当ブログにたびたびコメントをしていただいている元大学職員の「m-edit」さんが自身のブログで興味深い洞察をされているのでご紹介します。こうした市民の声(微妙な考え方の違いは相互に受け入れ、乗り越えながら)が連帯しつつ、狼煙のようにあちこちで立ち上がることこそが、真の民主主義を守ることにつながると信じています。
m-editの日記
20171124「これからの日本、これからの教育」(前川喜平/寺脇研)を読んでー文部行政に通う、熱と知恵が伝わってくる
20171114「納得からは程遠い、文科大臣の見解」
20171112「認可に正当性を見いだせない理由」
20171106「文部科学大臣は職責を果たせ」
20171010「議事録の公表は部分的にすぎない」
20171009「加戸元知事の発言は傾聴に値するのか」
20171003「webRONZAで憲法と生涯学習を語った前川さん」
m-editの日記
20171124「これからの日本、これからの教育」(前川喜平/寺脇研)を読んでー文部行政に通う、熱と知恵が伝わってくる
20171114「納得からは程遠い、文科大臣の見解」
20171112「認可に正当性を見いだせない理由」
20171106「文部科学大臣は職責を果たせ」
20171010「議事録の公表は部分的にすぎない」
20171009「加戸元知事の発言は傾聴に値するのか」
20171003「webRONZAで憲法と生涯学習を語った前川さん」
お釈迦様の八正道と言われるもののひとつ。これを意訳すると「言葉を通して与える情報が受け手の役に立つか否かを絶対的な基準とすべきである」ということらしい。
その逆は①嘘をつく事(妄語)②無益で飾り立てるような言葉(綺語)③人の仲を裂くような言葉(両舌)④粗野な言葉(悪口)コトバというものは不思議なもので双刃の剣になる。
万巻の書はあるが時代を超えて読み継がれるのは大抵①から④とは無縁の、力のある言葉で満ちている。
しかし、振り返って今の日本社会で正語を語る人は少ない。
まして国会や、多くの政治家を見ていれば①から④で溢れかえっている。国の指導者が率先して悪い見本を見せているのか?
前川さんの語るコトバを聞いていてその感を強くした次第。
それは、認可前の専門家による文科審議会で、主査の久保喜平氏が、訴訟リスクで他の委員に圧力かけたという話である。
この訴訟リスクとは何ぞや?
密室で、国民の目から遠い所でなされた議論。議事録も公開せず林文科相は、「内閣府が適切であると判断した」からルールに従い適切という、意味不明の答弁に終始。
加計は、誰を訴えるというのか?お金を出すのは国民であるから、国民を訴えると言っているのか?
まるで事後承諾のように認可前から建築を開始し、今更中止になったら損失が出るから訴えるとでも言うのだろうか?
訴訟リスクというような言葉で脅されてしまう、他の委員も疑問。認可に至る経緯がこれ程疑問視され、国民の大多数は、説明に納得していない。なぜこんな理不尽な事がまかり通っているのか?国会で議論は、形骸化も甚だしい。首相が適切といえば適切になるとでも言いたいような答弁。
加計はひとえに国民の問題である。政府は国民に責任を負っているのだ。それを果たさず、追求する側を犯罪者扱いにしてまで逃げている。何から逃げているのか?国民から逃げているのだ。その為には、選挙で莫大な浪費も厭わない。
あまりの政治の惨状に暗澹たる思いのこの頃です。
http://www.twitlonger.com/show/n_1sq14sd(郷原信郎さんのブログ記事より)
認可前に大学の建設が進んでいたのは誰かが「内定」をだしているはずとのこと。
これが誰(どこ)なのかはわかっていないと思います。
もし不認可すれば大学側が「内定」を得ていたことを持ち出し、訴訟を起こすということは可能性としては考えられなくもないのでしょうか。
認可はされてしまいましたが、今後のためにもこの「内定」の部分は解明してほしいと思います。