下駄隠しの歌
と、いわれる作者不明のわらべ歌に
ついての私の見解、その忘備録。
この歌にあるいくつかの論争について、
20年ほど前からなんとなく思っている
ことを羅列。
下駄隠しチューネンボウ 橋(柱)の下の
ネズミがぞうりを咥えて チュッチュクチュ
チュッチュク饅頭はだれが食た
だれも食わないわしが食た
表の看板三味線屋 裏から回って三軒目
↑これが私が子供の頃に唄っていた
下駄隠しの歌の歌詞。
この歌にはいろんな争点があるらしく、
下記の①と②がよく言われている
①どっちが正しい歌詞?
「柱の下のねずみ」と「橋の下のねずみ」
どっちなんだという論争?的なもの。
②なにが正しい説?
「チュウレンボウ」は「チョウリンボウ」が
訛ったものだという差別云々という話。
以下がそれらに対する私の見解です。
まず、この歌のメロディーライン→発音が、
関西弁(便宜上そのように呼ぶ)であるということ。
??と思った諸兄方は、今すぐ唄ってみてもらいたい。
音楽として捉えているから分かりにくいけれど、これは
どう考えても、第二音が上がる発音(第二音が上がるのは
関西弁に顕著な例)で占められている。それゆえに、
関西地方が発祥のわらべ歌と思われる。
なので、今では失われてしまったけれど、在りし日に
関西地方を中心に話されていた言葉や観念でもって
作られていると思う。
まずは、①のどっちが正しい歌詞?というものに対する
私の考えは、どっちもブー!です ^^;
柱の下でも橋の下でもなく、多分ね、
「はしりの下」だと思うんですよ。
「はしり」とは、台所のこと。
京都生まれ京都育ちの私の母(70代)や伯母(70代)
伯母(80代)などに聞くと、台所のことをはしりと
言ったと言います。
昔、台所のことを関西では、はしりと言ったと聞いた
ことがあるんですけど、どうも、関西だけに限らな
かったようなんですが、はっきりとは分かりません ^^;
私たちの年代(アラフィフ)の京都では言ったり
言わなかったりですが、知識として知っている人
も案外多いと思うのですが。。。どうかな??(笑)
さて、歌詞の話に戻りますが・・・。
確かに、柱の下にも橋の下にもねずみは居るかも
しれませんが、歌詞の前後から考えると、
はしりの下=台所の下っていうのが一番
しっくりきませんか?
そして、何よりもこの歌の黒い所=クライマックスは、
「表の看板三味線屋、裏からまわって三軒目」
ってとこなんですよ。
ねずみの天敵=猫!
その猫の天敵が三味線屋な訳ですが、裏から
まわってって所がポイントな気がするんです。
私の歌詞の解釈は、
台所の下に居ついているねずみ達が、草履や
下駄をどっかへ持って行ってしまう→隠してしまう。
草履や下駄を返して欲しいので、代わりに饅頭でも
やろうかなと思ったけれど饅頭は食べられてしまって
or食べてしまってもうない。
だったら、三味線屋になら、まだ三味線になる
前の猫が居るはずだから、裏からまわって猫居
たらちょっと貸しておくれやす→ねずみとりしても
らうから・・・
もしくは、ねずみ対策で猫飼ってるのに草履
隠されたりして役立たずだから三味線屋に
持って行こうかな・・・
もしくは、
チュッチュク饅頭とはネコイラズ(殺鼠剤)
で、「誰も食わない わしが食た」は猫が
自分で食べちゃった→死んでしまった→仕方
がないから三味線屋の裏から持って行って
引き取ってもらおうかな~
なんていう黒い歌なのかな~と・・・。
ここで、
②の何が正しい説?という話ですが、
「チュウレンボウ」は「チョウリンボウ」が訛った
ものだという差別云々という話などは思い
付きから派生しているようです。
なので、私も思い付きで言ってみます。
チュウネンボウとは、ちゅうちゅうと鳴く
ネズミや子ネズミ達のこと=チュウネン坊
なんじゃないでしょうか?
単純に、ネズミたちのことをチュウネン坊って
言うのかなって子供の頃から思ってました。
そんな訳で、これは忘備録。
橋の下でも柱の下でもなく「はしりの下」。
チュウネン坊はねずみのこと。
歌詞の話やチュウネンボウの差別云々よりも、
三味線屋に猫を借りに行くのか、三味線屋に
役立たずな猫を持って行こうとしているのか・・・
それともネコイラズ饅頭食べて死んじゃった
猫を三味線屋へ持って行こうとしているのか・・・
こそ論争するべき問題点ではないだろうか?
というのが、私の争点でございます・・・(笑)