国家戦略室 (アンダーグラウンド)

日本本来の政治、統治、歴史についての研究

ネトウヨ(2) 国学のルーツ

2012年08月15日 | Weblog

日本に残る天皇制とは何か。

考えてみたことがあるだろうか。

戦後、GHQはかなり強引に日本国憲法を押し付け、アメリカの価値観を日本人に押し付けた。

そのため、アメリカ人が理解する程度しか、戦前の日本を理解できなくなっている。

戦前の天皇制といったっていろいろあったのだ。

明治維新は王政復古と呼ばれた。

 長い武家政治の体制が崩れた。大政奉還はもともと天皇にあった権威が、武家に奪われ、それを武家が返したということだ。

 明治維新の数年間、大化の改新の頃をまねて神祇官という官職が置かれ、祭祀を行うはずだった。ところが、彼らにはいくつかの流派があり互いにいろいろ内輪もめがあった、また仕事をしているのかしていないのかわからない、そんなうわさがたち、この官職は格下げされ、政府の政治体制に組み込まれていった。

 本来は天皇陛下が神祇官の準備で祭祀を行い、天意を受けてそれを政治に反映するというシステムをである。ところがそれができる神官が、政府内にいなかった。

 出口王仁三郎は明治4年生まれなのでまだ早い。

 じゃあ政府外にいたのかというと、実はいた。たとえば後の内務大臣副島種臣は出口王仁三郎の師匠にあたる本田親徳という古代の神がかりを行う人物の弟子でもあった。

 日本初期には神功皇后が神がかりで赴く指示をうけている。これは当時国内で反乱を起こしていた一族が実は大陸の工作だったためだったといわれている。

 日本初期ではあたかも日本の神が海外を征服するように書いているが、実はこれにも背景があって、まず日本初期や古事記を書いた人間自体が大陸から渡ってきた帰化人であったこと。彼らが日本の古い史書などを参考にして編纂したため、文章には不自然さが見られるなどである。古事記の序文を書いた太安万侶なども帰化人の末で、古事記の序文をみればわかるが日本本来のものではなく、陰陽思想によって古事記を説明しようとしている。

 明治維新、政府の内部には伊藤博文や大久保利通のような根っからの政治家が力をもち、傑物である西郷や副島種臣などは征韓論で下野に下って中央から離れざるを得なかった。

根本的な部分で、考え方のズレが表に出た。伊藤博文は立憲君主を目指していた。しかし、わが国の伝統から言えば天立君主立憲。つまり天皇が憲法を公布改正破棄できる権限をもっている。これは神から与えられた権限で人民由来のものではない。

 明治にはもう一つ祭神論争というのがあった。出雲の大国主の神を宮中で祭るか否かであった。

「神道事務局は、事務局の神殿における祭神として造化三神天之御中主神高御産巣日神神産巣日神)と天照大神の四柱を祀ることとしたが、その中心を担っていたのは伊勢神宮大宮司の田中頼庸ら「伊勢派」の神官であった。これに対して尊福を中心とする「出雲派」は、「幽顕一如」を掲げ、祭神を大国主大神を加えた五柱にすべきとした。」

・・・・以下引用http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/myoken43_1.htm

千家尊福(第80代出雲国造:弘化2年-大正7年)篤胤-六十部是香-矢野玄道の神学を受け継ぎ、教部省に対し以下の請願を為す。官幣大社と格付けされた「出雲大社」の伊勢神宮と同列の官社の上に格付けすることと、大・中・小教院の祭神が造化3神と天照であることは不審で大国主を合祀すべきこと。それは「顕」は天皇の、「幽」は大国主の統治領域であり、それゆえ出雲大社は「幽界」の首府であり、諸神社の総宰であるという思想であった。 しかしながら薩摩派である教部省はこれを却下する。

明治6年太政官内部の分裂と西郷隆盛の参議辞職があり、また薩摩閥の神道一辺倒の宗教政策に長州閥の木戸孝光・伊藤博文が不快感を抱き、 長州閥を背景とした、佛教をも包含した宗教政策に変換が図られる。
以下明治8年の大教院廃止となる。
明治8年大教院廃止。神道事務局(国民教化を目的とし、大教院廃止に代わる機関)が設置。
同年11月には神道・佛教双方に一応の信教の自由を保障する達が出される。
しかし「神道事務局」では、あくまで「伊勢神宮が神道の根本」とし、「神宮祭主が・・・教務を管理」するという立場であった。このため、国家としての祭神は造化3神と天照であり、大国主は祭神外であった。
この当時の神道事務局を支えたのは、実務面では旧薩摩派の田中頼庸(伊勢神宮大宮司)、教義面では浦田長民(伊勢神宮少宮司・津和野派の影響を受けていたと云われる)であったとされる。以降「伊勢派」とも言うべき「伊勢神宮」「天照」中心の政策が展開される。

当然、天照中心主義に対し、出雲派からの反発は強く、本居豊頴(宣長曾孫)平田派国学者らも出雲派に組した。(中略)「顕幽」「大国主」に関する神学論争は大した理論を持たない伊勢派は劣勢であり、伊勢派にとっては、出雲派の神学は「国体」に関する「危険な思想」とも判断されるに至る。ここにいたり、田中頼庸らは権力の中枢に近い立場を利用して、神学論争を「勅裁」という形で決着をつける。

国体神学の成立 明治14年勅命により、全国の主要宮司・教導職が召集され「神道大会議」が開催され、太政大臣三条実美から、以下の「勅裁」が示される。
 宮中斉祭所の神霊 天神地祇、賢所、歴代皇霊
伊勢神宮は賢所と同じことであり、ここに伊勢派は出雲派の抹殺に成功したことになる。
意味することは「顕幽」論の禁止であった。以降、祭祀と宗教との分離が進行し、公の神社神道は祭祀だけに限定する、国家神道が成立してゆくことになる。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ここまで引用

 実は造化け三神と大国主の尊は天と地の合わせ鏡のごとく、天皇陛下におまつりいただくことが必要なのであるが、いつの間にか分離してしまい、そのために世の中がおさまらなくなってきているという。

 まあそんな話が背景にある。

 何が言いたいのかというと、明治維新の失敗は、形式的儀礼的な神道を広めてしまい、政治家が都合の良いように日本各地の神社を作り変えて古来の風習、伝統、連綿と神社を護ってきた神主を入れ替えてしまったことにある。

 また祭と教学を分離したために、国民の思想が欧米思想の影響を受けやすくなった。

 神はいる。けれども、形式だけしか知らない二流三流の初心神道家が全国の神社を支配し、政治家がそれをコントロールするようになってしまったところに問題がある。


コメントを投稿