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リートリンの覚書

散策日記 両国・浅草橋・蔵前 1 両国回向院・国技館跡地

今回の散策は

JR総武線「両国駅」西口(南側)から
スタートしました。

(散策は6月30日に行いました。)

国技館や江戸東京博物館と反対側です。

駅を出て、
国技館通りを南に進みました。
突き当りに回向院の門が見えました。

画面、中央が回向院正門

向かって左側が、両国シティコア。旧国技館跡地に建っている複合施設です。

向かって右側のビルには両国花火資料館があります。日本の伝統的な花火を取り上げた
ミュージアムです。

回向院の正門前横には旧国技館跡の説明書きがありました。

・旧国技館跡

旧国技館は、天保4年(1833)から回向院で相撲興行が行われていたことから、明治42年(1909)に、その境内に建設されました。建設費は28万円(現在の価値では75億円程度)です。
 ドーム型屋根の洋風建築で、収容人数は1万三千人でした。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。
 しかし、東京大空襲まで、三度の火災に見舞われるなど御難続きで、戦後は進駐軍に接収されました。返還後は日大講堂として利用されていましたが、昭和58年(1983)に解体されました。
 左手の両国シティコアビル中庭の円形は、東寺の土俵の位置を示しています。
説明書より引用

・旧国技館(大鉄傘)跡


所在地 墨田区両国二丁目8番
 旧国技館は、江戸時代以来の相撲興行の歴史を刻む回向院の境内に、明治42年(1909)に竣工・開館しました。1万3千人を収容する当時最大規模の相撲常設館で、設計は日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾と葛西萬司が手がけました。日本初のドーム型鉄骨の建物であったことから、大鉄傘とも呼ばれました。開館当初は両国元町常設館が正式名称でしたが、翌年から国技館という名称が定着しました。景観の地は菊人形祭りや講演会などを開催するイベントホールとしても利用されました。
 この建物は、大正6年(1917)の火災と同12年(1923)の関東大震災、そして昭和20年(1945)の東京大空襲などで被害を受けましたが、そのたびに修理され、昭和58年(1983)に老朽化に伴い解体されるまで使用されました。ただし、相撲常設館としての役割は、横綱双葉山の引退披露大相撲として開催された昭和21年(1946)秋場所を最後とし、その後はメモリアルホールと称してプロレスやボクシングなどの格闘技の試合会場として使用されました。また、昭和33年(1958)以降は、日本大学講堂として使用されました。
 なお、旧国技館の解体後、地元の方々が台東区の蔵前国技館に移転していた本場所の誘致に尽力され、昭和60年(1985)1月に現在の両国国技館が開館しました。旧国技館の跡地は、現在複合商業施設となり、その中庭にはタイル貼りでかつての土俵の位置が示されています。
説明書より引用

旧国技館。昔の写真を見ると美しいデザインですね。辰野金吾の設計した建物が好きなので、実物をみてみたかったです。ちょっと残念。

・回向院正門


明暦三年(1657)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は十万人以上、未曽有の大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引き取り手のない有様でした。そこで四代将軍徳川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代のわたり弔うように念仏堂が建立されました。
 有縁・無縁、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲などの様々な天変地異・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。
説明書より引用

回向院では、1768年(明和5年)以降に、境内で勧進相撲が興行され、これが今日の大相撲の起源となりました。

また他にも鼠小僧の墓があることでも有名です。

回向院を参拝したあと西へ進み、
両国一丁目で一の橋通りに進みました。

こちらは回向院の正門跡となります。
現在は両国幼稚園になっています。

・回向院正門跡

 回向院の正門は、かつてこの位置にありました。回向院の伽藍は東京大空襲で焼失しましたが、戦後、再建され、正門は現在の京葉道路沿い国技館通りに正対する位置に移されました。
 かつて回向院正門は、江戸城側から両国橋を越えると真正面にあり、橋上からその姿をはっきりとみることができました。両国橋があたかも回向院参道の一部を成しているかのようで、明暦の大火による焼死者十万人以上を埋葬する回向院の社会的な存在意義を表したものともいえます。
 両国橋や回向院正門に至る広小路や元町の賑わいは、北斎画「絵本隅田川両岸一覧(両国納涼)」などに描かれています。
説明書より引用

この場所は広重の江戸百景
『両ごく回向院元柳橋』
で描かれた場所です。

興味のある方は、
別ブログにて記事にしていますので、
そちらをご覧ください。


回向院正門跡を後にして
両国橋へ向かいました。

その途中、
別の史跡を発見。

のぞいて見ると、
もじゃもじゃの毛が見えました。

いのしし?

看板をみると「もゝんじや」とありました。

・江戸の味

享保三年(1718)創業の猪料理店です。「ももんじ」とは「百獣」のことで、四つ足の動物の肉を扱う店を「ももんじ屋」と総称していました。現在は、この「もゝんじや」を店名にしていますが、正式には「もゝんじやの豊田屋」です。しかし、屋号の豊田屋はどこにも掲げられていません。
 もとは漢方の薬屋でしたが、薬の一種として出した猪が人気商品となり、料理店へ転身しました。猪の肉は、冷え性や疲労回復に効果があり、肉食が禁じられた江戸時代でも、「山くじら」と称して食べられていました。
 猪は丹波や鈴鹿などから仕入れたもので、味噌仕立てのすき焼きにします。そのほか、鹿刺し、狸汁など、他ではめったに味わえない珍しい肉料理が味わえます。
説明書より引用

東京。
今までは、
なんの気無しに歩いていましたが、

周りの景色に注意して歩くと、
思いのほか

史跡だらけだったことに気付きました。

これからは、
散策する際には、
注意深く歩きたいと思います。

今日はこの辺で。
続きます。

読んでいただき
ありがとうございました。


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