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よく神様っているのぉ〜と聞かれるけど。

2024-06-15 17:31:58 | 日記

よく神様っているのぉ〜と聞かれるけど、どうして神様がいないと思う人がいるのかよくわからない。

まぁ。母親の愛もそうだけど、もし母親の愛を信じられなかったら、まぁ、いるような、いないような、「まぁいたけどサ」ということにならないだろうか。母の愛とか言っていろいろ思い出すことが出来る人は「自分にはお母さんがいたんだな」と素直に思うことができるのだろうけど、私はいろいろな事情があって、若い時、本当に素直に、ちっとも母親の愛を信じられない方の人だった、しかし、歳をとったら、割と逆の意味で素直にいろいろ良いことを思い出す事が出来るようになりました。(そもそも素直の意味がアベコベになってしまった)。

神様も「神の愛」を信じられなければ、「神様っているの」という事に余計に目に見えない分だけそうなるのではないだろうか。

そこで。神の愛って何よ、っていう事になると思うのだけど。

神の愛とはイエズス様が十字架に自らのぼったという事に他ならないのではないかと思う。神の愛は既にこれ以上無いという形ではっきりと2000年前に現されているのでは。

神の愛は、信じる為というよりは、「深く識る為に」現されたように思う。(まぁそれは信じる為なんだけど)。

神の愛は約2000年前に、まざまざと現され、それをわたし達は、見て識ったのではないだろうか。神の愛がこの様な形で胸に刻まれたのではないかという気がする。

イエズス様の十字架を見て、誰も「神の愛」を見ない人はいない。

十字架を見た人は皆神の愛を識るのではないだろうか。

十字架を知らない人達が「神様っているのぉ?」と未だに質問してくるのだ。

このお話はおそらく毎日ロザリオを唱えているような人が心の内に明かされた事なのではないかと思う。その毎日心を痛めて祈っている人というのは言うまでもなく私ではない。さぁみんなで唱えよう。「わたしは神の愛を信じます」と。『わたしは十字架をこの目で見たのですから』と。

そしてその方が復活されたとあっては?

 



アーメン   アーメン   アーメン   アーメン   アーメン。。。。。

あの時のゴルゴタの丘でのヘブライ語。

そして聖霊降臨の時のヘブライ語。

ハルメギドに苦しむわたしのヘブライ語。

( = 山 - 人々・民衆) 

 

 

イエズス様は仏教徒にとっても救い主。