1901年、晶子の「みだれ髪」が世に出たとき、勇は15歳でした。
教室の隅にかくれて「みだれ髪」そと読みし日にかへるすべもがな
ませた勇少年が、胸をドキドキさせながら本をめくっている姿が目に浮かびます。
当時としてはあまりにも刺激的な歌集だった「みだれ髪」に対して、「淫売の歌」「春画に近い」と数多の罵声が浴びせられました。
一方で、上田敏のように、新しい歌の誕生と好意的に批評した人もいました。なにより、多くの若者に「みだれ髪」は読まれ、圧倒的に支持をされました。そんな晶子を「強く影響を受けた人の一人」と勇は言っています。
1905年、19歳になった勇は晶子と同じ新詩社に入り、歌作りに精進します。
勇は歌が初めて新詩社の機関誌である「明星」に載ったときの感激を詠んでいます。
明星にはじめて載りし歌数首いまも覚えてゐたりけるかも
与謝野亭で夜を徹して行われた修練「歌百首会」では、勇は晶子の歌作りの早さに舌を巻いています。
そのころの一夜百首の早歌は晶子夫人にわれら及ばず
1908年、勇は晶子の夫・寛が主宰の新詩社を白秋ら7名で脱退します。このことで「明星」の売り上げが激減し、結果的に晶子を困らせたことになるのですが、歌人どうしとしてはその関係が途切れることはなかったようです。勇は「それでも与謝野婦人に対する心持ちは以前とあまり変わらなかった。或いは以前よりかえって作物などに対する懐かしみは加わっていたかも知れなかった」と、次の本の序で述べていました。
1921年、お互いの才能を認め合っている勇と晶子は、出版社の企画でしょうが、相互に相手の歌の選者となった歌集を出しています。
「吉井勇選 与謝野晶子選集」と
「与謝野晶子選 吉井勇選集」です。
前ブログでも紹介しましたが、その中で晶子は勇を「私は人麿-和泉式部-西行-さうして勇-と云う順序を以て、日本の歌は大きな飛躍をしたと信じて居ます」と称賛しています。しかし、同じように、あるいはそれ以上に、勇は晶子こそが現代の和泉式部と思っていたに違いありません。
1929年、晶子の満五十歳の誕生祝賀会で勇はお祝いの歌を詠んでいます。
「与謝野晶子夫人の五十の賀に」(歌集「鸚鵡杯」)
若かりし晶子夫人も五十の賀祝はるる身となりまししかな
しら玉の椿ささげて祝はましあたらしき世の和泉式部を
しら玉の椿の花を愛づるごとわが世の紫女の歌をたたへむ
このとき、晶子を現代の和泉式部とも紫式部とも称えています。
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