8月9日 『長崎原爆の日』
今から76年前の今日、8月9日午前11時02分アメリカ軍により原子爆弾を投
下された。それにより当時約7万4千人近くが死亡し建物は約36%が全焼また
は全半壊した。
亡くなった父はいつもこの日を特別な気持ちでいつも迎えていました。
ここで、ひとつ父のことについて書いてみたいと思います。
おいらの父の生家は、大浦町(現梅香崎中の横)にありました。
家業は、大波止辺りでうどんの屋台をしていたそうだ。父は小さい頃、大浦か
ら大波止まで屋台を押してよく手伝っていたらしい。その父は14才の頃(昭和
17年)に『海軍飛行予科練習生』通称『予科練』に志願したそうな・・・
海軍の飛行パイロットになりたかったらしいです。
そして『三重海軍航空隊』に海軍飛行予科練習生として入隊します。
結局、パイロットには適性でなれずに『通信兵』になったそうだが・・
昭和19年頃には日本軍は劣勢になり20年初めには沖縄の攻防となり
『知覧へ・・』のブログでも記したように『特攻作戦』が始まります。
航空機による特攻を「航空特攻」、水上や水中の特攻を「海上特攻隊」があり
代表的なのは人間魚雷の『回天』小型ボートに炸薬をつんだ『震洋』など。
なんと、父は『特攻121震洋隊』に召集されることになりました。
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(川棚)
昭和20年1月27日に長崎県の川棚で編成され隊の総員は188名で、特攻隊員
50名、整備員38名、基地隊78名、本部付15名。部隊長は藤岡宏太大尉で将校
は7名。震洋5型艇25隻が配備されます。5月まで川棚で出撃に向けて訓練に
励み、そして宮崎県日向の細島に移動、出撃を待っていた。
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(細島)
そして8月6日広島、9日長崎と原爆が落とされ、15日に終戦を迎えます。
幸いにも121震洋隊は出撃の無いまま終戦を迎え、誰一人の隊員の犠牲もあり
ませんでした。
終戦がまだまだ長引いていたら、おいらもこの世には存在していない
ことになります・・。なんとも言えない気持ちです・・・
終戦後、長崎に帰ってくると街がとんでもない状況だったと胸を痛めて
そして爆死した幼馴染や殉国していった仲間たちを偲んでこの日、
『8月9日』を迎えておりました。
黙祷・・・
ほな。
#長崎原爆の日 #特攻隊 #震洋