人と交流するとき、
往々にして、自分軸でうけとっていることを痛感させられる。
顕在意識、常識の範疇とか、
自分にとって都合の悪いことだったり、
というとこもあるけれど、
それはそれで、
そう受け止めない自分をつくってゆくしかない。
とはまた別に(別じゃないかも、だけど)
人の感じてるとこのなかに、
なにかしら違和感をかんじるな、
ってかんじることもある。
“調和”の捉え方。
“自然の仕組み”の捉え方、、。
“調和”をしているつもりになってること。
それは自分も含めて。
調和のとれてるものを使い、調和のとれたものを生み出す。
じゃ、何のために…?
そこまで汲み取ってるだろうか。
家族から教えてもらうことも多い・・。
自然の仕組みに適ってる、
適ってないも飛び越えての信頼。
とてつもなく貴重な要素を学ばせていただける。
言ってること、やってることが
正しい、正しくない、もない。
そんな次元ははるかに越えてる。
それをもおいておいて、
その方の今ある状態で、
そうかんじるんだな、ってことを
無条件に自分の感覚としてうけいれる。
受けとめる。
それの本気が伝わった分、
少しずつ、
ほどいてかんじられるとこも
時間をかけながらゆっくりゆっくり生まれてくる。
それがかけがえのない自分自身の感覚。
懐のあたたかさすらかんじる感覚。
それこそが、“調和”の
大切な要素のひとつ、だ、ってかんじる。
…そして、その延長が自分の実践の幅にもひろがりをもたらすようにかんじる。
往々にして、自分軸でうけとっていることを痛感させられる。
顕在意識、常識の範疇とか、
自分にとって都合の悪いことだったり、
というとこもあるけれど、
それはそれで、
そう受け止めない自分をつくってゆくしかない。
とはまた別に(別じゃないかも、だけど)
人の感じてるとこのなかに、
なにかしら違和感をかんじるな、
ってかんじることもある。
“調和”の捉え方。
“自然の仕組み”の捉え方、、。
“調和”をしているつもりになってること。
それは自分も含めて。
調和のとれてるものを使い、調和のとれたものを生み出す。
じゃ、何のために…?
そこまで汲み取ってるだろうか。
家族から教えてもらうことも多い・・。
自然の仕組みに適ってる、
適ってないも飛び越えての信頼。
とてつもなく貴重な要素を学ばせていただける。
言ってること、やってることが
正しい、正しくない、もない。
そんな次元ははるかに越えてる。
それをもおいておいて、
その方の今ある状態で、
そうかんじるんだな、ってことを
無条件に自分の感覚としてうけいれる。
受けとめる。
それの本気が伝わった分、
少しずつ、
ほどいてかんじられるとこも
時間をかけながらゆっくりゆっくり生まれてくる。
それがかけがえのない自分自身の感覚。
懐のあたたかさすらかんじる感覚。
それこそが、“調和”の
大切な要素のひとつ、だ、ってかんじる。
…そして、その延長が自分の実践の幅にもひろがりをもたらすようにかんじる。
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