リートリンの覚書

日本の神様96・屋主忍男武雄心命・武内宿禰 改訂版2


日本の神様96

・屋主忍男武雄心命
・武内宿禰


屋主忍男武雄心命
(やぬしおしおたけおこころのみこと)


武内宿禰の父

・別名
武猪心(たけいこころ)


「日本書紀」では


日本書紀巻第七では、
このように登場しています。

屋主忍男武雄心命を遣わして祀らせました。”

武内宿禰(たけしうちのすくね)の父です。

景行天皇3年2月1日、
景行天皇は紀伊国に行幸し、
諸々の天神地祇を祭祀しようと
占ったところ、不吉と出ました。

すぐに行幸を取り止め、
屋主忍男武雄心命を遣わして祀らせました。

屋主忍男武雄心命は、
詣でて、
阿備柏原(あびのかしわばら)に居て、
神祇を祭祀しました。

そこにとどまり住むこと九年。

紀直(あたい)の遠祖菟道彦の娘の
影媛(かげひめ)を娶り、
武内宿禰(たけしのうちのすくね)
生まれました。


古事記では


古事記に記載はありません。


主な神社


江野神社(新潟県上越市)

若櫻神社 摂社 高屋安倍神社
(奈良県桜井市)

武雄神社(佐賀県武雄市)


武内宿禰
たけしうちのすくね)


五代の天皇に仕えたとされる伝説上の忠臣

・別名
高良玉垂神(こうらたまたれのかみ)

・神格
長寿の神
宰相の神


「日本書紀」では


日本書紀巻第七では、
このように登場しています。

“紀直の遠祖菟道彦の娘の影媛を娶り、武内宿禰が生まれました。”

父は
屋主忍男武雄心命
(やぬしおしおたけおこころのみこと)

母は紀直の遠祖菟道彦(うじひこ)の娘の
影媛(かげひめ)

景行天皇3年2月1日、
景行天皇は紀伊国に行幸し、
天神地祇を祭祀しようと占ったところ、
不吉と出ました。

すぐに行幸を取り止め、
屋主忍男武雄心命を遣わして祀らせました。

屋主忍男武雄心命は、詣でて、
阿備柏原(あびのかしわばら)に居て、
神祇を祭祀しました。

そこにとどまり住むこと九年。
紀直の遠祖菟道彦の娘の影媛を娶り、
武内宿禰が生まれました。

景行天皇25年7月3日
武内宿禰を遣わせて、
北陸と東北の諸国の
地形、百姓の消息を視察させました。

景行天皇27年2月12日、
武内宿禰が、東国から帰ってきて、
東夷の情勢を報告、
撃って取るべきですと、
奏言しました。

景行天皇51年1月7日、
宴会を開催するも
皇子稚足彦尊(わかたらしひこのみこと・成務)
武内宿禰は、
参加しませんでした。

天皇はその理由を問うと、
群卿、百寮の心は、遊戯のことばかりで、
国家にはない。
宮の垣根の隙を狙う者がいるかもしれないと、
門の下に侍(さぶら)いて、
非常に備えていたと答えました。

そこで、天皇はことに寵愛しました。

8月4日、
武内宿禰に命じて
棟梁之臣(とうりようのまえつきみ)としました。

成務天皇3年、1月7日、
武内宿禰を大臣としました。

成務天皇と武内宿禰とは、
同じ日に生まれました。
そういうわけで、特に寵愛しました。

日本書紀 巻第八では、

仲哀天皇8年9月5日、
熊襲が叛逆したため、
熊襲を撃つことについて議論をします。

その際、皇后が神懸かりをして、
新羅国という宝の国がある。
吾を祭れば、
自ずとその国は服従するであろう。
また熊襲も服従するであろう。
と神託を受けましたが、
仲哀天皇はそれを信じず、
熊襲征伐を強行します。

しかし、
勝つことができず還ってきました。

その後、
仲哀天皇9年2月5日、
仲哀天皇は急に病気になり、
翌日崩御しました。

そこで皇后と大臣・武内宿禰は、
天皇が崩御されたことを隠し、
天下に知らせませんでした。

密かに天皇の遺体を収め、
武内宿禰を付けて、
海路を従い穴門に遷しました。
そして豊浦宮(とゆらのみや)
あかりをともさずに葬儀を行いました。

22日、
大臣・武内宿禰は、
穴門から還ってきて、
皇后に報告しました。

巻第九では、

仲哀天皇9年2月、
仲哀天皇が筑紫の橿日宮で崩御しました。
皇后は、
天皇が神の教えに従わなかったことで
早くに崩じたことを痛み、
祟った神を知り、
財宝の国を求めたい、と思い、
罪を祓い、過ちを改めて、
更に斎宮(いつきのみや)
小山田邑(おやまだむら)に造りました。

3月1日、
皇后は吉日を選び、自ら神主となりました。
そして武内宿禰に琴を弾かせ、
中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)
審神者(さにわ)としました。
そして、神の名をたずねると、
七日七夜に至って答えがありました。
皇后は教えのとおりに祭りました。

仲哀天皇9年4月、
皇后は天神地祇を祭祀して、
自ら西征しようと思い、
神田を定めて耕作しました。
この時、儺河の水を引き、
神田を潤したいと思い、
溝を掘りましたが、
迹驚岡(とどろきのおか)に及ぶと、
大岩で塞(ふさ)がれていて、
溝を通すことができませんでした。
そこで、皇后は武内宿禰を召して、
剣・鏡を捧げ、天神地祇に祈りをさせ、
溝を通すよう求めました。
その時すぐ、雷電霹靂(でんらいへきれき)が、 
その岩を蹴り裂き、
水が通るようにしました。
そういうわけで、
時の人はその溝を裂田溝(さくたのうなて)
と呼びました。

神功皇后摂政13年2月8日、
武内宿禰に命じて、
太子に従い
角鹿(つぬが)の笥飯(けひ)大神を
拝ませました。

神功皇后摂政13年2月17日、
太子が角鹿から帰還。
この日、
皇太后は太子のために大殿にて
宴会をしました。
皇太后はさかずきを挙げて
太子に寿(さかほかい)をしました。
それで皇后は歌を詠い、
寿ぎをしました。
この折り、
太子に代わり武内宿禰が
太子のために答歌しました。

神功皇后摂政47年4月。
済王は久氐(くてい)、彌州流(みつる)
莫古(まくこ)を使わして、朝貢しました。
この時、新羅国の調(みつき)の使が、
久氐と共にやってきました。
二国の貢物を検校(けんぎょう)すると、
新羅の貢物は珍しいものがはなはだ多く。
一方、百済の貢物は少なく、
賤しく良くないものでした。
そこで久氐らに問うと、
彼らは道にまよい、
沙比(さひ)の新羅に至りました。
新羅人は彼等を捕えて牢屋に禁じました。
そして、百済の貢物を奪い、新羅の貢物とし、
新羅の賤物と取り換え百済の貢物としました。

これを聞いた皇太后と譽田別尊は、
新羅の使者を責め、天神に祈ると、
「武内宿禰に議(はかりごと)を行わせよ。
また千熊長彦を使者にしたら、願うようになるだろう」と天神が教えさとしました。
そこで千熊長彦を新羅に派遣して、
百済の献物を濫(けがしみだ)したことを
責めました。

日本書紀 巻第十では、

応神天皇7年秋9月、
高麗人(こま)、百済人(くだら)、
任那人(みまな)、新羅人(しらき)が
そろって来朝しました。

武内宿禰に命じて、
諸々の韓人等を率いて池を造りました。
故に、池を名づけて韓人池と呼びました。

応神天皇9年夏4月、
武内宿禰を筑紫に派遣し、
百姓を観察させました。

その時、武内宿禰の弟である甘美内宿禰は、
兄を陥れるために、
武内宿禰は天下を取ろうという下心があると、
天皇に讒言(ざんげん)しました。

そこで、天皇はすぐに
武内宿禰を殺そうと使いを遣わしました。

武内宿禰は嘆きました。
ここで壱岐直(いきのあたい)の祖、
真根子(まねこ)という者がおり、
その者の容姿は大変武内宿禰に似ていました。

真根子は冤罪で武内宿禰が死ぬのを惜しみ、
自分が身代わりになりますと
いい自害しました。

武内宿禰は密かに朝廷に赴き、
天皇に罪がないことを弁明しました。

天皇はどちらの言葉が正しいのか
是非を決めるのが難しく、
天神地祇に請申して、
探湯(くかたち)をさせました。

武内宿禰が勝ちました。
武内宿禰は弟を殺そうとしましたが、
天皇が許すように命令しました。

そして、
甘美内宿禰を紀直らの祖に
奴隷として与えました。

日本書紀 巻第十一では、

初め仁徳天皇の生まれた日に、
木菟(みみずく)が産殿(うぶとの)に
入りました。

翌朝譽田天皇は、
大臣・武内宿禰を呼びだして、
「これは何の瑞か」と問いました。

大臣が答えて、
「吉祥です。また昨日、
臣の妻が産む時にあたり、
鷦鷯が産屋に入りました。
是もまた異しいことです」といいました。

天皇は、
「今、朕の子と大臣の子とは、
同じ日共に生まれた。
どちらも瑞があった。
これは天のしるしであろう。
其の鳥の名を取り、
それぞれ取り替え子に名づけ、
後の世の契としよう」
といいました。

そこで鷦鷯の名を取って太子に名づけ、
大鷦鷯皇子とし、
また、木菟の名を取って、
大臣の子に名づけ、木菟宿禰としました。

仁徳天皇50年春3月5日
河内の人が茨田の堤に、
雁が子を産んだと報告しました。

そこで天皇は、
武内宿禰に、
倭の国で雁が子を産むと聞いたことがあるか?
と歌で問いかけました。

ここで武内宿禰は、
倭の国で雁が子を産むとは聞いたことがないと、
歌で返答しました。


「古事記」では


『古事記』によりますと、
武内宿禰は第八代孝元天皇の孫で、
母は珍彦命(うずひこのみこと)の娘
、山下影日売(やましたかげひめ)
とあります。
珍彦命は神武天皇の東征に
海峡の神として登場する珍彦命は
紀伊国の造(みやつこ)の祖です。
また、
七人の子どもは大和朝廷を支えた
葛城(かつらぎ)氏、
平郡(へぐり)氏、
蘇我(そが)氏、
巨勢(こせ)氏、
紀氏、
波多氏、
江沼氏の祖とも伝えています。
また、成務(せいむ)、仲哀(ちゅうあい)、
応神(おうじん)、仁徳(にんとく)まで、
五代の天皇に
二百二十四年間にわたって仕えたとあります。


そのほか


・産湯に使われたという井戸が、
武内宿禰誕生井として
武内神社に残されています。

・『因幡国風土記』の逸文によりますと、
武内宿禰は因幡国亀金に下向し、
宇倍山中腹の亀金岡に
双履(そうり・一足のくつ)を残して
三百六十余歳で世を去ったと
伝えられています。
鳥取県岩美郡にある宇倍神社には、
本殿裏には双履石があります。

・異常な長寿に関しては
「武内宿禰」の世襲という推測が有力です。


神徳


延命長寿
武運長久
厄除け
立身出世
商売繁盛
子育て
試験合格
勝負必勝など


主な神社


安原八幡宮 奥宮 武内神社
(和歌山県和歌山市)

宇倍神社(鳥取県岩美郡)

気比神宮(福井県敦賀市)

住吉神社(山口県下関市)



勉強途中ですので
新しい知識を得た場合
随時更新予定です。


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