AIが文章を構築するときのロジックの全てはわからないけれど、歌の歌詞を書くときにはいくつかの法則のようなものがある。
もちろん言葉には正解というものはない。
もしもあるとすれば、伝えたいようにちゃんと伝わっているかどうかということ。
より正確にまたは本物のポエジーとして想いを伝えるために、僕はいつも形容詞の取り扱いに注意を払っている。
優しい、愛しい、眩しい、悲しいなど、語尾にい、のつく言葉。
形容詞の名の通り、何かを形容しているのだけれど、これらの言葉は、言葉のみでは意味を持たなくて、単なる記号となってしまう。
だから、あの人は優しい、と伝えたとしても、それが雰囲気からくるものなのか、話し方なのか、実際に手伝ってくれるときの気遣いからなのか、たくましく力持ちだからなのか、形容詞の単語だけでは、本当の優しさについては何もわからない。
愛しい、も眩しい、も悲しい、も、感情としての瞬間的な、あなたはそう感じたのだねということはわかったとしても、言葉が持つ本来の意味までは、形容詞だけでは到達することはない。
なんとなく素敵、耳触りがいいだけ、という一番厄介な作品が出来上がってしまう。
といいつつ・・・。
今日は本当は、形容詞にはあまり意味がないよね、ということを書きたかったわけではないのです。
今、僕が書きたいのは優しさについてなのです。
もちろん身近な人とふれあい、食事をしたり、共同作業をしたり、なんらかの時間を共有するとき、そこに優しさは生まれる。
それでも、日々、時代は優しさ、を忘れかけているように感じてしまうのです。
少なくとも、僕は自分自身を顧みると、優しくないなあ、と思う。
自分の暮らしで精一杯だから、人のことまでなかなか包み込んであげるようなことはできないことが多い。
とりあえずこれは明日。みたいな先延ばし癖と、誰かがなんとかしてくれるだろうという楽観視。
良からぬ行いを見たとしても見ていないふりしてしまうような麻痺した感情。
きっと、優しさという力は、ほんの少しの違和感をそのままにしておかないような心の内側に宿っているのだと僕は思う。
年を重ねるたびに、ほんの些細な違和感をそのままにして、流されるままに過ごしてしまうことが多くなる。
そうして、優しさは身体と心の奥で、そうではないんだよ!と叫んでいる。
優しくありたい。優しくなりたい、ではなくて、優しさでありたい。
小さな違和感をないがしろにしてきて出来上がった木偶の坊。
それでも坊は坊の志なりに、もしかしたら、火などを灯したなら、温もりで誰かの心を温めてあげられるのかもしれない。
優しくありたい。
平安で、やわらかく、穏やかでありたい。
だけど心だけではなくて、力もあるように、鍛えることも大切なのでしょう。
優しくありたい。
そんな思いが巡る木曜日です。
Makoto ATOZI