぬ人間に祟りなしと言った方いいような気もする。
触らぬ神に祟りなしいうことわざの意味は人間のことについては「人が正しいと信じていることや人の要望には合わせて従えよ。そうしたら、
相手が嫌な気持ちになったりしないから、不満を言われたり攻撃されることはないから」でもいいだろうけど。
人間は自分が可愛いのだから、自分の思い道理にしたがるから、相手に合わせて従っておいた方が無難だ。
人間は多かれ少なかれ自分に甘いところがあるだろうから、自分の言いなりになった人や、自分が好きな外見をしている人に好意を持ったり、褒めたりする。
自分の言うことを聞いた人に「素直ないい子だ」と言ったりして褒めるのも自分が可愛いので、自分の言いなりになった人を褒める。

触らぬあいさつ信者に祟りなしとはいかないのが現実で、家の外に出たら、あいさつする人の中には人の後ろ側からあいさつしてきたり、
人の目を一切見ずに「自分に合わせて言葉であいさつしてよ」という態度であいさつしてくる人もいて、こういう人に会釈をして気を使ってあげても、
人の目を見ていないのだから会釈していることにも気づかないし、あいさつを正しいと信じていない人がいることにも気づいていないし、
あいさつにおいて自分の思い道りになると信じ切っていたり、目を見てあいさつしている場合でも、オウム返しを求めているのにオウム返し以外の言葉や、会釈や無反応でも不満や疑問を持つあいさつ信者もいるので
あいさつ信者の信仰心と関わらないわけにはいかないのだ。
こういう人を普通の人やコミニケーション能力が高いなどと言っている人もいるのだからバカげている。
人の目を見なかったり、相手と関わる気もない人や、嫌がらせであいさつをしていても、あいさつが正しいと信じている人や、
あいさつを嫌がっている人などがいることを知らない人の中にはあいさつする人を褒める人もいるのだ。
どうでもい人や嫌いな人にも時間や気を使ってあいさつを返させたいからあいさつしてあげたのだから、あいさつ返してほしいと欲求を持っているあいさつ信者は、自分の気持ちは大切で自分の信仰心は守りたいけど、自分と同じことを信じていない人の心など全くか、ほとんど大切でもないのだろう。
自分の信仰がまかり通らなくて無視されたと思ったことを、存在が無視されたなどと言ったりして、あいさつ返しをしなかった大切ではない人に罪の意識を着せて、被害者を気取り、わがまま勝手なことを思っているあいさつ信者もいる。これが一般に宗教と言われているものならば、
人によってはカルト宗教とか言いそうなものも、大勢があいさつ信者であり、あいさつ返しを正しいと信じているから、あいさつ返さない人を悪者にしやすいのだろう。結局、人間は自分が一番かわいいのだ。
給料や印税という形で金を貰っていない人を問題視して不満を言っている人の中には、例外を除いて、ほとんどの人は給料や印税という形で金を貰うことをしなければいけないのに、それをやっていないから許せないと思っている人もいるだろう。
自分の思い道りになっておらず、自分が正しいと思うことをしていないから不満を持つのはあいさつのことでも同じことなのだ。

自分のあいさつ返しが正しいと信じている信仰を一度も否定されたことがないあいさつ信者が多いだろうから、あいさつ返されないことで自分の信仰が否定されたと思い、おかしいと思ったり不快になり、あいさつ返さなかった方がおかしいし、間違っていると思う人が多いのだろうが、
こういうあいさつ信者に白眼視されたり、不満を言われたり、嫌がらせされたくなくても、現実は外に出て人のいる所に行けば、
あいさつ信者という危うきに近寄らないことは難しいことだ。
自分が信じていることに合わせて従ってほしいのが、あいさつ信者があいさつする理由なのに社会のルールやコミニケーションなどと言ってウソを付き、綺麗事を言う。
あいさつして人と関わったとか、コミニケーションと言えばカッコが付くが、あいさつ信者の「この関係の人にはあいさつしなければいけない」「あの子だけが初めにあいさつしてほしい」とか、
「あいさつ返しはオウム返しでなければいけない」とかの信仰心に合わせて
関わってほしい、自分の信仰を知って自分と同じ信仰を持ってほしいという、暗黙で無言の信仰の押し売りをしている。
初対面の相手や、よく知らないし、よく知る気もない人があいさつについては自分と同じ信仰を持っていると勝手に信じきっている人がたくさんいて頭が悪いバカなところがあるのだ。
相手の信仰や要望に合わせた人を良く言う場合は、要領がいい人や大人、やさしい、思いやりがあるなどと言ったりするが、
なんで正しいと信じていないのに、相手の信仰や要望に合わせて従ったのかについては興味さえなかったり、知っていても言わないのだろう。

あいさつ以外のことでも、現実生きていると他の人と間接的にも直接的にも関わらないわけにはいかないので、危うきには近寄らずというわけにはいかないし、触らぬ神に祟りなしとはいかないだろう。
出来れば人間関係で、自分の外見を嫌がっている人とか、自分のやることや、やらないことに不満を以前に言ってきた人や、不満を言いそうな人とは
関わりたくないとか、会いたくないと思っても現実はそうはいかないだろう。



44.近所の50代ぐらいの女の人のあいさつの謎

 
あいさつが正しいと信じている人はあいさつ返しされたらそれでいい人が多いだろう。
相手があいさつした心理、信仰心の方に関心がないから、相手の心を知りたいわけではない場合が多いだろうが、あいさつさせたいと思い、自分の思い道りにあいさつ返したら、自分の信仰心や気持ちが通じたと勘違いしている場合も多々あるだろう。

私の近所に住んでいる女の人で、ほとんど会わないが、私に初めにあいさつしてくるのだが、ほとんど目を見ずにあいさつしてくるのだ。
初めにあいさつしてきた時に斜め前にこの人がいて、この人の目もと見たら、ずっと下向いていて瞼しか見えず、瞳も見えなかった。
別の時に私の左斜め後ろからあいさつしてきて、私は何も言わなかったら、私の横の方で立ち止まって、無表情できょとんとした表情で
私の目をじーっと見ていた。
その後、近所であった時に言葉では何も言わずに私の方は全く見ずに目もあっていないが、下を向いたまま会釈してきた。
この日の前後ぐらいの時、この人に会った時に私の横に来た時に、こんにちはと言って目を見ずにあいさつしてきた。

その後、長い間会っていなかったが、この人に2021年に2回近所で会った時に、この人があいさつしてきた。私が以前に言葉であいさつしなかったことを知っているはずだが、何の目的で言葉であいさつしてきたのかの推測だが、暗い中で以前会ったことがある私だと気づいていないくて他の人だと思っているか、私だと気づいていた場合は、あいさつを以前に言葉でしなかったことに不満を持っていて、言葉であいさつ返すまでしつこくあいさつをさせようとしてあいさつしてきているのか、あいさつを返させる目的ではなくて、適当なあいさつの決まりを決めていて、近所を通りすがる人には
あいさつを言葉で返そうが、返さなかろうがあいさつをしなければいけないという決まりを私が言葉であいさつ返さなかった後に
自分独自に適当に決まりを決めたのか、それとも、あいさつを言葉で返されないことに対する遠まわしな不満を表していて、あいさつを初めにした後に言葉であいさつを返さないことを分かったうえで、わざと嫌味で私にあいさつしてきている可能性もあるのかもしれないと思った。

もう一回は夜の7時代にこの人の夫とこの人が資源ごみを捨てに行っている時に、私がこの人たちの前を通った時に、私の方を見ながらあいさつしてきた。この人の夫はあいさつはしてこなかった。
あいさつしている人は自由にあいさつする人を決めている場合が多いだろうが、ほとんどの人にはあいさつせずに勝手にあいさつしているが、
この人も自由なあいさつしているのだ。ある時には人の目を見ずにあいさつしたり、別の時には人の目を見てあいさつしてきたり、
言葉であいさつせずに会釈をする前後に一切目を見ずに下を向いて会釈するだけだったりして自分独自のあいさつをしているのだ。
この人はあいさつ信者だと思うけど。
この人は言葉であいさつを返さないことをおかしいと思っているみたいだが、人の目を見ずにあいさつしていることを誰かが知ったら、
人の目を見ずにあいさつしていることをおかしいと思う人もたくさんいるだろうけど。
自分がおかしいと思うことをしていないから、人からおかしいとは思われていないことにはならない。

この女の人も私があいさつ返さない理由を分かっていないだろうし、私もこの人が過去にあいさつしてきた理由や、私が言葉であいさつを返さないのを知ってからも私に言葉であいさつしてくる理由は推測は出来ても、実際の理由など分からない謎だし、自分でもあいさつを一部の人にだけさせたがっている理由に気づいていない人もいるだろう。
他の多くの人があいさつしている理由が形だけ表面的にしている人が多いという大雑把なところは分かるが、詳しい理由や詳しい心理などは
分からないので謎な部分がある。
あいさつ信者の人の中にはあいさつしている人の心理が謎と思っているどころか、社会のルールやコミニケーションなどと言い、
あいさつしている人の心理や、あいさつに対する信仰心を分かっているつもりになっている人がたくさんいるのだろうが、実際はほとんど分かっていないだろう。
自分が感じたことや信じていることが正しいと信じることと、本当のことは別のことだ。

知る者は言わず言う者は知らず、という老子が言った言葉があるが、意味が物事をよく理解している人はあまり口に出さないけど、よく知らない人の方が喋るという意味みたいだが、これは当たっている所と当たっていないところがある。
よく知っている人が色んな理由で全くか、ほとんど知っていることについて言わない場合もあれば、よく知っていて、その知っていることについて詳しく説明したり、たくさん書いたり、喋る場合もあるし、
よく知らないことに何も言わない人もいれば、適当、いい加減なことを言ったり、間違ったことを言っている場合もある。
あいさつでも、人間をあまり知らない親や先生が子どもにあいさつしろと言ったり、近所や職場などで、全くか、ほとんど知らない人が絶対にあいさつを返すと自信を持っていて、相手のあいさつに対する信仰心を知っていると
勘違いしている人が、あいさつを正しいとは信じていない人や、知らない人にあいさつをしなくてもいいという信仰を持っている人に、
あいさつを返せと自分の信仰や欲求を押し付けていて、いい加減なのだ。
自分が知らないことがあることに気づいている所と気づいていないところがあるのだ。
人の目を見ずにあいさつする人は少数派だろうが、こういう人を知っている人のほとんどは、他の人の目を見ずにあいさつする人がいることを言わない人が多いだろうし、言ったところで無名な人が言ってもほとんど広まることもないだろう。

知る者は言わず言う者は知らずという言い方に似せて、あいさつ信者のことをいい表せば、「人間をあまり知らない者があいさつしろと言い、あいさつ正しいと信じていない人がいることを知っている者でもあいさつさせたがる者とあいさつをさせたがっていない者がいる」という感じだ。
みんながあいさつを正しいと信じていない人がいることを知ったら、今まで大切ではない人や、仲間扱いしていない人や、関わる気もない人に初めにあいさつしてきた人の多くは初めにあいさつしなくなる人
の方が多そうだが、一部のあいさつ信者はあいさつ非信者がいること知っても、しつこくあいさつしてくる人もいそうだ。

 

45.あいさつと葬式

 

通夜や葬式や法事に行きたくもないのに形だけ出る人を褒める人もいれば褒めない人もいるだろう。
田舎で同じ班の人が亡くなったら通夜や葬式に出なければいけないという決まりがあるところがある。
私の住んでいる所にはこの決まりがある。
ほとんどの人は行きたいとは思わないだろうけど形だけ通夜や葬式や法事に出る人が多いだろう。

どうでもいいと思う人や、全然知らない人や、嫌いなだけの人が亡くなって形だけ通夜や葬式や法事に出ることを良く言って褒める人は常識や常識人とか、普通の人とか、一般的などと言い表すだろう。
大勢と同じことをすることや、自分が正しいと思うことをやっている人を良く言ったり、褒めたり、高評価をするのだ。
一方で形だけ葬式や通夜や法事に出ることをおかしいとか、辞めたらいいとか思っていて、葬式や通夜や法事に出ることを高評価はしない人もいるだろう。
同じことをしていることに、みんなが同じことなど思っていないのだ。

あいさつも同じで、あいさつをする人は例外あれど、仲間だと思っていない人や、大切ではない人にあいさつする場合が多いだろうが、
仲間ではない人や大切ではない人や関わる気もない人にあいさつしたり、人の目を見ずにあいさつしたりすることを素晴らしいとか、コミニケーションとか社交、交流などと良く言って高評価する人もいれば、
大切ではない人や嫌いなだけの人や関わる気もない人に形だけあいさつしたり、人の目を見ずにあいさつすること良く思わなかったり、嫌がる人もいるだろうし、そんな気持ちや理由であいさつするなら、あいさつしない方がいいと思う人もいるだろう。

人の目を見ずにあいさつしていても、あいさつする人は素晴らしいとか、コミニケーション能力が高いなどと良く言う人もいるが、
人の目を見ずにあいさつしていることが、あいさつをした相手に対して失礼だとか、おかしいと思わない人もいれば、人の目を見ずにあいさつすることを嫌がる人もいる。あいさつに限らずに何かの作業中でもないのに人の目を見ずに喋る人を嫌がる人もいる。
あいさつを返さない人を愛想がないという人がいるが、あいさつを返している人も初めにあいさつしている人も多くの人は無表情であいさつしているだろうけど、無表情であいさつしていたり、面倒くさそうにあいさつしていたり、人の目を見ずにあいさつしてることを愛想のないあいさつをしているとはほとんどの人は言わないのだろうが、愛想のないあいさつとも言えるのだ。
あいさつ返さないからおかしいと思う人の中には、あいさつをする時に人の目を見ずにあいさつしてくるようなことをしている人がいるが、
そんな自分のあいさつをおかしいとは思わないのだろう。

母方のおばあちゃんが亡くなった時に、亡くなる前におばあちゃんは寝たきりだったが、みんな先は長くないと思っていただろうが、
私の姉がおばあちゃんが入院していた病院に来ていた時に叔母に、
おばあちゃんが亡くなった時に自分は葬式に出なければいけないとは思っていないというようなことを言っていて、自分に出てほしいのだったら礼儀として出るけどというようなことを言っていた。
叔母は東京に住んでいる片方の子どもに仕事を休んでまで来なくてもいいとか、孫が学校を休んでまで来なくてもいいというようなことを言っていたが、おばあちゃんが亡くなった後の葬式には孫もひ孫も全員が葬式に来ていた。
葬式に出ている人が絶対に葬式に出ないといけないとは思っていないのだ。形だけ出ている人も多いだろう。

葬式は生きている人の自己満足と言ったりする人もいるが、それは本当のことだ。
亡くなった好きな人の顔を最後に見たいなどの理由で葬式に出る人もいるだろうが、別に葬式に出たいとは思っていなくても形だけ出る人がいたりして、葬式は生きている人の自己満足でやっているのだ。
法事も親戚や株内の人が形だけ出ている場合が多いだろうし、株内を辞めたがっている人がいても形だけ出ている人もたくさんいるだろう。
亡くなった人のことをいい意味で思って法事に出席しているのではなく、形だけ法事に出ているのだ。
こういうのを悪く言えば、バカの葬式、バカの法事だ。
形だけ黒い喪服を着て大勢と同じことをしていれば変な目で見られにくい。
叔父が株内の人が亡くなった時に「時代は家族葬の時代なんだから自分のところだけでやればいいのにな」というようなことを言っていたが、その後、自分の母親が亡くなった時には家族葬ではなくて、親戚や株内や近所の同じ班の人も来るような葬式をやっていて矛盾したことをやっているのだ。
叔父が自分が亡くなった時の葬式のことについて家族葬でいいと言っていた後に、葬式には呼ばないのに法事に呼ぶのはおかしいかというようなことを言っていた。
叔父や叔父以外の人でも、葬式には親戚や近所の班の人や株内が来ることが正しいとは信じていなくても、大勢と同じことをしていないと
変な目で見られるのを嫌がったり、大勢と同じ人だと思われたいから形だけ親戚や近所の班の人や株内が葬式に来るようなことをしている人もたくさんいるのだろう。

あいさつでも同じで、あいさつ非信者の人の多くはあいさつされたら、あいさつ返したり、形だけ初めにあいさつする人もいるだろうが、
本当はやりたくないと思っていても、バカにされたり、変な目で見られるのが嫌だったりなどの理由で嫌々、形だけあいさつする人が多かったり、
最低限会釈していたりするだろう。
でも、人が何で色んなことをやっているのかほとんど興味、関心がない人の方が多いだろうから、そんなことはどうでもいい人の方が多いだろう。

 

46.関電と元助役の人の関係に見る他人の姿は自分の姿

 

以前ニュースで取り上げられていた関電と元助役の人との関係を癒着などと言って一部の人が問題視しているが、癒着など誰にでもあることだろう。ほとんどの人の癒着は問題視せずに一部の人の癒着は問題視するのだ。

正しいと思う関係や人としてすべきことだと信じている関係については「癒着」とは言わずに良く言うのだ。
近所や職場の人にあいさつはしなければいけないと信じていれば、
他の人にもそれを求め、自分が信じていることと同じことをしないと許さなかったり、奇異な目で見たりする人がいる。
あいさつする人を常識人やあいさつ出来る人などと褒めて良く言い、あいさつ返しを断れば異常者やダメ人間扱いし、
あいさつしている関係の人たちを癒着しているとか、あいさつ癒着などとは言わずにコミニケーションや社会のルールなどと言ったりする。
言葉という変なもので、自分に都合のいいように言葉を使って言葉遊びしているだけだ。

給料や印税という形で金を貰っている人に、この人たちが働いている店や会社や取引先との関係を癒着とは言わない。
金がないと生きていけない世の中で、給料という金を貰わないと生きていけないので、合法をいいことに金を貰っていても、会社や店や客や同僚などとの癒着とは言わないのだ。
やってもいいと思う関係や、やってもいいと思うことには常識、普通、コミニケーション、社会のルール、人間のルールなど言って変な言葉遊びしていのだろう。

例えば、気に入らないことを言っている人がいたら、気に入らないことを言った人に直接不満を言ったり、影で不満を言ったりして、
その不満の言い分に「考えてものを言ったのか」とか「他に言い方ないのか」とか「想像力がない」「人のこと考えてない」などと言って不満を言うが、正しいと思うことを言ったり、大勢と同じことを言ったりすると許されやすく「普通の人」とか「常識なってる」「良識がある」「分かってる」などと言い褒めたり、良く言ったりするのだ。
大勢と同じことを思ったり、やったりするのなら考えなくてもいいと信じていて、大勢と同じことしていなかったら、気に入っていることなどは例外だが、許さなかったり、変な目で見たり、白眼視してきたり、不満を持ったり、不満を言ってきたりするのだ。
大勢が笑っているところで考えもせずにすぐに笑うことについては悪く言わずに普通などと思い、大勢が笑わないことを笑ったら、
おかしいと思ったり、変わっている人などという言葉でその人を言い表したりする場合がある。

元助役と関電との関係を読売新聞では「癒着」「いびつな関係」や「異様な関係」や「もたれ合い」などと言っているが、他人の姿は自分の姿であり、一部の人にこんなこと言っているのは、自分達も同じようなことしているのだが、全く同じことをしているわけではないので一見関係ないように思うのだろう。

関電の人が元助役の人から金を貰っていたと問題視しているが、木を見て森を見ず、小を見て大を見ずで視野が狭く、
金でやっていく世の中自体が正しくもない不正で頭がおかしい、イカレていて異様でキチガイな世の中、社会で、こんな不正な金社会を多くの人が正しいと信じているのだ。多くの人が金信者なのである。
多分、関電の人の多くか、もしくは全員が金信者だろうし、関電の癒着などと問題視している人たちも全員かほとんどが
金信者だろうが、同じ金信者であるにも関わらずに、金のことなどを問題視しているのもおかしくて、同じキリスト教のプロテスタントとカトリックが争っていたような感じだ。
金信者であることは同じなくせに、自分達ほとんどの人の金の使い方は正しくて正当であるかのように勝手に信じ込んで、
一部の人の金の使い方には合法であれ、違法であれ問題視したり、不正であるなどと思い、変なおかしいことを信じているのだ。
一部の人だけがおかしくて金に汚いかのように勝手に信じて、ほとんどの人は正しい金の扱い方をしていると信じているのだ。
どちらも金でやっていく世の中という正しくもない不正な社会、世の中で生きていて、目くそ鼻くそ、五十歩百歩なのだ。

「もたれ合い」の意味が「互いに寄りかかり依存しあうこと、仲間内でかばい合うこと」などと定義してるみたいだが、そんなこと誰でもやってることなのに、自分たちが気に入らないことや、間違っていると思っていることなどについては、もたれ合いや癒着などと言うのだ。
家族や友達や恋人がプレゼントくれたとか、家族が20歳未満ぐらいの自分の家族に生活費などの金を出してもらっていても、
もたれ合いや癒着や異様な関係など言わないだろう。でも、20才以上で60歳未満ぐらいの学生や、障害者や主婦(夫)でもないような人が
家族から生活費出してもらっていたら間違っていることをしていると思う人もいて悪く言われたりする。

両思い同士の関係には愛などという言葉を使って、友愛、家族愛、恋愛と言ったり、両思いでなくても自分が素晴らしいと思うようなことを他人にすれば、人類愛などと言ったり、やさしさ、思いやり、親切などと言って良く言ったりするのに、気に入らないことや正しいと思わないことには癒着や異様な関係などと言う人もいるのだろう。
言葉などこんなものであり、同じ言葉をみんなが同じ意味や定義では使っていないのだ。

政治家や金に汚いなど思っている人のことを「カネ、カネ、カネの人」みたいに言ったりしているが、自分達も金でやっていく世の中で金使いながら生きていて、ほとんどの人は金社会が正しいと信じているくせに、
自分たちのことは悪く言わないのだ。変な差別している。

大勢がやっていることや大勢が許していることには「いびつ」などという言葉を使わないくせに、大勢が間違っていると思っていることや、気に入らないこととかには、いびつなどという言葉を使うのだろう。

あいさつにおいても、あいさつが正しいとか、しなければいけないと信じているあいさつ信者達が、自分達もほとんどの人にあいさつしないくせに、
一部の人達があいさつをしないことにはダメ人間などと言って見下したり、不満を言ったり、攻撃してきたりしているような感じだ。
そんなあいさつについて、異様なあいさつ信仰とか、異様なあいさつとか、いびつなあいさつルールとか言わないし、
ごく一部の人とだけあいさつしている関係を、いびつなあいさつ関係や、異様なあいさつ関係や、あいさつ癒着などとは言わないのだ。
あいさつ信者は、初めにあいさつしたら、あいさつ返しするのが正しいと信じているので、こういう信仰を持っていることをおかしいとは思わないので、同じ人と1回か、2回以上あいさつしあったことを癒着や、いびつ、異様な関係とは言わないのだろう。

 

 

47.誰を基準にしているのか?

 

163㎝の身長は高いのか、低いのかということに対して誰かがネットで、自分の娘は小学生で163㎝あるから高くないと言っていた人がいるのだが、
他の人なら同じことは思わないだろう。
成人している男が163㎝なら身長が低いと思う人もたくさんいそうだが、成人女性の身長が163㎝なら低いと思う人はあまりいないと思う。
同じ身長でも性別が男か女かでは思うことも違うだろう。

この様に誰を基準にして物事などを判断しているのかは簡単で自分を基準にしているのだ。
子どもが信用できるから、子どもが感じたことが正しいと信じるのは、そう感じた自分が正しいと感じているのだ。
大勢が感じていることや、大勢がやっていることを正しいと信じている人は自分がそう感じたから、自分が感じたことが正しいと信じているのだ。
でも言葉の言い方としては、人によっては子どもや大勢が信じていることや、やっていることを正しいと信じたり、
信用したりするのは自分に自信がないからで、他人を基準にしているという言い方をする人もいるだろうし、他人軸などと言う人もいるだろうが、
これは間違いだ。他人軸だとか他人を基準にしているのならば、他人が決めた決まりを何でも信じているわけでもなければ、
守るわけでもないし、取り入れるわけでもないのだ。
自分に都合がいいから取り入れたとか、正しいと断定や半信半疑で信じているから信じていたり、やれと言われた人から不満を言われたり攻撃が怖いから形だけ従っていても、言うことを聞かないことも出来るのに自分で渋々人の言うことを聞いていたりするのだから、
それを選んでいるのは自分なので、自分を基準にしているのだが、他人が言っていることを正しいと信じて取り入れていようと、嫌々取り入れていようと他人が言っていたからという理由で何かをやることを他人軸で生きているなどと言ったりする人もいるのだろう。
同じ言葉を同じ意味で使っていないのだ。

イスラム教やキリスト教を日本人の多くは知っていても、正しいと信じていない人が多いだろうが、自分の内面でこれらの宗教は正しくないと信じ、よく知らなくても、そう感じたから信じないのだ。
多くの人は他人の決めた決まりのほとんどを正しいとは信じていないだろうが、あれは間違っていて、これが正しいと
勝手に自分が思っているのだ。だから他人軸の人がいると言っているのもおかしいとも言えるのだ。
あいさつ返しが正しいと信じている多くの人は、自分が今まであいさつしてきた数少ない人が全員オウム返しをしてきた場合が多いだろう。
だから、自分だけの経験から、自分が全員にあいさつ返されたから、あいさつしたらオウム返しであいさつ返すのが正しいと信じた人が多いのだろう。
オウム返し以外の言葉か会釈をされた人も、許容範囲内の言葉や態度を返してきたから、オウム返し以外の言葉か会釈も受け付けて許しても、
無反応を受け付ける人はあまりいないだろう。
誰かに教えてもらったからあいさつを信じたのではないということだ。
誰かにあいさつしろと言われてやったとか、あいさつしている誰かの心を吸ってあいさつしたというのならば、
何でほとんどの人にはあいさつをしないのか、同じ人にあいさつする時としない時があるのかの答えにはならない。