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人間を越え、覚りに到達する人のブログ

『犠牲の精神』と『聖なるもの』

この世界は、あなたの心の平和なしに平和になることはありません。
ですから自分を犠牲にしないでください。
自分を犠牲にするという考え方ではこの世界は平和にはならない。
それはなぜか。
私たちは、この宇宙のありとあらゆるものに繋がる存在だからです。
ということは、自分を犠牲にすると他人を犠牲にするということになります。
私たちは相互的な関係で存在しています。
誰かの犠牲の上に平和が成り立つということはありえません。
この世界の形あるレベルでは、自分と他人は隔てられているように見える。
ひとりひとりと見える人生を生きる設定になっている。
それぞれに生きているという知覚を持っている。
いわばそれぞれの宇宙を生きている。
ところがその設定を取り払うと根本がつながっているのです。
そして本質的な差はない。
これが私たちの実相です。
身体が私たちの本質ではないんです。
この宇宙は大いなる一つであり、その中に含まれない人はいない。
私の平和は全ての平和であり、
全ての平和は私の平和である。
例外は存在しない。
例外に見えるものは真実ではないものです。

人類はみんな心でつながった家族。
親子関係につながりを感じるなら、世界中みんな親子だと思えばいい。
兄弟につながりを感じるなら、世界中みんな兄弟だと思えばいい。
友だちにつながりを感じるなら、世界中の人間はみんな親友だと思えばいい。
感覚から始めるのが有効な方法です。
自分の感覚を延長していく。
本当は一つなんだという感覚が到達点です。
この世界でつながる特定の人がいなくてもいい。
私たちは『私』というだけで大いなる存在とつながっているからです。
私たちの真の帰属は大いなるもの。
この社会で何者であるか、何に属しているか。
そう言ったことは本質ではない。
なぜかといえばそれは絶えず変化するからです。
実相は普遍なるもの。
それを理解するにはこのかたちある世界を「投影された世界」だとみる必要があります。

ある科学者によれば。
宇宙が始まる前には「ある物質」で満たされた非常に小さな空間があったと。
その「ある物質」が何かはわからない。
その「ある物質」がものすごく狭い空間に押し込められてる状態だったと。
ある時。
そこに外に向かう力が働いた。
外に向かう力は斥力といいます。
重力の反対です。
外に向かって、広がろうとする力。
その斥力が空間を押し広げた。
それがビッグバンだと。
これが宇宙の始まりだというんです。
そして。
ビッグバン以前に空間を満たしてたある物質は、今もそのまま存在しているんだそうです。
この「ある物質」が私たちを形作っているということになりますね。
ビッグバンの元になったわけですから。
ただこれは証明されてはいない。
というか証明しようがないんだそうです。
ビッグバン理論に限らず、現代の科学は証明できない領域に達していると。
理論的に計算することはできる。
だがその理論を確かめるための装置を作ることはできない。
作るとすると天文学的な巨大なものになったり、人間が扱えないレベルのエネルギーが必要になったりする。
理論的に説明はできるが実験できないものは証明できない。
ビッグバンの前にあった「ある物質」がこの世界を今も満たしている。
宇宙はそのような様相を呈する存在である。

知覚できないものがこの世界には確かに存在する。
ビッグバンが生じる前の空間に満たされていた「何か」を共有しているのが私たち。
その始まる前に満たされてた何かというのが、実は神です。
神はある。
今もそのままの状態で存在する神を共有するのが私たち。
私たちは一体なんです。
本質的にはひとつ。
このひとつである存在が、この形ある世界では分離してるように見えるというのが真実。
それが必ず見えます。
自分を通じて世界を理解しているのが私たち人間です。
私と私以外とは一体なのです。
自分を尊重すれば、自分以外の人も尊重することができます。
霊性は一緒なんです。
人間は本質的にひとつ。
精神の次元から見たら一緒なんです。
だから自分を犠牲にしてはいけない。
自分を犠牲にすると誰も救われない。
自分の救いを通じて世界は救われる。
この世界いる私たちに絶対にやれることがこれなんです。
自分を尊重する。
そしてそれを自分以外にも延長していく。
これには個人差はありません。
全部、本質的には同じこと。
どんな小さく見えることでも大事さは変わらない。
ありとあらゆる場において自分のことを大事にしてください。
私たちはそのような対応にふさわしい存在です。
闇は似合わない。
輝ける存在であるのが私たち。
闇を居心地よく感じたとしたら、それは幻想を信じています。
闇は意味をなさない。
自分を犠牲にするということは、闇に向かうということ。
これは心を病む道。
迷う道。
同じように闇を見る人の方に寄っていってしまう。
自分を犠牲にすると心の働きが滞ります。
そしてひどくなると心の亡者のようになってしまう。
心の亡者は他人にも犠牲を求めます。
方向が違うように見えても本質は同じです。
自分の内なる感覚に目覚めてください。
自分の霊性に気がつくことができれば相手の霊性に気がつくことができます。

自分を通じて世界は救われる。
自分の救いなくして世界の救いなし。
犠牲は心が闇に向かうだけ。
それは意味をなしません。
自分を犠牲にするという姿勢を褒めないでください。
もてはやさないでください。
自我を投影しているだけです。
自分を犠牲にしているから、人の犠牲を褒めたり、もてはやしたりするのです。
それは結局は「恐怖」のあらわれです。
人間の感情には「愛」か「恐怖」かしかない。
そして私たちはいつでも「愛」を選ぶことができる。
カタチある世界は移ろい行く。
この世界の幸せは自然にまかせましょう。
カタチある幸せは結果に過ぎない。
それを追うのは映像とか蜃気楼を追うのに等しい。
自分の内側の聖なるものに目を向けましょう。
そうすれば、カタチあるこの世界のことも結果的に自らの望むものに近いていく。
私たちは私たちの本質に気がつくことができる。
真の平和を味わえる。
この境地に至るのが人生の目的です。
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