私は三重に生まれ三重で育ちました。
なのに、アイヌに何かとても親しみや愛しさを感じます。
前世や過去世というものがあるなら、魂がかつてアイヌであったことを
記憶しているのかもしれません。
「アニミズム」という言葉を知った時、「あぁ、コレだ!」と思いました。
ぼんやりと感じていたものを、明確に変換できる言葉にやっと出会えた、と思いました。
でも、「アニミズム」=「原始信仰」や「思想」というとらえ方には
ちいさな抵抗を感じていました。
私の中では、それは「感覚」だったからです。
移ろう季節の中で、樹木や野草たちが咲かせる「花」は、
彼らが「気持ちいいな~♪うれしいな~♪」と感じている、
その感情が形となって表現されているのだという気がします。
(不機嫌そうな花って見かけないですよね。)
春、芽吹きはじめた雑木林に立ち入ると、自分も一本の樹になります。
足の裏から伸びた根っこが、ほっこりと暖まってきた土から水分を得て、
その水分が暖かかな陽射しを浴びて、てっぺんへと吸い上げられ、
ぐんぐんと腕を伸ばした枝々から「ちゅ・ちゅ」と芽吹いてゆく時の至福感。
「あは~、めっちゃ気持ちいい~♪」気分になります。
春山はそんな歓喜の波動に満ち溢れて、キラキラと輝いて見えます。
アイヌモシリに先住していた人たちも、きっとそんな風に感じていたんじゃないかなぁ。。
結城幸司さんの『へペレ』を読み終えたとき、
アイヌという存在をとても誇らしく感じました。
まるで自分がアイヌであるかのように。
「ニンゲン」対「熊」の世界ではなく、「アイヌと熊」という世界。
「自然破壊」は「自傷行為」であると、当たり前のこととして認知されていた世界。
ほんの少し前の時代まで、そんな素晴らしい自然観の中で、
精神的にとても豊かな日々をつつましく営んでいたのでしょう。
他の先住民と同じように、和人によってアイヌは居場所を奪われました。
今の時代を思うと、やるせなくもどかしい気持ちでいっぱいになります。
市街地に現れた親子の熊がクラクションを鳴らされて右往左往する姿や、
人里に現れて射殺された熊の姿、その熊を酷く乱暴に扱う人間の姿などをテレビで見ると、
胸が掻き毟られるような悲しみでいっぱいになり、手を合わさずにはいられません。
でも、起こってしまった過去はもう変えることはできません。
「いまここ」で私達に何ができるのか、を考えることが大事ですよね。
幸いなことに、先住民族アイヌの知恵は消え去ってはいません。
結城幸司さんのこころの中には、アイヌのおばあさん(フチ)から語られた大切な種が、
確かに受け継がれていました。
そして、結城幸司さんがそれを大切に育てて『へペレ』を私達に語ってくれたことで、
たんぽぽの綿毛が風に吹かれて大空へと旅立っていくように、
さらに先の世代へと受け継がれていく希望の種が蒔かれました。
その希望の種をしっかりと受け取って、大事に育て、
花が咲き、また実がなるのを見守ってゆくのは私達の役割なのかも。
ひとりひとりはささやかな変化しかもたらさないけれど、
じわりじわりと少しずつでも広がってゆけば、やがてバタフライ効果のように
大きな意識の変化へと結びつく可能性はありますよね。
「自然」対「人間」と切り分けて対立・征服しようとすることなく、
おおいなる自然の一部として絶妙の調和を保ちながら、
謙虚に生きてきた先住民の spirit に学ぶことはまだまだたくさんあります。
人類がこの先、真の進化を遂げるのは、
幼子のように純真無垢な魂と聡明な精神を持ち合わせ、
自然界のあらゆるものたちと交感して生きてきた
先住民の生き方に立ち戻った時なのかも、と思ったりします。
それは、縄文の時代のような生活様式に戻ろうというのではありません。
私自身、その為にどんなことができるのかなぁ・・・。
おおいなるひとつ(宇宙の純粋意識)につながることや、
今の時代に先住民の知恵を取り入れること、
まずは先住民のことをたくさんの人に知ってもらうこと、かなぁ。。。
アイヌ(先住民)の生き方を「頭」で「知識」として学ぶのではなく、
『へペレ』のような物語を読んで、「こころで感じ取ること」が大事なのかも・・・
などと感じたりしている今日この頃です。
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今日から、結城幸司さんの個展が東京で開かれています。
「私は人間(アイヌ)のくにがみたくてみたくて。。」展
とき: 11月18日(木)から11月30日(火)まで
時間: 11:00~19:00(最終日は17時まで)
場所: ギャラリーモーツァルト
〒104-0031
東京都中央区京橋1-6-14YKビル1F
03-6228-6848
私も行きたいなぁ。。。
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