私たちは自我に心を支配されがちです。
自我は平和を望んでいません。
いつまでもカオスを望んでいる。
ヘイトが増大する状況は自我にとっては最高の状態です。
混沌とした状況が自我にとっての好ましい状態。
罪悪感が煽られ、かたちの世界の相互不信が増大する。
もちろんそれは意味をなさず、苦しみのもとにしかなりません。
ヘイトをあおる言葉に耳をかさないでください。
この世界に”絶対”というものは存在しません。
全てが相対的になりたっています。
事象の「ある部分」だけを切り取って善だ、悪だと言っても意味をなしません。
真実はひとつです。
私たちの感情には『愛』か『恐怖』かしかない。
この『愛』とは無償の愛であり、対価を必要とせず犠牲も伴わないものです。
残念ながら正確に一語であらわす言葉がありません。
『恐怖』とは大いなるものから切り離されてしまうかもしれないという根源的な心理です。
普通に生きていると認識できない領域にあります。
潜在意識です。
この意識が「許せない」と言った感情や、人に批判的になる心理のもとにあります。
葛藤の心理のもとです。
私たちは全てを共有しています。
この宇宙の姿を科学的に見ても全てがつながっていることを示唆しています。
事象の対岸にいて、事象を”客観的”に扱うことはできないのです。
争いは全て人の心から出ずる。
心の葛藤がかたちになって現れたものがあらゆる攻撃です。
心に平和があれば真実の理解へのインスピレーションが訪れます。
かたちある争いに人の関心は引き付けられます。
その事象をなんとかするべきだと議論が生まれる。
しかし。
かたちある争いは心の葛藤が生んでいるのです。
そして葛藤は恐怖から生まれる。
投影であるこの世界への恐怖が心の葛藤を生み、この世界に闇を感じさせるのです。
この世界は私たちの心の投影です。
この世界のストーリーが何を意味するのか。
ショックを受けるようなものごとに接すると誰しも動揺します。
その時、心は自我の投げかけるものに応答しています。
真実を思い出してください。
自分とは何か、生きるとは何か、この世界とは何か。
それらを偉大な導き手は、
「この世界は存在していない」
「究極のものはかたちのない世界に存在する」
と教えました。
代表的な人物はブッダとイエスです。
仏教とキリスト教、という意味ではありません。
この偉大なふたりは実は同じことを違う視点から説いたのです。
『非二元』と言う言葉であらわされたりもします。
仏教では『無生法忍』と表現します。
この世界はホログラムのようなもの。
現代物理学でも宇宙はそのように語られるようです。
私たちはこの世界において何をすればいいのか。
それを理解するには、この世界の常識を越えた理解が必要です。
あたり前の日常はいつも仮の姿をしています。
私たち常に変わり続ける。
変わらないと感じるとしたらそれは錯覚です。
実相は普遍です。
私たちは実相においてひとつ。
この世界における現実は舞台における配役のようなもの。
実相のおいてひとつであるなら根源に罪は存在しない。
それが真実です。
大いなる気づき。
罪がないなら、罪を糾弾することもない。
それらはホログラフィックなもの。
だから。
自分を赦し、他人を赦す。
それがこの世界で生きる私たちにできる最高のこと。
気づきから始まります。
私たちは無辜なる存在です。
そして永遠に生きる存在なのです。