足りない言葉並べても
本当のことは伝わらない
優しいだけじゃ守れない
正しいだけじゃ伝わらない
(L'Arc~en~Ciel『bravery』)
この曲の詞自体衝撃的なんですけど、
(ちなみにわたしが好きなラルク曲トップ10に入る)
『伝わる』ということについて、
短くもズバッと核心をついた表現ですよね。
正しいだけじゃ伝わらない。
『正しさ』と、『伝わる』ということ。
ここでは、『伝わる』ということについて書こうと思います。
ていうのも、【序】で書いた通り、
「お前の言うてること分からへん」からスタートした企画(?)なので、
じゃあ、伝わるってどういうことなん、
と、自分なりに知恵を絞ってみようということで。
実は、『伝わる』ってことにはすっごい複雑なプロセスがあるんですよね。
わたしが、わたし以外の人に、
何かを伝えようとする行為にはいろんなもんがあって。
言葉、表情、しぐさ、とか。
わたしは「言うてることが分からん」て言われたので、
言葉で伝えるということについて考えてみました。
言葉で『伝わる』ためには、いくつかの段階があります。
まず「その言語を理解できること」、
つまり日本語が分かるかということがありますよね。
この場合の『分かる』ってレベルは、
りんごを見て、
「これは『りんご』や」って考えなくても、『りんご』って出てくるレベル。
「えーと『りんご』は…英語でapple…」
って、英語を使いこなせないわたしにはそういうワンクッションがあるんですけど、
それがない状態で、言語を理解してること。
そして、相手も同じ状態であること。
相手の「話が分かる」のに、最初に必要な段階ですよね。
それから「言葉が持つニュアンスが理解できること」
ちょっと難しくなってきますね。
最初の段階がクリアされてへんと、これがかなり難しくなる。
言葉のニュアンスて微妙ですし、
お互いが言語を理解していても、
世代によってこれが違ってくることもあります。
もし、言葉が持つニュアンスを、わたしと相手が違ったふうにとらえていたら、
「そんなつもりで言うたんじゃないのに…」
ていうことが起こることもあります。
ここらへんから、『伝えようとすること』と、
『実際に相手に伝わったこと』には、ギャップが生まれてきます。
今度は「相手が言うてることが、どういうことを意味してるのか、
自分の経験から推測して、理解すること」
こう書くとなんか小難しいですけど、
わたしらが普通に日常の中で、
相手の言うてることを理解している、ってことは、
実はこういうことなんですよね。
わたしたちは、
当然ですけど、『自分』を通してしか『経験すること』はできない。
つまり、わたしたちが『“実際に”知っていること』は、
『自分が経験したこと』でしかないわけです。
でも、実際に経験したことじゃなくても、
知ってることはいっぱいありますよね。
むしろ、自分が実際に経験したことよりも、
経験してなくても、知ってることの方がはるかに多いわけです。
たとえば、北極がめっちゃ寒いとこやとか。
国会議員っていう人たちは、国会議事堂で、難しいことを話し合ってるとか。
わたしは北極に行ったこともないし国会議員でもないけど、
そういうことは知ってる。
どうやって?
それは、メディアを通して見て知ってるものが大半です。
「北極がめっちゃ寒いとこ」っていうのは、
北極にテレビカメラを持ってってる人がいて、
そこの映像を、わたしが見て。
雪と氷がいっぱい映ってて、
そこにいる人は分厚い防寒着を着てて、吐く息がもっそい白い。
雪や氷が冷たいものっていうのは、
その冷たさを経験したことはあるから(せいぜいスキー場の雪ぐらいですけど)
わたしは「経験していて」知ってます。
それで、想像するわけです。
わたしが知ってる寒いとこより、もっといっぱい雪も氷もあるから、
北極ってきっとめっちゃ寒いんやろうな、
とか、
わたしが行ったことある寒いとこが、マイナス5度とかやったから、
マイナス40度って、きっとめっちゃ寒いんやろうな、
とか。
「想像する」って一言で言いましたが、それはつまり、
「自分の経験から推測して、理解する」
ってことなんですね。
今は映像について言うたんですけど、
これは、言葉についても同じようなメカニズムがあるんです。
相手の話してることは、
『自分が経験したこと』ではないわけです。
でも、その話を聞きながら、
わたしらは無意識に、
自分が経験し、感じ、考えたことを、
相手の言葉にあてはめて、理解しようとしているんです。
「朝電車乗るときさー、ホームで並んどったのに、
電車が来たとたんにいきなり目の前に横入りしてくる人おって、
つきとばされてさー、めっちゃ腹たったわー」
って友達がわたしに話すとして。
わたしは無意識に、自分の経験を、記憶の中からひっぱりだして、
頭の中で、そのシーンを再現するわけです。
混んでるけどそれなりに整然と人々が並んでる朝のホームで、
(もしかしたら人がまばらな駅を想像した人もいるかも知れません)
黙々と順番通りに電車に乗る人たち…
そこに、ふいに左から(これは右から、を想像してる人もいるでしょう)
おばちゃん(おっちゃんや若い人を想像した人もいるはず)がやってきて、
わたしに体当たりして、電車に乗ってもうた…
眠たくてダルくて早よ電車けーへんかなって待ってたとこに、
やっと電車来て、あーやっと乗れるって思ったのに、
どーんって当たられて順番抜かされたら、ムッとする。
「なにそれー、そうゆうのん腹たつよなー」
って返事するまでの、ほんの数秒の間に、
わたしの頭の中では、上のような作業が行われてるってことですよね。
これはわたしの経験からの想像やから、
カッコ書きにした、わたしの想像とは違う様子を想像した人も、
いっぱいいてはると思います。
その他にも「ホームで並んどった」列の人数の多さ。
ホームの広さ。
ボヤっと想像する、そういうものは、
想像するその人によって、多分全然違います。
でも、この話の結論には、
その部分の違いは大した意味を持たへんから、そこはスルーでいいわけです。
「順番抜かされて腹立った」話を理解するだけでも、
これだけのプロセスがあるんですね。
そう考えると、
人に、何かを説明して、
理解してもらうことって、
すっごい大変なことやと思いません???
自分の話を相手が理解してくれるかどうか、は、
話す側である自分が、ちゃんと説明できるかどうか、
ということも大事やけど、
相手がどういう経験をしていて、
どういう感じ方を持っていて、
わたしの話に、その中の、どれを当てはめたのか、
に、実は、大きく左右されてるんですよ。
例えば、もっと抽象的な…
あるいは、人によって『経験』そのものに大きな差が起こるようなことって、
めっちゃ難しいですよね。
さっきの北極の話やったら、
雪も氷も見たことのない国に住んでる人が考える『寒さ』と、
それを知ってる人が考える『寒さ』って、絶対違うはずですよね。
そして、【序】でわたしが書いたようなこと。
人と人との繋がり…人づきあいっていうこととか、
人を好きになるってどういうことなん、とかっていうのは、
考え方や、感じ方が、人によって絶対に違うんですよ。
そんで、それが、当たり前なんですよね。
「そもそもそういうこと考えたこともない」
って言われてもうたこともあるんですけど、
その人は、「その物事について考える」っていう『経験』もしてないわけです。
そんな相手に、
わたしが、わたしの話を理解してもらおうと思ったら、
どういうことが必要やったんやろう?
多分、話の途中途中で、
今の喩え、わかったんかな?とか、
どういう風に思ったんかな?って、
確認せなあかんかったんちゃうんかと。
それとか、
「●●っていうことについて、△△っていう風に感じる」
“だろう”、とか、“そう感じて当然”と、
“思い込んで”、話をしたらあかんのやなって。
その『思い込み』は、あくまで『わたしの個人的な経験』なんですよね。
けっこう、そういう『思い込み』による話のすれ違いって、
起こりやすいと思うんです。
だいたい、誰かとケンカになるときの原因って、
そういうこと多くないですか?(笑)
話の思い違いとか、いわゆる『誤解』って、そういうことですよね。
思い込みや思い違いに気付くのって、難しい。
でもね、
なんかね、「ん?」て思うことって、あるんですよ。
ないときもありますけどね(笑)
なんて言うか、こう、わたしの話に対しての相手の相槌が、
なんかちょっと違う、みたいな…ほんま微妙なんですけど、
モヤッとするんですよ(笑)
多分、そのモヤッとを、見逃さんようにすることが大事なんでしょうね。
そういうことも踏まえて、
理解してもらって、
その次に、ようやく『伝わる』が来ると思うんですよ。
言語の持つ細かい意味とかちょっとわたしアホやからようわからんので、
これは個人的な考え方なんですけどね、
『理解する』と『伝わる』は、ちょっと違うと思うんです。
言葉の意味を『理解』して、
その内容について(同意するかしないかは別として)『納得する』≒『伝わる』
みたいな感じなんちゃうかなーと…。
腑に落ちるっていうんですか、
ほう、そういうことか!って納得するっていうか。
なんでそうなる(考える)のか、理由から結果まで『納得する』、
みたいな…なんかうまく表現できひんのですけど。
自分がそうするかどうかとか、
自分がそう思うかどうかじゃないんです。
ただ、相手がそうする、そう思うってことについて、
なるほど、そういうことか、って思えるってこと。
そこまでいって、やっと『伝わる』んちゃうんかなって。
だれかに、考えを伝えようとするなら、
ほんまはすごい努力が要るんですね。
途中で諦めてもうたり、
なんで分かってくれへんのよ!ってイライラしたりしたら、
伝えたいことは、伝わらない。
あのね、
わたし一時期は、
「どうせ、人は自分以外の人の考えてることを、
100パーセント分かることはできひんねんから、
分かってもらおうとすることなんか無駄ちゃうん。
そんな努力、めんどくさいわ」
って思ってたんです。若いときね。
でも、ほんまにそれでええんかなあって。
確かに100パーセントは絶対伝わらへんのですよ。
でも、努力すれば、50が60に、60が70になるとは思うんです。
自分が、ほんまはこう思ってるってこととか、
言われて嬉しいこととか、悲しいこととか。
相手が気付いてないことがいっぱいあって。
それが、ちょっとでもたくさん伝わったら、
ああっ、伝わった、
分かってもらえた、
って思うんです。
その気持ちって、
自分で思う以上に、結構、しあわせな気持ちなんですよね。
こういうことを自分で分かってはる人にとって、
わたしのこんな話は、
お前その歳で何当たり前の話しとるん、
て感じやと思うんですすいません…
でも、
わたしの周りにね、
ちょっと前のわたしがそうやったみたいに、
伝わったときのしあわせな気持ち…
分かってもらえたときのしあわせな感情を、
しらない人がおる、
そういう気がしたんですよね。
そんな人に、
ちょっと、こういうことについて、
考えて欲しいなあ、という気持ちも込めて書いた…んですけど、
出来る限り分かりやすく書いてみようと思ったんですけど、
分かんのかこれ…
(実は書き始めたの昼の1時過ぎですよ…どんだけ頭わるいの自分)
分かってもらえて当たり前、とか、
分かってくれへん相手が悪い、とか、
もし誰かに対して思ってたら(私も思ってたことあるから)、
ちょっと、
だまされたと思って、考えてもらえたらなー。
<ちなみに>
冒頭の歌詞は、伝えようとする努力が足りないって意味じゃなく、
むしろ、受け手側に、
伝わるだけの何か、が、足りてないってことなんちゃうかと思ってるんですけど、
どうですか?
「you have no bravery to know the truth」やから、
あえて、伝わらない状態であっても、かまわない、
そこには、
彼らの、優しさ、を感じるんです。わたしはね。
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