どんな人も悟りへの道を生きています。
目覚めているか、いないかは別にして。
一人の例外もありません。
人生は旅であり、物語であるとわたしたちの世界では喩えられてきました。
それらはただの喩えではなく、真実をあらわしています。
いずこからあらわれ、そしてまたどこかへ。
肉体の死は、わたしたちの死ではない。
私たちは身体という仮の存在としてこの世にいるかに見えますがそれは心の投影にすぎません。
私たちの本体は精神です。
精神は心の作用によって、身体がある設定でこの時空を生きている。
心は受容体のようにも供与体のようにも働きます。
『生きている』というのがそもそも喩えのようなもので、『色即是空』と般若心境で説かれるように本質的な実体はないのです。
アインシュタインが提唱した、物質とエネルギーは等価交換できるという『E=mc2』の方程式も同様のことを表しています。
科学は神への信仰から始まったといわれています。
大いなる神の働きである、この世界の法則を知りたいという思い。
それが人類にこの世界の姿を理解させる知識を獲得させてきたわけです。
形あるこの設定、すなわち肉体を自分自身と感じるのは人間に備わった知覚からすれば当然のことですが、知覚を越えた理解が進むと実体はそうではないことがわかります。
この事実に気が付くのが悟りへの第一歩です。
世界のマスターたちはこのことについて語っています。
宗教にせよ、哲学にせよ、スピチュアルな世界にせよ、このことについて語らないものは真実を語っていないといえます。
この世界に生じるかに見えるものはすべて心が生じさせている。
肉体は生命の現れのひとつだといえますが、生命そのものではない。
生命そのものは宇宙です。
そして宇宙は精神の中に存在します。
肉体は生命そのものではない、ということは、生命の死=自分の死ではないということがわかります。
精神のこの世界での作用としての心は何ができるか。
心を持つわたしたちは何ができるのか。
それは意味を感じ、選ぶことです。
それが人間に与えられた力です。
どんなにテクノロジーが発達しても「データ」「アルゴリズム」「計算機」によって機能するAIには意味を感じ、選択するということはできません。
これを理解するのもひとつの悟りです。
世界を支配するような力を持っていてもこうした悟りへの理解を持てない人が多くいます。
人生の目的は、暇つぶしではありません。
人生とは選ぶこと。
何を選ぶか。
それは意味のある人生を生きているという事実を選ぶことです。
自分は何に意識を向けたいのか。
不満か。
それとも不安か。
それ以外の何かか。
どんな人生にも意味があり、意義がある。
しかしあえて遠回りしなくてもいいわけです。
不満や不安の渦の中に自分を置くということは同じところを回り続けるということ。
そうではない、意味あること意義あることとは何か。
それを探求する人生を選ぶことはできます。
心において選ぶのですから、今どんな状況に置かれている人にもできます。
財産、地位、名誉、健康にいたるまでカタチあるものは結果にすぎず、
それらは「あるところにはある、あるときにはある」というもの。
無い状況に置かれている人からすれば不公平に見えるかもしれませんが、それもいっ時のことです。
移り変わるものです。
そして実相…つまり真実ではありません。
真実はいつも「今、ここ」です。
不安を煽る者は、この世界流にいうと地獄の使者です。
あなたはこの人生において何を選びますか。
不安を選んでも人生はただの一秒も長くなりません。
身体は必ず衰えます。
そして仮想現実が終わる時が来る。
意味のある今を「今」選んでください。
まず本当に楽しめることから始めるのはどうでしょうか。
わたしもそうしたいと思っています。