見出し画像

リートリンの覚書

散策日記 木場駅〜

今回の散策したのは、
地下鉄東西線「木場駅」~「茅場町」です。

まずは、東京メトロ東西線「木場駅」を出発。

木場駅


木場は、東京都江東区一丁目から六丁目の地名です。

 江戸時代、材木商は日本橋付近に集まり材木河岸を形成していましたが、1657年の明暦の大火の被害が甚大であったことから、江戸幕府は江戸の町を大改造する計画を立てました。この中で、材木河岸を深川に移転させることになりました。

 明治維新以降、木場の埋め立てが進みました。1969年、沖合に新しい貯木場、新木場が建設されたため、従来の貯木場は埋め立てられ、木場公園が作られました。


永代通りから小道を進み新田橋を渡りました。

新田橋(にったはし)

木場五丁目から木場六丁目、大横川に架かる橋です。現在の橋は平成15年に架け替えられたものです。単径間鋼製ガーター橋。


新田橋(にったはし)
 新田橋は、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場5丁目から木場6丁目を結ぶ、町の人びとの暮らしを支え続けてきた小さな橋の人道橋です。
 大正時代、岐阜県から上京し、木場5丁目に医院を開業していた新田清三郎さんが、昭和7年、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて、近所の多くの人たちと協力して架けられたものです。
 当初、「新船橋」と名付けられたが、町の相談役としても人望が厚く、「木場の赤ひげ先生」的な存在であった新田医師は、亡くなった後も地域の人々から愛され、いつしか「新田橋」と呼ばれるようになりました。
 また、映画やテレビの舞台ともなり、下町の人々の生活や歴史の移り変わり、出会いや別れ、様々な人生模様をこの橋は静かに見守り続けてきました。
 平成十二年の湾岸整備により現在のはしに掛替られましたが、架かっていた橋は、八幡掘遊歩道に大切に保存されています。

「新田橋 諸元」
橋梁型式 一径間単純鋼床版桁橋
橋長 15.0m
橋梁幅員 3.4m

う、美しい橋です。

改めて、説明書きを読んだのですが、「橋供養」として架けられた橋だったとは。人々に愛され、大切にされてきた橋ですから、十分供養されていることでしょう。

大横川(おおよこがわ)

 東京都墨田区・江東区を流れる運河です。かつては流域によって亥の堀川や大島川と呼ばれていましたが、1965年の河川法改正により大横川に統一されました。
 江戸時代に埋立地に造られた運河で、竪川と大川(現在の隅田川)の間の十万坪と呼ばれる葦原を流れていました。

駅から徒歩2分で木場洲崎神社に到着します。

木場洲崎神社


主祭神は、
市杵島比賣命(いちきしまひめのみこと)

木場洲崎神社に関しましては、私の別ブログにて詳しく記事にしています。気になる方は是非ご覧ください。



木場洲崎神社には津波警告の碑がありました。寛政3年(1791)、深川洲崎一帯に襲来した高潮により、付近の家屋がことごとく流されて多数の死者・行方不明者が出たそうです。碑を見て、改めて防災意識を持ちました。

波除碑


東京都指定有形文化財(歴史資料)
波除碑
所在地 江東区木場六の一三の一三
指定 大正一三年二月五日 府仮指定
 寛政3年(1791)、深川洲崎一帯に襲来した高潮により、付近の家屋がことごとく流されて多数の死者・行方不明者が出た。幕府はこの災害を重視し、洲崎弁天社から西方一帯を買い上げて空地とした。その広さは東西285間余、南北30間余、総坪数5467坪余(約1万八千㎡)に及んだ。そして空地の両端の北側地点に、津波碑を二基建立した。建設は寛政6年頃で、当時の碑は地上六尺、角一尺であったという。
 現在は二基ともかなり破損しており、特に平久橋碑は上部約三分の二を失っている。碑文は屋代弘賢と言われているが、二基ともほとんど判読不能である。『東京市史稿』によれば、「葛飾郡永代浦築地 此所寛政三年波あれの時家流れ人死するもの少からす此後高なみの変はかりかたく流死の難なしといふへからす是によりて西は入船町を限り 東ハ吉祥寺前に至るまて 凡長二百八十五間余の所 家屋とり払ひあき地になしをかるゝもの他 寛政甲寅十二月日」と記されていたという。
 材質は砂岩で、総高は平久橋碑が130.8㎝、洲崎神社碑が160.1㎝。現在の位置は、旧地点を若干移動しているものと思われる。江戸時代の人々と災害の関係を考える上で重要な資料である。
平成23年3月 建設 東京都教育委員会

木場洲崎神社参拝後は、西に向かい平久川沿岸を散策しました。

平久川(へいきゅうがわ)

江戸時代、右岸側を平井新田、左岸側を久左衛門新田と呼ばれていたことから、両岸の地名をとり平久川と呼ばれました。

平久橋(へいきゅうばし)

江東区を流れる平久川に架かる橋です。昭和2年に関東大震災復興計画のもと架橋された単径間鋼製トラス橋です。平成5年に改修されています。

平野橋(ひらのばし)

 木場二丁目から木場一丁目、大横川に架かる橋です。単径間鋼製ガーター橋です。平成27年に架け替えられました。


平久川沿岸。場所の特定が難しく所説ありますが、この辺りで名所江戸百景 第106景 「深川木場」が描かれたと思われます。

「深川木場」に関しましては、私の別ブログにて詳しく記事にしています。気になる方は是非ご覧ください。



汐見橋

富岡二丁目から木場二丁目、平久川に架かる橋です。路線名は都道10号・永代通りです。1径間鋼製トラス橋。

撮影を終えた後は、汐見橋を渡り永代通りを西に進みました。橋を渡って一つ目の交差点で左手に美しい橋を発見。思わず撮影しました。

東富橋(とうとみばし)

富岡二丁目~牡丹三丁目、大横川に架かる橋です。単径間鋼製トラス橋です。昭和5年に関東大震災復興で架橋され、昭和57年に小改修されています。


東富橋を撮影後、そのまま北上し、史跡・三十三間堂跡を目指しました。

三十三間堂跡

江戸時代、江戸の富岡八幡宮の東側(現在の江東区富岡二丁目あたり)にあった仏堂です。本尊は千手観音。
京都東山の三十三間堂(蓮華王院)での通し矢の流行をうけて、寛永19年(1642年)11月、弓師備後が幕府より浅草の土地を拝領し、京都三十三間堂を模した堂を建立したことに始まります。その後、元禄11年(1698年)勅額火事(ちょくがくかじ)により焼失しましたが、その後、元禄14年(1701年)富岡八幡宮の東側に再建されました。
しかし、明治5年(1872年)江戸三十三間堂は廃されました。

こちらは、名所江戸百景 第69景 「深川三十三間堂」で描かれた場所です。「深川三十三間堂」に関しましては、私の別ブログにて詳しく記事にしています。気になる方は是非ご覧ください。


今日はこの辺で。
明日に続きます。

読んでいただき
ありがとうございました。


ランキングに参加中。励みになります。
ポッチっとお願いします。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

最近の「散策日記」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事