ムーミンパパの気まぐれ日記

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みかん

2010-12-12 | column
 昔は暮れともなると、どこからともなく家にみかんが現れたものである。もちろん、果物屋さんから買ったものもあるだろうけれど、親戚や友人から送られてきたものの方が多かったような気がする。両親の友人に愛媛や和歌山の人たちがいるという話を聞いたことはないから、暮れのご挨拶としてみかんを送るという習慣があったのではないかと思っている。
 ともあれ、みかんというものは他の果物と違ってザル一山、二山ではなく、段ボール一箱が買ったり送ったりする基本単位のような感覚であった。ちなみに、我々の世代では既にみかん箱と言っても木枠のものはほとんど見たことがない。酒屋の店頭では一升瓶が入った木箱が積み上がっているをよく見た記憶があるから、木箱が段ボール箱やプラスティックケースに移行する過渡期だったのかもしれない。ともあれ、我が家にやってきたみかんは籠に載せられ、ある時は食卓にまたある時は炬燵の上に置かれ、冬の間中その姿が絶えることはなかった。スナック菓子が溢れている今とは違って、チョコレートやクッキーなどのお菓子は頂き物でもなければなかなか口に入らない時代、みかんは子供にとって貴重な甘味であったし、いくら食べても怒られることのないおやつであった。そんな身近な存在だっただけに、いろいろな楽しみ方がある。普通に皮を剥けばいいものを、わざわざ真ん中に人指し指を突っ込んでぐりぐりと大きな穴を作ってから剥いてみたり、最初にヘタの緑の部分を繰り抜いてみたりする。もちろん、皮を剥いた後も千差万別。きれいにスジを剥いてから薄皮ごと食べる人もいれば、無造作に丸ごと食べる人もいる。一方で、薄皮は残して中身だけを開いて食べる人もいる。その度に「薄皮には栄養があるんだ。」とか、実のところ根拠があるんだかないんだか分からない会話が交わされていく。それはもう何十回、何百回と繰り返し行われた会話であるにもかかわらず。
 今はそんなみかんの食べ方もすたれてきたような気がする。家族みんなでわいわいと過ごしていた時間が減るにつれ、みかんの存在感も薄れてきたのではないだろうか。あの「みかん」がただの「TV Orange」にならないように願うのは、ただの懐古趣味なのかもしれないが、案外そんなことが色々な社会現象の根本にあるのではないかとも思っている。紅白歌合戦を見ているテーブルの上にみかんが置いてある。いつまでもそんな幸せを感じていたいものである。

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