一般的に人間は2つ以上のことを同時に行えないとされている。
「いや、俺はダブルタスク、トリプルタスクも余裕よ」なんて人もいるのかもしれないが、
物理的にみてみると、確かに僕たちが行える行動は一つの時間の中で一つだけとなる。
例えば人間が一人で何かを考えているとき、多くの場合、僕たちは自分に語りかけている。
そのとき、同時に2つの声がして、2つの声を同時に聞き分ける、つまり、思考が同時に2つ発生することはない。
同じ時間の中で2つの思考を処理することはできない。
ーーーーーーーーーーーーー
例外として、身体は手と足がバラバラのリズムで動くことができるから、物理的な作業、
たとえば足でテープを貼って、手で糊を貼るみたいなことはできたとしても、それは脳内で、1つの思考として処理されているのだろうと感じられる。
ーーーーーーーーーーーーー
瞑想をしていると、心が何かの思考を発生させるとき、思考は思考だけで存在することはできないと、何かから教えられる気がする。
思考を発見するためには思考を観察する存在が必要。
例えば心の中で「今日は寒いな」と考える。
そのとき、寒いなと考えている思考は思考自体の声を聞くことはできない。
だから、なんらかの観察者が心の声を聞いて、初めて思考は生命を得て物質となる。
誰にも聞かれていない声、音はありえない。
では、具体的に心の観察者を自分自身だとすれば、「今日は寒いな」と心で言うのは誰なのだという話になる。
目、耳、鼻、口、皮膚、心、6つの感覚により、対象は知覚される。
ということは、僕たちが感じ、思考として発生させている思い。
これはどこから来ているのだろうと考える。
きっとそれは因果から来ている。
だから1つの時間に2つの思考はあり得ないけれど、異なる時間にある2つの思考が同一の元からの発生ではないということもいえる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
様々なことが起こり、万象により動き出す感情。
これは環境と身体と時間により形を変える。
この3者の様相により生まれ出づる思考は変化する。
そして生まれ出た思考を観察する観察者がその行方を見守っている。
ーーーーーーーーーーーーーーー
長い人生の中で忘れ去りそうになっている自分自身。本来の魂。
自分という人生を初めから終わりまで観察している主。
それはいつのときも、勝手に手を出すことなどはなく、僕たちを見守ってくれている。
増えることも減ることも、消えることもなく、変わりなくいつのときもそこに在る。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
観察者が分別感を持っているのかどうかは抜きとして、観察者から見た感情が喜びに満ちたとき。
愛情に満ちたとき。ふれあいを感じているとき。
ゲートは開くのだと思う。
心を見ている心が喜ぶとき、いわゆる引き寄せという不思議は起きるのでしょう。
たとえば美術館に行くとして、わざわざホラーな絵画は僕ならば見たくない。
美しく世界的な絵画を鑑賞してみたい。
観察者はいつのときもきっとそう願っている。
だから今日も心は晴れやかに。
思うようにいかないようなことは多いけれど、それもきっと僕たちが次から次へと発生させている思考とよく似ている。
シンプルに、あるがままに喜びを感じていたなら、きっと世界は面白い。
一番大切なことは言葉を超えて感知する。
そのとき、それが喜びに向かうものなら疑念はなく、ひとつなのだとわかる。
そんな感情に出会いたくて僕たちは人生の旅を続けている。
なんて思う水曜日。
今日も頑張りましょう!
Makoto ATOZI