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春の訪れを先取りするような陽気が続く中、東京・文京区の湯島天満宮では、梅の花が見ごろを迎えている。学問の神様として知られる菅原道真公を祀るこの神社は、受験生の聖地としても名高いが、同時に江戸時代から梅の名所として親しまれてきた。
現在、湯島天満宮では「梅まつり」が開催されており、多くの人が訪れている。境内には約300本もの梅の木が植えられており、紅梅や白梅が一斉に咲き誇る様子は、まるで学問の神様が「今年も頑張ったな」と受験生をねぎらっているかのようだ。
ところで、なぜ天満宮には梅が多いのか。これは菅原道真公が大の梅好きだったことに由来する。京都から大宰府に左遷された際、「東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」と詠んだ話はあまりにも有名だ。しかし、よく考えてみると、道真がいなくなっても梅が咲くかどうかは梅次第であり、わざわざ言われるまでもないような気もする。
それはさておき、「梅まつり」といえば、多くの観光客が写真を撮り、SNSに投稿する光景が定番だが、よくよく観察すると、梅と自撮りしている人々の視線の先は、花ではなくスマホの画面である。つまり、人はもはや梅を直接見ていない可能性がある。こうなると、「梅を見に行く」という行為の本質は何なのか、哲学的な問いにぶつかる。
結論として、梅の花は美しい。しかし、それ以上に大事なのは「梅を見た」と誰かに伝えることであり、さらに言えば、「梅を見た」と伝える自分をどう演出するかにあるのかもしれない。学問の神様も、こんな時代の変化を見て、どんな和歌を詠むのだろうか。
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